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事件と言説:若者・教育・労働… 18世紀

18世紀 19世紀 1901-1930 1931-1950 1951-1970 1971-1990 1991-

製作:橋口昌治* 2004.09-


 *橋口昌治(はしぐち・しょうじ) 立命館大学大学院先端総合学術研究科(2003.4入学)
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm

 ※大学院のHPに移す予定ですが、とりあえずここに置きます。
  これから編集などして見やすくします。(立岩)


1753年
    安藤昌益『自然真営道』

1758年
    フランソワ・ケネー『経済表』(Tableau economique)

1763年
    ルイ-ポール・アベイユ『穀物通商の本性に関する一卸売商の書簡』
    「そして最後に、一七六三年五月の勅令と一七六四年八月の勅令が来る。この二つの勅令によって、いくつかの制限はあるにせよ穀物取引のほぼ全面的 な自由が打ち立てられた。つまり、重農主義者の勝利です。のみならずこれは、この主張を(グールネーの弟子たちといった直接の重農主義者ではないが)支持 した人々の勝利でもあった。つまり、一七六四年といえば穀物の自由です。ところが不幸なことに、勅令が出されたのは[一七]六四年八月です。[一七]六四 年九月、同じ年の数週間後ですが、ギュイエンヌでの不作によって価格が天文学的な速度で上昇してしまいました。ここですでに、穀物の自由を撤回しなければ ならないのではないかという問いが立ちはじめる。というわけで第三の議論が起こります。今度は重農主義者が守勢にまわった議論です。重農主義者たち(加え て、重農主義者ではないが同じ原則を支持する者たち)はここで、一七六四年の時点ではほぼ完全に認知させていたあの自由をあらためて擁護することを余儀な くされた。
 つまり、一七六四年前後には大量のテクスト・企画・計画・説明が見られるのです。私はただ[そのなかでも]最も図式的で明白なものを参照しようと思いま す。これはそもそも大変な重要性をもつテクストでもある。それは一七六三年のテクストで、『穀物通商の本性に関する一卸売商の書簡』といいます。ルイ- ポール・アベイユという人物によって書かれたものです。このアベイユはそのテクストの及ぼした影響によっても、またグールネーの弟子として重農主義の 立場の大半をまとめてみせていることからも重要です。つまり、彼はこの時代の経済思想における一[種]の蝶番のような位置を代表しているということで す。」(ミシェル・フーコー『安全・領土・人口』p.44)

    「(…)食糧難という出来事はこのようにして二分される。災禍としての食糧難は消滅しますが、諸個人を死なせる食糧不足のほうは消滅しない。のみ ならず、それは消滅してはならない。
 つまり、ここには二つの水準の現象があります。それは集団的水準と個人的水準のことではありません。というのもつまるところ、この不足によって死ぬ―― 死 なないにしても苦しむ――のはただ一人の個人だというわけではないからです。多くの個人が苦しむ。おこなわれるのはまったく根本的な分断です。その分断の 一方には、統治の政治経済学的活動にとって適切とされる水準がある。人口という水準です。そして分断の反対側にあるのは多くの個人、個人の群れという水準 です。こちら側は適切とはされない。いやむしろ、ある条件を充たすときにのみ適切とされる。しかるべく管理・維持・助成されたそれが、人口という適切な側 の水準で獲得が欲される当のものを可能にするかぎりでのみ、適切とされる。個人の群れはもはや適切ではない。それに対して人口は適切である。王国の臣民全 体・住民全体の内部に設けられるこの分断は現実の分断ではありません。現実に一方がこちらにあり、他方があちらにあるというわけではない。そうではなく、 権力知の内部自体(テクノロジーと経済的管理の内部自体)において、人口という適切な水準と、適切でない水準(さらには単に道具としての水準)のあいだで の切断がおこなわれるということです。最終的目標は人口となります。人口は目標として適切であり、それに対して諸個人、一連の個人、諸個人のグループ、個 人の群れのほうは、目標として適切ではないということになる。後者はただ、人口の水準において何かを獲得するための道具・中継ぎ・条件としてのみ適切であ るにすぎない。」(ミシェル・フーコー『安全・領土・人口』p.51-52)

    「人々がそのようなことを受け容れず、穀物の備蓄に飛びかかり、対価を払うこともなくこれを手に入れる。また、非合理的で計算違いの穀物の売り渋 りをする人々がいる。そのように想定すると、すべてが止まってしまう。したがって、反乱が起こったり専有が起こったりする。あるいは専有と反乱が同時に起 こる。ここでアベイユは次のように言います。このようなことは、これらの人が現実には人口には属していないという証拠である。では、彼らは何なのか?そ う、彼らは人口ではなく人民なのだ。人民とは、人口を対象としてなされるこの管理に対して、人口という水準自体において、あたかも自分が人口というこの集 団的対象・集団的主体の一部ではないかのように振る舞う者のこと、自分がその外部に身を置いているかのように振る舞う者のことである。したがって彼らこ そ、自分が人口であることを拒否する人民として、システムを狂わせる者たちなのだ。」(ミシェル・フーコー『安全・領土・人口』p.53)

