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事件と言説:若者・教育・労働… 1901-1930

18世紀 19世紀 1901-1930 1931-1950 1951-1970 1971-1990 1991-

製作:橋口昌治* 2004.09-


 *橋口昌治(はしぐち・しょうじ) 立命館大学大学院先端総合学術研究科(2003.4入学)
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm

 ※大学院のHPに移す予定ですが、とりあえずここに置きます。
  これから編集などして見やすくします。(立岩)

1901年
    足尾鉱毒事件で天皇直訴
    官営八幡製鉄所開業。「鉄は工業の母、護国の基礎」がスローガン

    「美的生活を論ずる」(高山樗牛)「雑誌『太陽』8月号」
     「金銭にこだわるにせよ、知識や芸術を愛するにしろ、自分の世界に没頭することが大切だ」という主張が青年の共鳴を得て流行した。学生の間で は、金がなくて、下宿にじっと引きこもっている状態を指した。
    「望を失へるものよ、悲む勿れ。王國は常に爾の胸に在り、而して爾をして是の福音を解せしむるものは、美的生活是也。」(『明治文学全集40 高 山樗牛・斉藤野の人・姉崎嘲風・登張竹風集』p.84)

    幸徳秋水『廿世紀之怪物帝国主義』
    「○然りその発展の迹に見よ、帝国主義はいわゆる愛国心を経となし、いわゆる軍国主義を緯となして、もって織り成せるの政策にあらずや。少くとも 愛国心と 軍国主義は、列国現時の帝国主義が通有の条件たるにあらずや。故に我はいわんとす、帝国主義の是非と利害を断ぜんと要せば、先ずいわゆる愛国主義といわゆ る軍国主義に向って、一番のけん覈なかるべからずと。
○しからば則ち、今のいわゆる愛国心、もしくば愛国主義とは何物ぞ、いわゆるパトリオチズムとは何物ぞ。吾人は何故に我国家、もしくば国土を愛するや、愛 せざるべからざるや。」(p.19-20)

    「○然り愛国心が望郷の念とその因由動機を一にすとせば、彼の虞ぜいの争いは愛国者の好標本なるかな、彼の触蛮の戦いは愛国者の好譬諭なるかな。 天下の可憐虫なるかな。
○ここにおいてか思う、岩谷某が国益の親玉と揚言するを笑うことなかれ、彼が東宮大婚の紀念美術館に千円の寄附を約してその約を履まざるを笑うことなか れ。天下のいわゆる愛国者、及び愛国心、岩谷某においてただ五十歩百歩の差のみ。愛国心の広告はただ一身の利益のためのみ、虚誇のためのみ、虚栄のための み。」(p.23)

    福沢諭吉、中江兆民死去
    愛国婦人会結成

    USスチール社設立、トラストによる垂直的統合
    「たとえば、1901年、大企業合同によって設立された持株会社U.S.スチール社は、典型的な混合企業となった。しかも、U.S.スチール社 は、第1次単位としては純粋持株会社であり、その全資産は11社の第2次構成会社の証券から成っていた。そして、これらの第2次構成会社は、総数170社 を越える第3次子会社の支配的株数を所有していた。
 持株会社U.S.スチール社は、これら構成会社の個性や自発性を保持しながら統一的な中央管理をおこなった。(…)それらの管理は、法律的であれ、経済 的であれ、地域的な条件に応じて容易に調整されえた。そして、旧経営者のかなり重要な特徴や個人的関心、それに特別な経営能力は容易に保持されえた。
 このように持株会社は、完成品を生産するさまざまな段階を包摂する産業コンビナートの形成に十分適合しており、しかも、その管理の柔軟性によって持株会 社は、さまざまな諸工程をもち、さまざまな地域で活動し、さまざまな顧客層に販売する諸単位を安定した形態で結合するのにもっともふさわしい企業組織形態 となっているのである。」(小林康助編著『アメリカ企業管理史』p.24-25)

    テキサス州ボーモントで油田発見。

1902年
    国勢調査に関する法律を公布
    台湾県民を日本国籍に編入
    加入電話と私設電話の接続が可能になる、事務の機械化

    キャデラック社設立

1903年
    小学校令改正、国定教科書制度確立
    専門学校令、公立私立の設置
    「人生不可解」(藤村操)

    農商務省商工局『職工事情』
    「日清戦争後の日本における産業革命時の工場労働者の労働実態を調査した克明な報告書。
 劣悪な労働実態が社会問題化してきた19世紀末、労働者保護のための「工場法」の立法化が求められてきた。そのための基礎資料が必要として、農商務省は 1900年から全国の工場で調査を実施。同省工務課に工場調査掛を設け、書記官・窪田新太郎が主任になり、専門学者の桑田熊蔵、久保無二雄、広部周助と 『日本の下層社会』を刊行した横山源之助(元毎日新聞記者)嘱託にしている。
 (…)
 「生糸職工事情」のなかには、「一日の労働時間は十八時間に達することしばしばこれあり」と記述したあとで、「某地方の工場において始業終業の時刻は予 め工場の規則を以てこれを定めたるが故に、この規定以上に労働時間を延長せんとするときは時計の針を後戻りせしむることしばしばこれあり」とあるように、 全編にわたって、労働実態の調査と記述は厳密であろうと努力していて、内容の信憑性は高い。
 「燐寸職工事情」の項では、燐寸工場が多かった大阪、神戸地方の「貧民部落」の実情を、住民22人の出生地から流入までの事情、仕事、家族構成などにわ たって記録することで伝えている。これまでの探訪記事とちがって、流民層が構成する貧民社会のリアルな姿が描き出されている。
 (…)
 この、官僚や嘱託の学者たちが苦心した労作『職工事情』は、「工場法」の実現にどれほど役立ったのであろうか。
 初めの「工場法」案(1898年)では、10歳未満の児童の就業禁止、14歳未満の労働時間を10時間にする、という内容であったが、業者や政党の反対 にあい、労働時間が14時間に修正されるなどの曲折を経ていた。それでも、国会を通過することができず、「工場法」制定促進のための実態調査を実施。この 『職工事情』の迫力と説得力で、1910年に議会に提出された「工場法」では、なんとか「一六歳未満および女子の夜間作業禁止(実施は施行後10年)」の 内容になったが、それでも業界の猛反対にあい、結局、「夜間禁止を一五年猶予」と修正されて、日本初の労働法案は11年3月に成立した。しかし、財政上の 理由で、施行はさらに16年まで延ばされ、女子深夜業禁止が実現したのは30年のことだった(岩波文庫版の犬丸義一の解説による)。」(日本寄せ場学会編 『寄せ場文献精読306選』『職工事情』p.13-15)

    人類館事件

    フォード・モーター社設立
    J.A.ホブスン『帝国主義論』

    イギリスで第一次田園都市株式会社設立。ロンドン郊外のレッチワースに最初の田園都市
    「田園都市とは英国のエベネザー・ハワードが提唱した新しい都市のつくり方として知られている。(…)
 (…)
 では、彼のいう田園都市というのはどういうものか。田園でもないし都市でもない、田園であり都市であるというのがそれで、彼は三つの磁石が描いてある絵 を出し、田園のもっている魅力(引力)、都市のもっている魅力(引力)を提示し、ならば田園都市というものが考えられないだろうかと問う。つまり都市には 都市の魅力と便利さがあり、田園にもやはりおなじように安らぎの魅力があるが、そのどちらかだけというものではない、両方を兼ね備えた生活というものがで きないだろうかというのが、彼の発想であった。」(鈴木博之『都市へ』p.138-139)

    「これは基本的には低密度の都市だが、ベッドタウンではなく、職住が一体となった小都市である。ここに出てくる都市のイメージは中世の都市のス ケールをもつ、中世における自律的な都市のすがただといえる。レッチワースは順調にできあがって、ある部分の住宅地の開発にはその当時のモデル住宅のコン クールのようなことを行い実物の住宅を建てている。」(p.140)

1904年
    日露戦争

    F・ゴルトン、第一回イギリス社会学会で「優生学――その定義、展望、目的」という講演を行う。
    cf.Galton, Francis(1822-1911) http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/galton.htm

    A・ビネー、フランスの小学校における落ちこぼれ児童を同定するための客観的方法の開発を文部大臣から依頼される。IQテストの考案
    「(…)フランスにおいて一八八〇年代に実現した「無償・義務・非宗教」の公教育制度は、子どもたちがすべて教育を受ける平等の権利があることを うたっていたのだが、そこででてきた難問こそ、知恵遅れ、「精神遅滞児童」の問題であった。学校に適応できない子どもたちが、「情緒不安定児童」、「知恵 遅れ児童」、「精神薄弱児」と名づけられ、その処遇が問題化したのは、十九世紀の末からであったのである。そして、一九〇五年に発表された、アルフレッ ド・ビネ(一八五七−一九一一)とテオドール・シモンによる「知能検査」こそ、こうした課題から生みだされた選別の方法であった。この年の四月二八日に ローマで開かれた第五回国際心理学会で「白痴、痴愚、魯鈍を診断する新しい方法」という論文が、アンリ・ボーニスによって代読され、大きな反響をよんだの である。さらに一九〇八年には、この知能検査の改訂版が出され、ビネ=シモンの知能検査は国際的な評価を受けるにいたった。そして、このビネとシモンの研 究をうけて、ドイツのウィルヘルム・シュテルンが、一九一一年に、知能指数(IQ)の概念を提唱することとなったのである(…)。」(桜井哲夫『「近代」 の意味』p.85)

    国際サッカー連盟(FIFA)設立

    ロールス・ロイス社設立

1905年
    日露戦争終結、日比谷焼き討ち事件
    実用新案法公布

    小栗風葉『青春』
    「欽哉は、常に、あるべき自分(理念としての自分)を真の自分として生きているのである。それは、教育家の提示する理念と内容的には違う面もある が、あるがままの自分からも他者からも自分を隔てる機能がある、という点では共通である。彼の言葉は分析には長けているが、自分を他者へと開き、変容させ ていく力をもたない。『八犬伝』が、言葉の科で始まり、共感によって変容していく物語であるのとそれは、際立った対照をみせる。それでも、『青春』は、欽 哉と同じ世界の住人であるという自覚を持つ北小路や、繁の目を通じて、欽哉、すなわち「青年」という存在への違和感を表明してみせる。風葉が硯友社から自 然主義へと移っていった作家であるからであろう。しかし、明治四〇年代の田山花袋や島崎藤村の作品になると、そのような複眼葉感じられない。外部にあった はずの理念は、性の問題とともに、青年内部に元々あったはずの原型として表象されるようになり、青年の内的葛藤が、それとの関係で価値付けられることにな るのである。それは、心理学的な青年像が社会的力を得たということである。」(北村三子『青年と近代』p.39-40)

    夏目漱石『吾輩は猫である』の連載開始

    サンフランシスコ市長と各種労働組合が、日韓人排斥同盟結成

1906年
    韓国に、統監府を設置。司法権、軍事権、警察権を韓国政府から奪った。初代総督は伊藤博文。
    鉄道国有法、私有鉄道経営の幹線も国有化
    南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立の勅令が公布、満鉄発足

    島崎藤村『破戒』を自費出版

1907年
    小学校令改正、義務教育6年制。就学率93%を越える
    株式大暴落、戦後恐慌はじまる
    山梨県駒橋水力発電所から東京市内への初の本格的遠距離送電
    豊田佐吉、自動織機の特許を取得
    谷中村、土地収用法によって強制破壊される
    「癩予防ニ関スル件」。ハンセン病患者の国立癩療養所への収容が開始される

    安田保善社(のち富士銀行を経て、現在、みずほフィナンシャルグループ)、練習生制度はじまる
    「今日わが国で最大の市中銀行である富士銀行も、明治末期には、大学卒の新人を採用すべき内的欲求を持ちはじめてはいたが、まだこれを実現するす べを持たなかった。そこで、大学卒サラリーマンを採用するかわりに、中学卒の青年を練習生として採用し、これらに、大学の機能にかわる社内教育をほどこし て、将来の幹部社員を養成しようとした。
(…)
 また、さらに、一般的・普遍的なもの(教養・知識)と、特殊なもの(社風・カラー)とを総合する手段として、大学卒を無条件に幹部候補生として約束して しまう方法がとられてくる。これは藩閥政府が帝大卒を幹部候補生として確保したのと軌を一にするものであった。ここからわが国の学閥的ムード、あるいは 「大学を出なければ」というムードが生まれ、これが、のちに加速度的に拡大再生産されていくことになる。
 なお、明治四十年の第一期生に始まる安田保善社の練習生制度は、大正九年の第十三期をもって終っている。つまり、この頃になってはじめて、大学卒新人の 定期採用が定着してくるからである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.17-19)

    「しかし、実際には、一般公募が日本の企業の採用パターンとして普及することはなかった。東京海上は、少なくとも戦間期になると、高等教育機関を 通して人材の推薦・紹介を受けるようになっていた。また、安田保善社は、一九〇七年以来、幹部候補生として、中等学校卒業以上の応募者を新聞広告で全国か ら募集し、学科試験と面接によって採用の当否を決定していたが、そうした採用方法は、一九二〇年を最後に中止している。」(川口浩『大学の経済社会史』 p.195)

