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事件と言説:若者・教育・労働… 19世紀

18世紀 19世紀 1901-1930 1931-1950 1951-1970 1971-1990 1991-

製作:橋口昌治* 2004.09-


 *橋口昌治(はしぐち・しょうじ) 立命館大学大学院先端総合学術研究科(2003.4入学)
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm

 ※大学院のHPに移す予定ですが、とりあえずここに置きます。
  これから編集などして見やすくします。(立岩)


1801年
    グレートブリテン王国とアイルランド王国が合同し、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国成立

    イギリス、第一回国勢調査
    「イギリスにおいて非常時の軍隊規模の把握、移民政策の策定などを目的として国勢調査実施案が初めて下院を通過したのは、実はこれより半世紀も早 い1753年であった。しかしこの時は上院での審議前に議会が終了し、法案は失効してしまった。国勢調査施行に対する反対者も多く、彼らは、人口統計はイ ギリス国民の自由制限に直結するものであり、新たな課税や徴兵に道を開くことになる、さらに貴重な情報を公表することは、イギリスの敵を利するものである と論じた。
 しかしその後、食料は算術的級数で増加するのに対して、人口は幾何学的級数で増加することを唱えたマルサスの『人口論』が1798年に出版された。この 時期イギリスは1795年以来の凶作で、マルサスの人口論は現実味を帯びていた。こうした状況のもとで人口統計の必要性が再認識されるようになり、法案 「グレートブリテン人口統計とその増加ないしは減少に関する法案(for taking an Account of the Population of Great Britain, and of the Increase or Diminution thereof)」が議会に上程され可決されたのは、1800年のことであった(…)。
 第1回の国勢調査は、1801年3月10日にイングランドとウエールズにおいて実施され、これ以後10年目ごとに調査を行うことが決定された。1831 年までの4回の国勢調査は、教区民生委員(overseers of the poor)や教区(parish)の有力者などの手によって行われている。」(青柳真智子編『国勢調査の文化人類学』p.15)

1802年
    イギリス、最初の工場法制定
    「被救済窮民に関連する「社会問題」が初めて顕在化したのは、19世紀の初めである。当時、近代化や工業化から生じる新しい種類の貧困が労働者階 級に影響をあたえていた。工業化や自由主義によって生み出された社会的緊張は、既存の社会的秩序を脅かしていた。恵まれない階級と有産階級のあいだの権力 闘争のダイナミクスやそれに関連する社会崩壊の危険が、議論の中心を占めていた。排除はたいてい、政治制度において労働者階級が代表されていないことや、 完全なシティズンシップへのアクセスを彼らが欠いていたことから生じる、政治的な現象とみなされていた。したがって、社会問題は政治過程への労働者階級の 統合と関連していた。19世紀における資本主義の分析を基礎にして、ポランニーは、社会的諸勢力がどのようにして自己調整的市場(そこでは、経済を社会か ら剥離することで、市場が社会的・政治的制約を受けずに機能しうるようになる)がもたらす負の社会的影響に対応してきたかを明らかにした [Polanyi, 1957]。社会的行為主体は自己防衛の反応をとおして、工場法、社会保険、労使関係の制度化を押しつけることができた。これが、現代の福祉国家の起源を なしていた。」(アジット・S・バラ、フレデリック・ラペール『グローバル化と社会的排除』p.2-3)

    徳川幕府、蝦夷奉行を置く(後に箱館奉行となる)
    十返舎一九『東海道中膝栗毛』(〜1822年)
    
1804年
    ナポレオン、フランス皇帝となる

    太田蜀山人、日本人として初めてコーヒーを飲んだ記録を残す
    「焦げ臭く、味わふに堪えず」

1805年
    トラファルガーの海戦

1806年
    神聖ローマ帝国終焉

1807年
    西蝦夷地を幕府直轄化、全蝦夷地が直轄化される。箱館奉行を廃止し松前奉行を置く

    イギリス、奴隷貿易廃止法成立
    ヘーゲル『精神現象学』

1808年
    間宮林蔵、樺太を探検

    フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』
    ゲーテ『ファウスト』第1部出版(〜1832年)
    アメリカ、奴隷貿易を禁止

1809年
    式亭三馬『浮世風呂』
    「三馬が三笑亭可楽の落語に取材して『浮世風呂』を書いて刊行したのは一八〇九年。四迷が三遊亭円朝の『怪談牡丹灯篭』の文体に着目して『浮雲』 を書いて刊行したのは一八八七年。この八十年の差には決定的な違いがあると、当時は誰もが信じていた。戯作と文学の違い、芸人と芸術家の違いである。中村 光夫たちは、彼らが信じていたそのことを額面通りに受け取って、その理想主義をさらに拡大させた。それだけのことにすぎない。
 だが、三馬も四迷も、落語家の話芸に着想をえたことに変わりはないのである。文語が口語への関心を捨てることもなければ、その逆もない。太宰治が自身を ほとんど落語家と見なしたのは、文学者の本能というべきだろう。」(三浦雅士『青春の終焉』p.209)

1810年
    ドイツ、ベルリン大学発足
    「ベルリン大学は宗教公教育庁長官W・v・フンボルトの献身的努力によって、しかし彼がその職をすでに去ったあと、一八一〇年十月、教授陣総数五 八名、学生数二五六名(内自邦出身者一五二名)をもって開講された。この大学は、伝統的なウニヴェルジテートの名称とその団体原理および四学部制を保持 し、諸学問を有機的に統一する総合大学として成立した。そこではまた、それまで下級学部としての性格を払拭しえなかった哲学部がほかの三学部と同格にな り、大学が学問の批判的研究と教授を二つの柱とする自治的共同体として組織され、同時にその研究・教授を自主・自律的に遂行するための自由(大学の自由) が、出版の自由をも含めて、原理的に確認された。しかもそこで確認された大学の自由が学生の学習の自由を再確認し、さらに遊学(転学)の自由にまで及んで いたことは、この大学がもはや領邦大学でなく、まさしく全ドイツ的・国民的大学であることを示していた。」(仲新監修『学校の歴史 第4巻 大学の歴史』 p.323-324)

    「フンボルト理念という言葉で、人々はさまざまなことを語るが、たとえば、スウェーデンの高等教育研究者ニボーンは、次の五つを挙げている。
(1)研究と教育の統一、(2)さまざまな学問の統合、(3)研究の重視、(4)高度な教育が人格の陶冶につながるという信念、(5)学術、科学、人間形 成を政府の責任事項として強調している点。
 ニボーンはこの五つを挙げているが、筆者としては、これに加えて、次の二点を追加しておきたい。(6)大学運営に要する経費を国家から直接支出する「国 営大学」方式が、ベルリン大学とともに登場したこと、(7)教授の選考を学部教授会に任せずに、国家行政機構のもとに置いたこと、この二つである。
(…)
 また現代では、大学の教師が研究をすることは、当然の職務とされているが、かつてはそうではなかった。大学教授の職務は学生を教えることで、研究するこ とは必ずしも教授の職務のなかに入っていなかった。研究をしなくとも、それで職務怠慢として非難されることはなかった。しかしベルリン大学創設の頃から、 学生を教育する仕事と並んで、研究が大学教授の職務のなかに加えられることとなった。つまり大学教授は、教師であると同時に、専門研究者であることが期待 されるようになった。大学教授の能力・資格を研究成果で判定する方式は、一九世紀初頭のドイツの大学から始まったと、筆者は見ている。」(潮木守一『世界 の大学危機』p.54-55)

1812年
    ナポレオン、モスクワ遠征
    米英戦争はじまる(〜1814年)

1813年
    オーウェン『社会に関する新見解』(〜1814年)
    「このように不幸な境遇に置かれた第一の人たちは、労働階級中の貧困で無教養なならず者たちであって、彼らは今罪を犯すよう仕込まれ、そしてその 犯罪のために、後になると罰せられる。」(「世界の名著」42巻 p.103)

    「この諸原理は、すべての国の統治者たちが、その臣民の教育と一般的な性格形成のために、合理的な計画を立てるべきことを指示する。(以下、傍点 略・引用者)これらの計画は、子どもたちを、最も幼い時期から、あらゆる種類の良い習慣〔それは、もちろん。子どもたちが嘘をついたり、人をだましたりす る習慣に染まることを防ぐだろう〕にしつけるよう、工夫されていなければならぬ。彼らはその後に、合理的に教育され、彼らの労働は人の役にたつよう導かれ ねばならぬ。かかる習慣と教育とは、あらゆる個人――宗派や党派や国や風土によって差別するようなことは毛頭なく――の幸福を増進させよう、という積極的 で熱烈な願いを、彼らに強く抱かせるであろう。かかる習慣と教育はまた、ほとんど例外なしに、身体の健康と強さと活力を保証するであろう。なぜなら、人間 の幸福は、健康な肉体と安らかな心という土台の上にのみ、築かれうるからである。」(p.109)

    「オーウェンはキリスト教を、「個人主義」という点で、すなわち、人格の責任を個人に負わせ、かくして社会の現実と人格形成に与える強い影響を否 定しているとして非難したのである。「個人主義」を攻撃する真意は、人間のもろもろの動機は社会にその起源があるのだという彼の主張のうちにあった。すな わち、「個人個人となった人間、およびキリスト教において真に価値があるとされるものはすべて、あまりにも分断されているため、およそ結合することなど未 来永劫にわたってありえないのである。」オーウェンがキリスト教を乗り越え、さらに進んだところへと到達したのは、ほかでもない社会の発見によってであっ た。社会は実在するがゆえに、人間は結局それに従わねばならぬという真理を彼は把握した。彼の社会主義は、社会の現実についての認識を通してなされるべき 人間意識の改造にもとづいていたといえよう。」(ポラニー『大転換』p.172-173)

1814年
    スティーブンソン、蒸気機関車を開発

    滝沢馬琴『南総里美八犬伝』起筆(〜1842年)
    葛飾北斎『北斎漫画』

1815年
    ワーテルローの戦い
    ウィーン条約

    杉田玄白『蘭学事始』

1816年
    ラダイト運動激化
    1ポンドの金貨鋳造をはじめる、金本位制のはじまり

    琉球にイギリス船に来航、通商を求めた

1817年
    リカード『経済学および課税の原理』

1818年
    ヘーゲル、ベルリン大学の正教授に着任
    メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』