1776年
    連合13州による全会一致の宣言(通称アメリカ独立宣言)を採択
    「アメリカの舞台に見られなかったのは、貧困(ポヴァティ)というよりはむしろ不幸(ミゼリー)と欠乏(ウォント)であった。というのは「富者と 貧民、勤勉な人と怠惰な人、知識のある人と無知な人のあいだの争い」はやはりアメリカの舞台でも非常に多く見られ、建国者たちの心にかかっていたからであ る。彼らは自分たちの国が豊かであったにもかかわらず、このような区別は「宇宙と同じくらい古くからあり、地球と同じくらい広大であり」、永遠であると信 じていた。しかし、アメリカでは勤勉な人も貧しかったが、みじめ(ミゼラブル)ではなかった。イギリスとヨーロッパ大陸からきた旅行者たちは「一二〇〇マ イルを行くあいだ、私は物乞いする人間に一人として出会わなかった」(アンドルー・バーナビー)ということを等しく認め、等しく驚嘆している。したがって 彼らは欠乏によっては動かされず、革命は彼らによって覆されなかった。彼らが提出した問題は社会的問題ではなく政治的問題であり、それは社会の秩序ではな く統治の形態と関連していた。(…)代表制は、たんに「自己保存」あるいは自己利益の問題にすぎず、勤労者の生活を守り、それを政府の側からの侵害にたい して保護するのに必要なものであるにすぎない。この本質的にネガティヴな防衛は、政治敵領域を多くの人たちに開放するものではけっしてない。そしてそれ は、ジョン・アダムズによれば「自己保存についで永遠に人間的活動の偉大な源泉である卓越への情熱(パッション・フォア・ディスティンクション)」―― 「同等になりたい、あるいは、似たものになりたいというだけでなく人より抜きんでたいという欲求」――を人びとのうちにかきたてるものでもない。そこでそ の自己保存が確保されてしまえば、貧民は、その生活に重要な意味が与えられず、卓越の光輝く公的領域からは排除されたままの状態に立たされることになる。 彼らは、行くところ必ず暗黒(ダークネス)のなかに立ちすくむ。ジョン・アダムズはこの状態を次のようにのべている。「貧しい人の良心は曇りがないのに、 彼は辱しめを受けている。……彼は自分が他の人びとの視野の外にあると感じ、暗闇のなかを手さぐりで歩く。人は彼に目もとめない。彼は気づかれないままに よろめき、さまよう。教会や市場のような人混みの中にいても……彼はまるで屋根裏か地下室のなかにでもいるように無名状態(オブスキュリティ) 〔obscurityは仲間たる人びとに認知されていない状態を意味し、この文脈における目立った卓越の状態distinctionの反対語である――訳 者〕にある。彼は異議を唱えられたり、とがめられたり、非難されたりしない。彼はただ気づかれないのである。……完全に無視され、しかもそのことに自分も 気づいているということは耐え切れないことである。もしロビンソン・クルーソーがその島にアレクサンドリアの図書館を持っていたとしても、再び人間の顔を 見ることはできないということが確実であったとしたら、彼は書物を開いてみる気になっただろうか?」(ハンナ・アレント『革命について』p.103- 105)

    アダム・スミス『諸国民の富』(『国富論』)
    「職人たちの団結についてはしばしば耳にするが、親方たちの団結についてはめったに耳にしないといわれてきた。しかし、だからといって、親方は めったに団結しないなどと思う人がいるなら、それはこの問題についてはもちろん、世間についても無知な人である。親方たちは、いつどこでも、一種の暗黙 の、しかし恒常的かつ一様の団結を結んで、労働の賃金を実際の率以上に上昇させまいとしている。この団結をやぶることは、どこでも、きわめて不人気な行為 であり、親方が近隣や同輩のあいだで一種の非難のまとになることである。たしかに、われわれはこのような団結をめったに耳にしないが、それというのも、だ れもが耳にしないほどそれが通常の、ものごとの自然の状態といっていいものだからである。(…)しかしこのような団結はしばしば、職人たちの、これとは反 対の防衛的な団結の抵抗を受ける。彼らもまた、この種の挑発がまったくなくても、自分たちの労働の価格を引き上げるために、自発的に団結することがある。 彼らの通常の主張は、あるときには、食料品の価格が高いということであり、あるときには、親方たちが自分たちの仕事によって大きな利潤をあげているという ことである。だが彼らの団結は、攻撃的なものであれ防衛的なものであれ、つねにいくらでも耳にはいる。争点をすみやかに解決するために、彼らはつねにやか ましくさわぎたてるという方法に訴え、ときにはもっともショッキングな暴力や乱暴に訴えることもある。彼らは必死なのであり、そして必死の人びとの愚かさ や無謀さをもって行動する。彼らは飢えるか、さもなければ親方たちを脅かしてただちに自分たちの要求を受けいれさせるかしなければならないからである。こ ういうばあい、親方たちは相手側にたいしてこれにおとらずさわぎたて、官憲の援助と、使用人や労働者ややとい職人の団結をあれほどきびしく禁止する法律 の、厳格な施行を声高く求めてやまない。したがって職人たちがこういう騒然とした団結の暴力から何らかの利益を引き出すことはまれであり、こういう団結 は、一部は官憲の干渉のため、一部は親方たちの頑強さがまさっているため、一部は職人たちの大部分が当面の生計のために屈服する必要にせまられているた め、一般に首謀者の処罰か破滅という結末にしかならないのである。」(『国富論1』岩波文庫、p.122-123)

    「次の五つが、私の観察しえたかぎり、ある職業で金銭上の利得が小さいのを補い、ほかの職業で利得が大きいのを相殺する、主な事情である。すなわ ち、第一に、職業そのものの快・不快、第二に、職業の習得が容易で安あがりか困難で高くつくか、第三に、職業における雇用の安定・不安定、第四に、職業に たずさわる人びとへの信頼の大小、そして第五に、職業における成功の見込みの有無である。」(p.177)

    「労働のうちである種類のものは、それが投下された対象の価値を増加させるが、もう一つ別の種類の労働があって、それはそのような効果をもたな い。前者は、価値を生産するのだから、生産的と呼び、後者は不生産的と呼んでいいだろう。こうして製造工の労働は、一般に、彼が加工する材料の価値にたい して、彼自身の生活費の価値と彼の雇主の利潤の価値をつけ加える。これに反して、家事使用人の労働はなんの価値もつけ加えない。(…)反対に家事使用人の 労働は、どんな特定の対象または販売できる商品にも固定され実現されることがない。彼の仕事は、一般に、遂行されたその瞬間に消滅し、あとになってそれと ひきかえに等量の仕事を入手できる痕跡または価値を、あとに残すことはめったにない。
 社会のもっとも尊敬すべき階層のうちのある人びとの労働は、家事使用人の労働と同じようになんの価値も生産せず、その労働がすんだのちも存続してあとで それとひきかえに等量の労働を入手できるような、持続的な対象または販売できる商品に固定または実現されることがない。たとえば主権者は、彼のもとにつか えるすべての司法および軍事官僚、全陸海軍とともに、不生産的労働者である。(…)同じ部類にいれられるべきものに、もっとも厳粛でもっとも重要な専門職 のうちのいくつかと、もっとも軽薄な専門職のうちのいくつかがあって、教会人、法律家、医師、あらゆる種類の文筆家と、俳優、道化師、音楽家、オペラ歌 手、オペラ・ダンサーなどがそうである。これらのうちでもっとも卑しい者の労働でも、ある価値をもっていて、それは他のあらゆる種類の労働の価値を規制す るのとまったく同一の原理によって規制されるし、またそれらのもののうちでもっとも高尚でもっとも有用な者の労働でも、あとで等量の労働を購買または入手 しうるようなものを何も生産しない。俳優の朗読や演説家の熱弁や音楽家の楽曲のように、彼らすべての仕事は、生産されたまさにその瞬間に消滅する。」 (『国富論2』岩波文庫、p.109-111)

