HOME
>
BOOK
>
『[ちいさい・おおきい・よわい・つよい 120]子育て。ありのまま生きてやろうじゃないか。』
山田 真
20180725 ジャパンマシニスト社,192p.
Tweet
last update: 20181006
このHP経由で購入すると寄付されます
■
山田 真
20180725 『[ちいさい・おおきい・よわい・つよい 120]子育て。ありのまま生きてやろうじゃないか。』,ジャパンマシニスト社,192p. ISBN-10: 4880499208 ISBN-13: 978-4880499208 1,600+税
[amazon]
/
[kinokuniya]
◇
『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(『Chio』)
▼定期購読特典『Chio通信』
◆20180725 『Chio通信 06「追悼・毛利子来」』(監修:山田真)
https://twitter.com/KARAIMO_ONLINE/status/1021290612404842498
“今号は、「ち・お」元編集代表・小児科医の毛利子来さんをしのぶ特別号。まるごと毛利子来さんです。”
cf.
毛利子来[もうり・たねき]
■内容
「小児科医・山田真さんが、子育てのさまざまな「困った!」「どうしよう」にアドバイス。50年親子の声を聞いてきたから、いえること。」
→
http://japama.jp/chio120/
■目次
→
http://japama.jp/chio120/
■引用
〔編集部〕「遠慮しなくていい。|世間にあわせなくていい。|迷惑をかけたっていい。|――そうは思ってみても、|どうしたって気になる、|ママ友の目、学校の目、お医者さんの目、|SNSやLINEの網の目。|きゅうくつな世の中で、|“私自身の”一歩を踏み出すのは|簡単じゃない。」(pp.12-13)
「ぼくは五〇年ほど医者をやってきましたけど、医療ってよくわからない部分がたくさんあって、迷っている毎日です。ほんとうにわからないところがたくさんあって、みなさんも医学だとか医療だとか、信用しすぎないほうがいいと思うんです。|[…]|いま信じていることだって、五〇年くらい経ったら、「えっ、昔はそんなの信じてたの」となるかもしれない。逆に、いままちがっているように見えることが、じつは正解ということもあるかもしれない。」(p.18)
「結局、応用問題にしなければいけないってことです。自分の抱える現実は、その人にとってもっとむずかしいところにあって、その現実でどういう道を探っていくのかは、みなさん自身の課題なわけですから。|教育も医療もそうです。問題を応用問題として受けとめてもらえるように、いいたいし、書きたいんだけれども、そこがなかなかむずかしい。これが正しいとはなかなかいえなくて、すっきりしない。|むしろ「これが正しい、私はわかっているんだ」なんていいきるお医者さんがいたら信用できないって思っていい。ほんとうはわからないまま手探りでやっていて、多少は経験も役立つけれど、それでも新しい発見の連続です。」(p.22)
「とりあえず、抗生物質がないと生きていけない、抗生物質を使わないととんでもないことになるといった幻想は、捨ててもらったほうがいい。|実際、いまでは「手遅れ」というような状態は非常に少ないです。医者は「手遅れ」といいますけれど、そういっておいたほうが、あとあと自分がミスっても責任をどこかにもっていけるからです。」(p.24)
「ぼくは障害をもった娘とずっと生きてきましたけれど、「障害をもっている子の親が、すごく強く見える」といわれることがあります。自分だったらだめなんじゃないかと。|でも、実際にはその場になるとなんとかなっちゃうものなんです。ぼくもそうですが、障害をもった子の親ということになると、もうだいたい世間の規格からはずされることになっちゃうんです、自動的に。」(p.26)