1819年
    小林一茶「おらが春」
    「目出度さも ちう位也 おらが春」

1821年
    ヘーゲル『法の哲学』
    cf.Hegel, Friedrich:ritusmei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/hegel.htm
    「イギリス人が快適な(comfotable)と呼ぶところのものは、まったくきりのないものであって、無限に進んでゆくものである。というの は、どんな便利なものもふたたび不便さを示すし、こうした新工夫には限りがないからである。だから欲求は、直接欲求している人々によって作り出されるより もむしろ、その欲求が生じることによって儲けようとする人々によって作り出される。」(「世界の名著」44巻 p.424)

    「ところで労働における普遍的で客観的な面は、それが抽象化してゆくことにある。この抽象化は手段と欲求との種別化をひきおこすとともに、生産を も同じく種別化して、労働の分割(分業)を生み出す。個々人の労働活動はこの分割によっていっそう単純になり、単純になることによって個々人の抽象的労働 における技能も、彼の生産量も、いっそう増大する。
 同時に技能と手段とのこの抽象化は、他のもろもろの欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係とを余すところなく完成し、これらの関係をまったく の必然性にする。生産活動の抽象化は、労働活動をさらにますます機械的にし、こうしてついに人間を労働活動から解除して機械をして人間の代わりをさせるこ とを可能にする。」(p.428-429)

1822年
    スタンダール『恋愛論』

1823年
    二宮尊徳、野州桜町に赴任
    モンロー宣言
    サン=シモン『産業階級の教理問答』

1825年
    オーウェン、アメリカで理想社会ニューハーモニー=コミュニティの建設を開始(1828年失敗)

    文政の外国船打払令

1828年
    イギリス、ユニヴァーシティ・カレッジ開校(現・ロンドン大学)
    「一九世紀のなかばまで、オックスブリッジはイギリス国教徒でなければ、入学できなかった。しかしその当時イギリスには、イギリス国教徒とは異 なった宗教を信じる人々(非国教徒。ディセンターズDissentersといった)がおり、しかも彼らの多くは実業界で活躍していた。こうした経済的実力 を蓄えはじめた非国教徒にとっては、オックスブリッジの宗教的閉鎖性(それと階級的閉鎖性)は批判の標的となった。そこで彼らの民間資金を集めて、株式会 社組織をもとに、一八二七年一〇月、ロンドン大学の前身(正式にはユニヴァーシティ・カレッジと称した)を開校した。オックスフォード、ケンブリッジに対 抗するためである。
 当然のことながら、この学校は国教徒でなければ入学できないといった宗教上の制限を撤廃した。さらにまたどのような所得層でも入れるように、できるだけ 教育コストを削減するため、全寮制をとらず、通学制を採用した。さらにまた教育内容面でも革新を図り、オックスブリッジでは教育していない教科、たとえば 医学、法学、経済学、工学などの教科を取り入れた。オックスブリッジは都市から離れた田園地帯にあったが、ロンドンの新しいカレッジは、だれでも容易に通 学できるよう、ロンドンの街中に作られた。今日流にいえば、それは「都市型大学」のはしりである。」(潮木守一『世界の大学危機』p.22)

1829年
    キングス・カレッジに設立勅許状が与えられる
    「このようにして登場したロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに対しては「信仰心の欠けた大学」、あるいは「バブル時代の産物、学位授与権も持 たない、ロンドンの下町の少年相手のインチキ合資基金学校」といった悪口が飛び交った。ロンドンの街中にこうした学校が出現すると、国教会側も黙って見て いるわけにはいかない。こうした動きに対抗するために、ただちに国教会の教義に基づいた学校を設立した。その学校とはキングス・カレッジである。」(潮木 守一『世界の大学危機』p.23)

1830年
    リヴァプール・マンチェスター間に鉄道開通

    シャルル10世、アルジェリア侵攻
    フランス7月革命、「国民王」ルイ・フィリップ即位し立憲君主制へ移行

    スタンダール『赤と黒』
    ドラクロア『民衆を導く自由の女神』
    ショパン「革命のエチュード」(12の練習曲 Op10-12 ハ短調)

1831年
    葛飾北斎『富嶽三十六景』初版
    十返舎一九病死
    「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙りと共に 灰左様なら」(辞世の句)

    ベルギー王国成立(オランダから独立)
    バルザック『ゴリオ爺さん』

1833年
    イギリス、学校教育への国庫助成開始

    歌川広重「東海道五拾三次之内」

1834年
    イギリス、改正救貧法制定
    「市場システムの落とし穴は、すぐには明らかにならなかった。これをはっきりと確認するためには、イギリスの労働者が機械の導入以降蒙った有為転 変の経過をいくつかに時代区分してみなければならない。まず、一七九五年から一八三四年のスピーナムランドの時期の転変。ついで、一八七三年以後一〇年間 の救貧法修正によって生じた困窮。そして第三に、一八三四年以降の、有害な結果をもたらした競争的労働市場の時期――労働組合の意義が認識され十分な保護 が与えられるにいたった一八七〇年代まで――。年代記的にいえば、スピーナムランドは市場経済に先行した。そして、修正救貧法の一〇年間は市場経済への移 行期であった。最後の時代は前の時代と重なるが、まさに市場経済の時代そのものであった。
 三つの時代は、はっきりと異なっていた。スピーナムランドは、大衆のプロレタリア化を妨げることを狙っていたか、あるいは少なくともそれを遅らせようと するものであった。その結果もたらされたものは大衆の貧困化にほかならず、彼らはその過程で、人間としての姿をほとんど失ってしまった。
 一八三四年の救貧法改正は、労働市場にたいするこうした障害を取り払った。つまり、「生存権」は廃棄されたのである。その法律の科学的な残酷さは一八三 〇年代や一八四〇年代の大衆の感情にとって極めて衝撃的であって、当時の強烈な抗議は後世の目に映る像を曇らせたほどであった。(…)
 第三の時期の問題は、それとは比較にならぬほど一層深刻であった。一八三四年以降新たに中央に集中された救貧法当局から貧民にむけられた官僚主義的な残 虐行為は散発的なものにすぎず、あらゆる近代的諸制度のうちでもっとも強力な労働市場の万能的効果に比べれば無に等しかった。労働市場は、それがもたらし た脅威の大きさという点ではスピーナムランドと似たものであったが、競争的労働市場の欠如ではなくその存在が今や危機の源泉であるという点において、以前 とは異なっていた。スピーナムランドが労働者階級の出現を妨げていたとするならば、いまや労働貧民は、見えざるメカニズムの圧力によって労働者階級へと形 成されつつあったのである。(…)スピーナムランドが退廃的な居心地良い困窮を意味していたとするならば、いまや労働者は社会において帰るべき所を失って いたのだ。スピーナムランドが隣人、家族、農村環境といった諸価値を酷使していたとするならば、いまや人々は家庭や親族から引き離され、その根を断ち切ら れ、効ある環境すべてから引き離されたのであった。要するに、スピーナムランドが不動性から生ずる腐敗を意味していたとするならば、いまや危険は生身をさ らすことから生ずる死の危険であった。
 一八三四年になってはじめて、イギリスに競争的労働市場が確立した。それゆえに社会システムとしての産業資本主義は、それ以前に存在したとはいえないの である。だが、ほとんど間を置かずに、社会の自己防衛が開始された。すなわち、工場法・社会立法および政治運動・工業労働者階級の運動が出現したのであ る。防衛行動が、そうした市場メカニズムのもつまったく新たな危険を食い止める試みにおいてであった。一九世紀の歴史は、市場システムが一八三四年の修正 救貧法によって解き放たれて以降、市場システム固有の論理に規定されたといっても、決して言いすぎではない。この動態(ダイナミクス)がスピーナムランド 法であった。」

1835年
    トクヴィル『アメリカの民主政治』

1836年
    ロンドン大学設置
    「現在日本では認証評価機関のことが話題を集めているが、その当時のイギリスの設置認可機関といえば、王室しかなかった。王室が新たに作られた大 学にロイヤル・チャーターを発行して、はじめて大学であることが公認され、そこの発行する学位が正式に公認されることになっていた。キングス・カレッジに はいち早くこのロイヤル・チャーターが与えられたが、ユニヴァーシティ・カレッジにロイヤル・チャーターを授与するか否かは、大きく意見が分かれた。 (…)
 結局のところ、両派で妥協が図られた。一八三六年になって、相対立する二つの学校の一つ一つにロイヤル・チャーターを授与するのではなく、両方の学校の 学生を試験し、その結果に基づいて学位を授与する機関として、「ロンドン大学」が設置された。そしてロイヤル・チャーターはこの「ロンドン大学」に授与さ れることとなった。その意味で、ロンドン大学は、教育機能を持たない、試験機関兼学位授与機関として成立した。教育はユニヴァーシティ・カレッジとキング ス・カレッジの両方で行われることとなった。(…)」(潮木守一『世界の大学危機』p.23-24)

    イギリス、出生・死亡・婚姻登録法制定

    テキサス共和国独立(〜1845年)