    上田秋成『雨月物語』

1777年
    フランス、書籍商の「特権認可状」に関する国王顧問会議裁決
    「(…)出版業は必ずしも安易な事業ではなかった。印刷のための機械や活字をそろえるためには多額の資金が必要であったし、印刷した書物を完売し て投資資金を回収するためには、長い年月が必要であった。しかも、売れ行きのよい本はすぐに海賊版が印刷され、安い値段で市場に出回り、印刷業者と書籍商 を苦しめた。印刷業者と書籍商は、海賊版に対抗するために、独占的な営業権を保証してもらおうとして、「特権認可状」の交付を国王に要求するようになっ た。当初、印刷業者と書籍商は、特権認可状によって著作物に関して何らかの権利を主張したわけではなかった。ただ、海賊版業者や競争相手に対して自衛する ために、国王の庇護が必要だったのである。高等法院次席検事のアントワーヌ・ルイ・セギュイエは、1777年の国王顧問会議の裁定に関する報告書の中で、 書籍商が特権認可状を必要とするに至った事情を次のように述べている。15世紀末までは、印刷物の数はそれほど多くなかったので、書籍商が競合しても致命 的な損害をもたらすほどではなかった。しかし、印刷業者が増えるにつれて、書籍商は著作物を選択せざるを得なくなった。技術の進歩とともに、偽造がはびこ り、出版物の競合によって、売り上げに影響が生じてきた。有名な印刷業者であっても、経営が苦しくなって、倒産するものも多かった。ついには、16世紀の 初めには、多額の投資をして印刷業を始めようとするものはなくなってしまった。早急な救済策を講じる必要があった。書籍業の衰退を防ぐためには、国王に援 助を求めざるを得なかった。国王に特定の書物について印刷許可を申請し、他のものに印刷を禁止することを要請するようになったのはこのためである。
 1777年の裁定は、著作者と書籍商とのこれまでの力関係を根底からくつがえすものであった。この裁定によって、著作者は永久的な特権認可状を与えられ たが、一方、書籍商の特権認可状には10年間の期限が付けられ、しかも、4分の1以上の増補がなされていない限り更新は認められなくなった。特権認可状を 得た著作者は自分の書物を販売することができるようになった。そして、書籍商に特権認可状を譲渡しない限り、その権利を永久享受することができるように なった。また、この裁定によって、地方の書籍商も書物を印刷する権利が認められるようになった。この裁定によってパリの書籍商と地方の書籍商との間の対立 は表面的には一応終止符が打たれた。しかし、両者の確執は、フランス革命によってパリの書籍商の特権認可状が廃止されるまで続くことになる。1777年の 裁定によって、書籍商のいらだちは一段と強くなっていった。しかし、著作者たちは、この裁定が書籍商の束縛から著作者を解放するものであることについて十 分に認識していたとは言えない。著作者が書籍商に特権認可状を譲渡することを拒否すれば、書籍商たちは改めて著作者と交渉せざるを得なかったと思われる が、現実はそうではなかった。著作者が世に出るためには書籍商が必要であったが、書籍商は代わりの著作者はいくらでも見付けることができたからである。書 籍商たちは、1777年の裁定に抵抗して様々な試みを繰り返した。」(藤原博彦「フランスにおける著作権についての考え方の変遷」『知財研紀要』 2005、p.112-113)

1778年
    ヴォルテール没
    「「あなたはさぞかし広い立派な土地をお持ちなんでしょうね。」とカンディードはこのトルコ人にいった。
「たった二十アルパンなんで。」とトルコ人は答えた。「それを倅たちといっしょにつくっております。働けば、わしらは三つの大きな不幸から遠ざかる。退屈 と不身持と貧乏、この三つですじゃ。」」(『カンディード』p.170)

    「「わたしは自分の畑を耕すべきことも知っています。」とカンディードはいった。
「いかにもそのとおり。」とパングロスはいった。「というのは、人間がエデンの園におかれたのは働いてこれを耕さんためであった。これすなわち、人は休息 のために生まれたるにはあらず、という証拠だ。」
 「理屈ぬきで働きましょう。」とマルチンがいった。「人生を耐え得られるものにする途は、ただこれ一つです。」(『カンディード』p.171-172)

    ルソー没
    「要するに、僕は地上でただの一人きりになってしまった。もはや、兄弟もなければ隣人もなく、友人もなければ社会もなく、ただ自分一個あるのみ だ。およそ人間のうちで最も社交的であり、最も人なつこい男が、全員一致で仲間はずれにされたのである。どういう苦しめ方が僕の敏感な魂に最も残酷である かと、彼らはその憎悪の極をつくして考えめぐらしたのだ。」(『孤独な散歩者の夢想』p.7)

    キャプテン・クック、ハワイ諸島「発見」

1779年
    平賀源内没(1780年という説も)

    イギリス、コールブルックデール橋完成(世界初の鉄橋)

1780年
    南町奉行所が深川茂森町に「無宿養育所」設置(1786年廃止)

    フランス『百科全書』全38巻完結

1781年
    エマヌエル・カント『純粋理性批判』

    ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(トゥパク・アマル2世)没

1782年
    ルソー『告白』第一部刊行
    「(…)世界を自己と自己ならざるものとに分割して、自己のほうを受容し賛美することは、現実から想像上のものへのルソーの脱出・飛翔の、さらに もう一つの実例であるとは、本当にありうることである。そうなると、自己は盲目的崇拝の対象となるのだ、存在してほしい欲望の客体なのだ。
 しかしながら、ルソーの自伝的で告白的な著作(oeure)の、まさに大いなる反語(アイロニー)の一つは、著作〔「いとなみ」でもある〕の中心戦略、 すなわち、自己を自己ならざるものから分離すること、および、その結果起こるその自己の探求と賛美が最後には否定されるという事態である。ルソーの固体化 された自己は、結局は、役立たずだと分かり、そのために必然的に起こる喪失は、その自己が生み出す代償的な満足に結局のところまさり、そしてルソーは、自 分の告白的な数々の著作がむりやり定めようと努める、自己の境界そのものを最後には無に帰す――もしくは無に帰したいと思う――のである。」『自己のテク ノロジー』p.181)