    内務省地方局有志が『田園都市』という本を刊行
    「田園都市の考え方は都市の住民を都市から分離して、独立した快適な町に住まわせるという理想にもとづくが、日本の内務省は都市問題と農村問題を ワンセットで考えている。基本的に都市は革命の温床になりがちで非常によくない、農村を強化することが保守的な政治にとっては重要なことで、田園都市の考 え方もガーデンシティは花園都市と訳したり、花園農村という言葉を使ったりして、農村の住環境向上という側面からも捉えようとしている。その辺が日本的で あり、田園都市のように自立した職住一体の都市をつくろうという気はあまりなく、住環境のよさを都市と農村の両方にもち込めないか、ということに発想が切 り替わっている。ここに都市理論の摂取のちがい、評価のちがいが現れている。」(鈴木博之『都市へ』p.141-142)

1908年
    三菱長崎造船所、能率給を採用し、原価管理体制を強化

    第一回ブラジル移民として選ばれた781名(793人?)が笠戸丸に乗り神戸港を出港
「排日措置と移民制限によって日本人の北米やオーストラリアへの移住は低迷期に入り、日本人移民の主流はブラジル、ペルーを中心とする中南米へと転換す る。このころのブラジル移民は、主にコロノと呼ばれるコーヒー農園で、粗末な掘っ立て小屋に住み、劣悪な労働条件のもとに農場労働に従事した。日本人の移 民が、とくにサン・パウロ州内のコーヒー農園に二十万人近くも流入した背景として、イタリアのブラジル移住者が低賃金の奴隷的待遇を受けていたため、イタ リア政府がブラジルへの移住を禁止したという事情もあった。」(猪木武徳『学校と工場』p.235)

    阪神電鉄、「市外居住のすすめ」というパンフレットを刊行
「阪神間に展開した住宅地は、そうした「職住近接」の町づくりではなく、喧騒の都会から脱出して、健康な郊外住宅地を求める町づくりだった。それは基本的 には住友家の大阪逃亡に倣う住宅イメージの追及であった。」(鈴木博之『都市へ』p.231)

    赤旗事件

    ヘンリー・フォード、T型フォードを売り出す
    「平均的な人間なら、だれでも楽しめる車。そんな車をつくったこのフォードの偉大な成功によって、アメリカに大量生産と大量消費の循環が始まった のである。自動車を大量生産することになれば、ますます多くの人たちに仕事がもたらされ、かなりの賃金も与えられる。そして自動車のコストが大量生産に よって下がっていけば、労働者たちも、自分で車を購入できるようになるのだ。」(デイビッド・ハルバースタム『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史』 p.133)

    ゼネラル・モーターズ社設立
    「一九〇八年九月十六日、デュラント氏はゼネラル・モーターズ社を設立した。この会社に、氏はまず一九〇八年十月一日にビュイック社を、同年十一 月十二日にはオールズ社を、さらに翌年にはオークランド、キャデラックの両社を吸収した。統合されたこれらの会社は。新しい会社の中でおのおのの独自性を 保持しつづけた。すなわち、ゼネラル・モーターズ社は持株会社で、全体としては一つの本社を中心に、それぞれ自主的経営を営むいくつかの子会社が、衛星の ようにこれを取り囲む形となった。(…)」(A.P.スローン『GMとともに』p.7-8)

    「デュラント氏のGM設立のやり方に、私は三重のパターンを読みとることができる。第一は、嗜好も経済力もまちまちな各階層の買手にそれぞれ適合 するような、変化に富んだ車種系列への指向。これはビュイックをはじめオールズ、オークランド、キャデラック、さらにくだってはシボレーのやり方にはっき りとあらわれている。
 第二は、イチかバチかの賭ではなく、平均してかなりの好結果が得られるように、自動車の技術分野における将来の可能性を、ひろくカバーするように計算さ れたとおぼしい重点分散の傾向である。(…)
 第三は、さきにビュイック社に関する記述の中で述べたことだが、自動車の部品や付属品の自家製造の促進を眼目とした統合の促進である。デュラント氏は母 体となる会社に、あまたの部分品メーカーを統合した。(…)」(p.9-10)

    「対抗企業フォード自動車会社(Ford Motor Co.)のフォードが(H. Ford)が現有プラントの内生的膨張の過程で拡大してきた垂直的統合トラスト化を企図した――フォード社は「原料から完成車まで一貫生産(From Mine To Finished Car, One Organization)」をモットーに経営されていた――のに対して、デュラントは独占組織形成期における固有の生産拡張方式としての資本の集中を推 進した。」(井上昭一・中村宏治編著『現代ビッグ・ビジネスの生成・発展・展開』p.116-117)

1909年
    伊藤博文、安重根に暗殺される
    特許法・意匠法・商標法・実用新案法公布
    イタリア、中国を抜き、世界最大の生糸輸出国になる
    田山花袋『田舎教師』

1910年
    日本、韓国を併合
    「資本主義はその発展が進むにつれて、国と国との境界を排除するようになる。かくて日本資本主義はその発展とともに、まるで同心円を描くように外 へ外へと膨張をつづけた。その膨張運動の中での最初の同心円は「国内植民地」internal colony、つまり日本内地における農民層であったが、農民層の分化が進み彼らの利用可能性が涸渇してしまうと、今度は「国内植民地」の地位に朝鮮を据 えることになるが、1930年代になると朝鮮の役割は満州が担うことになるというわけで、絶えず新しい周辺部が築かれることによって、朝鮮はある一面にお いて半周辺的性格を帯びるようになった。日本内地の発展に不可欠な国家機構は、植民地的形態に変形されて朝鮮に移植され、この移植はさらに満州に及ぶ。こ の場合、朝鮮においても満州においても、植民地の支配機構はひたすら中心部即ち日本内地の利益に奉仕する目的のために資源を動員したのであり、近代的市場 関係の発展に必要な条件を整え支援を与えたのもそのためであった。このやり方は、どっちみちヨーロッパ人を真似たいわばそのコピーであって、やり方それ自 体が特にユニークであったのではない。ユニークであったのは、タイミングと歴史的状況であったのだ。」(ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』第1巻 p.40-41)

    大逆事件

    石川啄木『硝子窓』
    「「何か面白い事は無いかねえ。」といふ言葉は不吉な言葉だ。この二三年来、文学の事にたづさはつてゐる若い人達から、私は何回この不吉な言葉を 聞かされたか知れない。無論自分でも言つた。――或時は、人の顔さへ見れば、さう言はずにゐられない様な気がする事もあつた。
「何か面白い事は無いかねえ。」
「無いねえ。」
「無いねえ。」
 (…)
 時として散歩にでも出かける事がある。然し、心は何処かへ行きたくつても、何処といふ行くべき的が無い。世界の何処かには何か非常な事がありさうで、そ してそれと自分とは何時まで経つても関係が無ささうに思はれる。しまひには、的もなくほつつき廻つて疲れた足が、遣場の無い心を運んで、再び家へ帰つて来 る事になる。――まるで、自分で自分の生命を持余してゐるやうなものだ。
 何か面白い事は無いか!
 それは凡ての人間の心に流れてゐる深い浪漫主義の嘆声だ。――さう言へば、さうに違ひない。然しさう思つたからとて、我々が自分の生命の中に見出した空 虚の感が、少しでも減ずる訳ではない。私はもう、益の無い自己の解剖と批評にはつくづくと飽きて了つた。――若しも言ふならば、何時しか私は、自分自身の 問題を何処までも机の上で取扱つて行かうとする時代の傾向――知識ある人達の歩いてゐる道から、一人離れて了つた。
 「何か面白い事は無いか。」さう言つて街々を的もなく探し廻る代りに、私はこれから、「何うしたら面白くなるだらう。」といふ事を、真面目に考へて見た いと思ふ。」(『石川啄木全集』p.250-251)

    石川啄木『時代閉塞の現状』
    「斯くて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今猶理想を失い、出口を失った状態に於て、長い 間鬱積し て来た其自身の力を独りで持餘しているのである。既に断絶している純粋自然主義との結合を今猶意識しかねている事や、其他すべて今日の我々青年が有ってい る内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態を極めて明瞭に語っている。――そうしてこれは実に「時代閉塞」の結果なのである。
 見よ、我々は今何処に我々の進むべき路を見出し得るか。此処に一人の青年が有って教育家たらんとしているとする。彼は教育とは、時代が其一切の所有を提 供して次の時代の為にする犠牲だという事を知っている。然も今日に於ては教育はただ其「今日」に必要なる人物を養成する所以に過ぎない。そうして彼が教育 家として為し得る仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、或は其他の学科の何れも極く初歩のところを毎日々々死ぬまで講義する丈の事である。若し それ以外の事をなさんとすれば、彼はもう教育界にいる事が出来ないのである。又一人の青年があって何等か重要なる発明を為さんとしているとする。しかも今 日に於ては、一切の発明は実に一切の労力と共に全く無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ない限りは。
 時代閉塞の現状は啻にそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、大体に於て一般学生の気風が着実になったと言って喜んでいる。しかも其 着実とは単に今日の学生のすべてが其在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったという事ではないか。そうしてそう着実になっているに拘らず、毎 年何百という官私大学卒業生が、其半分は職を得かねて下宿屋でごろごろしているではないか。しかも彼等はまだまだ幸福な方である。前にも言った如く、彼ら の何十倍、何百倍する多数の青年は、其教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育は其人の一生を中途半端にする。彼等は実に 其生涯の勤勉努力を以ってしても猶且三十圓以上の月給を取る事が許されないのである。無論彼等はそれに満足する筈がない。かくて日本には今「遊民」という 不思議な階級が漸次其数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を食い減らす事 と無駄話をする事だけである。
(…)
斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に其「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望や乃至其 他の理由によるのではない、実に必至である。我々は一斉に起って先づ此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧と を罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」(『明治文学全集 52 石川啄木集』p.262-263)

   箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)、池田室町での住宅の月賦分譲販売を開始
   「阪急の沿線開発は、分譲住宅の売り方だけに特徴があったのではなく、この後、私鉄沿線に住んで大阪市内の勤め先に通勤するというサラリーマンの生 活パターンが成立したことにこそ、その本質的特徴がある。そしてそれは阪急だけの戦略ではなく、私鉄による沿線開発が全体的に沿線にもたらしたものであ る。だがさらにつけ加えるならば、こうして生み出されてゆく中産階級以上のサラリーマンたちの「健康な」郊外住宅地の裏には、「不健康な」見捨てられてゆ く大阪や尼崎の市街地住宅が見え隠れしているのである。」(鈴木博之『都市へ』p.235)

   南北朝正閏問題

   CTR社(現=IBM社)設立

1911年
    辛亥革命
    平塚らいてう『青鞜』
    工場法公布。日本における最初の労働立法。施行は1916年9月1日。

    朝鮮教育令公布
    「第八条 普通学校ハ児童ニ国民教育ノ基礎タル普通教育ヲ為ス所ニシテ身体ノ発達ニ留意シ国語ヲ教ヘ徳育ヲ施シ国民タルノ性格ヲ養成シ其ノ生活ニ 必須ナル知識技能ヲ授ク」

    「修業年限については、一九〇六年に統監府が「小学校」という名称を「普通学校」と改めると同時に、年限を六年から四年に短縮したのを引きついだ ものであった。内地の小学校が六年制になるのがこの翌年だから、台湾とおなじく、ここでも内地より先行していた教育体制が縮減され、逆に内地に追いこされ てゆく傾向をみることができる。授業料徴収は、いうまでもなく、赤字財政を抱えた総督府による経費削減だった。」(小熊英二『〈日本人〉の境界』 p.150)

    「高等遊民」が流行語
    「要するに、当時のある論者が指摘していたように、「高等遊民」発生の原因は、「わが国民の知識欲の工場及び生活欲の増大と、之れに伴はない経済 状態の切迫と、この両面の圧迫なり矛盾なりに」あるとみなされた。すなわち就職難は、一方での青年層の進学行動・選職行動の変化と、他方での不況という経 済状態とのミスマッチに由来すると考えられたのである。
(…)
 しかし、当時の「高等遊民」問題、ひいては就職難問題を社会問題化させたさらなる重要な契機も忘れてはならない。それは「危険思想」に対する恐怖であ る。一九〇八(明治四一)年の戊辰詔書、一九一〇年の大逆事件にみられる支配層の「危険思想」に対する警戒感の強さは、その担い手あるいは伝播者となりう る「高等遊民」に対しても同様に向けられていた。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』p.116-117)

    カフェ一号店、「カフェー・プランタン」が銀座にオープン

    Taylor, F. W., The principles of scientific management, New York ; London : Harper & Brothers (星野行則訳、1913、『学理的事業管理法』、崇文館→上野陽一訳編、1969、『科学的管理法』、産業能率短期大学出版部)
    「科学的管理法なるものはけっして単一の要素ではなく、この全体の結合をいうのである。これを要約していえば、
一、科学をめざし、目分量をやめる
二、協調を主とし、不和をやめる
三、協力を主とし、個人主義をやめる
四、最大の生産を目的とし、生産の制限をやめる
五、各人を発達せしめて最大の高率と繁栄を来たす」(「科学的管理法の原理」(1911)上野陽一訳『科学的管理法』p.333)