1837年
    大塩平八郎の乱

    ヴィクトリア女王即位

1838年
    ロンドン労働者協会が人民憲章を公表。チャーティスト運動起こる

1839年
    蛮社の獄

    イギリス、反穀物法同盟成立

    キルケゴール『死に至る病』

1840年
    アヘン戦争(〜1842年)
    イギリス、ペニー・ブラックと呼ばれる世界初の郵便切手を発行。近代郵便制度の始まり

    プルードン『所有とは何か』
    「所有とは盗みである」

1841年
    フリードリッヒ・リスト『経済学の国民的体系』

1842年
    南京条約

    バクーニン「ドイツにおける反動、一フランス人の覚え書きより」
    「破壊を求める情熱はまた創造する情熱なのだ」

1844年
    イギリス、兌換紙幣の発行始める
    イギリス・ロッチデールで世界最初の生活協同組合運動がおこる
    「ロッチデールの人々は、家内工業で糸を紡いだり、機を織っていましたが、やがて、そうした技術は機械化されて、安い布が出回るようになり、家内 工業では太刀打ちできなくなりました。このため、婦人から子供まで、紡織工場のひどい労働条件で働かされるようになったのです。
 (…)
 そして、工場の経営者に、生産から日用品の取り扱いまで牛耳られているところに問題がある。自分たちの工場、自分たちの店を持とう、という考え方が強く なり、一八四四年八月一五日、世界最初の生活協同組合である「ロッチデール公平化先駆者組合」が誕生したのです。組合としては、まず自分たちの店を持とう ということになり、二八人の参加者が、苦しい中からためた金を、一人一ポンドずつ持ち寄りました。今でこそ一ポンドは五〇〇円程度ですが、当時は、はるか に大きな値打ちがあったと考えられます。
 こうしてこの年一二月二一日、最初の生協の店がオープンしました。ロッチデールの生協は、民主的に運営することを基本にし、ものごとを決める際には、出 資金をいくら出しているかに関係なく、一人一票の投票制にすること、利益が出た時は、出資者に年三.五パーセントの配当をすること、それでもなお利益が 余った場合は、生協のメンバーに対し、それぞれ生協の店での購入金額のトータルに応じて配分することなどを決めています。これがロッチデールの原則と呼ば れるものです。」(浜野崇好『イギリス経済事情』p.138-139)

    コント『実証的精神論』

1845年
    テキサス共和国がアメリカ合衆国のテキサス州となる
    ジョン・オサリヴァンが「USマガジン・アンド・デモクラティック・レヴュー」誌で「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」という言葉を使 う

1846年
    イギリス、穀物法改正
    教師見習制の導入

    カリフォルニア共和国成立後、アメリカに吸収合併
    米墨戦争

1847年
    ギゾー「選挙権が欲しければ金持ちになればいいのだ。すぐにデモを解散しろ」

    大英博物館完成

1848年
    フランス2月革命、第2共和制開始
    ドイツ・オーストリア3月革命、フランクフルト国民会議

    マルクス=エンゲルス『共産党宣言』
    「ブルジョア階級は、世界市場の搾取を通して、あらゆる国々の生産と消費とを世界主義的なものに作りあげた。反動家にとってはなはだお気の毒であ るが、かれらは、産業の足もとから、民族的な土台を切りくずした。遠い昔からの民族的な産業は破壊されてしまい、またなおも毎日破壊されている。これを押 しのけるものはあたらしい産業であり、それを採用するかどうかはすべての文明国民の死活問題となる。しかもそれはもはや国内の原料ではなく、もっとも遠く 離れた地帯から出る原料にも加工する産業であり、そしてまたその産業の製品は、国内自身において消費されるばかりでなく、同時にあらゆる大陸においても消 費されるのである。国内の生産物で満足していた昔の欲望の代りに、あたらしい欲望があらわれる。このあたらしい欲望を満足させるためには、もっとも遠く離 れた国や気候の生産物が必要となる。昔は地方的、民族的に自足し、まとまっていたのに対して、それに代ってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面に わたる依存関係があらわれる。物質的生産におけると同じことが、精神的な生産にも起る。個々の国々の精神的な生産物は共有財産となる。民族的一面性や偏狭 は、ますます不可能になり、多数の民族的および地方的文学から、一つの世界文学が形成される。」(岩波文庫版 p.44)
   cf.Marx, Karl:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/marx.htm)

    「人間的自由の歴史におけるマルクスの立場は、将来においてもずっと曖昧なままであろう。なるほど彼はこれまで見てきたように、初期の著作では社 会問題を政治的用語で語り、貧困の苦境を抑圧と搾取の範疇で解釈した。それにもかかわらず『共産党宣言』以後書かれたほとんどすべての著作で、その青年時 代の本当に革命的な活力(エラン)を経済学的用語で再定義したのもマルクスである。いいかえると彼は、最初、他の人びとが人間の条件に固有な或る必然であ ると信じていた暴力や抑圧はむしろ人為的なものであり、人間が人間にたいしておこなうものであると考えていた。しかしのちになって、あらゆる暴力や犯罪や 暴虐の背後には歴史的必然の鉄則が潜んでいると考え直したのであった。そしてそれ以来、彼は、近代における自分の先覚者たちと離れ、逆に古代における自分 の師に接近して、必然性を生命過程の強制的な衝動であると考え、結局、近代の政治的にはもっとも有害な教義、すなわち、生命は最高の善であり、社会の生命 過程こそ人間的努力の中心であるという教義を他のだれよりも強調したのである。こうして、革命の役割はもはや、自由の創設はおろか、人びとを同じ仲間の人 間の抑圧から解放することですらなく、むしろ社会の生命過程を稀少性の足枷から解放し、それを豊かさの流れに変えることであった。こうして今や、自由では なく豊かさが革命の目的となった。」(ハンナ・アレント『革命について』p.96-97)

1849年
    カリフォルニアでゴールドラッシュ

    ソロー「市民の反抗」

1850年
    オックスフォードおよびケンブリッジ大学に対する王立調査委員会設置

    ホーソーン『緋文字』

1851年
    太平天国の乱

    ワシントン−ボルチモアの間に電車が開通。世界最初の電車
    「ニューヨーク・タイムズ」創刊

    イギリス、オウエンズ・カレッジ設立
    ロンドン万国博覧会開催

    メルヴィル『白鯨』

1852年
    ナポレオン3世が皇帝。第二帝政はじまる
    マルクス『ルイ・ボナパルト、ブリュメール18日』

    ハリエット・ストウ『アンクルトムの小屋』

1853年
    ペリー提督らの黒船、浦賀へ来航

    クリミア戦争勃発
    リーバイ・ストラウス、ジーンズを発売

    プルードン『株式投資マニュアル』

1854年
    日米和親条約

    ソロー『ウォールデン-森の生活』
    シャーロック・ホームズ生まれる

1855年
    幕府が蝦夷地全域を直轄地とする
    
    ホイットマン『草の葉』

1856年
    アロー戦争

1857年
    セポイの乱

    吉田松陰が松下村塾の主宰者となる
    「夷人(いじん)」「蝦夷人(えぞじん)」と呼ばれていたアイヌの呼称を「土人(どじん)」に統一

    フローベール『ボヴァリー夫人』(無罪判決の後)

1858年
    日米修好通商条約など安政五カ国条約
    安政の大獄

    イギリスがインドを併合

1859年
    ダーウィン『種の起原』
    「優生学史を語るには、どうしても、十九世紀後半の、欧米世界における知の構造的変動までを視野に入れる必要がある。一八五九年の暮れにダーウィ ンの『種の起原』が出版されるまでの長い間、生物学とキリスト教とは濃密な共生関係にあった。生物や人間の合目的性こそは、創造主が存在することの有力な 物証と考えられたからである。ところが、この本の出現によって、キリスト教的な自然解釈は大きな打撃を受けた。しかもこのことは、キリスト教信仰と同時に 与えられていた安定した世界解釈や、それに立脚した人生への指針、倫理の基盤などを連鎖的に崩壊させていく危険を含んでいた。西欧人は深刻な哲学的混乱に 陥った。
 生物学としての進化論は、まもなく多くの科学者が認めるところとなったが、自然科学とキリスト教信仰との間に生じてしまった亀裂を、世界観としてだけで はなく、倫理や魂の救済をも含めた、全哲学の中のどの次元の問題と考えるかで、その危機の意味も異なっていた。この危機に対処するためにさまざまな哲学が 試みられたが、その流れの一つが十九世紀自然科学主義とでも呼ぶべき傾向である。
 ここでいう自然科学主義(scientific naturalism)とは、人間のふるまいやその社会までも含む一切の現象を、非擬人主義的、非超自然的、自然科学的に統一的に解釈しようとする哲学的 傾向のことである。具体的には、唯物論、一元論、自然主義、実証主義、自由思想、不可知論などの基本に流れる姿勢で、一言でいえば、キリスト教的世界解釈 の崩壊の後を埋める一群の経験論的な代案のことである。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』p.15)
    cf.Darwin, Charles:Darwin, Charles)
    cf.米本昌平:http://www.arsvi.com/0w/ynmtsuhi.htm

    ミル『自由論』
    cf.Mill, John Stewart:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/mill.htm
    スマイルズ『セルフ・ヘルプ』

    アメリカ、ペンシルヴェニアで油田発見
    「私は史上初めてのパイプラインのルートを沿って車を走らせ、オレオポリス、プレザントビルを通過、タイタスビルという小さな町に達した。この町 は一八五九年、エドウィン・ドレーク“大佐”によって初めて石油が掘り当てられたところである。この町のはずれに遅まきながらこの不運な先駆者のために 「ドレーク油井博物館」が建てられていた。数多くの石油開発のヒーローたちがそうだったように、彼もまた、企業家たちがそのおかげでぼろもうけしていたの に、貧困のうちに死んだのである。(…)
 「石油地帯」の緑野を古い写真と見比べながら歩いてみると、一世紀前の最初の石油時代はまるでポンペイ時代の文明と同じようにはるか遠い昔のことのよう に思えた。それでいてこの石油時代がもたらした現象は自分の周囲のいたるところにみられる――車、電力、化学肥料など、すべて石油に依存するものだ。この ゴースト・シティは石油につきまとう最も深刻な懸念、すなわち石油は枯渇する、ということを想い起こさせるのにきわめて有益だったといえる。」(A・サン プソン『セブン・シスターズ(上)』p.38-39)

    イタリア独立戦争はじまる

1860年
    咸臨丸、浦賀を出港。勝海舟、福沢諭吉ら渡米
    桜田門外の変

1861年
    南北戦争勃発
    イエール大学がアメリカで最初の博士号を授与(ハーバードが1873年、コロンビアが1875年、ジョンズ・ホプキンスが1878年から博士号を 授与)
    マサチューセッツ工科大学設立
    イタリア王国成立