1783年
    浅間山大噴火

    アメリカ独立戦争終結

1784年
    エマヌエル・カント「啓蒙とは何か」
    「自分自身がすでに啓蒙されているからこそ徒らに影におびえる必要のないような君主、しかしまたそれと同時に、訓練の行き届いた多数の将兵から成 る軍を擁して、国家の安寧を保証できるような君主にして初めて、「君達はいくらでも、また何ごとについても意のままに議論せよ、ただし服従せよ!」と言明 し得るのである、――実際かかる大胆な発言は、共和国といえども敢てし得ないであろう。」(『啓蒙とは何か』岩波文庫、p.18-19)

    カント「世界公民的見地における一般紙の構想」
    「(…)人間は、相集まって社会を組織しようとする傾向をもっている、彼はこのような状態においていっそう人間としての自覚をもつようになるから である、換言すれば、彼の自然的素質の発展をみずからのうちに感知するのである。ところがまた人間は、仲間を離れて自分一人になろう(孤立しよう)とする 強い傾向をも具えている、彼は自分のうちに、社交的性質と同時に、一切を自分の意のままに処理しようとする非社交的性向をも見出すからである。そこで彼 は、到る処で他者の抵抗に出会うことを予期する、自分のほうでも他人に抵抗しようとする傾向が自分自身にあることをよく承知しているからである。ところで この抵抗こそ、人間がほんらい具えている一切の力を覚醒させ、彼を促して怠惰の性癖を克服させ、また名誉欲や支配欲、或いは所有欲に駆られて、人間仲間 ――彼がこの人達をどうにも我慢できないとしながらも、さりとて彼等からすっかり離れることもできないような仲間――のあいだにひとかどの地位を獲得させ るのである。そして未開状態から脱出して文化へ向う紛うかたなき第一歩はここに始まるのである、なお文化は、もともと人間の社会的価値にもとづいて成立す るところの状態にほかならない。(…)とは言えかかる非社交的性質がなかったなら、人間はいつまでも淳朴な牧羊生活を営み、なるほど仲間うちの和合、つつ ましい満足、人々相互の愛は全うせられるであろうが、しかし彼等の一切の才能は永久に埋没せられるであろう、そして人間は、彼等の牧する羊さながらに善良 であるにせよ、しかし彼等が自分達に存在に与えるところの価値は、この家畜がもつところの価値以上のものではあるまい。(…)」(『啓蒙とは何か』岩波文 庫、p.30-31)

1785年
    イギリスの日刊紙、The Times創刊(世界最古の日刊紙)

1786年
    タウンゼンド『救貧法論』
    「アダム・スミスからタウンゼンドへの時代の雰囲気の変化は、実にめざましいものであった。スミスは、トマス・モアやマキャヴェリ、ルターやカル ヴィンといった国家の創案者たちとともに始まった時代の終焉を画したのにたいし、タウンゼンドは一九世紀の人間であって、リカードやヘーゲルが各々の対極 的角度から国家の法に従属することなく、逆に国家をみずからの法則に従わせるような社会の存在を発見した時代の人であった。」(ポラニー『大転換』 p.151)

1787年
    ベンサム、円形監獄・パノプティコンを考案(1794年に議会で採用の決定がなされるも実現せず)
    「社会改革者のうちで最も実を結んだ人物ジェレミー・ベンサムが、貧民を大規模に使って、彼よりさらに発明の才ある弟のサミュエルのつくった機械 を運転して木材や金属の加工をさせる計画を立案したのは、それからちょうど一世紀後のことであった。サー・レスリー・スティーブンは、「ベンサムは弟と一 緒になって蒸気エンジンを探しもとめていた。そして今や、蒸気の代りに囚人を雇うことを思いついたのだ」といっている。これは一七九四年のことであった。 ジェレミー・ベンサムの円形監獄(パノプティコン)の計画は、監獄を安上りで効果的に監視できるように工夫されていたが、その計画は二年も前から存在して おり、彼は今やそれを自分の囚人経営工場に適用することを決意したのだ。そして貧民が囚人にとって代わるはずであった。(…)これによると二五〇を下らな い工場が設立され、そこに約五〇万人が収容されることになっていた。その計画にはさまざまの範疇の失業者について詳細な分析が付せられていたが、その分析 においてベンサムは、この領域での他の研究者の成果に比して一世紀以上も先んじていた。彼の分類好きな精神はその最善の場合には現実への適応能力を示しえ たのである。近年になってあらわれた「行き場のない職人」は、「偶発的不況」ゆえに雇用先を見つけだすことのできない者とは区別されていた。つまり、季節 労働者の「周期的不振」は「免職された職人」とは区別されていたのだ。そのような職人とは、たとえば「機械の導入によってはじき出さ」れた者、あるいは もっと近代的な言葉でいえば、技術的失業者のことであった。このグループは、ベンサムの時代に対仏戦争によって目立つようになったもう一つの近代的範疇、 すなわち「除隊職人」から構成されていた。しかしながら最も重要な範疇は上述の「偶発的不況」による失業者であった。それには「流行に左右される」仕事を している職人や工芸家ばかりでなく、それよりはるかに重要な「全般的工業不況が発生したばあいの失業者グループが含まれていた。ベンサムの計画は、失業者 を大規模なスケールで商品化することを通して景気の循環を平準化するものにほかならなかったのだ。」(ポラニー『大転換』p.143-145)

    「密集せる多人数、多種多様な交換の場、互いに依存し共同するさまざまな個人、集団的な効果たる、こうした群集が解消されて、そのかわりに、区分 された個々人の集まり〔という新しい施設〕の効果が生じるわけである。看守の観点に立てば、そうした群衆にかわって、計算調査が可能で取り締まりやすい多 様性が現われ、閉じ込められる者の観点に立てば、隔離され見つめられる孤立性が現われるのだ。
 その点から生じるのが〈一望監視装置〉(パノプティック)の主要な効果である。つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉 じ込められる者にうえつけること。(…)」(フーコー『監獄の誕生』p.203*)
 *Foucault, Michel 1975 Surveiller et punir: Naissance de la prison, Gallimard=1977 田村俶訳、『監獄の誕生──監視と処罰』, 新潮社 4430 ※
  cf.Foucault, Michel:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/foucault.htm