    「率を異にする出来高払制度とは、手短にいえば、同じ仕事に対して二種類の違った賃金単価をあたえるのである。すなわち仕事を最短時間にしあげ て、しかもいろいろの条件を完全に満たした場合には、高率の賃金を払い、時間が長くかかったり、またはなにか仕事に不完全な点があったりした場合には低率 の賃金を払うのである(高率で払った場合に、その工員は類似の工場で普通に払われているものよりも、よけいもうけるような単価にしておかなければならな い)。この点が普通の出来高払制度とは全然違うところで、普通の場合には、工員が生産力を増すとかえって賃金をへらされるのである。
 日給制度で働く工員を管理する方法として私が提唱する制度は「人に払うのであって、地位に払うのではない」というところが主要点である。各工員の賃金は できるだけ、熟練の程度、その仕事に尽くす努力の程度などによって決めるべきであって、占めている地位によって決めてはいけない。各工員の個人的な功名心 を刺激するようにあらゆる努力をはらわなければならない。このうちには各工員の行いのよし悪し、きちょうめんの度合い、出勤の割合、正直不正直、仕事の速 さ、熟練および精密の程度などを組織だって注意深く記録していくこと、またこれらの記録をもととして、その工員に払う給料をつねに調整していくことを含ん でいる。
 (…)
 最後に、以上述べたこの制度の効果からでてくる主な利益の一つは、工員と雇主との間に非常に親しい感情を作りだし、ひいて労働組合やストライキなどは全 く不必要になってしまうことである。」(「出来高払制私案」(1895)上野陽一訳『科学的管理法』p.4)

    「布告には、テーラー・システムの導入について明確に述べること、いいかえれば、テーラー・システムが提起しているあらゆる科学的作業方法を利用 すること が、必要である。これなしには、生産性を高めることはできないし、また生産性を高めなければ、われわれが社会主義を導入することはできない。テーラー・シ ステムの実施にあたっては、アメリカ人技師を利用すべきである。(…)労働規律違反にたいする懲罰措置についていえば、それは厳格でなければならない。禁 固をもふくむ刑罰が必要である。解雇も適用してよいが、その性格はまったく一変する。資本主義体制のもとでは、解雇は私的契約の違反の場合になされること であった。だが現在では、労働規律違反のばあいには、とくに労働義務制が実施されているさいには、刑事犯罪がおかされているのであり、それにたいしては一 定の刑罰を課さなければならない。」(「最高国民経済会議幹部会の会議での発言 一九一八年四月一日」『レーニン全集』第四二巻p.74)

    「まず、日本は戦前戦後をつうじて、アメリカ的な経営管理方式を世界でもっとも熱心に輸入してきた国のひとつだといっても間違いありません。とこ ろが、テーラーシステムの母国アメリカと比べての相違点として、以下のような三点をあげることができます。
 第一は、アメリカの場合、テーラーシステムの開発者であるF・W・テーラーがなんのために誰と闘って開発に取り組んだのかというと、労働生産性を向上さ せるため、当時生産の管理権を独占していた熟練労働者あるいはクラフト・ユニオンから生産の実権を経営側に取り戻すためでした。そこで決定的な意味を持っ たのは熟練労働者の熟練を解体することでした。そのためには、生産の計画と実行の分離を徹底してすすめなければならなかった。具体的には、作業の細分化と 労働職務区分の厳密化、動作・時間研究による標準作業量の設定、差別出来高賃金、生産計画の専門部の創設や職調整の導入など、これらがタスク・マネジメン トあるいは「科学的管理法」として体系化されたわけです。他方、日本でも一九一〇年代から官営大工場や民間大工場へのテーラーシステムの導入が能率増進と いうかたちで始まりますが、日本にはそれに抵抗し妨げるクラフト・ユニオンが存在しませんでした。だから、現場の労働者の熟練やクラフト・ユニオンを解体 するという必要性はなかった。むしろ日本では科学的管理法を工場内に適用しようとした場合、労働者の熟練や主体的な生産管理能力を積極的に引き出し活用す るというかたちがとられたのです。
 第二は、アメリカでは労働者の職務区分を狭め固定化させることが熟練やクラフト・ユニオンを解体させる手段でしたが、同時に職務区分は労働組合によって も闘う武器になりました。経営側に職務区分を徹底して守らせることによって、労働者の諸権利や人間性まで守るといった意味合いがあった。日本の場合にもタ スク・マネジメントをやるために、形式的には職務区分が導入されましたが、実質的にはそれは固定化されませんでした。要するに、日本では欧米のような職務 区分の厳密な固定化といった状態が労使関係上の慣行になってこなかったということです。
 第三の特徴は、日本ではテーラーシステムの導入過程で、労働生産性の上昇と賃金の上昇との間に密接な関係性を見出すことができない点です。このことの 持っている意味はたいへん大きい。結局日本においてはテーラーシステムが導入されたけれども、それは一口でどんなかたちだったかというと、労働者は一生懸 命「頭を使って」働けということです。しかし、頭を使っても賃金はとくに上がらないということです。一九世紀からヨーロッパではこういうふうな言葉がある わけです。’ A worker is paid to work, not to think.’「労働者は、働くことに対して賃金が支払われるのであって、考えることに対して支払われるのではない」ということです。このような考え方の 行きつくところがテーラーシステムだと思います。ところが、日本では、私流の言い方をしますと、’ Must think, but not paid to think.’(「考えなさい、けれども考えることには賃金は払いません」)ということになってしまう気がします。労働者の労働態度として、頭を使って働 けということがたえず要求されるにもかかわらず、それに対する賃金は支払われないのが日本の現実です。」(基礎経済研究所編『日本型企業社会の構造』 p.238-240)

1912年
    鈴木文治、「友愛会」結成
    明治天皇死去、乃木希典が後追い自殺
    慶応大学が山名次郎を就職の紹介・斡旋のために嘱託として招請する。

    横山源之助「貧街十五年の移動」(『太陽』1912年2月号)
    「本論文は、岩波文庫版の中川清の解説の言葉を借りれば、「今世紀に入ってから『貧民窟』の顕著な変化をいくつかの視点から的確に記述してい る」。「貧民窟」は、木賃宿を中心に質屋や残飯屋、そして各種の長屋が混在し、独自の共同性を有する集住生活地区であった。ところが、その共同性が解体し てきた。横山はその変化を10項目にまとめているが、それらは「職業」「住宅」「生活費」の変化と「貧民窟の拡散」と捉え直せるだろう。
 「職業」の変化は、産業社会の変化に起因する。基幹産業の末端を下層が支えているため、産業構造が変化すれば下層が携わる職業は変化する。だが、それは 基幹産業に直結する変化だけではない。理髪、料理、蕎麦職などの職人社会においても「技」と「師弟関係」で結ばれていた人間関係が壊れてしまったことが述 べられている。そして労働力の流動化が工場労働と地方鉱山の往復、関西から東京へ労働者が流入した様子で描かれている。
 「住宅」は、地価及び家賃の高騰と景観の変化として描かれている。貧民窟には一般人が往来するのを妨げる雰囲気があった。それを横山は住民の性質とその 職業に起因するものと考えていた。ところが貧民窟に共同長屋、木賃宿、無料宿泊所、孤児院、養老院、慈善病院、特殊学校などが建てられると地価及び家賃が 上昇し、一般市街地と変わらない景観に変化したという。現在の言葉に直せば緩やかなジェントリフィケーションが起こったようである。」(日本寄せ場学会編 『寄せ場文献精読306選』「貧街十五年の移動」p.18)

1913年
    都市への人口流出が急増
    猪苗代湖の発電所と東京までの送電線が完成。高電圧による大量電力輸送が実現し、中小企業も含めて電力による動力化が進む
    東北帝国大学(現=東北大学)が女性受験生3人の合格を発表し、初の女子帝大生が誕生

1914年
    第一次世界大戦勃発
    東京駅竣工

    フォード、最初の自動ベルト・コンベアを設置、日給5ドル制度実施
    「アメリカの工業家フォードがとった措置は、心理学の観点からも興味深いものがあります。フォードは従業員の私生活を管理し、彼らに一定の生活態 度を課す一団の監督者をかかえています。食事・ベッド・部屋の大きさ、休憩時間まで管理し、さらに細かいことまで口出しし、それに従わない者を解雇しま す。フォードは雇用者に最低賃金六ドルを支払いますが、そのかわり、会社が指示する労働と生活態度を一致させることのできる人々を求めるのです。(…)た しかに、機械化は私たちを押しつぶします。私のいう機械化とは、知的労働の科学的組織といったものをふくんだ一般的な意味です。(…)」(一九三〇年一〇 月二〇日――タチャーナへの手紙)(片桐薫編『グラムシ・セレクション』p.118)

    「大量の未熟練工を、当初、フォードは職長の権限強化によって管理しようとした。だが、彼らの情実や暴力に対する不満は強く、これが当時のデトロ イトの労働力不足や劣悪な労働環境とも相まって、無断欠勤率や離職率の上昇をまねいた。このためのちには、賃上げや人事・労務を集権的に管理する雇用部の 創設など一連の労働改革を余儀なくされた。なかでも、最も効果があったのは一九一四年に実施された日給五ドル制度だった。
 この制度は一日の労働時間を八時間へと短縮すると同時に、日給を二倍の五ドルへと引き上げるものだった。だが、日給五ドルを得るには、出勤状態、工場で の作業態度はもとより、貯蓄、節酒、住居の整理整頓、英語学校への出席など会社が定めた「適切な」個人生活の基準に達せねばならなかった。それは移民労働 者をアメリカ社会へと同化させ、工場労働者として陶冶することをねらったものだった。工場の規律に従う労働者は高賃金を獲得し、自動車の購入者となりえ た。大量生産に必要な市場も確保されるのである。かくて、日給五ドル政策はこの二重の意味においてシステムを完成させる要の位置にあった。」(鈴木直次 『アメリカ産業社会の盛衰』p.48-49)

1915年
    日本、中国に対し「21か条の要求」

    入沢宗寿『現今の教育』
    「一方、今世紀初頭に欧米各国で登場してきた職業指導は、入沢宗寿の『現今の教育』(一九一五年)で初めてわが国に紹介された。それから時を経ず して、一九二〇年代には、職業指導に関するおびただしい文献が登場してくる。一方、組織・制度面でも、一九一五(大正四)年の日本児童学会による児童教養 相談所を嚆矢として、一九年に大阪市立児童相談所の開設、翌二〇年の大阪市立児童職業相談所の開設、さらに大都市部に相談機関が設置されていくとともに、 二〇年代前半期には大都市部の高等ないし尋常小学校で先導的な職業指導の試行が始められていった。」(広田照幸『教育言説の歴史社会学』p.97-98)

    和文タイプライターが実用化、タイピストを志望する女性が増える
    「割烹着」 を「婦人之友」が家庭用仕事着として考案、動きやすさから家庭に広まる

     D・W・グリフィス監督作品『国民の創世』

1916年
    国語審議会が標準語を「主トシテ今日東京ニ於テ専ラ教育アル人々ノ間ニ行ハルル口語」と規定した
    寺内内閣、臨時教育会議を設ける。以後、学制改革は原内閣にも受け継がれ、大学、高校、高専が急増

    『主婦の友』創刊
    「「家庭」ということばが大衆化したのは、むしろ次にくる商業的な婦人雑誌の時代であった。一九一六年に創刊された『主婦の友』はその年のうちに 二万部、一九二三年には三〇万部、一九三二年には八〇万部と発行部数を伸ばしていった。『主婦の友』を代表とする商業的な婦人雑誌は「家庭」を消費と再生 産の場と位置づけており、「家庭」の主婦に家事育児のための実用的な記事を提供し、とくに家計簿をつけることを奨励した。(…)
 ところがこのような商業的婦人雑誌によって頻繁に「家庭」という語が使われるにつれて「家庭」は「家」との対立をしだいに曖昧にしていった。夫婦関係中 心の「家庭」であったはずであるのに、雑誌の身の上相談に載る家庭婦人の最大の悩みは姑との葛藤であった。(…)
 (…)当時、長男は故郷の家に両親と同居し、次男、三男は都市あるいは植民地において小家族を構成することが多かった。だが都市で結婚して「家庭」を築 いた次男、三男も分家をしないかぎりは戸籍のうえでは「家」に属し、長兄が住む故郷の家にたいする帰属意識を抱きつづけていた。長男が弟たちや姉妹あるい はその家族までを扶養する、あるいは給料生活者となった次男、三男が自分の妻子を養うだけでなく故郷の「家」のために仕送りを続けることがまれではなかっ た。(…)」(西川祐子「日本近代家族と住いの 変遷」、西川長夫・松宮秀治編著『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』p.197-198)

1917年
    民間の入社試験で面接が重視されるようになる
    「二代目の秀才官僚に対する疑惑は、一方では高文試験のやり方を反省させたが、他方では、民間会社の入社試験に口述(面接)重視の原則を打ちたて ることとなった。知識の正確さを、かぎられた断面や部分で調べる高文的筆記試験よりも、全人格的把握のできる面接試験を重視し、いわゆる「人物本位」で採 用する習慣をつくったのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.38)

    「組織が巨大化する一方で、大企業は労働者の採用に突然慎重になり、新規採用を従来のように親方職工任せにはせず、健康検査はいうに及ばず身元や 性格、素行なども調べあげるようになった。選抜と採用の費用が嵩めば、移動を少なく抑えるため勤続奨励的な報酬制度が考案されるのも自然の勢いである。移 動が少なくなれば企業特殊的技能を促進するための人的投資を増加する誘引が働くから、その結果労働は一層「固定化」してくる。興味深いのは、 1910〜20年代のこのような制度的変化が、どの大企業でも一様に、あたかも申し合わせたように時期もほぼ同じくして起きたことである。」(岡崎哲二・ 奥野正寛編著『現代日本経済システムの源流』p.154)

