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『不妊、当事者の経験――日本におけるその変化20年』
竹田恵子 20181001 洛北出版,589p.
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last update: 20181223
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■竹田恵子 20181001 『不妊、当事者の経験――日本におけるその変化20年』,洛北出版,589p. ISBN-10: 4903127273 ISBN-13: 978-4903127279 2,700+税
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■内容
【帯文】
「不妊治療は、昔と比べ、受診への敷居は低くなりました。とはいえ、治療を実際に始めるとなると、ほとんどの人は、戸惑い、不安、焦りなどの、重い感情を経験します。このような感情は、不妊治療が普及していったこの20年間で、どのように変化していったのでしょうか。
この本は、当事者へのインタビュー調査をもとに、日本の家族形成、労働環境、インターネット、公的支援などを視野に入れ、医療の素人である当事者が編み出す、不妊治療への対処法を明らかにしています。」
→
http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27279.html
■目次
序章
第1章 不妊治療への躊躇い
第2章 二〇〇〇年代初期と二〇一〇年代初期の日本と不妊治療
第3章 二〇〇〇年代初期の不妊治療と躊躇
第4章 二〇一〇年代初期の当事者の意識――アンケート調査から
第5章 二〇一〇年代初期の不妊治療と躊躇――インタビュー調査から
第6章 躊躇を克服する知恵と技術
第7章 躊躇に関与する文化社会的要因
第8章 躊躇をめぐる社会的統制
終章 これからの不妊治療と社会
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http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27279.html
■引用
「不妊治療に対する「躊躇」というテーマは、二〇〇二年に私が医療者から大学生へ転身した際に扱うことになったものです。ただし、不妊治療の当事者であった経験もあり、しかも、当時はまだ非常勤の医療者として勤務もしていた私自身が、このテーマを選ぶことに、まさに躊躇を覚えずにはいられませんでした。」(p.16:[はじめに])
「もがきながら書き進めるにつれて、不妊治療に対する躊躇が学術的な枠におさまらず、多くの人にかかわる問題であることに気づかされました。特に本書のコラムを書くにしたがって、不妊治療が抱える問題の根っこは、典型的な不妊治療の当事者――法的な婚姻関係を結んだ、不妊以外に精神的、肉体的、社会経済的な問題をもたない、若くて健康な男女のカップル――以外を不妊治療から「感情的に」排除しようとする、社会のあり方なのかもしれない、と思うようになりました。|個人の自由な生き方があちこちで言祝がれているにもかかわらず、「こんな家族をもたねばならない」、「こんな人生を歩まねばならない」という強迫観念に似た思いに誰もが急き立てられているのが、現代の日本社会です。そして、それを実現できない者を「敗北者」として緩やかに排除したり、これに刃向かう者には「異端者」というレッテルを貼ったりして「感情的に」攻撃するのです。さらにやっかいなことに、私たちの社会は、「敗北者」や「異端者」として見下した者に対し、その感情を素直に表出させることをも許さず、ひたすら己の感情を押し隠し、明るく前向きに、かつ従順に生きるキャラクターを演じるよう、さらなる要求を突きつけてきます。」(p.17:[はじめに])
「当事者たちが次の世代へ残すものは、血と肉を備えた若者とは限りません。彼らが苦労して編み上げた「知識の貯蔵」は、無形の財産として必ずや新しい世代へ引き継がれていくことでしょう。そして、その知識から繰り出される様々な技術【ルビ:アーツ】は、子を産み、育てるという、共に感応しあおうとする文化社会的営みを妨げる、あらゆる障害を次第に克服していくのではないでしょうか。」(p.18:[はじめに])