「障害児の親が“障害児の親らしく”生きていないと世間の人は不安になるらしい。|だいたい人間はみな、その人らしくというか、その人のおかれた状況にあわせて生きてほしいというのがあるんですね。おかれた位置に応じて、それらしく生きていくことで社会が平穏に成立しているんだという思いがある。だから、そこからはずれる人がいると不安になるんです。|障害者の親なんかは「すごく遠慮して生きる」というふうにすると、楽そうに見えます。みんなが同情してくれたり、気をつかったりしてくれるから。しかしいざ、ほんとうに人の力を必要とするときに、そういう生き方をしていると、まわりの人はなにもしてくれない。「いま忙しいから」とかいわれてだめなんです。|最初はなかなかわからないけれど、開き直って生きようと思ったほうが、ほんとうの意味で楽になります。開き直って「障害児の親だから特別なんだと思われるのなら、特別で生きてやろうじゃないか」という感じにだんだんなっていくと楽になる。」(p.27)
「障害児の親だから特別なんだって思われたら、それでいいと生きると楽ですね。逆に特別に見られているのに、なんとか特別に見られないようにすると、努力すればするほど特別になっちゃったりするんですよ、きっと。」(p.29)
「いまの日本の社会で自由に生きるというのは、かなり代償がいります。なにしろ横並びでいるのが幸せと思わされ、教育されてきている国です。そのなかで自由に生きようとするのはたいへんなことです。|子育てに関していえば、なんでもかんでも母親の責任にされてしまっています。」(p.30)
「ほんとに日本の小児科医なんかは遅れています。だいたい、保育園へ行っている子がきらいです。もともと共働きしている母親のことがきらいなんです。それでいて、口では「ぼくはこどもの味方だ」とか「こどもの立場に立つ」とかいう。ウソばっかり。」(p.31)
「お母さんを指導しようなどという大それたことを考える医者がいる。医療だけやってればいいんで、指導なんかしなくていいんです。治すことはできないくせに指導だけはするっていう小児科医がたくさんいます。」(p.32)
「そういう医者にいろいろいわれたら、腹が立つのは当然です。[…]その医者に面と向かっていわないとダメですよ。みんなで、集団としてでもきちんと糾弾しないといけない。|フェミニズムはさかんになったように見えて、論陣を張っている人はいるけれど、女性個々の日常はどうでしょう。ちゃんと行くべきところへ行って、やっつけるべき人はやっつけなきゃ変わらないと思うんですよ。」(p.33)
「みんなで乗りこんでいって「育児のことで母親を責めるような医者は許さない」とか、つるしあげるくらいのことをやらないと、医者は変わらないです。[…]みなさんも、もっと、いいたいことはいう、やるべきことはやるということで、なんとかしていかないと、子育ては楽にはならないと思います。」(p.34)
「ぼくたちはこどもの歩行が早いとか遅いとか、言葉が早いとか遅いとかいって問題にしたり悩んだりします。しかし、ある時代、ある集団のなかで発達が遅いといっても、別の時代、別の集団のなかでは遅くもなんともなく平均的だったりするのです。発達の成熟の早さ・遅さといったことについて絶対的な基準があるわけではなく、あるのは相対的な基準だけだということをまず認識しておきたいものです。」(p.41)
「マスコミが好む質問というものがあります。たとえば、育児関係の雑誌などのインタビューでよく聞かれるのが「このごろのこどもたちは変わってきまし▽△たか?」という質問です。こういう好みはマスコミだけのものではなく、講演会を依頼されるときにも「小児科医から見たこのごろのこどもの様子」といったテーマで話すよう求められることもよくあります。」(pp.58-59)
「そこでうっかり「このごろのこどもはたいへんなことになっていますよ」などと答えようものなら、次は「このごろの若いお母さんたちは育児ができませんよね」「いまの家庭は子育ての機能を失っていますね」などとたたみかけ、それに同意する言葉をひき出そうとするに決まっています。」(p.59)
「学校も医者も、「肥満はいろいろな病気のもとです。だから、お子さんの肥満を解消することはお子さんの幸せのためなのです。私たちはお子さんのためを思っていっているのですよ」と正しいことをいいます。|しかし、この正しさがどこかうさん臭く、なぜか意地悪にしか聞こえないのです。それは太った人のひがみというものなのでしょうか。」(p.89)