    都市の新しい中程度の家として「中廊下型住宅」現れる
「中廊下型住宅は家族を社会から析出し、しかも外から区切られた狭い空間に夫にとっての私生活と家族団欒を保証し、外で働いて収入を得る夫と家事育児に専 心する妻の役割を分けることに成功したのであった。なお台所は土間から板張りになって床が高くなった。割烹着をつけて台所に立つ専業主婦の地位向上を表す かのように晴れがましく、地方では板張りの台所を「東京式炊事場」と呼んでいた。」(西川祐子「日本近代家族と住いの変遷」、西川長夫・松宮秀治編『幕 末・明治期の国民国家形成と文化変容』p.205)

    理化学研究所設立、半官半民で戦前最大の規模と最高水準を誇る

    ロシア革命
    BMW社設立

1918年
    米騒動
    「全国で一斉に広がった米騒動は、都市の街頭に都市住民が踊り出た最も大規模な、実力を伴った都市社会運動であった。このような都市社会運動は、 それまで も、東京や神戸で、日露講和反対や桂内閣打倒などの要求を掲げ、焼き討ちや関係社宅、関係施設の襲撃というような散発的な形で存在した。これと対照的な米 騒動の都市地理学的な特徴は、オフィス街、労働者街、郊外という同心円的な土地利用調整を生み出しつつあった資本主義の都市空間編成を、見事に世の中に知 らせたところにある。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.341)

    シベリヤ出兵
    ドイツ革命
    第一次世界大戦終戦

    大学令公布、公私立大学・単科大学の設立を認めた(1919年施行)
    「第四条 大学ハ帝国大学其ノ他官立ノモノノ外本令ノ規定ニ依リ公立又ハ私立ト為スコトヲ得」

    「高等諸学校創設及拡張計画」発表
「第一次大戦がもたらした未曾有の経済的好況は、高等教育拡大の絶好のチャンスであった。しかも、学制改革問題の一応の解決も、拡大の実現にとって大きな 障害が消えたことを意味した。しかし、そうした環境の変化が――一時に計画され、かつ実現したものとしては、少なくとも戦前期においては空前絶後の規模を もつ――『高等諸学校創設及拡張計画』という具体的な政策へと結実するには、「積極政策」を党是とする政友会の存在が欠かせなかった。計画は、そういう意 味でまさしく政治的な産物だったのである。しかし同時に、それがたんに地方利益誘導政策にとどまらぬ意味をもつことに留意せねばならない。「入学難」の解 消をその中心目標として掲げ、地域間の高等教育機会の均等な配分を全国規模で志向し、しかもその結果としてそれまでになく多数の若者たちを高等教育進学競 争へと巻き込んでいったこの計画は、その後に続く高等教育の大衆化過程の、幕開けを示すものでもあったからである。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』 p.50)

    貴族院、「科学及工業教育に関する建議」
「当時もまた技術革新の時代であった。産業革命より今日の技術革新にいたるまで、技術は老人・年功者には酷なもので、老兵は消えていく運命にある。「学校 出」とくに「大学出」が時代の寵児になってくると、「大学出」の若い世代は攻撃的で、古い技術者は守勢すら維持できなくなる。こうして、「大学」を出なけ ればダメだというムードが世を風靡し、大正六〜九年の学制改革・大学昇格運動と高校・高専の増設をもたらすわけであるが、これと平行して、まず理科教育、 理工系ブームがおこるのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.26)

    臨時窒素研究所設立、のちに東京工業試験所に合併される

    渋沢栄一を中心に、田園都市株式会社が設立される
    「この会社は渋沢栄一を中心に設立されたもので、渋沢自身は朝鮮の土地開発を手掛けていた畑弥右衛門が土地開発の話をもちかけたのに共鳴し、ほか のひとび とに呼びかけたのであった。そこでは「田園都市経営」が構想された。(…)
(…)
 田園都市株式会社は震災直後の一九二二年頃から洗足地区の土地分譲をはじめた。分譲直後の関東大震災での被害が少なかったため、これが好評となり、後の 住民移入の呼び水となったといわれる。ついで分譲された多摩川台住宅地は、現在田園調布として知られるもので、駅を中心にした放射線状と同心円状の道路網 に特徴があり、商店街と住宅地を分離する、宅地規模が大きいなど、高級住宅地化の条件を備えていた。」(鈴木博之『都市へ』p.303-304)

    武者小路実篤が仲間19人と自分らが掲げる理想の実現の場「新しき村」を宮崎県木城村に建設し、青年たちの間に大きな反響を呼んだ

1919年
    ヴェルサイユ条約締結
   「ヴェルサイユ条約によってなされた規則の結果から明らかになったことは、ヨーロッパの現状の維持をも回復をも不可能にした多くの原因の一つが、西 欧の 国民国家体制は全ヨーロッパに拡大し得ないものであるという点にあることだった。つまりヨーロッパは百五十年以上にもわたって、全人口のほとんど四分の一 については適用不可能な国家形態の中で生きてきたわけである。国民国家の原理の全ヨーロッパでの実現は、国民国家の信用をさらに落とすという結果をもたら したにすぎなかった。国民国家の原理は該当する諸民族のごく一部に国民主権を与えたに止まり、しかもその主権はどこでもほかの民族の裏切られた願いに対立 する形で貫徹されたため、主権を得た民族は最初から圧制者の役割を演ずることを余儀なくされたからである。被抑圧民族のほうはほかならぬこの規制を通じ て、民族自決権と完全な主権なしには自由はあり得ないとの確信を強めた。従って彼らは民族的熱望を踏みにじられたばかりでなく、彼らが人権と考えたものま で騙し取られたと感じた。」(H・アレント『全体主義の起原U』p.244)
   cf.Arendt, Hannah:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/arendt.htm


   「無権利者が蒙った第一の損失は故郷の喪失だった。故郷の喪失とは、自分の生れ育った環境――人間はその環境の中に、自分にこの世での足場と空間を 与え てくれる一つの場所を築いてきたのだ――を失うことである。諸民族の歴史は個人や民族集団の多くの放浪についてわれわれに語っており、そのような不幸はそ こではほとんど日常的といえる出来事である。歴史的に例がないのは故郷を失ったことではなく、新たな故郷を見出せないことである。(…)それは空間の問題 ではなく、政治組織の問題だったのである。人々は長いあいだ人類を諸国民からなる一つの家族というイメージで思い描いてきたのだが、今や人類は現実にこの 段階に到達したことが明らかとなった――だがその結果は、これらの閉鎖的な政治共同体の一つから締め出されたものは誰であれ、諸国民からなる全体家族から も、そしてそれと同時に人類からも締め出されることになったのである。」(p.275-276)

   「職業も国籍もまた意見も持たず、自分の存在を立証し他と区別し得る行為の成果をも持たないこの抽象的な人間は、国家の市民といわば正反対の像であ る―― 政治的領域においては市民たることはすべての相違と不平等を消し去る巨大な力として働き、すべての市民は絶えず平均化されてゆくのだから。なぜなら、無権 利者は単なる人間でしかないといっても、人と相互に保証し合う権利の平等によって人間たらしめられているのではなく、絶対的に独自な、変えることのできな い無言の個体性の中にあり、彼の個体性を共通性に翻訳し共同の世界において表現する一切の手段を奪われたことによって、共同であるが故に理解の可能な世界 への通路を断たれているからである。彼は人間一般であると同時に個体一般、最も普遍的であると同時に最も特殊であって、その双方とも無世界的であるが故に いずれも同じく抽象的なのである。
 このようなカテゴリーの人間の存在は文明世界に対する二つの危険を孕んでいる。彼らが世界に対して何らの関係も持たないこと、彼らの無世界性は、殺人の 挑発に等しいのだ――世界に対して法的にも社会的にも政治的にも関係を持たない人間の死は、生き残った者にとって何らの影響も残さないという限りで。たと え人が彼らを殺しても、何ぴとも不正を蒙らず苦しみさえ受けなかったかのように事は過ぎてしまう。」(p.289)

    コミンテルン創立大会。レーニン、プロレタリア独裁の綱領を発表
    レーニン『国家と革命』
    「国家の完全な死滅の経済的基礎は、精神労働と肉体労働との対立が消滅するほどに、したがって現代の社会的不平等のもっとも重要な源泉の一つ、し かも、生産手段を共有財産に移すだけでは、資本家を収奪するだけでは、けっして一挙に除去することのできないような源泉を消滅するほどに、共産主義が高度 に発展をとげることである。
 この収奪は、生産力の巨大な発展の可能性を与えるであろう。そして、いまでももう資本主義がこの発展を信じられないほど阻止していること、また、すでに 達成された現代技術を基礎として大幅の前進が可能であることを見るとき、われわれは、資本家の収奪が人類社会の生産力の巨大な発展をかならずもたらすであ ろうと、確信をもっていう権利がある。しかし、この発展がどれほど急速にすすむか、それがどれほど急速に分業と手を切り、精神労働と肉体労働との対立を廃 絶し、労働を「第一の生活欲求」に転化するようになるか、われわれはそれを知らないし、また知ることもできない。
 だからこそ、われわれは、国家は不可避的に死滅すると言うにとどめて、この過程が長期にわたること。それが共産主義の高い段階の発展速度にかかっている ことを強調し、死滅の期限や死滅の具体的形態の問題は、まったく未解決のままにしておくことが至当である。なぜなら、これらの問題を解決する材料がないか らである。
 社会が「各人はその能力に応じて、各人にはその欲望に応じて」という準則を実現するとき、すなわち、人間が能力に応じて自発的に労働するほどに、共同生 活の基本的な規則をまもる習慣を十分に身につけ、彼らの労働がそれほど生産的なものとなるとき、そのとき国家は完全に死滅することができるであろう。他人 より半時間でもよけいに働かないように、他人より少ない給料をもらわないようにと、シャイロック流の冷酷さで人間にそろばんをはじかせる「ブルジョア的権 利の狭い限界」――この狭い限界は、そのときふみこえられるであろう。そのときには、生産物を分配するにも、各人の受け取る生産物の量を社会が規制する必 要はなくなり、各人は「その欲望に応じて」自由に取るであろう。」(p.121-123)

    レーニン「ロシア共産党(ボ)綱領草案」
    「プロレタリアートの独裁の時期には、すなわち、共産主義の完全な実現を可能にする諸条件を準備する時期には、学校は、一般に共産主義の原則を伝 達するものでなければならないだけでなく、共産主義を最後的に実現する能力をもつ世代をそだてあげるために、勤労大衆中の半プロレタリア層と非プロレタリ ア層に、プロレタリアートの思想的・組織的・教育的影響を伝達するものでなければならない。
 現在この進路にある当面の任務はつぎのようなものである。
 (一)男女を問わず一六才未満のすべての児童にたいする無料の義務的な普通教育と総合技術教育(すべての主要な生産部門についての知識を、理論と実地の うえでさずけるもの)を実施すること。
 (二)授業と社会的=生産的労働との緊密な結合を実現すること。
 (…)』(『レーニン全集第29巻』p.97(91))

    「ソヴェト権力は、いっさいの労働にたいする報酬の平等と完全な共産主義とをめざすものであるが、資本主義から共産主義への移行にむかってほんの 数歩あゆんでいるにすぎない現在では、こういう平等をただちに実現することを、自分の任務とすることはできない。だから、専門家がいままでより悪くではな く、むしろもっとよく働くように、ある期間は彼らにより高い報酬を支払うようにする必要がある。また、これと同じ目的から、もっともすぐれた仕事、とくに 組織的な仕事にたいする奨励給制度をも、放棄してはならない。
 同様に、自覚した共産主義者に指導される普通の労働者大衆と手に手を携えた同志的共同労働の環境にブルジョア専門家をおき、それによって、資本主義に よって分離された肉体労働者と精神労働者との相互理解と接近を促進しなければならない。
 (…)
 分配の分野では、現在ソヴェト権力の任務は、商業を、全国家的な規模での計画的・組織的な生産物分配に代えることを、たゆみなくつづけていくことにあ る。目標は、全住民を消費コンミューンの単一の網に組織することである。この消費コンミューンは、分配機構全体を厳格に集中することによって、もっとも急 速に、計画的に、経済的に、最小の労働支出で、すべての必需物資を分配することができる。」(p.122-123(116-117))

    三・一独立運動
    五・四運動
    ベニート・ムッソリーニ、ミラノの集会でファシズムの運動を開始 ドイツ労働者党がミュンヘンで結成。9月、ヒトラー入党

    ワイマール憲法公布、施行。主権在民、基本的人権をかかげ普通選挙と議院内閣制を採用した
    「第一一九条(一)婚姻は、家族生活および国民の維持の基礎として、憲法の特別の保護をうける。婚姻は、両性の同権を基礎とする。
 (二)家族の清潔維持、健全化および社会的助長は、国および市町村の任務である。子供の多い家庭は、これを埋合わせる配慮(ausgleichende Fursorge)を求める権利を有する。
 (三)母性は、国の保護および配慮を求める権利を有する。
第一二〇条(一)子を教育して、肉体的、精神的および社会的に有能にすることは、両親の最高の義務であり、かつ、自然の権利であって、その実行について は、国家共同社会(staatliche Gemeinschaft)がこれを監督する。」(高木八尺ほか編『人権宣言集』p.203-204)

    東京俸給生活者同盟会(サラリーメンズユニオン)発会。
    「俸給生活者とは、今でいうサラリーマンのことであり、都市化が急速に進んだこの時代には、会社員・銀行員を中心とした俸給生活者が新中間層とし て登場した。彼らはしゃれた造りの一戸建ての貸家を郊外に借り、平日は電車で通勤していた。俸給生活者の数は1920年前後には、東京市の人口の約 20%、全国民の7%から8%を占めていたという。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.101)