「本書では、当事者の躊躇を取り巻く文化社会的要因も分かちがたい一連のものとして視野に入れます。これが、感情は社会的なものであるという本書の大前提から辿り着いた、必然的かつ有効な立場だと考えます。そしてこのような立場をわかりやすく表し、かつ、当事者の躊躇を可能な限り読者へ伝えるため、本書では、調査に協力してくださった協力者の話をたくさん引用しています。望むらくは、二〇〇〇年代初期と二〇一〇年代初期に不妊治療を受けた当事者たちの息づかいまでも感じていただければ幸いです。|ゆえに、不妊治療への躊躇に関するエスノグラフィ―として、本書を位置づけることも可能だと考えています。人類学を発祥とするエスノグラフィ―は、計量的調査法の還元主義的な姿勢へのアンチテーゼとして発展し、社会現象そのものを成立させている状況に立ち返ったうえでなされる詳細な記述を元に分析されます。つまり、当事者が日々を営む状況を、上空から見わたすのではなく、地べたからつぶさに見ていく方法です。本書も、六〇名の協力者による豊富な証言のみならず、計量的調査の強みも一部取り込んで、不妊治療への躊躇[ためら]いを生み出す感情へ接近を試みています。」(p.29:[序章])
「不妊治療への躊躇に関しては、なんらかの仮説を立てようにも立てられないのです。|ゆえに本書では、協力者(当事者)の実際の話のなかに生じている「躊躇らしきもの」を取り出すことから始めています。分析の過程で、その「躊躇らしきもの」を分類し、同類と考えられるもの同士をまとめ、互いの関連を検討しながら、不妊治療に対する「躊躇」を文化社会的要因も絡めたかたちに整えました。[…]|そのため、本書で現れた不妊治療に対する躊躇は、本書の調査に協力してくれた六〇名の当事者の話から導き出した一つの仮説です。しかしこの仮説は、当事者の経験から導き出されたリアルな現実と感情を、読者の皆さんへ届けてくれると思います。そして、不妊治療に対する当事者の躊躇が、実は私たちすべてが抱える生きにくさや辛さにも根ざしていることに気づいていただけることを、願ってやみません。」(p.30:[序章])
「当事者の葛藤を文化社会的要因から考察する際に、最後に取り上げるのは家族形成の問題です。[…]「「自然」な方法で子どもをもうけるべき」という家族形成に関する社会的規範に違反するかたちで不妊治療を受けていたのが、二〇〇〇年代初期の協力者でした。その一方で、二〇一〇年代初期の協力者には、二〇〇〇年代初期のような社会的規範は薄れ、これに代わって「自己実現の一環としての出産・子育て」という意識が生まれていました。一〇年間で家族形成にかかわる社会的規範は、当事者を縛ることが少なくなった▽△かのように見えます。|しかしながら、二〇一〇年代の初期の協力者に、二〇〇〇年代初期のような社会的規範がまったくなくなったわけではありませんでした。晩産による「卵子の老化」に警鐘を鳴らす言説の後押しもあって、「四〇歳までに出産しなければ」という、新たな社会的規範が当事者に迫っていたのです。二〇〇〇年代初期と二〇一〇年代初期の協力者は、【傍点:共に】不妊治療を通じて家族形成に関する社会的規範に直面し、葛藤し、なんらかの選択を迫られつづけたと言えるでしょう。そして、それは女性当事者へ特に強く詰め寄ってきたのです。」(pp.472-473:[第7章])
「家族形成にかかわる日本の社会的規範は、「産む性」としての責務を女性が一身に背負い、しかも理想とする家族を女性が形成する、という制度のなかで踏襲されてきたのです。」(p.475:[第7章])
「さらに言うなら、「自然ではない」、「生命の尊厳を損なう」といった道徳的理由によって女性当事者が躊躇し、不妊治療を家族形成の一手段から遠ざけようとしてきたのも、女性の「産む性」としての責任と絡めて理解することができます。女性が果たすべき任務は、「生命の尊厳」に満ちた「自然な」家族形成を実現させることであり、予測できない弊害【ルビ:リスク】を子に課すような不妊治療にすがることではなかったのです。それは現行の家族制度の維持を損ね、女性が果たすべき責任を軽んじる非行行為に他ならないのです。多くの論者が指摘してきたように、女性不妊当事者が、日本の家族形成に関する社会的規範によって、「産む性」という圧力を受▽△けてきたのは事実です。不妊が悲惨であるとの偏った認識も、これまでみてきたような社会的偏見が土壌となって自明視されてきました。そして、このような文化的慣習の矛盾が、当事者の躊躇をいっそう悪化させる要因になっていたと考えることはできるでしょう。」(pp.475-476:[第7章])
