第2章 戦後日本における病院の福祉施設的利用 間 沙織
1 病院の福祉施設的利用
本章の目的は、戦後日本の「病院の福祉施設的利用」を医療及び福祉供給の展開から歴史的に考察することで、
これからの医療・福祉・介護政策への示唆を究明することである。
本章における病院の福祉施設的利用とは、「病院が患者の治療の場として利用されるだけでなく、処遇のあてのない人々を長期的に収容する場、
すなわち、ある種の受け皿として利用される状況」を指す。しかし、なぜ、これからの医療・福祉・介護政策への示唆を導出する作業として、
戦後日本における病院の福祉施設的利用を議論する必要があるのだろうか。本章が病院の福祉施設的利用に敢えて着目するのは、以下の2点からである。
第一に、今日においても病院が福祉施設のように利用され続けている〔下線は傍点〕というのは、とりわけ日本的な特徴だからである。
もともと「病院(ホスピタル)」というのは、「キリスト教世界では……宗教施設であり、聖職者が維持する避難場所でもあり、
巡礼をもてなす場でもあったが、貧者のための施設でもあった」といわれている。
ゆえに、日本でも病院が福>074>祉施設のように利用されるというのはありふれたことのようにもみえる。(pp.073-074)
第二に、病院の福祉施設的利用は、国際的にみて特殊であるだけでなく、国内の政策課題の一つとして残り続けているからである。
それは、概して「社会的入院」の問題として今日に至るまで提起されてきたものだが、日本でまず取り沙汰されたのは、
1980年代初頭の高齢者〔下線は傍点〕の社会的入院であった。そこで物議を醸したのは、単に入院加療が必要といえない状態の人々が入院を継続し、
病院が処遇のあてのない彼らの居場所となったことだけではなく、
「寝かせきり」や「薬漬け」、「検査漬け」などそこでの処遇の質と、長期入院によってかかる費用についてであった。
今日ではその時代の反省から、病院からの早期退院が促され、>075>介護保険によって病院外で療養するサービスが拡充している。
しかし、病院からの退院後の受け皿の見つけにくさ、介護施設や在宅サービスの質などについて利用者と家族の悩みは尽きることがない。(pp.074-075)
[……]今日においても児童から高齢者までさまざまな人々の社会的入院が問題として指摘されるなかで、
病院と病院外を含めて彼らをどのように処遇していくかを検討していくためには、改めて医療と福祉その双方の供給の歴史に目を向け、
戦後日本では医療と福祉という名目でいったい何がなされてきたのか、それらの間にはどのような関係があったのかが詳らかにされる必要がある。
そのため本章では、従来、社会的入院という概念を用いて医療に重きをおいて説明されてきた状況を、医療のみならず福祉をも射程に入れて議論していくために、
改めてそれを「病院の福祉施設的利用」という概念に置き換えて検討していくことにしたい。(p.080)
4 戦後史からの示唆と課題
4.2 政策的示唆
最後に本章の課題について言及したい。[……]
本章の目的は、これまで先行研究で医療に重きをおいて語られてきた病院の福祉施設的利用という現象を、医療だけでなく福祉の供給も踏まえて紐解くこと、
そして、戦後日本の医療と福祉の供給の関係性を詳らかにすることであった。しかし、本章はあくまで高齢者領域のみに焦点を当て議論を進め、
児童や障害者領域等の医療と福祉の供給の問題は議論できていない。(p.129)
第3章 薬剤師の職能史――医療システムの変容と薬剤師の再専門職化 赤木 佳寿子
1 薬剤師のアイデンティティ・クライシス
今日の薬剤師業界は、大きな戸惑いの中にいるといえよう。
業界的には悲願であった医薬分業の進展(図3-1)によって調剤権を手中に収め、
また専門職としての地位を高めるであろうと考えられる薬学教育の6年制についても実施に漕ぎ着けることができた。
その意味では、この四半世紀の薬業史は、躍進の時代として振り返ることができるといってもよいはずである。
にもかかわらず現在の薬剤師は、深刻なアイデンティティ・クライシスに陥っているようにもみえる。(p.133)
[……]医薬分業のメリットが国民に感じられていない。そこ>137>で提起されたのは、薬剤師という職業がいかなる職能を有するのかについての疑問および不審であった。
そしてより興味深いことは、それに対して薬剤師側から明確な反論ができなかったことである。
これが示唆しているのは、薬剤師自身による自分たちが何者であるか=アイデンティティについての認識を喪失していることと、
上記のような薬剤師の新たな危機が密接に結びついているということに他ならない。
なぜ、このようなことが起こったのだろうか。
その最大の理由は、薬剤師自身の薬業の歴史に対する認識が医薬分業をめぐっての薬業・薬剤師の立場の変化にとらわれ過ぎていたことである。
いうなれば、医薬分業史を正史としてきたことに起因している。
医薬分業史は基本的に薬剤師側から描かれた運動史である。医薬分業運動は調剤権という業権をめぐる医師と薬剤師の専門職の争いであった(表3-2)。(pp.134-137)
*p.135、p.136は表3-1で本文なし。
本章では日本の近代薬業史を、薬剤師の職能の変遷という観点から再構築することによって、このアイデンティティ・クライシスに対して、
政策的な展望を提示することを課題とする。すなわち、薬業全体のあり方を俯瞰するという目的のために医薬分業史によって描かれてきた薬剤師の歴史を
「薬剤師の職能の変容に基づく薬業史」として描き直すことを試みる。
つまり、薬剤師の「職能」という観点で歴史を見直すことによって統一的な解釈を行い新しい歴史を描き出すことで戦後の薬業を歴史の到達点として説明し、
そこから今後の政策的含意を得ることを目標とする。