1862年
    ビスマルク、プロイセン首相に就任。鉄血政策
    「プロイセンの国境は言論や多数決によってではなく、鉄と血によって決せられる」

    ユーゴー『レ・ミゼラブル』

1863年
    アメリカ、奴隷解放宣言。リンカーンによるゲティスバーグの演説
    ラサールを会長とする「全ドイツ労働者同盟」とベーベルを指導者とする反ラサール派の「ドイツ労働者協会連盟」結成される

1864年
    第一次インターナショナル(国際労働者協会)設立

1865年
    リンカーン暗殺。クー=クラックス=クラン結成
    メンデル、遺伝法則を発表

1866年
    ドストエフスキー『罪と罰』

1867年
    大政奉還
    明治天皇即位
    坂本竜馬暗殺

    マルクス『資本論』第一巻
    「われわれは、労働力または労働能力を、一人の人間の肉体、すなわち、人間の生ける人格の中にあって、何らかの種類の使用価値を生産するばあい に、人間が活動させる肉体的、精神的能力の総体であると考える。」(『資本論』(一)岩波文庫、p.291)

    「貨幣の資本への転化のために、かくて、貨幣所有者は、自由なる労働者を商品市場に見出さなければならぬ。二重の意味で自由である。すなわち、彼 は自由な人格として、自由の労働力を商品として処置しうるということ、彼は他方において、売るべき他の商品をもっていないということ、すなわち、彼の労働 力の現実化のために必要なる一切の物財から、放免され、自由であるということである。」(『資本論』(一)岩波文庫、p.294)

    「賦役労働では、賦役労働者の自分のための労働と、領主のための強制労働とは、空間的にも時間的にも、はっきりと感覚的に、区別されている。奴隷 労働では、労働日のうち奴隷が自分の生活手段の価値を補填するだけの部分、したがって彼が事実上自分のために労働する部分でさえも、彼の主人のための労働 としてあらわれる。彼のすべての労働が不払労働としてあらわれるわけである。賃労働では、逆に、剰余労働または不払労働でさえもが、支払労働としてあらわ れる。奴隷労働のばあいは、所有関係が奴隷の自分自身のための労働を隠蔽するのであり、賃労働のばあいは、貨幣関係が賃金労働者の無償労働を隠蔽するので ある。  だから、労働力の価値と価格が労賃の形態に、すなわち労働そのものの価値と価格に転化することの決定的な重要さが分かる。現実の関係をみえなくし、まさ にその反対物を示すこの現象形態こそは、労働者と資本家とのあらゆる法的観念、資本主義的生産様式のあらゆる欺瞞、自由についてのこの生産様式のあらゆる 幻想、俗流経済学のあらゆる弁護論的空論によって立つ基礎なのである。  労賃の秘密を見破るためには、世界史は多大の時間を必要とするが、これに反してこの現象形態の必然性、その存在理由ほど理解しやすいものはない。」 (『世界の名著』54、p.317)

1868年
    王政復古。戊辰戦争。明治政府、政権奪取。
    江戸、東京に改名。政府は東亰「とうけい」と呼ばせるも、人々は「とうきょう」を呼んだ。
    「開国、そして封建制度の終焉と中央集権的国家制度の導入は、日本の都市システムにも大きな影響を与えずにはおかなかった。新しい制度が導入され るにつれ、全国の都市は、中央集権国家の拠点である東京との関係性において、再序列化させられていったのである。
 たとえば、封建制度の中で地域の中心としての役割を果たしてきた城下町はあちこちで衰退の瀬戸際に立たされた。そして、県庁や官立学校、軍隊、工場など 新しい近代的装置が立地した都市だけが長期的な停滞や衰退を免れることができた(…)。また、日本が資本主義世界経済の世界市場に組み込まれていったこと により、いくつかの都市は、世界市場と直結した形で急激な成長を遂げることとなった。開国以来、日本の主要輸出品の地位を占めてきた生糸生産に関わる北関 東や長野の諸都市、開港場としての横浜、神戸などは、その代表的な例である。世界経済の周辺部に位置する低開発国としての日本の姿が、こうした都市成長の あり方からも浮かび上がってくる。」(町村敬志『「世界都市」東京の構造転換』p.40)

    ハワイへの初めての移民。「元年者」
    福沢諭吉が東京・芝に塾を移転し慶応義塾と命名

1869年
    東京遷都
「封建都市の解体に向かう変化は、もうひとつ別の側面を東京に付け加えていた。それは、消費都市から生産都市へと向かう道筋である。天下を治める政治都市 江戸は同時に、膨大な非生産人口としての武士層――一説には50−70万人――の消費に多くを依存する都市でもあった。そこでは多種多様なサービス業や商 業が、武士層や商人・職人層自身に向けて用意されていた。
 これに対し、明治新政府がめざした殖産興業の路線とは、欧米諸国が産業革命とそれに続く産業化(工業化)を通じて達成した成果を、国家主導の形で日本国 内にいち早く導入しようとするものであった。「資本の時代」を迎えた19世紀、大都市のあり方も世界的に大きな変化を迎えていた。近代都市とはまず産業都 市としてあった。少数の例外を除けば、こう言っても過言ではない。東京の場合、新しい国家体制確立のため、政治都市(帝都)建設が優先されはしたが、しか しそれは、産業都市への変容を否定するものではなかった。いやむしろ、帝都の体面を保つためにも、近代産業は不可欠の要素であった。
 この時期、産業都市への道のりの第一歩は、全く新しい近代産業の移植という形をとった。旧武家地を中心とした官有地での官営工場や軍需工場の建設は、そ の典型であった。このうち、工部省の品川工作分局(ガラス)、深川工作分局(セメント)などは、明治10年代の後半になって、民間へと払い下げられ、産業 資本形成の基盤となっていく。」(町村敬志『「世界都市」東京の構造転換』p.42-43)

    アメリカ、大陸横断鉄道が開通

    ハーバード大学の学長にチャールズ・W・エリオットが就任
    「『ハーバードの三世紀』の著者モリソンは、かつて次のように書きしるした。
「エリオットは、他のいかなる人間以上に、アメリカの青年に対し、今世紀最大の教育上の犯罪をおかした。つまり青年たちから古典の伝統を奪い取ってしまっ たのである」。
 ここで今世紀最大の教育上の犯罪者と名指しされたエリオットとは、他ならぬチャールズ・W・エリオットのことである。エリオットは一八六九年から一九〇 九年にかけて、四〇年もの長きにわたって、ハーバードの学長の座にあった。一九世紀後半にアメリカの大学界は、「偉大な学長時代」を迎えた。(…)
 このように一九世紀の後半、アメリカの主要大学は期せずして、後世に大学長時代と呼ばれる時期を迎えることとなったが、これらの大学長のなかでもエリ オットの名は、ひときわ高く、アメリカ高等教育史のなかで輝いている。(…)
 彼が良きにつけ、悪しきにつけ、アメリカ高等教育史のなかで無視できない存在となっている理由は、彼が伝統的なカレッジのあり方に、根本的な変革を加え たからであり、またその変革がハーバードだけに限定されることなく、その程度こそ異なれ、他のカレッジにまで波及効果を与えたためである。」(潮木守一 『アメリカの大学』p.116-117)

    「事実、当時のカレッジはハーバードに限らず、どこでもいかにしたら学生の学習意欲をかきたてることができるか、頭を悩ましていた。(…)
 ところで、大学とかカレッジは学問の府であると今日でも機会あるごとに主張されはするものの、これまでの長い歴史を見ると、学生の多くが真面目に勉強す るようになった時代は、きわめて稀にしかない。(…)
 そのうえアメリカの場合には、アメリカ固有の条件が作用していた。この点は一九世紀のドイツの大学と比較すると、さらに明確になる。まずアメリカのカ レッ ジでは、いくら学生がカレッジでよい成績を上げたところで、そのことが彼の将来に何らかの意味をもつことはほとんどなかった。これに対してドイツの大学は すでに一九世紀には、各種の国家試験のための予備校の役割を演じており、牧師になるにせよ、官吏になるにせよ、教師になるにせよ、医師になるにせよ、大学 で教わることを十分にマスターしない限り、国家試験には合格できないしくみとなっていた。こうした構造のなかで、ドイツの大学生はいわば点取虫となり、多 少なりとも真面目に勉強しなければならない立場にあった。
 もちろん、ドイツの大学にも、「遊び文化」は綿々と脈うっていた。とくに就職の心配などしないですむ上流階級出身の学生がふえれば、たちまち「遊び文 化」 が「勉強文化」を駆逐した。しかし大学が国家試験のための唯一の予備校である以上、下層階級出身の学生にとっては、大学は社会的上昇のためのエレベーター であり、ここに「キャリア型の学生」が出現した。
(…)
 そのうえさらに、アメリカの土地には、カレッジなどというまわり道をしなくとも、社会的成功をおさめる道はいくらでも豊富にあった。社会的野心に燃えた 青年は、カレッジに向かうのではなく、直接実業の世界に向かった。このことは上流社会の間でさえ、あてはまった。」(p.124-126)

1870年
    工部省設置
    神道を国教にする大教宣布

    イギリス、初等教育法成立
    「十九世紀後半は、精神病・精神障害者の問題が、社会的に急に重みを増しはじめた時代であった。そのきっかけの一つは、初等教育の義務化であっ た。一八七〇年、イギリスでは教育法が成立し、大量の極貧層の子供たちが初等教育を受けることになった。ところが多くの子供たちが授業についていけず、肉 体的・精神的な欠陥があることが問題となった。一八八五年に王立障害者学級委員会が設置され、ここが五万人の小学生を対象に教師から報告を集めたところ、 九一八六人の精神・神経系の障害児がいることがわかった。これによって特殊学級の設置が勧告され、貧困家庭の子供には無償の補習授業と住宅補助費が支払わ れることになった。九八年からはイギリス各地で特殊学校が開始され、翌年には特殊学校法が成立した。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』p.26)