「これまでみてきた当事者の躊躇をめぐる検討は、六〇名の協力者が実際に声に出した話があってこそ叶ったものでした。彼・彼女らはインタビューのなかで、これまであまり経験したことのない「言葉にならないことを言葉にする」という特異な努力をしてくれました。なかにはインタビューのなかでうまく言葉にできなかったことを残念に思い、後日に自分の気持ちや意見を整理した手紙や電子メールを送ってくれた協力者も少なからずいたのです。それほど不妊治療への躊躇を言葉にすることは難しく、しかし「言葉にしたい」という想いは非常に強いことが伝わってきた調査でした。|にもかかわらず、当事者のこの実直で懸命なあがきが、感情を社会的に「つくられたもの」と考えたときに、いとも簡単に切り捨てられてしまうのです。[…]表現されない/できないままでいる感情は、社会的に「つくられていない」ことになって、考察から外されてしまうのです。これでは、当事者の胸の内にわき起こる、言語化できない「生きられた経験」としての感情が、あっけなく切り捨てられてしまいます。」(p.504:[第8章])
「もう一つの課題として、言語化できるにもかかわらず、協力者が【傍点:あえて言葉にしなかった】躊躇もあるのではないかという疑問があげられます。[…]私たちは多くの社会的制限を受け、時には規範として適切な感情表現をするよう強いられています。となれば、いくらインタビューで自由に話すよう依頼したとしても、諸般の事情から話したくても話せないことがあって不思議ではないのです。|このように、不妊治療への躊躇を言葉にすることはたいへん困難です。だからといって、「話された躊躇」と「話されなかった躊躇」のあいだに屹立する大きな壁の存在を無視したり、越えられないと簡単に諦めるべきではないと考えます。今後の課題として、言葉にすることが難しいがために「話されなかった躊躇」を言葉にしていく取り組みと、言葉にできるにもかかわらず、話さないよう当事者を仕向ける社会的な制限を突き崩す試みが求められるのです。」(p.505:[第8章])
「互いに相手の胸中を慮[おもんばか]り、応えようとする〈感応[かんのう]〉の営み[…]まさにここに、「話された躊躇」と「話されなかった躊躇」のあいだに屹立する、大きな壁を突き崩してくれる可能性をみることができます。〈感応〉によって、当▽△事者の言葉にならない感情を言葉にすることができるかもしれないのです。|〈感応〉が発揮する力を侮るべきではありません。〈感応〉は、当事者と聞き手という、一対一の関係内に決して留まらないのです。」(pp.511-512:[第8章])
「〈感応〉を介して当事者の躊躇が言葉になっていく長い遣り取りを、当事者だけでなく社会がやわらかく受け止めつづけることができるならば、二〇〇〇年代初期から二〇一〇年代初期を通じて繰り広げられてきた躊躇をめぐる当事者の闘いは、沈静に向かうように思えます。そんな未来では、パートナーを始め、家族や友人、同僚、そして名も知れぬ多くの人びとの〈感応〉と手を携え、不妊治療は新しい場面を迎えるのではないでしょうか。」(p.512:[第8章])
「不妊治療が三〇年の歴史のなかで普及してきた背景には、一握りの特別な当事者の無謀とも言える挑戦と、その挑戦を批判的に吟味するその他大勢の当事者が存在します。そして、その▽△他大勢の当事者も、日々の治療のなかで直面する自らの躊躇と対決し、不妊治療を受け容れるべきか否かを問いつづけてきたのです。この、その他大勢の当事者たちの地道な吟味こそが、「素人の専門知(技術【ルビ:アーツ】)」を育み、不妊治療を今日のようなかたちに普及させてきた動力になりました。」(pp.537-538:[終章])
■書評・紹介
◇寺尾紗穂
「(書評)『不妊、当事者の経験 日本におけるその変化20年』 竹田恵子〈著〉」
2018年12月15日『朝日新聞』東京朝刊29面〔読書3〕
◇竹田恵子
「感情との闘いと社会――竹田恵子著『不妊、当事者の経験 日本におけるその変化20年』」
2018年12月17日『東京新聞』朝刊14面〔文化娯楽〕
■言及
◆立命館大学産業社会学部2018年度後期科目《比較家族論(S)》(担当:村上潔)
「現代日本におけるオルタナティヴな「子産み・子育て」の思想と実践――「母」なるものをめぐって」
*作成:
村上 潔
UP: 20181004 REV: 20181006, 1223
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家族 family
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性(gender/sex)
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