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『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』

安藤 泰至 20190705 岩波書店,62p.

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last update: 20190727

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■安藤 泰至 20190705 『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』,岩波書店,岩波ブックレット No.1006,62p. ISBN-10:4002710068 ISBN-13:978-4002710068 520+ [amazon][kinokuniya] ※ et

■内容

本書:2-9ページ「はじめに」より

はじめに――ナチスの悪夢


 かつて、こんな法案が作成されたことがある。
 その第一条と第二条にはこのようにある。

  第一条 不治の病にあり、本人自身または他人に対して重大な負担を負わせている者、もしくは死にいたることが確実な病にある者は、当人の明確な要請に基づき、かつ特別な権限を与えられた医師の同意を得たうえで、医師による致死扶助を得ることができる。

  第二条 不治の精神病のため生涯にわたる拘留が必要とされ、かつ生き続ける能力を持たない病人の生命は、医学的措置によって、当人が知覚できない形で、かつ苦痛をともなうことなしに終わらせることができる。

 右の条文は、一九三九年八月に刑法委員会によって草案が作成され、一九四〇年一〇月にその最終案が提出されたが、ヒトラーの拒絶によって日の目を見ることはなかったナチスの安楽死法(正式名「治療不可能な病人における死の幇助ほうじょに関する法」)の一部である。ただし、ヒトラーが法律の公布を拒否したのは、内容が気に入らなかったからではなく、敵のネガティブな宣伝材料になることを懸念したためであると言われている(ヒュー・G・ギャラファー『ナチスドイツと障害 △2 者「安楽死」計画』長瀬修訳、現代書館、一九九六年。エルンスト・クレー『第三帝国と安楽死――生きるに値しない生命の抹殺』松下正明訳、批評社、一九九九年)。
 筆者は、勤務する大学医学部で担当する「生命倫理」の毎年の講義で、この条文を学生に見せ、「この法案は、ある国で過去に実際に作られた(が、その後のある事情により、公布・実施はされなかった)ものである」ということだけを示した上で、この法案がいつごろ、どの国で準備されていたものであるかを推理せよ、というクイズを行っている。
 学生に回答させてみると、国については「アメリカ」や「オランダ」が多く、年代については一九八〇年代、一九九〇年代、二〇〇〇年代という答えがほとんどだ。つまりこの法案を、現代の欧米の国々で安楽死や自殺幇助の合法化が進んできているという(あやふやな)知識を結びつけて考えるようだ。最初に答えを出してしまったが、もし読者のみなさんが、何も知らされずに上記の条文を読んでも、おそらく同じような想像をする人が多いのではないだろうか。
 第一条には「医師による致死扶助」とあるが、それはいわゆる「安楽死」のことだろう。そしてその条文には「当人の明確な要請に基づき」とあるので、医師だけの判断やあるいは家族の判断で安楽死させられるのではなく、あくまで本人の明確な意思に基づいてそれが行われることが明記されている。
 
 次に、この第一条と第二条の関係はどうなっているだろうか。「不治の精神病」という言葉が具体的に何を指しているかはこの文章だけではわからないが、多くの人が想像するのは、理性的 △3 な判断ができず、自分の意思を明確に伝えることができないような人たち、たとえば一部の精神障害者や知的障害者、重度の認知症高齢者などではないだろうか。この第二条は、そういう人々については、医師の(医学的)判断だけによって死なせても構わない、と言っているのである。
 したがって、この二つの条文に表されているものの考え方をまとめると、以下のような図式になる。すなわち、(一)不治の病に苦しむのは、本人にとっても周りの人(家族? 社会・国家?)にとっても不幸なことである。(二)それゆえ、本人の明確な意思に基づいて(自己決定権)、医師がそういう人を死なせる処置を行うこと(安楽死)は許されるし、その方が人道的である。(三)不治の病に苦しむ本人が自分の意思を明確に表明できないような場合(自己決定できない場合)は、その人を死なせる決定は医師の判断によってなされるのがよい。
 もちろん、ナチスドイツは一九三九年以降、こうした「安楽死法」の形ではなくヒトラーの秘密作戦(T4作戦)に基づく安楽死政策によって、本人の意思などとは全く関係なしに多くの病者や障害者を抹殺していったという歴史的事実を私たちは知っている。また、現代の安楽死法において、この条文にあるような「他人に対して重大な負担を負わせている者」、つまり「他人に迷惑をかけている者」といった文言が用いられることはまずないだろう。にもかかわらず、上記の(一)〜(三)としてまとめられるようなこの法案の基本的な考え方は、(たとえあくまで「建前」だとしても)驚くほど現代のさまざまな安楽死法や、安楽死合法化を求める人々の基本的な考え方に似ているのである。
 ナチスドイツにおける医学犯罪を裁いたニュルンベルク裁判における主席医学顧問として医学 △4 者たちの尋問に立ち会った米国の医学者、レオ・アレキサンダーは、後にこのような言葉を遺している。