    「ブルジョワジーはまず自分自身の健康に根本的に気をかけていました。いわば、それは自己救済であると同時に力の誇示でもありました。いずれにせ よ、労働者の健康などどうでもよかったのです。十九世紀の初めにヨーロッパで起こった労働者階級に対する恐ろしい虐殺についてマルクスが語っていることを 思い出してください。ぞっとするような住宅条件のもとで栄養不足になりながら、人々は、男も女も、それからとりわけ、子供までが私たちには想像できないよ うな長い時間、働かざるをえなかった時代です。一日の労働時間が十六時間、十七時間だったわけです。死亡率がものすごく高かったのも、そういうところから 来ています。それから、ある時期以降、労働力の諸問題が別なふうに立てられ、雇われていた労働者をできるだけ長い間確保しておく必要が出てきて、労働者を 十四、十五、十六時間働かせて死なせるよりも、八、九、十時間の間みっちり働かせる方がよいということに気づいたのです。労働者階級で構成された人材が、 乱用してはいけない貴重な資源と少しずつみなされるようになったわけです。」(M・フーコー『思考集成Y』p.522-523)

    ドニ・プロ『崇高なる者』
    「神の子、大地の創造者。
     めいめいが自分の仕事に精出そう。
     陽気な労働は聖なる祈り。
     神のお気にいり、それは崇高な労働者。」(p.33)

1871年
    シカゴの大火
    「シカゴ再建の過程で、鉄骨の構造による軽量の高層オフィスビルが生まれてくるのである。鉄骨構造に加え、大型の陶板であるテラコッタを外装に用 いることによって、建物は石造建築に比べて大幅に軽量化し、高層化が可能になった。この頃、ニューヨークで実用化しはじめていたエレベーターがそこに導入 されることにより、建築は一挙に高層化するのである。ここにオフィスという新しいジャンルの建築が市民権を得てゆくのである。
 オフィスビルが成立してゆくシカゴ近郊に、オフィスと対をなす近代生活の要素である郊外住宅のプロトタイプが出現することは、ある意味では必然であった かもしれない。それは、F・L・ライトによって生み出されたプレーリー・ハウスという住宅群である。(…)シカゴ派が成立させたオフィスビルとライトに よって生み出された郊外住宅とによって、近代の職住分離の生活に応じた建築類型が完成してゆくのである。」(鈴木博之『都市へ』p.22)

    文部省設置
    廃藩置県
    「藩については、それが、次の世代のための教育の機構でもあったことを忘れてはならない。(…)
 そのかれらにとって藩の廃止と身分制度の解体は、生計の手段だけでなく教育の機会をも奪われることを意味していた。これまでは当然のこととして、無料で 藩校の教育をうけていたものが、藩と同時に藩校も廃止されてしまった。学校に行く義務はなくなったが、同時に学校に行きたければ教育費を負担しなければな らなくなった。それはまさに革命的な変化であった。自分たちが受けてきた教育の機会を、次の世代の子どもたちにも同じように保証してやりたい。それは士族 たちの、きわめて強い願いであったに違いない。
 それだけではない。かれらは新しい生計の道を切り開いていくためにも、教育を必要としていた。(…)廃藩置県、秩禄処分という一連の「革命」が進むなか で、いちばん打撃をうけたのは、いわば倒産企業の中堅ホワイトカラーとでもいうべき、中級の武士たちだったとみてよい。
 そのかれらがめざしたのは、第一に俸給生活者、具体的には役人や教師への転身の道であった。それはかれらがこれまでたずさわってきた仕事ともっとも近い 職業であっただけでなく、かれらがもっている唯一の「資産」、つまり教育によってえられた学識を生かすことのできる職業でもあったからである。」(天野郁 夫『学歴の社会史』p.28-29)

    普仏戦争
    パリ・コミューン。崩壊後、フランス第三共和制発足
    ドイツ帝国形成。ビスマルク、帝国宰相に就任。文化闘争開始
    イギリス、オックスフォード、ケンブリッジ大学の、イギリス国教徒でない限り学位につながるコースには入学できないという制約がなくなる。

1872年
    琉球王国併合。王府を維持したまま琉球藩が設置される
    「琉球処分反対論が、経済コストや差別意識といった、いわば日本と琉球だけの関係から唱えられていたのにたいして、処分推進論は別の関係を考慮す る立場からなされた。それは、欧米にたいする国防であった。 当時の日本は、ヨーロッパ列強によるアジア植民地化の脅威のなかで国境確定と周辺防備の必要にせまられていた。列強にくらべ軍事力では圧倒的に劣勢な日本 にとって、できるだけ本国から遠方に国境線を引き、国防拠点を確保することが望ましかった。すでに北方においては、第3章で後述するように幕末から対ロシ ア国防拠点として北海道の確保が進められていたが、南方の準備は琉球処分においてようやく着手されたのである。 一八七二年五月、大蔵大輔の井上馨が琉球領有を主張する建議を行っているが、そこで唱えられた理由は、「従前曖昧の陋轍を一掃し」て国境を確定すること、 そして琉球を日本防衛上の「要衝」すなわち「皇国の翰屏」として確保することであった。」(p.21)

   学制発布、近代的学校制度の創設に着手
   「「学制」は全国を八大学区に分け、各大学区に大学校を一つ、一つの大学区をさらに三十二中学区に(二百五十六中学校)、一つの中学区を人口六百人 を基準として二百十小学区(五万三千七百六十小学校)に分割するというものであった。この学区は、はじめは一般行政区域とは別建てのものとされた。 この大規模な小学校建設計画は、施行後の約二年間(一八七五年まで)で、全国に二万四千校、学童数二百万人(男子百五十万、女子五十万)、児童の就学状態 は、「名目で男女平均三五パーセント、出席状況を勘案した実質では二六パーセント程度」を達成した。しかし、経費の民間依存が強すぎたこと、児童就学で一 家の労働力が減少したことへの不満もあって、七年後の一八七九年(明治12)に「教育令」に衣替えすることを余儀なくされる。」(猪木武徳『学校と工場』 p.24)

    陸海軍省設置
    太陽暦採用

1873年
    徴兵制発布、満20歳男子の3カ年の兵役服務。各地で徴兵反対一揆
    内務省設置
    第一国立銀行設立
    三菱商会設立

1874年
    台湾出兵

    ヨークシャー科学カレッジ開設
    「一九世紀中葉のイギリスにおいては、北部および中部産業都市に見るべき実業教育機関が存在せず、ドイツの進んだ教育機関に依存せざるをえない状 況であった。新産業企業家は、諸外国との競争に打ち勝つために、政府の施策を待ちきれずに自ら資金を捻出して、実業教育機関の設置に尽力した。その結果、 産業都市に市民大学が設置された。」(川口浩編『大学の経済社会史』p.186)

1875年
    江華島事件
    東京女子師範学校開校

    ドイツ社会主義労働者党が成立

    ジョンズ・ホプキンス大学設立
    「ジョンズ・ホプキンス大学の大学院構想は、その当時のアメリカの教育界、あるいはアメリカ社会のなかではどういう意味をもっていたのであろう か。まず第一に、大学院コースは、必ずしもジョンズ・ホプキンスが最初に作り出したものではなく、いくつかの大学ではそれに相当するものはすでに存在して いた。これらの大学では学部段階の教育を修了してからも、もっと勉強をつづけたいと希望する者には大学に残って勉強をつづける機会を与えていた。(…)つ まり大学教師の養成コースは、いまだ制度化されておらず、専門化されてもいなかった。
 それにすでに述べたように、当時のアメリカ社会においては、大学とは、子供を一人前のジェントルマンにしあげることがその目的で、学者を養成するところ ではなかった。学者とか大学教師というグループは、いまだ確固たる社会的存在基盤をもっておらず、それを専門的に養成する必要性もなかった。だからその当 時、子どもにカレッジ教育を与えたいという社会的ニーズは存在していても、それ以上の教育を与えたい、あるいは受けたい、というニーズはそれほどなかった し、また社会の内部にも、そんな高度の教育を受けた者を組織的に採用しようなどというニーズも存在しなかった。(…)
 それでは大学院レベルの教育が必要だという認識は、どこにあったのだろうか。それはごくひとにぎりのインテリ、それもヨーロッパでの大学教育を受け、 ヨーロッパの大学とアメリカの大学との間の大きな格差を身をもって体験したひとにぎりのインテリの内部にしかなかった。彼らは、ある時はヨーロッパに対す る対抗意識から、ある時はヨーロッパに対する劣等感から、さらにある時には、自由に研究に没頭できる場がほしいという期待から、高度の研究を目的とする場 を求めていた。」(潮木守一『アメリカの大学』p.158-159)

   「ドイツ帰りの教授たちが、アメリカにもち帰ったものは、一言にしていえば「研究」であった。つまり一つのテーマをあきることなく、コツコツと調べ 上 げ、そのなかから何らかの独創的な知見を引き出し、しかもたがいにその独創性を競い合う行動様式が「研究」と呼ばれるものの具体的な姿であった。さらにま たいえば、少年のような好奇心に目をぎらぎらさせ、他のことには一切目も向けず、もっぱら一つのことに没頭することによって、自らのアイデンティティを獲 得しようという特異なタイプの人間が研究者と呼ばれた。」(p.167)

   マルクス「ドイツ労働者党綱領評注」
   「共産主義社会のより高次の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立も なくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につ れて彼らの生産能力をも成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧き出るようになったのち――その時はじめて、ブルジョア的権利の狭い 地平は完全に踏み越えられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(『ゴータ綱領批判』 p.38-39)

1876年
    三井銀行創業、雇用関係の近代化
    「三井は、江戸期には呉服業と両替業を経営活動の中心に据えて事業展開をしてきたが、明治維新期の社会的・経済的変動期の危機をのりきるために、 在来的業種である祖業の呉服業を分離し、近代的業種である銀行業を中心にした経営組織の再編成をすすめ、1876年に三井銀行を創業した。これを契機に、 三野村は主人と奉公人の主従という関係を、三井家同苗と使用人は「共に社友」という対等な関係にした。また、住み込みを原則として、主人が衣食住の面倒を 見るという奉公人制度を廃止し、すべての使用人を通勤制にして、給料を支給するという使用人制度にかえた。
 奉公人制度から使用人制度への転換は、使用人制度の教育訓練に大きな影響をおよぼすことになる。奉公人制度のもとでは、教育やしつけは、奉公入りした 12-3才のころから、昼間は業務の見習い、夜は読み書き、算盤の稽古といったように日常的におこなわれたが、通勤制になると、基本的な算筆をすでに修得 しているものが求められるようになる。また以前のように大量採用・大量淘汰を人事管理の基本として、優秀なものを選抜し育成するという方式では、新入りの ものにも給料を支給するので、コスト負担が大きくなる。そのため、採用段階でかなり厳しい採用基準を設けて選考をおこない、採用人数を少なくせざるをえな い。そこで基準となったのは、一定水準の「学力」を有しているかどうか、またどの程度の学校教育を受けているかといったことであった。また銀行員は現金を 扱い、信用がとりわけ重要なので、身元の確かなものであることが求められたし、技能や適性も重視された。」(千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教 育への依存」p.18)

