第二章 道徳哲学
「廃絶主義アプローチ
フランシオンは新福祉主義の問題を踏まえ、動物の権利運動の原点回帰を呼び掛ける。権利獲得の闘は何を置いてもまず、内在的価値を宿す者の手段化に抗う試みでなくてはならない。福祉改革、すなち「人道的」搾取の制度化は、ある者を他者の目的に資する単なる手段として扱う不正を、手付かずのままに温存する。それは権利運動の目指すところではない。権利運動が求めるのは搾取の期制ではなく廃絶である。この点を初めに明確にしたのはトム・レーガンだった。しかしレーガンの権利論にも改良の余△地はある。
「人道的」搾取の制度化は、ある者を他者の目的に資する単なる手段とし一ままに潟ーガンの議論では、内在的価値を有する存在として生の主体が想定された。それに対し,プランシ感があるとい、2)とは、苦しみからの自由がその存在にとりて利益であることを厚味する。さらに苦しを感じる能力は生存とい、つ目的へ向けた手段の位置を占めるため、情感を具える存在は死からの自由利益とする。未来像その他の高度な精神機能がなくとも、苦しみと死からの自由という利益を有する存在は、それだけで主体的意識と経験的福祉状態を持つと考えられる。ある存在の内在的価値を認める存在は、それだけで主体的意識と経験的福祉状態を持つと考えられる。ある存在の内在的価値を認めるには情感が具わっていればよい。
おいて、「仮に哺乳類以外の動物が:ミ生の主体ではないとしても、そうした動物の多くが意識を持ち,において、「仮に哺乳類以外の動物が:::生の主体ではないとしても、そうした動物の多くが意識を持ち,、意識や痛覚が具わっているか否か不明確な場合も予防原則の対象となることを示唆している。ニニ、意識や痛覚が具わっているか否か不明確な場合も予防原則の対蒙となることを示唆している。ニニではまだ生一とは世界の中にあって世界を感じ取り、わが身に起こるニとが生の質や存続を左有する戸で重要な意とは世界の中にあって世界を感じ取り、わが身に起)ることがまの質や存続を左存する戸で重要な葛すなわち生の主体であると理解できるので、レーガンとフランシオンの立場ぱそ卩ほど離れていな、はすなわち生の主体であると理解できるので、レーガンとフランシオンの立場はそれほど離れていなレ
ことだろう。一動物の権利擁護論一では、生の主体が具える精神機能として「確信や願望、知覚、記1ぎたことだろう。一動物の権利擁護論一では,生の主体が具える精神機能として「確信や願望、知覚、記1、自信の将来も含めた未来像、快楽や苦痛の感覚と繋がった感情的生」等々を挙げるが、このような式的定義は、逆にここで列挙された諸特徴を全て具えていなければ生の主体ではない、と思わせる含を帯びてしまった。しかし同書の第二章を読めば分かるように、本来この記述は動物が生きる精神世の豊かさを表現したものであり、生の主体を高度な精神機能の持ち主に限定することば、おそらくーガンの意図ではなかった。レーガンは生の主体がどのょうな経験を生きているかに着目したのに対、フランシオンはどのような条件が生の主体を成り立たせるかに着目して、最も基本的な利益を生じせる情感の能力がその条件であると考えた、という見方も可能である。
◇Francione, Gary L. 2000 Introduciton to Animal Rights: Your Child or the Dog ?, Temple University Press=20180430 井上太一訳,『動物の権利入門――わが子を救うか、犬を救うか』,緑風出版,348p. ISBN-10:4846118045 ISBN-13:978-4846118044 [amazon]/[kinokuniya] ※