  これらの犯罪が最終的にどれほどの規模のものと推測されるにかかわらず、それらを調査した者すべてに明らかになったのは、それらが小さな発端から始まったということであった。その発端とは、医師の基本的な態度におけるごくわずかな強調点の変更にすぎなかった。それは、[ナチスの]安楽死運動の基本となった態度、すなわち世の中には生きるに値しない命があるのだということを認めることから始まった。こうした態度は、その初期段階では、もっぱら重篤で慢性的な疾患に苦しむ病人についてのものにすぎなかった。次第に「生きるに値しない命」というこのカテゴリーに含まれる領域は広がっていき、社会的に非生産的な人々やイデオロギー的に望ましくない人々、民族的に好ましくない人々へと、そして最終的にはあらゆる非ゲルマン民族を包含するものとなっていった。しかし、[上記のような結末にまで至った]ナチス時代の精神潮流の全体がその推進力を得ていたのは、そこに組み込まれていた無限に小さな梃子てこ、すなわち回復不能な病人に対するこうした態度からだったということを認識することは重要である。(Leo Alexsander, "Medical Science under Dictatorship." The New England Journal of Medicine. Vol. 241, No. 2, July 14, 1949)


 現代において安楽死や尊厳死の合法化を推進しようとする人々は、自分たちの主張や運動がナ △5 チスドイツの蛮行と並べられることに憤慨する。また、自分たちの主張を広く行き渡らせるために、ナチスのそれを連想させるような「安楽死 (euthanasia) 」という言葉自体を避けようという傾向も広く見られる。彼らの主張によれば、自分たちが求める安楽死とはあくまで本人の明確な意思に基づく自己決定としての死であって、優れた生と劣った生を峻別し後者を排除しようとする優生思想や、本人の意思に反して医師や国家権力によって「生きるに値しない」というレッテルを貼られた人々を殺害していったナチスの「安楽死」などとは何の関係もない、ということになる。

 しかし、本当にそうなのだろうか。
 たとえばある人が「私は自分の病気がもう回復不能の状態で、残りの時間はあまり残されていないことを知っている。苦痛緩和のためのありとあらゆる方法を医師は試してくれたが、この痛みはどうにもならない。こんな状態で生かされているというのは私には拷問以外のなにものでもない」と安楽死を望んでいるとする。もちろん、同じような状態であっても、安楽死を望まない人もいるだろう。現代において、自己決定としての安楽死を肯定する人々は、前者のような人は安楽死によって死ぬ権利、、、、がある、と主張する。そして、そういう人々に安楽死を認めることは、けっしてそのような状態にある人について[生きるに値しない]と判断することではなく、同じ状態であっても安楽死を求めない人、「生きたい」と思う人の権利を侵害しないことはない、と説く。