1877年
    東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学誕生
    西南戦争
    鉄道局設置
    上野公園で第1回内国勧業博覧会

1878年
    北海道開拓使がアイヌの呼称を「旧土人」に統一することを布達

    ドイツ、社会主義者鎮圧法

1879年
    琉球処分。琉球王国が廃止され沖縄県に改名される
    教育令公布

    ドイツ、保護関税政策に転換

1880年
    改正教育令
    朝鮮の漢城(現=ソウル)に日本公使館設置

1881年
    小学校教訓綱領が定められ、初等・中等・高等に区分した
    自由党結成、日本初の近代的な政党
    明治生命開業、日本発の生命保険会社

    松方正義、大蔵卿就任。松方財政
    「石川島人足寄場に収容されていた無罪の無宿人を初め、幕藩体制の瓦解にともない、はじかれ放り出された多くの農民や町人は、明治国家体制下にお いても引きつづき隔離収容施設に閉じ込められたり、あるいは肉体重労働に従事するなど、その大部分が下層に組み込まれていった。後には没落士族層も、ほぼ 同じ運命をたどった。1870代半ば以降本格的に実施されていった地租改正と、81年以降展開されたデフレ政策を軸とした松方財政とによって、離農者と貧 窮者が急増、明治新体制下における近代的な賃金労働者群のもとを形づくった。
 こうして、封建体制下の沈殿層と近代資本主義体制における窮乏層とが一体となって、80年代には全国的に底辺下層社会(貧民層、細民層などと呼ばれた) が生成されていった。近代寄せ場の成立である。90年には初めての資本制恐慌が起こり、寄せ場は拡大し確立する。
 この時期の労働に特徴的なこととして、囚人労働の大量使用が挙げられる。三池炭鉱は20世紀初頭に至るまでもっぱら囚人労働によって莫大な収益を上げて いたし、80年代末から90年代半ばにいたる北海道開発もまた、その多くを囚人労働に依っていた。そしてまた、産業革命を担った製糸紡績業もまた、寄宿舎 に女工を閉じ込めつつ過酷な労働を強いたことで知られている。少し後になるが、製鉄、機械業における組夫など臨時労働者の存在もまた、重要不可欠であっ た。彼らの労働は、何らか自由を制限されながら労働を強制されるという意味での拘置労働に他ならなかった。
 近代日本国家なるものは、そうした下層の、時には差別、隔離、収容を含む不自由さと、厳しい重労働との上にそびえ立つ構造として出来上がっていたので あった。」(日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』p.2)

    フランス、「公立小学校の無償化」法案成立
    「かくして、中世以来の情報と文化の諸機能を集中したイデオロギー装置たる「教会」は伝統的な家族制度と結びついてその支配を懸命に維持しようと し、これに対し全共和派はこの「反教権」という一点では一致して「教会」に戦いをいどんでいたのである。
 そして、パリ=コミューンの崩壊の後、一八七一年にフランス第三共和制が発足する。この第三共和制こそが、反教権の旗印のもとに、「無償・義務・非宗 教」の公教育を実現するのである。(…)
 (…)
 各地での論争や議会での激論を経て、公教育相をつとめていたジュール・フェリー(一八三二−一八九三)は、精力的に「無償・義務・非宗教」教育の実現を はかろうと努力をつづけた。その結果として、一八八一年六月一六日に「公立小学校の無償化」法案が成立し、つづいて一八八二年三月二八日には「初等教育の 義務化、非宗教化」法案が成立することとなった。(…)
 かくて、フランス革命以来の共和派の悲願であった「公教育」がようやく実現することとなった。それはとりもなおさず、子どもを媒介として家族そのものを 国家の側に統合することを意味していたのである。(…)」(桜井哲夫『「近代」の意味』p.53-54)

1882年
    日本銀行営業開始
    軍人勅諭

    壬午軍乱
    アメリカ、中国人移民排斥法
    ルナン『国民とは何か』

1883年
    陸軍大学校開校

    アメリカ、ペンドルトン法(連邦公務員法)制定
    「このペンドルトン法によって、超党派的構成の人事委員会が設置され、任用の条件として職階に指定された公職に限定した公開試験制度の導入と、公 務員の政治活動禁止が法的に規定されるようになった。ペンドルトン法は、イギリスの公務員制度の改革内容を参考にしたと言われるが、戦後日本の公務員法が ペンドルトン法の影響を受けていることは確かである。」(猪木武徳『学校と工場』p.192)

    ドイツ、健康保険制度導入
    「営業条例(工場法)の改定と女性保護法の制定を絶対に阻止しようとした帝国宰相のビスマルクは、そのかわりに国家福祉を導入して、労働者を懐柔 しようとした。その結果、ビスマルク政権下のドイツでは、一八八三年に健康保険、八四年に労災保険、八九年に障害・老齢年金と、近代的な社会保険制度が他 のヨーロッパ諸国に先駆けてつぎつぎに法律として導入されることになった。これ以前からすでに、雇用者と被雇用者の双方が拠出する共済年金は存在したが、 従来の金庫が疾病、労災など、さまざまな領域を包括的に保障したり、あるいは特定の領域だけに限定されていたのに対して、八〇年代の社会保険は健康、労 災、障害・老齢と目的別に設定されている。
 また、従来のものと比較して新しい保険は次の点で抜本的に異なっていた。第一に、この制度は強制加入であり、工場労働者すべてが加入対象になるなど一般 性を帯びた。第二に、給付に関する最低基準が全国一律に規定された。第三に雇用主の拠出義務が法定化され、保険ごとに労使の負担割合の基準が定められた。
 この新しい制度は全国的に組織された包括的で強制的な連帯共同体であり、国家が財政援助し、また雇用主と被雇用者は何らかの形で組織運営に参加した。 (…)不十分なものであったとはいえ、雇用労働者の保障が労働と結びついた権利として認められたという意味で、この社会保険は近代的な制度であった。」 (姫岡とし子『ジェンダー化する社会』p.139-140)
     cf.姫岡とし子:http://www.arsvi.com/0w/hmoktsk.htm

    「社会保険における議論や法的規定は、労働者としての女性を弱者、二流労働者として扱い、以前から存在していた労働におけるジェンダー・ヒエラル ヒーを容認し、再編強化したのである。逆に男性はこの近代的な制度のなかで家族扶養者として正式に認定され、これにより労働者としての地位を高めることに なった。さらに女性の権利に関しては、健康保険では経済的な事柄が問題になっているという理由で選挙権が与えられたけれども、その他の保険では判断力が必 要な司法の問題として拒否され、この意味でも既存のジェンダー観が再生産されるとともに、女性労働者は弱者、すなわち「保護される者、依存する者」という 意味が強化されたのである。
 この保険はまた、家族モラルを定義する上でも重要な役割を果たした。子どもの年金や出産に関しては婚姻外の場合でも認められたが、寡婦手当てに関して は、事故後の婚姻締結を対象外とし、結婚返還金も正式な証明書が必要など、制度的な婚姻に固執した。このように社会保険法は、近代的な家族規範を浸透さ せ、労働者のジェンダー化を推進するにあたって重要な役割を演じたのである。」(p.172-173)

1884年
    秩父事件
    甲申事件

1885年
    内閣制度が発足、伊藤博文が初代総理大臣に就任
    福沢諭吉「脱亜論」
    坪内逍遥『当世書生気質』
    ハワイへの「官約移民」はじまる。横浜から出発

    「ガス・エンジンを動力にする車両」がカール・ベンツによって発明される。翌年に特許登録

1886年
    小学校令公布。義務教育、教科書検定制度など
    帝国大学令、東京大学が帝国大学に、
    「第一条 帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」

    私立法律学校特別監督条規、帝国大学総長による東京府の私立法律学校の監督

    中学校令、五年制の尋常中学校(1890年に全国で110校)と二年制の高等中学校(全国に7校設置)創設
    「この時期の標準的な進学ルートは、尋常中学校の各学年修了者あるいは卒業者が、まずは高等中学校付属の予科や補充科を受験し、入学後に、尋常中 学校の教 育課程を再度修学した上で、本科に進学するというものであった。したがって、高等中学校の入試も、本科の定員を満たすための選抜試験というよりは、むし ろ、受験段階での学力水準に応じて、尋常中学校に相当する予科や補充科の入学を許可する検定試験として実施されたのである。
(…)
 この時期の高等教育機関進学者の平均年齢は、入学規定による最短年数よりも、大幅に上回っていた。たとえば、一八九二年における第三高等中学校の予科第 一 学年(最短一四歳で入学可能)の在籍者一〇一名の年齢は、最高で二七.四歳、最低で一四.九歳、平均では一八.九歳、さらに補充科二五名の平均年齢は一 九.四歳であった。何年にもわたる受験に末、ようやく補充科の水準に到達したという者も多数いたことがうかがわれる。(…)」(川口浩編『大学の社会経済 史』p.130)

    北海道庁設置

    三井銀行、試験による行員採用法を定める
    「本人の健康状態や品行、本人と身元保証人の資産状況などの調査をしたうえで、受験が許可される。受験者の年令によって、試験科目が異なり、丁年 以上のものを対象とした試験は、和漢書、算術、楷行書、営業上往復文書、簿記、経済学、法律、洋学、会話談判の8科目で、未丁年を対象とした試験は、小学 校高等科・中等科の範囲内である。合格者は、30日間、試補として簿記課、債務課、金庫課の3課以外の課に配置されて才能が試された。」(千本暁子「ホワ イトカラーの人材育成と学校教育への依存」p.18)