    「パノプティコンのプロジェクトが素描されていた時代、労働者不足は、社会的な発展を拒んでいる主要な障害として広く認識されていた。初期の企業 家たちは、労働者になりうる人々が工場労働のリズムに抵抗を感じて身をゆだねたがらないということを嘆いていたのだ。このような状況下で「矯正」が意味し たのは、そのような抵抗を克服し、工場労働に身をゆだねることをもっともらしく見せることだった。
 要約すれば、その他の直接的な目的が何であれ、パノプティコン的な形態をもつあらゆる監禁施設は、何よりもまず、規律訓練の工場だったのであり、もっと 正確に言えば、訓練された労働者を生産する工場だった。しかも、それらの監禁施設は、多くの場合、最終的な課題に対するてっとりばやい解決法でもあった。 つまり、収容者たちをすぐに働かせたのである。特に、「自由な労働者たち」が最も嫌悪し、どんなにその報酬が魅力的であったとしても自分の意思ではとうて いやりたがらないような仕事をやらせたのだ。表向きに宣言された長期的な目的が何であれ、大部分のパノプティコン的施設は、直ちに収容作業施設(ワーク・ ハウス)だったのである。」(ジグムント・バウマン/福本圭介訳「法と秩序の社会的効用」『現代思想』2001,29−7,p.89-90)

1789年
    ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』

    ルソー『告白』第二部刊行
    「私に対して多くの矛盾を非難する人たちは、ここでもまた、きっと一つの矛盾を非難するだろう。私は、人の集まりでの無為は、その集まりを耐えが たいものにするといった。ところがいまは、もっぱら無為にふけるために孤独を求めているのだ。けれども私は、そんな人間なのだ。そこに矛盾があるとして も、それは自然のせいであって、私のせいではない。しかもほんのわずかな矛盾しかないので、まさにそれだからこそ私はつねに私なのだ。人の集まりでの無為 は、止むを得ないものであるから、うんざりする。孤独の無為は、自由で意志にもとづくものであるから、魅力的である。(…)
 私の好む無為とは、まったくなにもせずに腕をこまねいてじっとしたままで、動かないばかりか、なにも考えないでいるのらくら者の無為ではない。それはた えず動きながらなにもしない子供の無為であると同時に、腕は休めながらもとりとめのないことを言っている老いぼれの無為でもある。私はたわいもないことを しようと専念し、数多くのことをはじめて、そのどれ一つもしとげず、思いつくままに行ったり来たりし、たえず計画を変更し、蠅の一挙一動を見守り、岩を ひっくり返しては、その下に何があるかを見たいと思い、十年仕事を熱中して企てたかと思うと、十分後には惜しげもなくそれを棄て、要するに一日中順序もな く無駄に過ごして、なにごとにつけてもそのときの気紛れに従う。そういったことが好きなのだ。」(『ルソー全集』第二巻、p.271-272)

1790年
    「石川島人足寄場」設置
    「人足寄場は、寛政二年(一七九〇)二月、時の執政松平定信によって、江戸の隅田川の河口、石川島と佃島のあいだにあった葭原湿原を埋め立てて建 設された。
 その建設と管理運営の責任を最初に任せられたのは、当時、幕府の火付盗賊改役であった長谷川平蔵宣以であった。研究者の間で人足寄場に対する評価が高い だけに、設立の発想が一体誰によって生み出されたかについて関心が集まり、神宮文庫蔵の「寛政元酉年寄場起立」に載る長谷川平蔵の建議書などをめぐり、精 緻な分析が試みられた。
 おおかたの研究結果によれば、人足寄場の設置は、無宿浮浪の増大に悩む定信が、すでに前年のうちから諮問するところであった。当時すでに定信の念頭に は、無宿浮浪を収容する施設再建の構想があり、かつて享保期に評定所の協議にかかったこともある新規溜の建設案や安永期に南町奉行の牧野成賢によって一度 試みられながら、逃亡者を多く出して結局失敗に終わっていた無宿養育所などが検討材料としてあった、といわれている。」(阿部昭『江戸のアウトロー』 p.171)

    「刑法学者団藤重光氏は、前述の『人足寄場史』に寄せた論文「人足寄場の性格と特長」において、この申渡書の内容を重視しつつ、人足寄場の性格に ついて分析され、次のような見解を示された。
 第一に、収容者には「重き御仕置」や「佐渡送り」という心理的圧力をかけながら、反社会的・非社会的な者を再社会化・社会復帰させる矯正的な要素が濃厚 にみとめられること。
 第二に、本業に立ち返ろうとする者には土地や店を持たせるほか、種々手当てするなど積極的な福祉措置も見えるが、その前提に不定期拘禁的な厳しい矯正措 置があること。
 第三に、犯罪者に対する刑罰でないことが原則とされており、無罪の無宿などの収容は犯罪を前提とはしない「広義の保安処分」とするのが妥当。
 という評価である。
 団藤氏の人足寄場に下した評価は、少なくとも当初の人足寄場には、「反社会的傾向を持つ無罪の無宿を、矯正授産し社会復帰させる保安処分施設」としての 性格が濃厚である、とするものであった。そして、この評価については、人足寄場顕彰会代表の瀧川氏も「人足寄場の性格づけとして最も当を得たものと思う」 と賛意を示し、これが同会に集う行刑史・法制史の権威たちの人足寄場評価の基礎的トーンをなしているといってよい。
 だが、『人足寄場史』に寄せられた論文のなかには、それだけでは割り切れぬ問題が残ることに、あえて視線をなげかけようとしたものもある。
 たとえば荒井貢次郎氏の「人足寄場と民衆」もその一つである。氏は「教育刑と勤労尊重の理念は、かつて石川島人足寄場のうちに、ひそかに種子が蒔かれて いたことを信じて疑わない」としながらも、「だが、しかし、文政五年(一八二二)から天保一一年(一八四〇)までの一八年間に八丈島の流人の数は、二六〇 人と記録されている。このうち人足寄場逃げ出しが一二人いる」という文章をもって論文をしめくくっている。」(p.177-178)