 はたして、そうなのだろうか。 △6
 少し極端な例を挙げてみよう。たとえば、「私は自分の足で歩くことができなくなったら、もはや尊厳をもって生きていくことができないので、安楽死したい」と言う人がいたとする。このような人にも安楽死によって死ぬ権利がある。そのために医師が致死薬を注射したり処方したりすることが許される、と主張する人はいるだろうか。ゼロとは言い切れないが、ほとんど皆無だろう。
 もし、前者のようなケースについては安楽死が認められ、後者のようなケースについては認められないとすると、その差はどこから来るのだろう。それは、前者のような人が「死にたい」と思うのは当然のことであり、もし自分がそうであっても同じように思うだろう、というように、当事者個人の価値判断ではなく、ある程度社会に共有された価値判断がその裏に存在しているからではなかろうか。そして、ある状態で生きている人について「死にたくなって当然だ」「死なせてあげても構わない、むしろその方がその人のためだ」という価値判断が共有されている社会の中で、同じような状態であっても「生きたい」と思う人に圧力がかかることはない、その人が生きづらくなることはない、などと言えるだろうか。こうしたことを考えるだけでも、現代における「安楽死」は個人の自己決定なのだから、「生きるに値しない命」などという社会的価値判断とは無縁であり、安楽死したくない人たちが死に追いやられることもない、といった主張をそのまま鵜呑みにすることは難しい。
 二〇一六年七月二六日、日本では「安楽死」という言葉がナチスのそれと同じような意味で用いられた凄惨な事件が起こっている。神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」に入居してい △7 た一九人の障害者が殺され、二七人の障害者や施設職員が重軽傷を負った相模原障害者施設殺傷事件である。被告の植松聖は、事件の約五ヵ月前、二月十四日に衆議院議長公邸を訪れ、事件を予告するような「作戦内容」とともに、「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動がきわめて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です」と書かれた手紙を渡している。その五日後の二月十九日、植松は措置入院となるが、翌二〇日、診察した医師に「二週間前に、、、、、ヒトラーの思想が降りてきた」(傍点筆者)と語っていることから、彼のいう「安楽死」と「ヒトラーの思想」がつながっていることが推測される。植松被告は事件後も、自分のやったことは正当であると確信しており、獄中の手記のなかでは、殺害のターゲットとした意思疎通のできない障害者を「心失者(人の心を失っている者)」と呼び、「心失者は人の幸せを奪い、不幸をばら撒く存在です」と述べている。
 この事件をめぐってはすでに膨大な言説が重ねられているが、この事件から大きなショックを受けたという人々からは、植松被告の犯行だけでなく、それをめぐってブログやSNSなどで「植松のやったことは許せないが、その気持ちはわかる」とか「とった手段は悪いが。主張していることは正しい」などと反応した人たちが少なからずいたことに大きな危機感を抱いた。と語る声が多く聞かれた。
 植松の「心失者」という表現は、かつてある有名政治家が重度障害者の施設を訪れ、「ああいう人ってのは人格があるのかね」と発言して物議をかもしたことを思い起こさせる。また、胃瘻いろうをつけて生きている患者について「寄生したエイリアンが人間を食べて生きているみたい」と発 △8 言した別の有名政治家のように、いわゆる「延命中止」についても、このように「すでに人ではないような存在」というイメージが見え隠れする。さらに、相模原事件の約二ヵ月後、ある元テレビアナウンサーは、自身のブログに「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」と書いて大きな非難を浴び、担当していた五つの番組をすべて降板させられた。
 大きな責任のある社会的地位についていつ人々が、こうしたあからさまな優生思想に基づく言葉を公にし、それに賛同の声を挙げる人々が少なからずいる今の日本社会において、「生きるに値しない命」というレッテルを貼られた人々を「安楽死」の名のもとに殺害していったナチスの悪夢は、はたして「別の世界の出来事」なのだろうか。
 そうした社会のなかで、私たちが「安楽死」や「尊厳死」について議論するということは、そもそも何について、どのような議論をすることなのだろうか。さまざまな角度からこのことを考えてみるのが、本書の目的である。

■目次

1 「安楽死」「尊厳死」をめぐる議論はなぜ混乱するのか?
2 「安楽死」「尊厳死」をめぐる言葉のからくり
3 「よい死」を語る前に
4 人のいのちは誰のものか?


■著者略歴

奥付より

安藤泰至あんどうやすのり
 1961年生まれ。京都大学大学院文学研究科(宗教学)博士後期課程2年修了。現在、鳥取大学医学部健康学科准教授、日本学術会議連携会員。専門は宗教学・生命倫理・死生学。
 著書に、『「いのちの思想」を掘り起こす――生命倫理の再生に向けて』(編著,岩波書店)、『激動する世界と宗教 宗教と生命』(共著,角川書店)、『シリーズ生命倫理学4 終末期医療』(高橋都との共編著,丸善出版)など、訳書にアリシア・ウーレット著『生命倫理学と障害学の対話――障害者を排除しない生命倫理へ』(児玉真美との共役,生活書院)など。

■引用


■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2021/02/10 『介助の仕事――街で暮らす/を支える』,筑摩書房,ちくま新書,238p. 820+
◆立岩 真也 2021/02/11 『介助の仕事――街で暮らす/を支える 超拡張版』Kyoto Books


*作成:岩ア 弘泰
UP: 20190727 REV:
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