1887年
    「文官試験試補及見習規則」、「高等文官」任用制度発足
    「そこでは、奏任官(上級官僚)試補の選抜試験である高等試験においては、@帝国大学の法科大学・文科大学の卒業生は無試験で試補になれる特権を 与えられるとともに、A特定の学校の卒業生(「高等中学校及東京商業学校」と「文部大臣の認可を経たる学則に依り法律学政治学又は理財学を教授する私立学 校」)のみに受験資格を制限した。また、一ランク下の中級官僚である判任官見習への選抜を行なう普通試験では、@「官立府県立中学校又は之と同等なる官立 府県立学校」「帝国大学の監督を受くる私立法学校」の卒業生は無試験で任用、Aそれ以外は試験を受ける、という学歴による差別化が定められた。「文官試験 試補及見習規則」はまもなく「文官任用令」に代わり、帝大生の無試験任用の特権は廃止されたものの、依然として予備試験免除の形で帝大卒業生の特権構造は 存続していった。」(広田照幸『教育言説の歴史社会学』p.147)

    宿屋営業取締規制
    「東京の都市形成史の観点で見逃せないのは、「新開町」の記述だ。
 江戸期の大名屋敷や藩邸跡が、明治期になって庶民の町に開発されてできたのが新開町で、本書では、三田の薩摩ヶ原、本所の津軽ヶ原、下谷の佐竹ヶ原、牛 込の酒井屋敷などが挙げられている。「なかんずく茲に最も細民の便利を期して拓かれたるは佐竹ヶ原の新開町なり。幅員三丁にわたる地面はほぼ二千軒の汽車 的小屋と仮屋的商店を列ねて新道縦横……」と書かれている。こうした新開町は、下谷万年町、四谷鮫ヶ橋、芝新網町といった貧民街とその性格を異にしてお り、東京のなかの新しい下層社会といっていい。
 東京の木賃宿は、1887年の宿屋営業取締規制によって、営業区域が制限され、都心から次第に本所や浅草などの周辺に移動していく。そうした木賃宿のエ リアと新開町のエリアが重層的な下層社会を都市・東京の内部に形成していく動向を、ここに読みとることができる。その後、盛り場の周辺にできる新開地にま で、思いを及ばせてもいいだろう。」(日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』『最暗黒の東京』p.5)

1888年
    海軍大学校開校

1889年
    大日本帝国憲法公布(1890年施行)
    東海道線の新橋−神戸間の鉄道が全線開通
    三菱長崎造船所、親方職長層に代わる熟練工を自ら養成し始める
    『試験及第法』

    イギリス、技術教育法制定
    「第三に、実業教育に対して、一八八九年技術教育法の制定までイギリス政府はほぼ無為無策であったという点である。したがって、イギリス社会には 実業教育を推進する基盤が脆弱であったのであり、産業界と教育界とが協力関係を築きにくい土台があったのである。では、イギリス社会にとって、大学とはど のように位置付けられていたのであろうか。
 学卒者であることの意味が、シティの銀行家にとっては「ジェントルマンとしての素養を身に付けること」であったし、一方、世紀転換期の産業企業家にとっ ては「専門的知識を身につけて、諸外国に対してキャッチ・アップを図ること」であった。」(川口浩編『大学の社会経済史』p.186-187)

    イギリス、大学に対して初めて国庫助成を行う
    「イギリスの国全体に対しその将来に非常に大きな影響を及ぼすことになるもう一つの転換点は、ユニバーシティ・カレッジに国庫補助金を支給すると いう政府の決定であった。政府はすでにイギリスの高等教育財政に関与していたが、奇妙なことに、イングランド自体はその対象外に置かれたままであった。 (…)しかしながら、一八八九年以降こうした例外は除かれ、イングランドの高等教育機関に対しても、大蔵省からの補助金が規則的に、また次第に多く支給さ れるようになった。(…)それと同時に、一八八九年に制定された技術教育法により、各地方の技術教育振興のために地方税を充当することも可能となった。ま もなく、かつては営業許可の更新を受けていないパブのために計上されていた財源(「ウィスキー・マネー」)が、市民大学を含め技術教育に転用されることに なった。
 これらの措置によって支給されることになった補助金の額はたいしたものではなかった。だが、補助金額の多寡よりもっと重要なことは、ここにおいて、イン グランドの大学教育に対して国が財政支援をおこなうという原則が確立されたことであった。また、国庫補助金を管理する必要から大学補助金委員会(UGC) の前身が設立されたことも、イギリスの大学の将来にとって重要な出来事であった。(…)」(M・サンダーソン『イギリスの大学改革 1809-1914』p.135-136)

1890年
    岩崎弥之助、丸の内一帯の軍用地払い下げを受ける。「一丁ロンドン」と呼ばれるオフィス街となる。
    第一回帝国議会
    教育勅語の発布

    小学校令改正(第二次小学校令)
    「第一条 小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」
    逓信省、女子電話交換手を募集し訓練を開始

    ビスマルク辞任

1891年
    三井銀行、高等教育を受けた人材を初めて採用
    「ところが、当時高等教育を受けたものが民間企業に就職することはきわめて稀なことであった。とくに1890年頃までは、エリート校である東京大 学出身者は、官界、教育界、法曹界へと進み、民間企業にはいるものはいなかった。(…)かれらにとって民間企業は、丁稚からたたきあげた手代・番頭が、世 辞と愛嬌で商売をしている世界で、レベルの低い世界にすぎなかったのである。(…) 当時民間企業が学校出身者を採用しようとすれば、良い条件を提示しなければならなかった。そこで三井銀行では、行員の給料を大幅に引きあげ、他の民間企業 はもとより、官吏の給料よりも高くした。こうして行員に誇りをもたせ、士気を高めようとしたのである。」(千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教育 への依存」p.19)

    田中正造、足尾鉱毒事件への対策を政府に迫る
    内村鑑三不敬事件
    大津事件

1892年
    三井銀行、1986年制定の試験規則を改正。高等教育を受けた人材を多く採用するために、必要なものにだけ試験を課すようにした。
    鉄道敷設法、官設主導による鉄道網拡張の方針が本格的に打ち出される
    伝染病研究所設立、福沢諭吉が北里柴三郎の研究を助成

    シカゴ大学開校
    「シカゴ大学の新機軸は他でもない、これら高等教育の活動として考えられるものを、すべて一つの大学のなかに取り込もうとした点にあった。それは いうなれば、高等教育の一大コンツェルンともいうべきもので、そこにはカレッジ教育、大学院教育、専門職業教育、地域社会へのサービス活動、大学出版部を 拠点とする出版活動など、すべての活動が盛り込まれていた。」(潮木守一『アメリカの大学』p.220-221)

1893年
    三井銀行、履歴書の書式を改める
    「(…)履歴書に記載すべき事項として、教育を受けた学科、年月、学校や塾名、先生の名前、官庁・銀行・会社などに勤務した年月、勤務中の賞罰、 退職辞職の年月、職業・技芸をあげている。こうした改革から、採用基準が「試験の結果」や「学力」から、「出身校」や「経歴」にかわったことがわかる。」 (千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教育への依存」p.19)

    文官任用令

    松原岩五郎『最暗黒の東京』
    「明治中期の東京の下層社会を描写した記録文学の傑作。1892年に『国民新聞』に連載した一連のルポをもとに構成された著作。
 (…)
 全35編で、貧民社会のみならず広く下層社会の生活がすみずみまで紹介されている。なかでも出色なのは、「残飯屋」であろう。残飯屋の「下男」に住み込 み、士官学校から残飯を仕入れ、その「兵隊飯」を売る仕組みや残飯で露命をつなぐ下層民の生活ぶりがビビッドに描写されている。また、労働者宿泊所を拠点 に、全国から集まる「出稼人」と交わり、「戦争においては焚出し方となり、軍旅においては運送方となり、田舎にあっては耕作の人たり、都会にあっては庖厨 の人たり、いかなる場合においても常に人生生活の下段を働らく処の彼らの覚悟」に共鳴する点など、松原の人間性がよく出ている。」(日本寄せ場学会編『寄 せ場文献精読306選』『最暗黒の東京』p.4-5)

1894年
    日清戦争勃発
    高等学校令、高等中学校が高等学校となる。「旧制高校」の原型
    ハワイ移民事業を民営に移す

    日本で最初期の女性事務職採用。茨城県河内郡竜ヶ崎町役場と三井銀行大阪支店
    「明治後期、良妻賢母思想という新しいジェンダーのもと事務の職場で女性が「発見」されたことは、「職場は男性のもの(であり女性のものではあり えない)」というジェンダーが、そのままのかたちでは、職場世界の解釈する枠組みとはなりえないことを示していた。一方、同時に見出された男性たちの状況 はこのように多様なものであり、「男性」と「女性」の間に境界を設けることを困難にしていた。組織の拡大に伴い学卒者を含めた事務職にそれまでとは異なっ た資質が求められるようになっていたこと、それらを基準とした場合、「男性」に対するかならずしも好意的とは言えない評価、さらに、「女性」に対する積極 的な評価の存在によって、明治三〇年代の事務職の職場は、ジェンダーによっては解釈の困難な要素を数多く抱えるものだった。そこでは実際、「男性」と「女 性」というカテゴリーは、人々の視点のなかで、相互に交換可能だととらえられるものだったのである。」(金野美奈子『OLの創造』p.36)

    甲午農民戦争
    ドレフュス事件

1895年
    日清戦争終結。台湾割譲。台湾現地住民「台湾民主国」独立を宣言するも鎮圧される。三国干渉
    「廃藩置県から一五年を経た一八九四年になってさえ、沖縄を視察した内務省書記官の一木喜徳郎は、学校でせっかく教えた日本語も「一旦退校すると きは其共に交はるものは皆大和語を解せさる者かるか故に僅に記臆したる大和語も大半之を忘失するに至る」という状態であることを報告している。(…)
 しかしそうした状況を大きく変えたのは、この一八九四年に勃発した日清戦争だった。親清派士族のみならず、一般の沖縄住民にとっても清の敗北は大きな心 理的変化をもたらし、子供たちのあいだでも戦争ごっこや軍歌が他の遊戯を一掃するほどとなったという。こうしたなかで就学率は一気に男四五パーセント、女 一七パーセントを記録し、一九〇七年までには全体でも九三パーセントにまで上昇した。」(小熊英二『〈日本人〉の境界』p.39)
   cf.小熊英二:http://www.arsvi.com/0w/ogmeij.htm