   「寄場人足のなかには、ここから社会復帰のチャンスを得た者も少なからずいたのであって、そのことの意味することは軽くはない。
 しかし、各種の手当てを受け、心学の教諭を与えられ、「復帰」してゆく社会は、無宿が一度は逃亡してきた社会であった。その社会はといえば、状況は以前 とほとんど変わっていないとすれば、この「社会復帰」とは、どのような意味をもつのだろうか。それを考えれば、「復帰」の意味には、複雑なものがあると思 わざるをえない。
 人足寄場の制度が、保安処分や自由刑制の源流であるとして、行刑史上の評価を高くすることはともかくとして、一度は幕藩制社会から離脱を試みた無宿たち が求めてやまなかったものが、当時の社会における百姓身分への「復帰」によって、充分にしかも最善のかたちで充足されたのかどうか、それへの回答はいまだ 留保したい気持ちにかられるのである。」(p.185)

    本居宣長『古事記伝』刊行始まる(〜1822年、起稿1764年、脱稿1798年)
    イマヌエル・カント『判断力批判』第一版出版

    バーク『フランス革命の省察』
    「敢えて言うならば、水平化を試みる人間は決して平等を生み出さない。市民の多様な階層から成り立つ社会では、必ずや一部の人々が高い地位を占め るはずであり、従って、水平化する人間は事物の自然的秩序を改変し歪曲するだけである。」(岩波文庫版(上) p.92)

    アメリカで世界初の国勢調査
    「アメリカ合衆国、ピッツバーグの博物館には、新設されたネイティブ・アメリカンの展示場がある。このビデオの中で、ある女性が「私たちインディ アンはこれまでいろいろな形で白人に殺されてきた。ある時は銃で、ある時は病気で。しかしセンサスによって皆殺しにされた」と一人語りのように語っていた のが印象的であった。それは初期の国勢調査では、課税されていないインディアンは国勢調査人口にされなかったことを意味している。換言すれば、当時のアメ リカにインディアンは存在しなかったことになる。別立ての調査票を使って、保留地のインディアン人口について初めての調査が行われたのは1900年であっ た。」(青柳真智子編『国勢調査の文化人類学』p.11)

1791年
    混浴禁止令
    「構造化された体系が、本来、矛盾・対立の関係を内在する支配の体系であることを繰返すまでもないものとするなら、構造化の未成立な状態は、矛 盾・対立の関係を容易に運動に転化せしめる状況であることも明らかである。細民層の貨幣である銭の金銀貨に対する価値の低下によつて増幅された日常生活物 資の小売価格の急激な騰貴に基く生活難という起爆材が、まず場末町細民層を蜂起させ、それが一応構造化されていた中心部細民層の広範な運動を誘発させた。 江戸大打毀の経過の示すものが、そこに存するとみるのである。
 それ故にこそ、打毀後の江戸町政の力点のひとつは、場末町の構造化に据えられたのであつたと思う。男女混浴禁止令は、湯屋組合の番組制への組織化を町民 一般の反対にも拘らず強行しようとする権力側の意図につらなるものであつたことを思い起すならば、それは単なる風俗矯正を目的としたものではなく、場末町 対策の一環であつたと解すべきであると筆者は考えるのであり、そこには構造化されていた筈の中心街細民層の蜂起に表われている在来の体系的秩序の大きな揺 らぎと共に、近世都市の歴史に一時期を画する天明江戸大打毀の意味と、事態を収拾しようと計る権力側の政策意図の方向を理解するための、ひとつの手掛りが 含まれていると思うのである。」(中井信彦「寛政の混浴禁止令をめぐって」『史学』p.128-129)

    モーツアルト『魔笛』『レクイエム』

1792年
    コンドルセ「公教育の全般的組織についての報告と法案」
    「教育の目的
 諸君、
 人類に属するすべての個人に、みずからの欲求を満たし、幸福を保証し、権利を認識して行使し、義務を理解して履行する手段を提供すること。  各人がその生業を完成し、各人が就く権利のある社会的職務の遂行を可能にし、自然から受け取った才能を完全に開花させ、そのことによって市民間の事実上 の平等を確立し、法によって認められた政治的平等を現実のものにする方策を保証すること。
 これらのことが国民教育の第一の目的でなければならない。そしてこの観点からすれば、国民の教育は公権力にとって当然の義務である。」(コンドルセ他著 『フランス革命期の公教育論』p.11)

    ラボー・サン=テチエンヌ「国民教育案」
    「国民教育は心を鍛えなければならない。公教育は知識を与え、国民教育は美徳を与えなければならない。前者は社会の輝きをなし、後者は社会の内実 と力をなすであるだろう。公教育には、リセやコレージュやアカデミーや書物や計算の道具や方法が必要であり、壁のなかに閉じこもって行なわれる。国民教育 には、円形競技場や体育館や武具や公開競技や国民の祭典が必要であり、年齢や性別にかかわらない友愛の競技会、威厳に満ちた甘美な人間社会の結集のスペク タクルが必要である。国民教育は広い空間と野外で行なわれる自然のスペクタクルを要求するのである。国民教育は全員に必要な栄養物であり、公教育は若干の 人々の分け前である。両者は姉妹だが、国民教育が姉である。それどころか、国民教育は全市民の共通の母である。国民教育は、全市民に同じ乳を与え、彼らを 兄弟として育て扱い、共通の心遣いによって、このように育てられた人民を他のすべての人民から分かつ、たがいに似通った家族的雰囲気を彼らに与えるのであ る。したがって、国民教育の全原則は揺りかごの段階から、さらに誕生の前から人間をとらえることにある。生まれる前からというのは、子供は生まれる前から 祖国に属しているからである。国民教育はすべての人間をずっととらえつづけるのであり、したがって国民教育は、子供のためというのではなくて人生全体のた めの制度なのである。」(コンドルセ他著『フランス革命期の公教育論』p.158-159)