    「第一次大戦後、会社の事務部門・流通機構・公共団体が大規模となり、官公吏・会社職員をはじめとする俸給生活者、いわゆる新中間階層が増大した といわれている。そしてその量的増大は、上下の地位の分化をともなっていた。そして、増大したのは下層の俸給生活者であった。(…)
 下層俸給生活者は、工場労働者より所得は概してやや上であるとはいえ、以前の、また当時の上層の管理や会社員とは、ほど遠かった。しかし、彼らは中間階 層なりの生活をする必要があった。ところが、大戦後の物価騰貴およびその後の不況で彼らの生活は圧迫された。(…)
 中間階層において、こうした生活難、失業の危機に直面して、従来みられた、「教養ある」「良家」の妻・娘の、職場進出に対する根強い抵抗は、少しずつ弱 められていった。そして、「小学校を卒業したが高等女学校へやるだけのふんぱつもつかぬし、さればとて女工にするのも本意でなし……」という表現にみられ るように、女工にするには抵抗があるが、「職業婦人」ならばというのが、中間階層に属する者の心理であったろう。」(岩下清子「第一次大戦後における『職 業婦人』の形成」p.47-48)

    「以上から、第一次大戦後ともなると大企業には学卒者の定期採用・長期勤続雇用が浸透し、そのため学歴による階層差が固定化することとなったと推 測できる。それゆえ、両対戦間期になっても大企業における高学歴者の優遇はたしかに変わらなかったと言いうるのであるが、理科系統の多い日立製作所とは異 なり、文科系統が多く進出した三井物産では、学卒者といえども役員にまで上り詰めるのは少数に過ぎなかった。  しかし、昇進問題以上に深刻であったのが高学歴者の失業問題であった。明治末に「高等遊民」の発生として顕在化し始めていた高学歴者の失業問題が、第一 次大戦後の不況のなかでさらに悪化したのである。(…)
(…)
要するに、給与面では高学歴者が優遇されてはいたものの、しかし文化系統では高等教育機関卒業者が急増し続け、高学歴者といえども大企業への就職は次第に 困難となっていった。かりに就職できたとしても、役職者となりうる可能性はかなり低かった。進学者の増大が、社会移動の手段としての高等教育システムを機 能不全に陥らせたのである。」(川口浩編『大学の社会経済史』p.52-53)

    大蔵省印刷局がパートタイマー制度設ける
    「大蔵省印刷局では9月から雇員の採用に時間給制度を設けることになった。苦学生が就業しやすいように便宜をはかったもので、都合のよい時間に出 勤し5時間以上働いたら任意に退局してよいという。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.104)

    「サボ」「サボる」が流行語。神戸川崎造船所の争議で初めてサボタージュ作戦が採用され賃上げに成功。一般的に使われるようになった

    都市計画法
    「日本の都市細民の居住は、すでに述べたように、被差別部落を中心とする歴史的起源を有するゲットーのような存在と、木賃宿の伝統を受け継ぐドヤ 街として の日雇労働者街の両者を空間的基盤にしていた。これは、すでに述べた封建時代の都市建造環境が、近代以降に投射され、「細民」地区のコアとして存在し続け たものである。
 大正以降になると、こうした地区の周辺にある零細工場地区に、植民地化された朝鮮半島の出身者が移住して、エスニックな居住分化を伴いつつ、その集住の 場所をインナーシティに付け加えていった。エスニックな地区として沖縄出身者の集住も並んで進行した。
(…)
 1919年の都市計画法を契機に、ようやく高水準の市街地を建造する法的基盤として、土地区画整理に関する法制が整備された。以後、こうした自然発生的 な土地利用調整がなされたインナーシティの外側に、土地区画整理の施工された、計画的な郊外市街地が徐々に登場してくる。
 都市計画は都市過程への国家の介入である。都市計画の登場は、産業資本主義の都市空間の生産に新たな画期をもたらした。この変わり目は、大正後期から昭 和の初めに見られる。産業資本主義に主導され、市場の「見えざる手」が及ぶ範囲においてのみ形成された都市に対して、市場メカニズムではまかないきれない 都市建造環境のとりまとめと土地利用調整が、国家の介入によりなされるようになった。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.338-341)

    GM、割賦金融を行うGMAC(General Motors Acceptance Corporation)を設立
    「GMは、これまたフォードが無視した販売戦略を重視した。堅実なアメリカ人であったヘンリー・フォードは自動車は貯金をためてから買うものとい う信条を頑固に曲げなかった。だが、GMは逆に、金融子会社を設けて消費者信用を整備し、下取りや割賦販売などによって車を買いやすくした。これはより高 級な車種への買い替えにも威力を発揮し、T型車の持ち主をシボレーへと乗り換えさせる大きな力となった。」(鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』 p.53)

    M・ウェーバー『職業としての学問』
    「さて、学問上の霊感はだれにでも与えられるかというと、そうではない。それは潜在的な宿命のいかんによって違うばかりではなく、またとくに「天 賦」のいかんによっても違うのである。これは疑うべからざる事実であるが、この点と関連して――といってもこの事実を結局の根拠としているわけではないが ――近ごろ若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこんにちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像と は、「個性」と「体験」のことである。このふたつのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。こ の種の人たちは苦心して「体験」を得ようとつとめる。なぜなら、それが個性をもつ人にふさわしい行動だからである。そして、それが得られなかったばあいに は、人はすくなくもこの個性という天の賜物をあたかももっているかのように振舞わなくてはならない。かつてこの「体験」の意味で「センセーション」という ことばがドイツ語的に使われたものであった。また、「個性」ということばも、以前はもっと適切な表現があったように思う。」(p.27)
 cf.Weber, Max:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/weber.htm

    S・フロイト「無気味なもの」
    「ドイツ語の「無気味な」unheimlichは明らかに、heimlich(一、秘密の、私の、内密の、知られない、二、(方言)家庭の、馴染 の、親しみある・訳者)heimisch(一、土着の、故郷の、自由な、二、気がおけない、居心地のよい・訳者)vertraut(一、親しい、親密な、 二、熟知せる、精通せる・訳者)の反対物であり、したがって、何事かが恐ろしいと感ぜられるのはまさにそれがよく知られ馴染まれていないからである、とた だちに結論を下すことができる。むろんしかし新しく・親しまれていないものすべてが恐ろしいわけではないから、この関係を逆にすることはできない。ただこ ういうことがいえるだけである、新しいものは容易に恐ろしいもの、無気味なものとなる。若干の新しいものだけが恐ろしいので、すべての新しいものがそうな のではない。新しいもの、親しまれないものは、そこにそれらを無気味なものにする何ものかがつけ加わってはじめて無気味なものになるのである。」(『フロ イト著作集 第三巻』p.327-328)

1920年
    婦人協会、婦人参政権を要求
    日本最初のメーデー

    農商務省が能率課を設ける。能率運動が全国的に高まる
    「大戦が始まると日本の海運業はすさまじい好況に見舞われ、船舶需要が急速に高まった。それにもかかわらず、従来依存してきたヨーロッパからの中 古船購入が不可能になったため、日本の不定期船業者達は一斉に日本の造船業に船舶建造を発注しだした。その結果、日本の造船業は旧来行われていた受注生産 方式ではそれに対応できないだけでなく、そのままではみすみす膨大な利益機会を逸するという状況に直面したのである。そこで造船企業は個々の企業レベルで 船型を標準化し、それを反復生産することで、大量の需要に対応しようとした。しかも彼らにとっては、いかに早く船をつくれるかが、利益の増大に直接的に結 びついたので、できる限りすばやく反復生産を行なうため工程の改善に本腰をいれた。(…)
(…)
 第一次世界大戦期に生産規模を拡大させたのは、造船業だけではなかった。他の多くの産業も市場の拡大に支えられて、生産規模を拡大させた。しかし大戦が 終わるとこれらの産業も市場の急縮に直面せざるを得なかった。そこで、製造業の多くは、一方で企業規模を縮小させつつ、他方で経営の合理化を図らねばなら なかったのである。この合理化の必要性は、企業の目を生産現場へと向けさせることになった。生産現場で無駄を排除し、いかに能率をあげていくかが、企業の 業績の悪化を防ぐことに直結すると考えられたからである。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.130-131)

    第1回国勢調査実施。総人口7700万5500人、内地人5596万1140人
    国際連盟創設

    東大文学部、就職用の掲示板をつくる
    「東京帝大もご多聞に洩れず、経済学部はまあどうにかしまつがついたが、五〇〇名の卒業生を出す法学部は青息吐息、首を切るのに精一杯の会社が、 当面ソロバンもはじけず、セールスもできない、ただ幹部候補生というだけの法学士をとるはずがない。そこで学生は、もっぱら高文試験(上級公務員試験)の 受験勉強にフウフウいっていた。そのなかで、まったく金に縁のない文学部と理学部の卒業生だけが高値で、飛ぶように売れたのだから、ウソみたいな話であ る。
 なぜそうなったかといえば、第一次大戦末期から、高等学校・高等専門学校がボカスカでき、それにつれて中学校も大増設した。また、大学令の改正で、高等 専門学校や私立大学が大学に昇格した。大学の先生は足りない。そこで、ただでさえ足りない高校や高専の先生が大学に引きぬかれ、ひいてはこれもまた増設、 増募で手いっぱいの中学の先生が高校、高専に引きぬかれる。先生の不足は、不足が不足を生み、また不足を生む、という情況だったのである。これは、学校の 増設、学生の増募と、景気変動の波がちょっとずれただけの話である。
(…)
不景気には勝てないというわけで、帝国大学の品位をけがすような就職用掲示板をつくったのなら、就職難をめぐってのいじらしいエピソードとなったろうが、 実はまったく逆で「不景気の文学士高」を誇ったデモンストレーションだったのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.108-110)

    「以上のように、就職難に最も苦しんだのは、私立の文科系の卒業者であり、逆に官公立の理科系学生はそれとは比較的無縁であった。しかし、私立文 科系学生 の大半は大都市部の学校に在籍し、しかも高等教育全体のなかで大きな割合を占めていたから、そのことが深刻な就職難のイメージを広く流布させる結果をもた らしたといえよう。とはいえ、相対的に恵まれた境遇であったものにとっても、その就職状況は大戦ブーム期の先輩たちと比べれば明らかに悪化していたのであ る。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』p.120)

    スローンの「組織研究」が取締役会で承認される
「この研究の目的は、GMの広範な事業活動の全般を通じて、権限のラインを確立するとともに、各部門の活動を調整し、しかも同時に従来の組織がもっていた 美点を、いささかたりとも損じないような新しい組織のあり方を提示することである。
 この研究は、大きくいって、以下に述べる二つの原則に基礎をおいている。
 (1)各事業部の活動の最高管理者に付与される責任事項は、どんな形にせよ制限されてはならない。最高管理者に率いられる各事業部は、必要とするあらゆ る機能を完全に備え、それぞれの自主性をフルに発揮し、筋道にかなった発展を遂げなくてはならない。
 (2)会社の活動全般の筋道にかなった発展と適切な統制のためには、なんらかの中心的組織機能が絶対必要である。」(A.P.スローン『GMとともに』 p.71)

    アメリカでロシア革命の恐怖から「赤狩り」。司法長官の指揮で1万人逮捕
    アメリカで世界最初のラジオ放送

    F・スコット・フィッツジェラルド『楽園のこちら側』
    「多分、こうした若者たちの情熱は、結局竜頭蛇尾に終わるであろう。一、二年も経てば、若者たちは分別をとり戻し、万事は元通りになるであろう。
 だが、彼らの考えは間違っていた。若者たちの反逆は、すべての地方の、あらゆる年齢の男女をとらえた生活のしかたとモラルの革命のほんの序幕にすぎな かったのである。
(…)
 さまざまな力が同時に作用し、たがいに影響し合って、こうした革命が避け得ないものになったのである。
 第一に挙げられるのは、戦争および戦争の終結によってもたらされた人びとの精神状態である。兵隊が訓練キャンプや前線に出発するときに陥る、あの「食い かつ飲んで楽しくやろうぜ、どうせ明日は死ぬんだ」という気分に、この時代のすべての人びとが感染していた。(…)伝統的なタブーがごく自然に崩壊し、そ れがごく当たり前のことになった。戦争という試練が終わっても、こうした若者たちがもとのままの姿で戻ってくるはずがない。戦時の圧迫下で、自衛手段とし て新しいおきてを身につけた連中もいた。何百万人かのそうした青年たちは感情興奮剤を与えられたようなもので、容易にやめられなくなっていた。彼らのかき 乱された神経は、スピードと興奮と情熱という鎮静剤を求めていた。戦争は若者から、バラ色の理想に満ちた楽観的世界を奪っていた。」(F・L・アレン『オ ンリー・イエスタデイ』p.131-133)

1921年
    戦前最大のストライキと呼ばれる川崎・三菱神戸造船所争議が起こる。その後企業側は、工場委員制度で労働組合を代替しようとするようになる。
    企業別組合が結成され始める

    職業紹介法成立、公益職業紹介施設の全国的設立が決定
    「日本における公共職業紹介制度の発展の基礎を築いたのは,無料職業紹介を行う公営職業紹介所の設置を定めた1921年の職業紹介法である.よく 知られているように,職業紹介事業が1936年に道府県に移管され,ついで38年に国営化されるまでは,日本の職業紹介所は市町村営が中心だった.職業紹 介法は,これらの公営紹介所間の事務の連絡統一をはかる機関として,中央および地方職業紹介事務局を置き,内務大臣がこれを監督することを定めていた.」 (苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.67)