なお、本章では「職能」について、薬剤師の職務・仕事として社会的に期待または承認されたものという意味で使用する。
たとえば病院薬剤師は医薬分業が普及する前から調剤を病院薬局で行っていたので調剤は病院薬剤師の職能と言ってよいであろう。
その後、病院薬剤師が病棟に進出してベッドサイドで患者に接するようになるが、この仕事は職務>142>として病院内でも認められ、
さらに保険点数上の報酬がみとめられたことからも、病院薬剤師の病棟業務も職能ということができるであろう。
反対に医薬分業が実施される以前、開局薬剤師たちが調剤は薬剤師の仕事であることを主張して医薬分業運動を展開したが、認められなかった。
この時期の開局調剤師の調剤は職能ではないということである。(pp.141-142)
5 薬局薬剤師の職能変化と社会的期待とのギャップ
本章の目標は日本の近代薬業史を薬剤師の職能変化という観点から再構築することによって、
近年批判の対象となった薬局薬剤師のアイデンティティ・クライシスに対して政策的な展望を提示することであった。
[……]医薬分業にとらわれ過ぎた歴史観での認識や条件付きの“医薬分業”に対する独特な理解をもつ薬局薬剤師は批判を受けそれに対して
反論できずアイデンティティ・クライシスを起こしている。
批判が社会的期待とのギャップだとすると、この歴史観や独特な理解がその要因である可能性が考えられる。
もしそうだとすれば、その歴史観や独特な理解がなぜ社会的期待とのギャップを生み出すのかを明らかにする必要がある。
そのために医薬分業の歴史的位置づけをどうするべきか、独特な理解は何を意味するのかについて考えてみたい。
そして、薬局薬剤師に比して批判対象とならなかった病院薬剤師が果たしたパラダイムシフトについて考察する。
その上でこれからの薬局薬剤師に望まれる姿として取り組みの始まった、
かかりつけ薬局・薬剤師、健康サポート薬局の課題について考察しこれか>186>らの薬剤師に求められるものを明らかにしたい。(pp.185-186)
5.1 医薬分業の歴史的位置づけ――目的から手段へ
医薬分業の歴史的位置づけの見誤りこそが薬剤師の医薬分業史への傾倒によって引き起こされたアイデンティティ・クライシスの本質である。
見誤りとは薬剤師の職能の変化の必要性が医薬分業の促進要因の一つであったことを見逃している点である。
見逃しの要因は薬剤師が医薬分業を100年の推進運動の末に勝ち得たと考えていることである。
調剤権という業権獲得のために薬剤師が戦っていた〈目的としての医薬分業〉の時代と1974年に進展を開始した〈手段としての医薬分業〉の時代とは分けて考えるべきで、
医薬分業は手段となって初めて進展したということを認識しなくてはならない。
1974年から進展を始めた〈手段としての医薬分業〉には「物と技術の分離」という目的があった。[……]〈手段としての医薬分業〉は1990年代に転換期を迎える。
それ以降に医薬分業の目的となったのは「医薬品の適正使用」である。(p.186)
第4章 知的障害者像の偏りから生まれた典型的な生活――なぜ日本の知的障害者は親元から作業所に通うのか 原田 玄機
1 日本における知的障害者処遇の特徴がなぜ生まれたか
1.1 知的障害者の典型的な生活パターン
本章は、日本の知的障害者の生活が親元から作業所など福祉的就労の場に通うというパターンになっていることが、
重度の知的障害者への着目と家族の負担の大きさという知的障害者の処遇の特徴によってもたらされたものであるという視角を提示し、
この視角から戦後の知的障害者処遇の歴史を素描することで、この視角の妥当性を示すことを目指すものである。(p.201)
1.2 先行研究の検討と視角の提示――知的障害者処遇に関する4象限
[……]典型的な生活で想定される家族像と知的障害者像が、2つの意味で偏りがあるものであることがわかる。
第1の偏りは、その家族像である。障害者家族に関する研究も福祉的就労の成立に関する研究も、家族(とりわけ母親)に負担がかかっているという認識をもっている。
[……]>206>
第2に、知的障害者像が障害程度がより重度に顕著に偏っている。[……]
ここで、2つの偏りを、家族が知的障害者の処遇を担うことができる可能性という次元と知的障害者の見守りの必要の程度という2次元として把握し、
この2次元を組み合わせると、論理的に4つの領域があると整理できる。これを図式化したのが図4-1である。(pp.205-206)
この課題を検討するために本章では、以下の3つに分けて議論したい。(a)もとはさまざまな象限にわたって、問題が認識されていたこと、
その後、(b)障害程度がより軽度の知的障害者からより重度の知的障害者への注目の移動(図4-2のIの下向きの矢印)が起きたこと、
(c)家族が知的障害者の処遇を担うことができる可能性が小さい知的障害者ではなく、
より可能性が大きい知的障害者への注目の移動(図4-2のIIの左向きの矢印)が起こったこと、の3点である。
ただ本章のような小論では、検討作業に可能な紙幅は限られている。そこで本章では、精神薄弱者福祉法が成立する1960年代から、
福祉的就労の場が知的障害者の活動場所として確立する1980年代末までを>209>主たる検討の時期とする。(pp.209-210)
4 家族を前提とした処遇の形成
4.2 親の負担による小規模作業所の拡大
本節の知見をまとめると次のようになる。児童にしても成人にしても、福祉の供給能力は小さかったため、福祉の側は、
家族に問題を抱えていた知的障害者を優先して施設入所させていった。未成年については学校教育が全員就学を担う一方で、
家族が処遇を担うことができる可能性が大きいとされた知的障害者は、成人になったときの通わせる場所がないという状況が生まれ、
小規模作業所の増設を親が積極的に引き受けていったといえるだろう。(p.239)