    ロシア使節ラクスマンが、漂流民大黒屋幸(光)太夫を移送し根室に来航。通商を求める

1793年
    喜多川歌麿『寛政三美人』
    
    ルーブル美術館開館
    フランス、旧制度の特権的団体としてパリ大学を廃止

    ルペルティエ「国民教育案」
    「体力と健康につづいて、公立学寮が全員に与えるべき計り知れない利益がある。私が言いたいのは労働の習慣である。
 ここではあれこれの産業については何もふれない。しかし一般に、骨の折れる仕事に取り組む勇気、それを実行する活動、それをつづける粘り強さ、達成する 根気、これらこそ勤勉な人間の特徴だと考えている。
 このような人間を育てたまえ。そうすれば、共和国はまもなく壮健な要素で形作られ、農業と産業の生産物は倍加するであろう。
 このような人間を育てたまえ。そうすれば、ほとんどすべての犯罪は消滅するだろう。このような人間を育てたまえ。そうすれば、貧困の忌まわしい光景が諸 君の目を悲しませることはもはやなくなるであろう。
 諸君の若い生徒たちの心のなかに、このような好み、欲求、労働の習慣を作り出したまえ。そうすれば、彼らの生活は保障され、彼らは自分自身にしか依存し なくなるであろう。」(コンドルセ他著『フランス革命期の公教育論』p.188-189)

    ロム「共和暦についての報告」
    「市民諸君、
 私は、公教育委員会の名において、諸君が委員会に求めた共和暦にかんする審議の結果を提案し、諸君の審議にゆだねよう。
 諸君は、技術と人間の精神の進歩にとってもっとも重要で、革命期にしか成功しない仕事の一つを企てた。すなわち、たえず商業と産業を阻害してきた度量衡 の多様性、一貫性の欠如、不正確さを解消し、地球の尺度そのものにもとづいた、単一で不変の新しい尺度のタイプを採用することである。
 技術と歴史にとって、時間は一つの要素ないし道具であり、技術と歴史は、また、時間の新しい尺度、すなわち、信じやすい人々と迷信に満ちた因習によって 同じように無知の時代から現代まで伝えられてきた誤謬から解放された時間の新しい尺度を、諸君に求めている。」(コンドルセ他著『フランス革命期の公教育 論』p.239-240)

1794年
    東洲斎写楽『市川鰕蔵』

    テルミドールのクーデター、ロベスピエールやサン・ジュスト処刑
    「この近代的イメージにぴったりするリアリティは、十九世紀以来われわれが社会問題と呼ぶようになっているもの、もっとも端的に貧困の存在と呼ん でいるものである。貧困と剥奪以上のものである。すなわち、それは絶えざる欠乏の状態であり、痛ましくも悲惨な状態であって、それが恥ずべきなのは、人間 を非人間化してしまう力をもっているからである。貧困が卑しむべきものであるのは、それが人間を肉体の絶対的命令のもとに、すなわち、すべての人が別に考 えなくても自分のもっとも直接的な経験から知っている必然性(ネセシティ)の絶対命令のもとに、おくからである。群衆がフランス革命の援助に殺到し、それ を鼓舞し、前進させ、そして最後にはそれを滅亡に追いこんだのも、この必然性〔貧窮〕が彼らを支配したからであった。彼らは貧民の群集だったからである。 彼らが政治の舞台にあらわれたとき、必然性〔貧窮〕は彼らとともにあらわれた。そして、その結果、旧制度の権力は無力となり、他方新しい共和国は死産し た。自由は必然性〔貧窮〕に、すなわち、生命過程そのものの切迫に身を委ねなければならなかったのである。ロベスピエールは「生命を維持するのに必要なも のはすべて公共の財産でなければならない。剰余だけが私的な財産として認められる」と述べた。(…)最後にいたってロベスピエールは(その最後の演説のな かで)予言のかたちで定式化したように、何が起ったのかはっきりと気づいた。彼はこう述べたのである。「人類史のなかでわれわれが自由を創設する瞬間を逸 してしまった以上、われわれは滅びるだろう。」「歴史的瞬間」を逸するほど彼らを長いあいだ悩ませてきたのは国王や暴君の陰謀ではなく、それよりはるかに 強力な必然性〔貧窮〕の陰謀であった。この間に革命はその方向を変え、もはや自由が革命の目的ではなくなっていた。すなわち、革命はその目的を人民の幸福 におくようになっていたのである。」(ハンナ・アレント『革命について』p.90-92)

    フランス、エコール・ポリテクニーク創設
    「まずわれわれは一九七四年という創設の年代に注目する必要がある。まさにフランス革命のさなかである。当時のフランスはヨーロッパ諸国と戦って いた。隣国との戦争に勝利するためには、優れた高級技術将校が欠かせなかった。その当時、フランスにも中世に起源を持つ大学はあった。しかし、ドイツの章 でも触れたように、当時の大学はすでに教育活動、研究活動が低下し、人材育成の責任を果たせる状態ではなかった。だからナポレオンは大学を廃止してしまっ た。その後、フランスは一八九六年まで、大学不在の時代に入る。(…)
 こうした空白状態を埋めるために登場したのがエコール・ポリテクニークである。はじめは、革命、それに引き続く混乱期の人材不足に応じるための臨時的な 養成所であったが、それだけでは終わらなかった。大学が消滅した後のフランスにとっては、理工系の理論と技術を教育する唯一の高等教育機関となった。 (…)
 この学校は日本語に翻訳される時「陸軍理工科学校」と訳されることがあるが、その理由は、文部省所管ではなく、国防省の所管であるためである。名称か ら、その卒業生が軍務に就くものと思われがちだが、現在では軍務に就くものは一割以下でしかない。しかし入学すると、まず一年間は軍務に就き、二年目から 教育が始まる。つまり三年間の教育課程だが、実質的には二年間しかないので、卒業後、さらにほかのグランゼコールに進学するものが多い。」(潮木守一『世 界の大学危機』p.124-125)

1795年
    スピーナムランド法制定
    「イギリスでは、労働に先んじて、土地と貨幣が流動化された。労働についてはその物理的移動にたいする厳しい法的制限によって、全国的な労働市場 の形成が妨げられていた。というのは、労働者は、事実上、教区に拘束されていたからである。一六六二年の定住法は、いわゆる教区農奴制の規則を定めていた が、それは一七九五年にいたりようやく緩和された。この緩和措置は、もしも同年にスピーナムランド法もしくは「給付金制度」が導入されなかったとすれば全 国的な労働市場の確立を可能にしていたことであろう。このスピーナムランド法の意図するところとは逆であった。すなわち、それはテューダー朝やステュアー ト朝から継承されてきた温情主義的な労働組織のシステムを強力に補完するものであった。一七九五年五月六日――当時は、大変な不況の時期であった――に、 ニューベリーに近いスピーナムランドのペリカン館に会したバークシャーの治安判事たちは、賃金扶助の額はパンの価格に応じて決められるべきであり、した がって貧民の個々の所得に関係なく最低所得が保証されるべきだと決定した。(…)なるほど、賃金システムがスピーナムランドで認められたような「生存権」 の撤廃を絶対に必要としているということは何にもまして自明なことであった。新しい、経済人の体制の下では、何の労働もせずに生計を立てられるものとすれ ば誰も賃金のために働きはしないであろうから。」(ポラニー『大転換』p.104-105)