    安田保善社、大学卒の恒常的採用に踏み切る
「「一等社員から一等重役へ」の諸氏を生んだ一九二〇年前後(大正後半期)は、今日のサラリーマン制度ができあがった時代である。制度の第一は身分制度、 すなわち微分的な階級制度である。わが国の社会は、身分制度なくしては夜も日も明けなかったのである。
(…)
 身分制度はまず学歴と直結する。王子製紙の身分制度を例にとれば、大学卒はまず準社員として採用され、準社員を半年か一年すると社員に昇格する。ところ が、中学校や商業学校卒はその下の雇員か準雇員として採用され、まずくすると大半の年月をその身分で終ってしまう。準社員から社員に進む道は閉ざされてい るわけではないが、それには気の遠くなるほどの年月を要するのである。こうして、まず出発点において、大学卒とその他では、はっきりと一線が画されてい る。(…)
 こうした趨勢にかなり長いあいだ抵抗を示していたのは安田系であった。
「ともかくも、安田一家の方針は、給仕いな小僧あがり、万やむを得ずんば中学程度に限りこれを採用して、安田一流の養成教育を実施したのであった」
 しかしこれも「とうてい時代の趨勢に勝つあたわざることが自覚され、競って学校出の秀才を採用せんとするに至った。(天外散史「面目一新したる安田家の 社員待遇法」)
 それというのも、「安田系銀行の統一の必要と、対世間的に多少の人材を募集する必要もあったから」(「安田王国の解剖」=「太陽」大正十三年三月号)で ある。
 つまり、第一次大戦後の反動恐慌にさいして、企業の集中・合併という独占ムードに応じて、家憲に反しても大学卒を取り入れるようになったのである。」 (尾崎盛光『日本就職史』p.82-84)

    「大正後半期、つまり一九二〇年代の前半に大学・高専を卒業した人々のなかには、第二次世界大戦から今日にいたるまでの時期に、長期にわたってわ が国の実業界を背負ってきた人が多い。
(…)
まず第一に、これらの人々の大半が、大学卒業後最初に足をふみいれた会社を(少くとも同一系統の会社を)終始一貫して勤め上げていることである。そして、 そこに根をはり、一歩一歩、堅実に階段をあがって、位人臣をきわめた、ということである。これを終身雇用制と年功序列制の確立ということもでき、またサラ リーマン重役(社長)制の定着ということもできる。」(p.71-77)

   「ここでおもしろいのは、明治時代の安田保全社の練習生制度と、この時代の新入社員教育とのちがいである。本質的には、愛社精神をたたきこむという あたりで一致しているだろうが、方法論としてはまったく対照的である。練習生制度の場合は、すぐ実務につかせる商業・中学卒に対し、大学教育にかわるもの をほどこして、将来の幹部を養成しようとしたのである。ところが、この時代からはじまった新入社員教育は、形式上の幹部候補生に、下っ端サラリーマンの実 務を習わせる、というのが主たる眼目であった。」(p.114)

   「第一次大戦期以降、企業が成長し、それに伴いホワイトカラー層の拡大も加速した。企業は、大卒者への需要を増大させていくことになる。他方で、不 況のために大卒者の就職難がこの時期には進んだ。そうした中で一九二〇年代になると、企業は特定の大学を介して、人材の紹介・斡旋を受けるという採用パ ターンを確立した。(…)
 安田系の企業における大学卒業生の採用については、安田保善社が一括して行っていた。保善社は系列企業に所要の人員を問い合わせたうえで、採用人数を決 定 し、特定の大学に対して志望者の推薦を依頼した。その際、それぞれの大学別に採用人数をほぼ決めていたが、実際の選考にあたってその数の変更が可能なよう に、各校には「若干名」として申し込んだ。(…)」(川口浩『大学の社会経済史』p.198-199)

    アドルフ・ヒトラーがナチスの党首に

    「恋愛の自由」が流行語。
    「前年、東北帝国大学理科大学教授で日本物理学界の第一人者とも言われた石原純が原阿佐緒への求愛を受け入れられず自殺未遂。原阿佐緒はアララギ 会員の歌人で、九条武子、柳原白蓮と共に三閨秀歌人と呼ばれていた。石原から逃れるため上京した阿佐緒だったが、家庭を捨てた石原と同棲を始め、石原は大 学を辞職。新聞各紙一斉に二人をスキャンダラスに報道したため「恋愛の自由」という言葉がこの年、流行した。石原の著書「アインシュタインと相対性原理」 は、物理学の専門書にもかかわらず、「相対」という部分で恋愛の指南書と勘違いされてよく売れた。一方、柳原白蓮は、九州の炭鉱王の妻だったが、身分の違 う年下の男性の下に走りこの人妻の恋にも世間はわいた。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.112)

1922年
    未成年飲酒禁止法公布 お産休暇
    「文部省は9月、女教員・保母の産前産後の休養を有給とすることを認めるように訓令を出した。出産休暇の始まりである。」(現代用語の基礎知識編 『20世紀に生まれたことば』p.118)

    朝日新聞社説「実業界からの教育改善運動」
    全国水平社結成
    ワシントン会議で海軍軍縮条約に調印

    朝鮮戸籍令公布
    「併合当時の朝鮮人は、保護国だった韓国時代に制定された民籍法にもとづく民籍に編入されており、さらに一九二二年には総督府の制令として朝鮮戸 籍令が公布されたが、いずれも朝鮮のみの法律で内地の戸籍法とは法体系が別であった。すなわち、朝鮮と内地では戸籍の裏付けとなっている法が異なっていた のであり、両者を連絡する規定を設けないでおけば、わざわざ朝鮮人の本籍移動禁止を法文上に記さなくとも、内地―朝鮮間での移籍手続きが存在しないことに なる。国籍の場合とおなじく、ここでも大日本帝国は、法文上に差別を明記することを巧妙にさけたのである。
 このように、国籍のうえでは強制的に「日本人」に包摂しつつ、戸籍によって「日本人」から排除する体制が出来あがった。この体制は台湾にも反映し、やは り内地の戸籍法を施行しないという手法をとって、台湾人の本籍移動が実質的に禁じられることになる。地域レベルのみならず、個人レベルにおいても、朝鮮や 台湾は「日本」であって「日本」でない位置をあたえられたのである。」(小熊英二『〈日本人〉の境界』p.161)

    「文化住宅」流行語
    「東京・上野で平和記念東京博覧会が開幕した。中でも、居間を中心とした椅子式、個室、ガラス窓、赤い屋根といった洋風の「文化住宅」が特に注目 され、大都市郊外の「文化村」に次々と建てられるようになった。翌年には関東大震災が起こり、それをきっかけに庶民の生活が郊外に移ることがこれに拍車を かける。また、大正末から昭和初めにかけては「文化生活」「文化アパートメント」「文化鍋」など、「文化○○」という造語が大流行した。」(現代用語の基 礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.116)

1923年
    関東大震災、デマで朝鮮人を虐殺

    丸ビル竣工
    「ビジネスセンターの象徴としての丸の内ビルディングが完成した大正末期、事務職女性に対する社会的な注目はひとつのピークに達していた。メディ アは、アメリカ的建築様式を取り入れた近代的なオフィスビルで働く女性オフィスワーカーたちを大きくとりあげた。(…)そして「一度……這入つた人なら、 誰でも見逃す事の出来ないのは、各階の廊下を右往左往してゐる若き女の群れである」。「立派な化粧室を備えた」女性用トイレから、「白粉頬紅」「口紅」 「襟足の化粧」「胸の化粧」など「何処を見ても大理石の如く艶やかに輝い」た女性たちが日々生み出されていく。各種の「職業婦人」調査にも、服装や化粧品 への支出をたずねる項目が設けられた。メディアのなかのこのようなイメージには、戦間期の女性事務職という存在がもっていた意味の、もうひとつの側面が表 れている。  それは、職場の秩序とは異質なもの、それを乱し、それに対立するものの象徴としての女性事務職という見方である。(…)」(金野美奈子『OLの創造』 p.86-87)

    住友銀行の新入社員教育が系統化される
    「新入社員教育が系統的かつ制度的におこなわれるようになったのは、ほぼ大正十年代に入ってからで、それ以前には、ほんの一、二ヵ月、勤務時間の 前後に、いわば業務の補助程度におこなわれただけのようだ。記録によれば、住友銀行は、大正十一年までは、入社後約五十日間、営業時間の前後に一般実務の 練習をさせていたのを、大正十二年から改めて、約五ヵ月間、新入社員を集めて就業時間内に系統的な教育をほどこすことになったとある。他社も、おおむねこ のころから制度化したと思われる。」(尾崎盛光『日本就職史』p.112)

    「大学卒の無差別待遇とならんで、震災前後を特徴づけるものは、人物試験、人格主義というようなことばである。「箱根八里は馬でも越すが」をも じった「大井川なら俺でも越すが、越すに越されぬ人物試験」という文句が、大学生のあいだに流布された。
 山名氏の指摘のとおり、試験、試験でためされた頭にたいする評価が下がってきたような時代だから、各社とも「社員採用の基準は?」と聞かれた場合、「人 格第一」という判でおしたような答がでてくるのであった。そして、社長・重役などが列席して口頭試問によって品定めをする「人物試験」が、もっとも重視さ れた。」(p.135)
    スポーツ選手に対する企業の評価が上がり始める(p.140)

「住友系各企業の場合は、関西地方の大学の卒業生については住友合資大阪本社、また関東地方の卒業生については東京本社でそれぞれ別々に採用試験が行われ ていた。いずれの場合も指定した各学校に人材の推薦を依頼し、そこで選抜された学生についてのみ選考試験を行った。試験は人物を重視した面接で行われ、採 用人数はその時の成績により多少の変動はあるものの、あらかじめ各学校別に決められた予定数が採られていたようである。」(川口浩『大学の社会経済史』 p.199-200)

    早稲田大学、1921年に設置した臨時人事係を常設にして人事係と改称(25年に人事課に昇格)
    「早稲田で就職指導を担当していた坪谷の著書から、就職活動の制度化の具体的内容を見ることにしよう。
 それによると、各学校は、企業から採用の申し込みがなされる一二月頃の前に、活発な就職活動を開始する。すなわち各校の人事課(係)は、まず各企業に対 して、「明年卒業すべき各学科の卒業人員や、其の氏名、出生地などを詳記したる宣伝書を配つて、採用の申込を求め」る。その後、「更に人を派遣し、直接に 面談して採用を請」うが、「人物採用の依頼には、先方の重役級の人に面会の必要がある為めに、何れの学校でも相当の位置の人が出張」していた。また、こう した「採用依頼の運動は年々猛烈」になっていった。
 さて、各企業からの採用申込書は、「大抵各会社銀行の人事係の名で到来する」。(…)申し込みには、各企業からいろいろな条件が付けられたが、その中で ほぼ一致している条件は、「(一)健康なること(二)学績優秀なること(三)人物の堅実なること」だった。
 企業から申し込みを受けると、大学は「申込条件に適当する様な学生の意見を聞」いて、推薦を決定し、「学校当局者」から企業に対して、推薦状、自筆の履 歴書、成績証、健康証明書、本人の写真、そして戸籍謄本が送られる。(…)」(川口浩『大学の社会経済史』p.202-203)

1924年
    京城帝国大学設置

    大阪市社会部調査課『朝鮮人労働者問題』
    「朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』の稿で説明しているように、1924年は朝鮮総督府、中央職業紹介所、内務省社会局などが大阪や東京をはじ め全国の在留朝鮮人の動向や在り方をほとんど同時に調査し始めた年であった。それだけ在日朝鮮人が日本社会とその労働市場に大きな位置を占め無視し得ない 状況になってきたということであろう。(…)
 なぜ日本にやって来ざるを得なかったのか、「来往の原因」「来往の結果」に一番多くのページを費やしているなど当時の問題意識をまざまざと映し出してい る。にもかかわらず、雇用関係や生活状況・収入の項目で、「組頭」とか「部室頭」という名で、土方や人夫が主であった在日朝鮮人労働者の20年代における 在り方を如実に示している点、がいかにもナイーブでじつに光っている。在日朝鮮人を下宿させ、仕事を請け、労働者を自己の指揮の下に働かせ監督し、きか労 働者に代わって労賃を受け取り多額の口銭をピンハネする、典型的な親方制度がそこに明記されている。ようやく日本の底辺下層に定着しようとしていた在日朝 鮮人労働者の労働実態、雇用関係、生活・教育を直視した調査として、きわめて価値が高い。20年代在日朝鮮人についての基本的データ、と言っても良いだろ う。
 もちろん、こういった広く内務省管轄化において調査を担当をした人たちは、在日朝鮮人労働者が、勃興せんとする水平運動や、あるいは朝鮮独立運動と結ぶ ことの無いように、彼らの悲惨な実情をキチンと踏まえ対策を講ずるべきだという考えもとに、こういった調査を実施している(5ページなど)。当時ようやく 燃え上がらんとしていた朝鮮人による共産主義的な、あるいはアナキズム的な運動・思想の種を予め封じこめてしまいたい、というのも、狙いの一環であったこ とは否定できないであろう。」(日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』『朝鮮人労働問題』p.35-36)