「ぼくには「太っているのはよくない。やせなさい」という忠告が、障害者に対する「健常な人に近づくようにがんばって訓練しなさい」という忠告と同じように聞こえます。|この忠告にしたがってつらく厳しい訓練をこども時代に何年もやらされた障害者が成人になって「健常者に近づく必要なんかない。ありのままの“障害をもった姿”で生きていけばいいのだ」と開き直って宣言する時代がきて、障害者にとって新しい地平が切り開かれたのですが、そういう態度に対しても非難▽△をする人はいます。|障害をもつこどもに積極的に訓練をしない親に対しては「こどもの発達の可能性を閉じてしまっている悪い親だ。こどもは発達したがっているのに」というふうにいわれるのです。|しかしそういう言葉の裏には「障害者は社会にとってのお荷物なのだ。自分では生産しないで他人のおかげで生きていくのだから。そういう存在ならば、少しでも障害を軽減するべく努力するのは親にとっても本人にとっても義務ではないのか。義務を果たさない人間は許さない」という意味がこめられているようにぼくには思えてなりません。|そういう社会的なプレッシャーを「こどもの幸せのため」という言葉でごまかしているように思われるのですが、それは太った人に対して「健康のためにやせなさい」と言葉がかけられるのと似ているように思われるのです。」(pp.89-90)
「太っている人が差別され、屈辱を受けつづけてきたこと、そしていまも受けていることを無視した「肥満に対する教育的指導」をぼくはイヤなものに感じるのです。|[…]|「太った子の幸せのために」とおこなわれる指導が、肥満を「悪」とする価値観を増幅させ、そのことが拒食症などを生み出しているのではないかと考え直してみようではありませんか。」(p.93)
「清潔を志向する社会のあり方は、だれにとって有利でだれにとって迷惑なことなのか。東京ではホームレスの人たちが強制排除され、またあちこちでホームレスの人がこどもたちになぶり殺しにされるというような悲しく憎むべきできごとが起こっています。|いじめ問題にも、清潔志向は確実につながっているとぼくは考えているのですが。」(p.103)
「こどものうち、それもごく幼いうちにいろんな人と出会っていっしょに生活して、そして理解しあっていくのは、とても大切なことだし、必要なことだと思います。|ぼくたちは日本という国のことを「単一民族国家」などと錯覚し、同質な集団づくりを目指して、少しでも異質とみなしたものは排除するという社会をつくってきました。しかし、高齢化社会といわれ、国際化せねばならないといわれるいま、ぼくたちはさまざまな人が同等に生きる社会を目指さねばなりません。|そのためには、幼いうちにいろいろな人と出会う場が必要で、保育園や幼稚園はその役割を果たすことが期待されます。|そのためには保育園や幼稚園は、障害児や外国人のこどもや、いろんな人がいっしょに生きる場になっている必要があります。そうなったとき、保育園・幼稚園はこどもたちにとってなくてはならぬ場所になるでしょう。」(p.129)
「いまはおちつきのない子が病気あつかいされる時代といってよいと思います。|極端におちつきがなく動きまわるこどもに対して、「多動」という症状名のような病名がつけられ、医学的な研究の対象になるようなことは、一〇〇年くらい前からありました。|しかし、そういうこどもに
ADHD
という病名がつけられ、しかもその病名▽△が医者以外の人にも広く知られるようになったのは、最近のことです。|たとえば、学校では先生にとって手のかかるこどもがいると、「この子はADHDではないか」などと素人診断されたりすることが多くなり、そういう傾向は幼稚園や保育園などにも広がって、「あまりにおちつきがないので、一度専門のお医者さんに診てもらっては」と、保護者が先生や保育士さんにすすめられる事例も見られるようになっています。」(pp.131-132)
「ADHDは
発達障害
とまとめて呼ばれるもののひとつであり、発達障害と診断されることは「障害児」と判定されたということですが、自分のこどもにこういう判定をしてほしいと望む親が多いというのも、いまの世相です。▽|△なぜそういう診断を望むのかというと、「多動のこどもをもつと、他人からしつけが悪いと批判されるが、ADHDならしつけのせいではないことになり、親として気が楽になる」とか、小学生の場合は「ADHDと診断されれば、特別支援教育が受けられるから」といったことが理由であるようです。|そうしてADHDと呼ばれるこどもがどんどん増えているのですが、それはほんとうによいことなのでしょうか。」(pp.132-133)