    メートル法制定

1798年
    マルサス『人口論』
    「貧しい労働者の安楽が、労働の維持に予定されている基金の増大に依存するものであり、そして、この増大の運動にきわめて正確に比例することは、 ほとんどあるいはまったく、うたがいの存在しえないことである。このような増大がひきおこす労働需要は、市場での競争をつくりだすことによって、必然的に 労働の価値を騰貴させるにちがいないし、また必要な数の追加労働者が成長するまで、増大した基金は、増大する前と同じ人数に分配され、したがってすべての 労働者が比較的安楽に生活するであろう。しかしおそくら、アダム・スミス博士は、社会の収入あるいは資材のすべての増大がこれら基金の増加であると考えて いることで、まちがっている。このような剰余の資材あるいは収入は実際つねに、それを所有する個人によって、もっとおおくの労働を維持できる追加基金と考 えられるであろうが、しかしそれは、社会の資材あるいは収入の増大の全部、あるいはすくなくとも大部分がそれに比例した量の食料にかえられないかぎり、追 加労働者数の維持のための真実かつ有効な基金ではないであろうし、またそれは、その増加が労働の生産物からだけ生じたのであって、土地の生産物から生じた のではないばあいには、食料にかえられるものではないであろう。このばあい、社会の資材が雇用しうる労働者の数と土地が扶養しうるその数との区別が、生じ るであろう。」(角川文庫版 p.177-178)

    「この国の対外ならびに対内取引はたしかに、前世紀に急速に増大した。ヨーロッパ市場において、その土地と労働との年々の生産物の交換価値は、う たがいもなくひじょうにおおきく増大した。しかし、検討してみると、その増大はおもに労働の生産物についてであって、土地の生産物ではなく、したがって国 民の富ははやい速度で増大してきたけれども、労働の維持のための有効な基金ははきわめてゆっくりとしか増大せず、そしてその結果は、予期されるとおりのも のであることが、わかるであろう。国民の富の増大は、貧しい労働者の状態を改善する傾向をほとんど、あるいはまったくもたない。かれらは、生活必需品と便 宜品にたいする支配権を増大させていないと、わたくしは信じる。そして、かれらのうち、(名誉)革命の時期よりはるかにおおくの部分が、製造工業に雇用さ れて、密閉した不健全な部屋にむらがっている。」(p.180-181)

1799年
    ブリュメールのクーデター。ナポレオンが総裁政府を倒し、執政政府を樹立
    「われわれは、一七八九年以後、フランスの政治構造全体をその基盤から頂点にいたるまで、完全に変えてしまった革命をいくつか見てきている。その ほとんどはまったく突然に勃発し、暴力によって遂行され、現行の法律を公然と犯していた。ところが、これらの革命がもたらした混乱は決して長続きしなかっ たし、全国に波及することもなかった。大多数の国民は、革命に心動かされることがほとんどなく、時にはそれが革命だということに気づくことさえないほど だった。  それは、一七八九年以降、政治制度の度重なる崩壊のただ中にあっても、行政制度がずっと破壊されずにいたからである。国王個人と中央権力の諸形式は変 わったが、公的なものの日々の流れは、中断することも混乱することもなかった。各人は、とくに自分と関係のある些事については、熟知した規則と慣例にずっ と従っていた。(…)最初は国王の名において、次は共和制の名において、最後には皇帝の名において、裁判と行政を行ったのは従来と同じ役人だった。運命は 自らの車輪で従来と同じ回転をしていたから、同じ役人が、国王のために、共和制のために、皇帝のためにといった具合に、同じ回転で、しかも同じやり方で、 行政と裁判をそのたびごとに再開していた。というのも、役人にとって支配者の名前などどうでもよかったからである。役人の本務は、市民であることよりも、 よき行政官、よき裁判官であることだった。だから、最初の震動が過ぎ去ってしまえば、国中どこも、そして何も揺れ動かなかったかのように感じられた。」 (アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』、p.397-398)

1800年
    オーウェン、「ニューラナーク撚糸会社」設立
    「オウエンが近代的労務管理制度の先駆者と言われるゆえんは、彼の方法、つまり「人間性に関する知識」を意識的に適用した点である。(…)
(…)
 オウエンは、賞罰など、外から加えられる力によって、人間を操ることを適切なものとは考えなかった。内発的に労働意欲を引きだすことが環境決定論の眼目 である。日報制も「サイレント・モニター制」も、ともに工場の動態を数量的に把握できるようにした点で合理的な管理方法であった。また、労働の評価は現場 の管理者が一方的に下すのではなく、労働者がその判断に不満である場合には、上級の管理者に不服を申し立てる権利を認めていた。双方向の対話が成りたつ余 地を残すことによって、納得のいく公正な評価となるシステムを構築しようと心がけていた。一種の「不服審判」制度の先駆となる発想である。」(土方直史 『ロバート・オウエン』p.28-29)

    「労働意欲が内発的に引きだすためには、経営者側の意図が、労働者に素直に理解され、両者の間に信頼関係が築かれなければ効果的ではない。次の二 つの方策が有効であった。一つは、工場の売店では、全商品を原価で販売するという方針がとられた。当時、雇用主は賃金の一部を現物で支給することが一般的 であった。その場合、しばしば高い価格がつけられたり、粗悪品が支給されることがあった。良質な商品が公正な価格で供給されれば、販売者たる雇用主への信 頼を高めることは言うまでもない。「公正な取引」が日常生活のなかで実感されるというメリットがあった。
 もう一つは、人間の性格そのものを教育によって変えて、永続的に労働意欲を向上させる企画であった。そのために、工場の敷地内に学校を設立するとの計画 が構想された。(…)」(p.30)

    伊能忠敬、蝦夷を測量

    ワシントンD.C.に遷都


UP:20040907 REV:20050523 20090214
◇労働 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/w001.htm
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