    明治大学、人事課を設置し、理事と教授で構成する就職委員会を組織
    日本優生学会『優生学』創刊

    財団法人同潤会設立
    「この財団は「関東大震災の善後措置として、住宅の建設経営」にあたるために設立されたのであった。同潤会は木造の貸家、鉄筋コンクリート造のア パート、共同宿舎、仮設バラック、分譲住宅など総計一万二〇〇〇戸の住宅を建設し、それらの住宅経営にともなう厚生施設なども建設・運営した。同潤会の活 動は、当時の全国の公営住宅の半数を占める建設を行った実績をもったが、一九四一年(昭和十六)年五月、戦時体制への変換のなかで、住宅営団に事業を引き 継いで解散する。存在期間こそ短かったが、その影響力は後の公営住宅をはじめ、住宅全体に広く長く及んだ。」(鈴木博之『都市へ』p.333)

    スローン、「通称ポンテアック車の現状」を提出する
    「というのはポンテアックは、GMの歴史上、生産面における製品の同一規格化という面で、最初の前進を示していたからである。もちろん同一規格化 ということは、形式の違いこそあれ、大量生産の第一原則とされている。しかし当時にあっては、T型車の先例もあって単一製品ということが、大規模な大量生 産の前提条件だという考え方がひろまっていた。別の価格グループに属する車と、部分的に同一規格化されたポンテアックは、自動車の大量生産と製品の多様性 というものを、両立させられることを立証するものであった。」(A.P.スローン『GMとともに』p.204)

    ヘミングウェイ、パリに戻る
    「ミス・スタインが失われた世代についての例の言葉を口から出したのは、私と妻がカナダからもどり、ノートルダム・デ・シャン街に住んでいて、ミ ス・スタインと私がまだ良い友だちであったころのことである。彼女がそのころ乗りまわしていた古いT型フォードの点火装置に何か故障があり、ガレージに働 いていた青年――彼は大戦の最後の年に軍隊勤務した男だった――が不手ぎわだったのか、それとも、たぶん、先着の他の車からなおすという順序を狂わせてミ ス・スタインのフォードを先に修繕してくれなかったためかもしれない。とにかく、彼はまじめでないということになり、ミス・スタインが抗議を申し込んだあ とで、ガレージの主人にこっぴどく叱られた。主人は彼に向かって言った。
 「お前たちはみんな失われた世代(ジェネラシオン・ペルデュ)だね」
 「あなた方はまさにその通りよ。まさにそうよ」とミス・スタインは言った。「戦争に出たあなた方若い人たちはみんな。あなた方は失われた世代です」
 「そうですか?」と私は言った。
 「そうよ」と彼女は言い張った。「あなた方は何に対しても尊敬心をもたない。飲んでばかりいて、しまいに酒が命取りになるでしょう……」
 「あの若い修理工は酔っぱらっていましたか?」と私は聞いた。
 「もちろん、そんなことはなかったわ」
 (…)
 「あの青年の主人は、たぶん、午前十一時には、もう酔っぱらっていたんでしょう」と私は言った。「だから、あんな気の利いた文句を考え出したのですよ」
 「私と議論なんかしない方がいいわ、ヘミングウェイ」とミス・スタインは言った。「そんなことしても、まるっきり役に立たないわ。あなた方は失われた世 代よ。あのガレージの持ち主が言った通りだわ」(福田陸太郎訳「回想のパリ――移動祝祭日」『ヘミングウェイ全集』第7巻p.302)

    アメリカ、連邦移民法改正。日系移民が完全にシャットアウト

1925年
    普通選挙法、治安維持法成立
    ムッソリーニが独裁宣言
    第14回共産党大会でスターリンの一国社会主義理論を採択。党名を全ソビエト連邦共産党と改称
    松下幸之助が初めて「ナショナル」の商号を使用

    「少年職業紹介ニ関スル件」、小学校卒業後ただちに求職するものに対して小学校と職業紹介所とが提携協力して指導にあたることが指示された。労働 行政と文部行政の連携の始まり
    「少年職業紹介ニ関スル件依命通牒」
    「その具体的内容は,職業紹介所が特定の小学校と提携・協力して,まず在学中の児童の「適職」を「科学的」な観点に立って判定し,それをもとに卒 業後の就職の斡旋を行う,というものであった.大まかにいえば,適職の判定までは生徒や父兄に理解をもつ小学校が中心となり,その後の具体的な求人との マッチングは原則として労働市場の状況に通じた職業紹介所が担当する.1925年の通牒が内務省と文部省の連名で出されたのは,そのためである.職業紹介 所と提携関係を結んで,こうした新規学卒者の職業紹介事業に携わる学校は連絡小学校と呼ばれた.26年には全国で1925校だった連絡小学校の数は,34 年には5685校にまで拡大した.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.68)

    「ところで,少年職業紹介の実績をみると,1926年の就職数は6300人だったのが,30年にはその10倍近い6万400人(うち新規学卒者1 万6700人)に増え、不況が深刻化するなかにあっても取り扱い数がきわめて順調に拡大したことがうかがわれる.」(p.69-70)

    「このような議論の大枠を規定していた問題意識,それは,年少者が学校を出たあとに生じうる,〈すきま〉をできるだけ排除することにあったと考え られる.戦前の青少年問題を扱った文献からは,すでに,こうした間隙に若者が吹きだまり,失業と転職をくりかえしていることこそが「少年不良化」の温床に なっているとする指摘を,しばしば見いだすことができる.少年不良化は,ひいては思想の悪化をもたらし,日本の「国体」を危うくする一因ともなりかねな い.こうした危険な空白を生ぜしめない方法,それが1つは若者を学校に囲い込むことであり,いま1つは,彼らを職業に定着させることであった.要するに, 日本の少年職業紹介は,単なる労働市場政策ではなく,青少年問題・都市問題に対する対策としての性格を濃厚にもっていたのである.」(p.216- 217)

    「内務省社会局は,少年職業紹介事業の開始にあたって,関係者を集めて5日間にもおよぶ講習会を開催した.その際,中央職業紹介事務局の技官であ る三沢房太郎が行った講演は,この事業のそうした性格をよくあらわしている.

 「只今の少年はその職業に関しては彼等は全く無智であります.又自己の有する才能は何に適するかも知って居りません,或るものは就職するも青年に達す頃 には解雇されて転職を余儀なくされています.加之彼等は何等の保護監督も受けて居らぬ為め道徳的標準は低下し為めに不良少年激増の因となって居ります.彼 等は全く不熟練労働者であり,常に失業の運命に彷徨して居るのであります」.

 三沢によれば,少年職業紹介の意義は,まさしくこうした現状にかえて,少年を「心身共健全なる人格者」に育成するために,彼らに「永続的職業」を用意す ることにある.ところが,少年は職業について無知であり,自分の適性についても心得ていないから,「之を個人に任せると種々な弊害を生じる恐があ」る.そ こで,「国家が彼等に適当な職業を準備してやったり,就業を制限し,監督を為したり或いは直接職業に指導してやる必要があ」るのである.」(p.217- 218)

    「軍事教練」が中学校以上の学校に課せられる

    「卓袱台」が普及する
    「俸給生活者が増えてくるにつれ、都市部では家庭生活にも変化が現れ、和洋折衷のコロッケ、オムレツ、カレーライスを食べ、箱膳に代わって一家が 卓袱台を囲んで食事をし、団欒もするという新様式が出てきた。卓袱台はラジオとともに団欒には欠かせないものとなっていく。「ちゃぶ」は中国語の食事を意 味する言葉。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.134)

    細井和喜蔵『女工哀史』
    「細井は、十三歳で尋常五年で小学校を中退し、機屋の小僧となって自活生活に入ったのを振り出しに、一九二三年(大正12)まで約十五年間、鐘紡 紡績、東京モスリン亀戸工場などで職工をした。そしてその時の経験と観察に基づいてこの本を書いた。対象は紡績と織布の女工であるが(製糸女工は含まれて いない)、一九二〇年代の女子労働者の生活記録の書として古典的な地位を占めている。
 『女工哀史』では、日清戦争後の女工の募集難、女工の争奪と強制送金制度の開始など、女工募集の「自由競争時代」を経て、大紡績工場における福利施設の 充実などをめぐる競争へと至る過程も描かれている。」(猪木武徳『学校と工場』p.61)

    「モダンガール殺人未遂事件」高級売春婦の少女(16)がイタリア人(44)の家に行き相手をしたのに代金を払わなかったため、持っていたピスト ルで股間をねらって撃ったが少しそれて太股に傷を負わせた

1926年
    大正天皇死去
    労働争議調停法・治安警察法改正公布。軍需・公共事業の労働争議に強制調停を認め、争議の扇動を処罰するためのもの
    京都学連事件で初の治安維持法適用。河上肇京大教授が、軍事教練反対のビラが撒かれた事件の疑いで家宅捜索される
    在郷軍人会の赤尾敏らが第1回建国祭を行う。紀元節が国粋化される

1927年
    昭和恐慌

    文部省訓令第二〇号「児童生徒ノ個性尊重及職業指導二関スル件」
    「これら二つの流れの合流した地点に、一九二七年一一月の文部省訓令第二〇号「児童生徒ノ個性尊重及職業指導二関スル件」が位置している。同訓令 では、「学校ニ於テ児童生徒ノ心身ノ傾向等ニ稽ヘテ適切ナル教育ヲ行ヒ更ニ学校卒業後ノ進路ニ関シ青少年ヲシテ其ノ性能ノ適スル所ニ向ハシムル」ことを求 めており、具体的には、「児童生徒ノ性行、知能、趣味、特長、学習情況、身体ノ情況、家庭其ノ他ノ環境等ヲ精密ニ調査シ教養指導上ノ重要ナル資料トナスコ ト」「個性ニ基キテ其長所ヲ進メ卒業後ニ於ケル職業ノ選択又ハ上級学校ノ選択等ニ関シテハ適当ナル指導ヲナスコト」などが指示されていた。つまり、教育シ ステムの選抜・配分に関する言説中の「個性」概念の意味づけの原型は、昭和初年に「個性」と「職業指導」が出会う中で形作られていったのである。」(広田 照幸『教育言説の歴史社会学』p.98)

    不良住宅地区改良法
    「大正中期から始まる都市での住宅難に対して、モデル事業的に小規模な市営住宅が供給されはじめるが、内務省が住宅供給に本格的に取り組みはじめ たのは、1924年設立の、国営住宅供給公社ともいえる同潤会であった。これは、俸給生活者から工場労働者、そしてスラム・クリアランスを経た住宅改良事 業をその対象とし、27年の不良住宅地区改良法の施行につながった。この法律の対象地区は、六大都市を中心に十数地区ある細民街、貧民窟、スラムであっ た。これらは、都市内被差別部落、日雇労働者地区、都市雑業層集住地区として、それぞれの都市のインナーシティに存在した。この法律により、老朽化した狭 い家屋は取り払われ、大部分は鉄筋のアパートに建て替えられた。だが、下層性という、その地区がもつ都市空間の社会編成の特徴それ自体が払拭されたとは言 い難かった。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.344)

    芥川龍之介が服毒自殺
    「我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食 色にも倦いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と 一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れ ば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美 しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美 しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は 僕の死後にも何年かは公表せずに措いてくれ給へ。僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。」(『日本現代文学全集56 芥川龍之介集』 p.455)

    リンドバーグ、初の単独大西洋無着陸横断飛行

1928年
    最初の就職協定
    「以上のような就職活動の制度化の内容を見ると、新卒者が企業と学校の実績関係に基づき、学校を通じて、卒業期以前に、一人一社の原則によって就 職活動を行う日本特有の制度・慣行が第三期に形成されていった様子が窺われる。一九二八年には三菱、三井、安田等が主導して、採用試験の時期を繰り下げる 最初の就職協定が結ばれた。それには、早期の就職活動がもたらす教育上の弊害を避けるという理由の他に、卒業試験の結果をみてから採用を決めたいとする企 業側の意向が反映されていた。こうした協定がどの程度遵守されたかは不明であるが、実業界が高等教育機関の協力を得て、採用決定時期の取り決めを行うこと 自体、労働市場の組織化が進展した証左と言えよう。」(川口浩『大学の教育社会史』p.203-204)

    「こうした職員層への入職資格として決定的に重要だったのは学歴である。通常、大学または高等専門学校の卒業者が職員に、実業学校の卒業者が見習 生または雇員に採用された。毎年の新卒採用者の大半は、過去につながりのある学校の推薦を受けた、新規学卒者からまかなわれた。応募者は出身校の学校長や 人事課、あるいはゼミの教授の推薦状をたずさえて入社試験を受け、これに合格すれば三月ないし四月付で正式採用となった。(…)当時の調査資料によれば、 有力な会社・銀行の多くは新規学卒者の定期採用を行っており、また新卒者の就職には学校による紹介が高い比重を占めていた。要するに、大企業職員の就職= 採用は、企業と中等以上の学校との継続的な関係として制度化されていたのである。
 社員はすべて定額級で支払われ、おおむね課長以上の管理職が年給、一般職員が月給であった。雇員は月給の者と日給の者に分かれ、見習生はすべて日給で支 払われた。他に年に二回のボーナスが支給され、その合計はほぼ一年分の給料に相当した。ボーナスは職工にも支給されたが、その額はせいぜい二週間分の賃金 にしかならなかった。(…)二〇年代後半に入職した社員の追跡調査からは、解雇と病気退職と除く自発的退職は入職後八年目以降は影をひそめ、実業学校新卒 者で七割、大学・高専新卒者では実に九割が会社に定着したことが知られる。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.196-197)