    日本郵船、東京大学と東京高等商業学校の学生の定期採用を開始

1896年
    アイヌの徴兵開始
    「台湾ではまだ徴兵は行われていなかったが、日露戦争は、一八九六年から徴兵されはじめたアイヌたちが、初めて日本軍兵士として参加した対外戦争 であった。アイヌからは六三名が軍人として出征し、戦士三名、病死五名、廃兵二名の反面、金鵄勲章三名をはじめ叙勲率は八五パーセントをこえた。部隊内部 の差別にもかかわらず叙勲されたことは、アイヌ史でも差別を克服するために勇敢に戦ったゆえと評価されている。アイヌの現地でも、働き手の息子を徴兵され ても「これでやっと和人と対等になったと喜んだ」事例もあるという。アイヌ兵士の戦闘ぶり、とくに北風磯吉という名前を与えられていた兵士の活躍は、当時 の新聞・雑誌で大きくとりあげられた。
 坪井が「アイヌなり蕃人なりを含んだところの日本人と云ふものが戦争をしている」と述べた背景には、こうしたアイヌたちの存在があった。勲章を受け凱旋 したアイヌ兵士の故郷では、「歓喜」したコタンの有力者が「之れ実に彼が学校に入りて学びたる、教育の結果に依るもの」と周囲のアイヌに教育の必要を説い て回ったというケースも出たそうだから、まさに坪井の願う方向通りである。彼は、報道されるアイヌ兵士たちの活躍に喝采を送りながら、これで大日本帝国で のアイヌの地位が向上すると思っていたにちがいない。」(小熊英二『単一民族神話の起源』p.84)

    明治二十九年法律第六十三号(六三法)

    河川法制定
    「河川法は、内川交通を重視した低水工事から訣別し、管理と費用負担の原則を確立した堅固な堤防に守られた高水工事を採用した。同時に、河川敷を 官の所有地へと有界化し、治水に関する一切の私権を排除し、一切の事務を内務大臣の行政権力が集中掌握した。
 このころ、河川敷だけでなく、入会地、共有地や山林原野など、作用空間としての利用が粗放であった空間は、国有地として官の所有へと次々有界化され、村 人たちは江戸時代からその身体と自生的に結びついていた空間から疎外されはじめた。この土地収奪に対し、全国各地で国を相手取った訴訟が提起されたが、ほ とんど原告の敗訴に終わり、土地収奪はかえって正統化された。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.216-217)

1897年
    京都帝国大学設立、帝国大学が東京帝国大学に改称
    三井銀行、長期勤続すればするほど退職金の支給額が累進的に増すという規定を定める
    貨幣法公布、金本位制成立
    『実業之日本』創刊

1898年
    沖縄に徴兵令施行(宮古・八重山への適用は四年後)
    公学校令制定。台湾の初等教育のあり方を決定

    民法施行
    米西戦争
    アメリカによるハワイ併合、フィリピン、プエルトリコ、グアムを植民地化

1899年
    実業学校令
    「「工業農業商業等ノ実業ニ従事スル者ニ須要ナル教育ヲ為ス」ことを目的とする実業学校は、産業界に中級の技術者を送り込むために設立された。」 (猪木武徳『学校と工場』p.46)

    横山源之助『内地雑居後之日本』、『日本之下層社会』
    「明治期の下層社会分析の記念碑的な著作。新聞記者によるルポルタージュだが、実地取材と統計資料の駆使によって、科学的・学問的な研究書の域に 達しており、その後の官民の下層社会調査・研究に大きな影響を与えた。
(…)
 東京のこの時期の貧民社会の住人に日雇人足や都市雑業者が多く、労働者が少ない、という指摘は、都市・東京の形成を考える上で、貴重な視点ではなかろう か。というのは、江戸から東京への都市再生の過程で、下層社会は江戸の庶民社会とどういう関連で生まれていったか、なかなかはっきりしていないからだ。
(…)
 農村における小作人の実状にも調査は及んでいる(第五編「小作人生活事情」)。調査場所は、横山の郷里、富山県に限定されているが、1880年以降の松 方デフレと90年代の日本初の恐慌による農民層の分解、農民の離農・移住が、下層社会を東京、大阪だけでなく、北海道開拓などをふくめた全国に拡大してい く契機となったことが分かる構成になっている。
 こうしたネイションワイドの横山の分析をつないでみると、東京の初期の貧民社会は、農村からの移入・流入者が木賃宿を住みかとし、次第に江戸期の裏長屋 の住民たちと混在して、都市雑業に従事した。そこから、資本主義的工場労働者になる者が増え、下層社会は広域化していく。女性の場合は、農村から地方の織 物都市へ一度流れ、そこで過酷な労働条件での女工を体験したあとで、大都市に流入し、江戸期の町民や没落氏族の子女たちとともに下層社会に組み込まれて いった――という側面が見えてくる。
 本書がえぐりだした劣悪な労働条件は、片山潜や高野房太郎などの初期労働運動に大きな影響を与えた。横山はその後、農商務省の工場調査の嘱託になり、 『職工事情』(1903年)完成に寄与した」(日本寄せ場学会編『寄 せ場文献精読306選』『日本之下層社会』p.8‐9)

    不平等条約改正、内地雑居が行われることになる
    国籍法成立

    北海道旧土人保護法成立
    「政府がいったんは否決されたはずの保護法案をこの時期に提出したことについては、アイヌの窮乏が深刻化していたこともあるが、翌年に予定されて いた内地雑居が背景として見逃せない。不平等条約の改正以前は決められた居留地のみ居住していた欧米人が、日本国内を自由に往来することになるという未曾 有の事態を前に、政府はいくつもの政策を用意していた。まず国籍法が制定され、内務大臣が「品行端正」と認めた者のみに帰化の許可をあたえることが定めら れるとともに、帰化者は陸海軍将官や国会議員、国務大臣などにはなれないことが定められた。また訓令により私立各種学校を除いて、宗教教育に制限が設けら れた。いうまでもなく、忠誠心の疑わしい外国人が「日本人」となって要職につくことや、欧米人宣教師が教育に進出することを恐れたための措置だった。さら に監獄法や精神病者看護法の整備など、欧米人の視線から〈野蛮〉ないし〈汚濁〉とみなされかねない存在を隔離し被いかくす対策も準備された。
 (…)北海道旧土人保護法の制定過程は現在でも不明な点が多く、資料も十分に残されてはいないが、数年前まで政府が拒否していたはずのこの法律が上記の ような内地雑居にむけた一連の準備とともに成立したことは、留意されてよいだろう。
 こうして一八九九年に公布された北海道旧土人保護法の内容は、農耕民化をねらった土地の下付などについては以前に否決された加藤案とほぼ同様だったもの の、いくつかの重要な相違があった。一つは、一般の学校への就学促進を趣旨としていた加藤案と異なり、アイヌの「部落」に和人地域とは別個の小学校を国庫 で建てるとされたことである。しかもこの学校はやがて一般の六年制ではなく、経費を節減し科目を少なくした四年制の簡易教育とされていった。(…)
 そして第二の相違は、国庫財政への負担が削減されたことだった。農具や種子の配布および授業料の支給は、対象となるアイヌが「貧困」な場合のみに限定さ れ、教科書や要具料の配布は削減された。しかもこれらの支出は、国庫ではなく北海道庁長官が管理する「旧土人共有財産」からまかなうこととされた。 (…)」(小熊英二『〈日本人〉の境界』p.68-69)

    外山正一『藩閥之将来』
    「外山が『藩閥之将来』で主張しているのは、いま風にいえば「学歴のすすめ」である。ただかれは「学歴」という言葉は使わなかった。この当時学歴 という言葉がなかったわけではない。たとえば『言海』には「学歴=学問、教育ニ就キテノ履歴」とある。だが、それではかれの真意は伝わらない。外山は社会 学者らしく「教育資格」という、おどろくほど現代的な用語で「学歴のすすめ」を説いたのである。
 面白いのは、その「学歴のすすめ」を、外山が個人でなく府県にむかって説いたことである。福沢諭吉の『学問のすゝめ』(明治五年)は、それを読む個人に むけて書かれたものである。ところが外山は府県という「集団」にむけてそれを書いた。そこに外山の社会学者としての目をみるのは、読み込みすぎだろう か。」(天野郁夫『学歴の社会史』p.21-22)
   cf.天野郁夫:http://www.arsvi.com/0w/amniko.htm
    日本人移民810人がペルーに出発。南アメリカへの初めての移民

1900年
    小学校令改正(第三次小学校令)。「内地」で初等教育の無償化

    北海道旧土人教育会
    「坪井は、彼なりの良心からアイヌ救済運動にとりくみ、また日本民族が混合民族であることや、大日本帝国が多民族国家であることを強調した。内村 や坪井といった国体論から煙たがられる人びとが、教育による文明化に肯定的だったのは、彼らが人種差別主義者だったからではなく、ある種の博愛精神と人類 平等観に立っていたからだった。だがそれは、マイノリティを文明化の名のもとに多数文化に同化させ、さらに統合の一形態として、戦場へ動員していく論理で もあった。そして多民族混合の主張は、大日本帝国の対外進出能力賛美をも生みだした。」(小熊英二『単一民族神話の起源』p.85)

    内務官僚、「貧民研究会」結成
    「これは、社会福祉政策、労働者に対する欧米の政策事例を摂取する研究会であり、その1つの流れは、大正以降の都市社会政策につながっていく。  この都市社会政策は、各地で行われた都市社会調査という実証的な裏づけをもって行われ、次第に日常的なものとなった。
(…)
 この調査を通じ、体制から社会の火薬庫とみなされた「細民」は、体制のよりはっきりとした監視の下におかれることになった。」(水岡不二雄編『経済・社 会の地理学』p.337)


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