    GM、ラサールを発表しフルラインを完成させる
    フォード、A型車を開発
    「たしかにGMは、一九二〇年代にモデル・チェンジを行ない、一九二三年以降、今日にいたるまで毎年新型を売り出している。しかし以上の議事録が 示すように、一九二五年には、われわれはモデル・チェンジに関する考え方を今日のような方法で、はっきりと規定していなかった。いつそれを規定したかはわ からない。それは一つの進化であって、毎年新型を売り出し、そうする必要が認められてから、徐々に定まった方針が打ち出されたのである。一九三〇年代のあ る時期に、モデル・チェンジが定期的に行なわれるようになると、年式が話題にのぼるようになった。先代のフォード氏が年式に関心を持っていたとは考えられ ない。氏が一九二八年にその当時としてはりっぱな小型車モデルAを売り出したとき、私の目にはその車は「流行に左右されない実用的な車」というフォード氏 の考え方を再び具体化したものとみえた。」(A.P.スローン『GMとともに』p.217)

    「加えてGMは、買い替えを促進するため、二〇年代後半からモデル・チェンジを始めた。フォードが消費者を欺くものとして拒否した「計画的陳腐 化」政策で ある。同社は自動車のスタイル改善に大きな関心を注ぎ、二六年にはハリウッドの自動車デザイナー、ハーリー・アールを招聘し、ラサールの設計にあたらせ た。これを機会に業者の他社に先駆け、スタイル、カラー部門を設けた。自動車は次第に外観で買われるものとなり、流行に左右される商品となる。」(鈴木直 次『アメリカ産業社会の盛衰』p.52-53)

    ソ連、第1次5カ年計画を開始
    「一九三〇年から三五年にかけて、社会‐経済学者が細いながらも有力な流れのようになってモスクワを訪れ、ソ連経済の表面的な原始性と非能率、あ るいはスターリンの集団化と大衆抑圧の過酷さ、野蛮さにもまして、ソ連の経済的成果に感銘を受けていた。彼らの理解しようとしていたのは、ソ連の現実の現 象ではなくて、むしろ自国の経済体制の崩壊、西欧資本主義の失敗の深さだったからである。ソヴィエト体制の秘密は何か。そこから何を学ぶことができるの か。ロシアの五か年計画を真似て、「計画」と「計画化」が政界に通用する言葉になった。ベルギーとノルウェーでは、それぞれの社会民主党が「計画」を採択 した。イギリスの公務員サー・アーサー・ソルター――きわめて著名で尊敬されており、いわば体制を支える柱と目される人物であった――が、『景気回復』と いう本を書き、イギリスと世界が大恐慌の悪循環から脱出するには計画化された社会を作ることが本質的に重要であることを証明してみせた。(…)ヒットラー が一九三三年に「四か年計画」を導入したように、ナチでさえもが計画という考えを盗用した(…)。」(E・ホブズボーム『20世紀の歴史(上巻)』 p.144)

1929年
    世界大恐慌
    工場法改正。婦人・少年の深夜業禁止
    大蔵省、金輸出解禁

    小津安二郎監督作品『大学は出たけれど』、1929年度には帝国大学の新卒者でさえ3割しか職がない状態に陥る
    「こうした大学卒の就職難は、一九三〇年(昭和5)に入ると不況による影響が大であったと言えるものの、大卒の就職難は実は一九二七、八年ごろか らすでに顕在化していることに注意したい。つまり、求人側の原因だけではなく、求職者(大卒)の急激な増加という供給側の事情も、こうした就職難の大きな 原因であったということである。この当時の大卒の就職難を示すエピソードとして、よく小津安二郎の『大学は出たけれど』という映画が引き合いに出される。 この映画は、一九二九年(昭和4)四月に公開されている。したがって一九三〇年からの昭和恐慌の少し前ということになる。
 『大学は出たけれど』は、大学を卒業して職もなくブラブラしている青年が、妻の献身的努力に発奮してついに就職するという喜劇である。そこでは失業がい かに人間を無気力にするかという問題だけではなく、タイトルからもうかがい知れるように、大学の卒業証書の価値の低さへの皮肉が描き出されている。しかし これは単に笑って済まされるような状況ではなく、インテリ層の不安や社会的不満を高めることにもなった。
 またこの時期、中学校入学志望者数が減少したことも注目される。当時の中学校は高等学校・専門学校へ入学するためのワンステップという性格が強く、中学 を卒業すること自体にはそれほど経済的な価値はなかった。したがって同じ中等教育を受けるのなら、卒業してすぐ役に立つ実業教育を受けさせる方が経済的に は有利だという親の判断もあり、師範学校等を含めた実業学校への入学志望者数が大きく伸びた。」(猪木武徳『学校と工場』p.76-77)

    梅田に阪急百貨店開店
    「沿線に住宅地が開発されて新しい住民が住みはじめている。彼らは大阪を脱出したひとびとであるかもしれないし、新たに大阪圏に仕事を求めてやっ てきて、沿線に住むことになった人たちかもしれない。彼らの住む郊外住宅地に対応する都市施設として、ターミナルデパートは発想された。そこには都市の各 要素を連繋させて、事業者にも消費者にもメリットのある有機的な関係を生み出そうとする意欲があった。都市はようやくこの段階になって、個々の施設がばら ばらに存在する場所から、一種の構造を備えたものになったのである。都市が構造を備えはじめた証として、ターミナルデパートの出現は特筆される出来事で あった。」(鈴木博之『都市へ』p.255)

    デンマークで断種法制定(スイスのヴォー州に続きヨーロッパで2番目)

1930年
    金本位制復帰
    郷土教育連盟結成
    第二次・第三次産業人口の合計が第一次産業人口を上回る
    「ルンペン」流行語

    第1回サッカー・ワールドカップ、開催も優勝もウルグアイ

    オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』
    「あらゆる義務から逃避するという事実は、現代の世界でいわゆる《青春》謳歌の基礎となっている、なかば滑稽で、なかば破廉恥な現象を、いくぶん か解明してくれる。われらの時代といえども、おそらくこれより異様な特徴はもちあわせてはいまい。人々は、喜劇的に、自分が《青年》であると宣言する。な ぜかというと、かれらは、青年は、熟年に達するまで無期限に義務の履行を遅らせることができるのだから、義務よりも権利をよけいにもつことになる、という ことを聞いたからである。
 つねに、青年は、青年である以上、現在偉業をなしとげるとか、過去において偉業をなしとげたことを要求されないのだと考えられている。かれらは、つねに 信 用貸しで生きてきた。信用貸しで生きるという特徴は、人間性の本質のなかに見いだされるものだ。これは、もはや青年でない人が若者に与えた、なかば皮肉 な、なかば愛情のこもったにせの権利のようなものであった。しかるに、若者たちが、これをじっさいの権利と思いこんで、すでになにごとかをなしとげた人に のみ属しているすべての権利を自分のものとするのにそれを利用するにいたっては、あいた口がふさがらない。
 まるで嘘のように見えるかもしれないが、青春はゆすりになってしまった。じっさい、われわれは普遍的なゆすりの時代に生きているのである。これは二つの 補 足的な面をもっている。暴力のゆすりと、冗談半分のゆすりである。そのどちらも同じことを望んでいるのだ。つまり、劣等な者、凡庸な人間が、いっさいの服 従からの解放感を味わおうというのだ。」(「世界の名著」第56巻p.544)

   エルンスト・ユンガー「総動員」
   「(…)ロシアの「五ヶ年計画」によって世界は初めて、一大国の全勢力を一つの河床に統一する試みの前に立った。ここで経済的思考がどのように逆転 するかを見るのは有益である。民主主義の窮極的結果のひとつである「計画経済」はおのれを追い越して権力の解放そのものへと成長する。こうした急転は我々 の時代の多くの現実に観察される。大衆の大きな圧力が結晶形成に転化するのである。
 ところで攻撃だけでなく、防衛もまた並々ならぬ努力を要求する。いやここでは世界の強制はもっと明らさまになる。どんな生命も死の萌芽を誕生と同時に産 み 落とすように、大いなる大衆の登場は死の民主制をおのが内部に宿している。我々は個人狙撃の時代をすでにまた後にしてしまっているのだ。夜の空からの空襲 命令を下す飛行大隊長は戦闘員と非戦闘員の区別はもはや知らない。致死性ガスの煙はひとつの自然の元素のようにあらゆる生あるものの上をたなびくのであ る。このような脅迫を可能とする前提条件はしかし部分動員でも、一般動員でもない。それは揺籠のなかの幼児にまで手を伸ばす総動員である。幼児は他のすべ ての存在同様に、いやそれ以上に強く脅かされているのである。
 このようにしてまだ多くのことがあげられるだろう――けれども、快感と戦慄の入り混じった感情を懐きながら、この世界には労働していないいかなる原素も 存 在せず、我々自身も狂走するこの過程の最深部に登録されてしまっているのだと予感するためには、十分に解放されながら同時に仮借ない規律の下にある我々の 生、煙を吐き赤熱する区域を持ち、交通の物理学と形而上学を持ち、発動機、飛行機、百万都市を持ったこの我々の生を直視すれば足りる。総動員は遂行される というより、はるかに多く自分自身を遂行するのである。それは戦争と平和の両者においてあの神秘で強制的な要求の表現となる。この要求に大衆と機会の時代 のなかにあるこの生が我々を服従せしめるのである。したがってどの個人の生もいよいよ一箇の労働者の生となり、騎士の、王の、市民の戦争の後に労働者の戦 争が――その合理的な構造と非常について既に二〇世紀の最初の大きな争いが我々にひとつの予感を与えてくれた戦争が、続くことになる。」(田尻三千夫訳、 『現代思想』一九八一年一月号、p.166)

    ジークフリート・クラカウアー『サラリーマン』
    「企業がいっそう合理的に組織しようとする経済理性から、それまで荒けずりだった人間集団に、徹底的にかんなをかけ合理化しようとする努力が生ま れるのは確かである。社会政策にあまり通じてはいないが、この経済理性の擁護者として、ウィリアム・スターン教授〔心理学者。ドイツ生まれのアメリカ人。 一八七一―一九三八〕は、先ごろ自由サラリーマン総同盟拡大会議で、サラリーマンの適性検査についてのべた。同教授はO合資会社における調査にたずさわっ た、ハンブルクの「応用心理学促進協会」を主催している。その説明から推測すると、サラリーマンは労働者にくらべてとてつもなく扱いづらいものである。労 働者のばあいは、ふつう単純な職能試験でことたりるが、事務系サラリーマンはその職業が要求するより高度の必要条件のせいで、たとえばしごとにとって重要 なその特性だけを、分析報告するようにもとめられたときでも「全体的観察」でしか検査できない。記帳試験、電話応対試験等々の実地検査がおこなわれる。整 理すべき会計書類をどれくらい手早くかたづけるかが観察される。顔付き、筆蹟がしらべられる。要するに平凡なサラリーマンでも、専門心理学者からみれば小 宇宙である。(…)そしてこれまた当然のことだが、この性格分析から、私的領分侵害の危険が生ずるのではないかと主張し、最後に企業内で活動する検査員と 経営者との癒着が、無意識的にであるにせよ存在することを指摘する。サラリーマンの才能を必要ならせいぜい就職時に体系的に調査するならしてもかまわない が、そのばあいでも中立的な立場でおこなわれなくてはならない、と役員たちはのべる。」(p.33-34)

    「(…)資格を必要とするポストへの応募者には、筆蹟学の面から鑑定がおこなわれる。そのような鑑定を依頼された筆蹟学者は、政府のスパイが敵側 諸国にもぐりこむように、サラリーマンの心のなかに侵入する。(…)」(p.36)

    「(…)企業の門をあけるには、そもそもどんな魅力が、みかけに宿っていなければならないのか、とこの男にたずねてみた。感じがいい、愛想がい い、という表現が十八番のように答のなかでくりかえされた。雇用者は感じのいい外見をなによりももとめようとする。感じのいい外見――これにはもちろん感 じのいい物腰もはいる――をあたえる者たちは、成績がわるくても受けいれられる。「ドイツ人もアメリカ人のようになるべきだろう。人間は愛想のいい顔をし ていなくてならない」とこの係官はいう。(…)外見がこのましいとはどういうことか、セックスアッピールがあるというのか、それともきれいなのか、ときい てみた。「かならずしもきれいでなくとも。決め手はむしろ道徳的なピンクの肌の色ですねえ。おわかりでしょう……」」(p.37-38)

    「サラリーマンは、のぞもうとのぞむまいとついてゆかなければならない。美容院へ殺到するのも生活の心配からだ。化粧品を使うのはかならずしもぜ いたくではない。古物として引退させられる不安から女も男も髪をそめる。四十代になってスポーツに身をやつすのも、スマートさを保つためである。(…)こ の人びとの立場にたって前述の国会議員のモーゼス博士が、美容整形扶助を社会保険にくみいれるようにと議会で主張している。最近設立された「ドイツ美容整 形医連合」はこの当然の要求に賛意を示している。」(p.39-40)

    「(…)わかい人びとには教育をうけつづける熱がなく、責任をもちたがらない、というのである。戦後世代のサラリーマンの多数が、いわれるように 実際ぱっとしないとしても、それはとくに、かれらが大部分希望のもてない条件ではたらかされている、という理由からだ。麻痺させたり横道にそらしたりする あらゆる種類の手段――これはのちに問題にする――がサラリーマンを子守唄で寝かせつづけているのだ。それにチャンスなどほとんどないという意識が、これ はかれらのいわゆる怠惰の結果だ、とあしざまにいわれているが、この意識がサラリーマンのおおくの心から、そしてきわめて価値のある者からも、努力する気 持を事前に奪ってしまっているのだ。」(p.63-64)



UP:20040907 REV:20050523 20090214
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