「おちつきのない子が問題にされるようになった起源は、やはり学校にあると思うのです。ADHDが社会的に問題にされるようになったのは、学級崩壊だったという人もいます。|学校で学級崩壊という現象が頻発するようになると、「どうしてこんなことが起こるのだろう」と犯人探しが始まり、そのなかで「ADHDのこどもが発火点になって、クラス全体が騒ぎ出したりするのだ」という言説が生まれ、おち▽△つきのない子が犯人あつかいされることになってしまったのです。やがて、その視点は就学前の子にも拡大していくことになります。|しかし、実際にはもっとずっと前から、学校が手のかかる生徒を“問題児”としてあつかい、クラスから排除していこうとする傾向はありました。」(pp.133-134)
「学校が「学力を伸ばすこと」を第一の目標にするようになると、手のかかる子、授業の邪魔をする子などはふつうのクラスから排除され、別のクラスへ移されることになります。そしてその際、「こういう変わったこどもには、特別に配慮した授業が必要だから、別のクラスにしてあげる」というふうにいわれるのです。」(p.136)
「ぜんそくのこどもが学校へ携帯用の呼吸器を持っていくかどうかということで、お母さんが悩んでいるような例をぼくは何度も見てきました。|学校でぜんそくの発作が起こったとき、呼吸器を使って吸入すれば発作はおさまりますから持っていると便利なのですが、「そういうものを持っている子」ということで特別な目で見られてしまうのを、お母さんは気にするのです。」(p.139)
「残念ながらこの世の中には、いまも病気や障害に対する偏見や差別が存在します。そしていまの学校は、特別あつかいしなければならないこどもに対しては「手のかかる子」という目で見がちで、「手をかけるのはめんどうだな」という思いにつながっていきがちでもあるのです。」(p.140)
「障害児の場合は、健常児の集団にまじって生きようとすると、なにも主張をしなくても「存在そのものが迷惑だ」とか、「存在そのものが集団の効率をさげてしまう」といわれてしまいます。それで、集団から排除されまいとすれば、保護者も本人も強く自己主張をしていくことになります。|でも、病気のこどもの場合、がまんすればなんとかやっていけることが多いので、つい要求をひっこめてしまったり、遠慮しながら要求したりする場合が多いのでしょう。|しかし、そういう態度は「偏見の温床」になります。たとえばアレルギーのこどもの保護者の場合、わがままだとか過保護だと思われがちです。」(p.141)
「アレルギーにかぎらず、病気のこどもの保護者などは、こどもを守るために、遠慮せずどんどん要求する勇気をもってほしい。それが病気のこどもを生きやすくすることにつながっていくと、ぼくは思っています。」(p.142)
「人は自分と異質と思うものにはじめて出会ったとき、拒否感をもったり、偏見や差別の目で見ることが多いけれど、つきあっていくうちに異質ではないとわかり、仲間としてあたりまえにつきあっていくようになることも、また多いのです。だから、出会いの初期に多少のトラブルが起こることは避けがたく、障害児を普通学級へ入れようとする親の多くは、そうしたことを想定しているのです。」(p.146)
「世の中には多数派と少数派の二種類の人たちがおり、また強い立場にある人と弱い立場にある人(強者、弱者といわれます)がいます。|そして、多数派・強者は、少数派・弱者に迷惑をかけているし、逆に少数派・弱者は、多数派・強者に対して迷惑をかけていることになるようにも思われます。|しかし、「おまえが迷惑だ」というふうに伝えるのはたいてい強者の側であって、弱者の側が強者に対して迷惑だとはきわめていいにくいのです。|以前、
『障害者に迷惑な社会』
(松兼功、晶文社、一九九四)という題で障害者によって書かれた本がありましたが、健常者が多数派であるこの社会は、健常者にとって便利なようにつくられていますから、障害者には不便ということになります。しかし、「この社会は自分たちにとって迷惑な社会だ」と障害者がいうのには、そうとうの勇気がいるはずです。|障害者の場合、世の中の少数派ではありますが、さまざまな運動をし、積極的に発言もしてきましたから、「人間だれだって迷惑かけあって生きてるんだ。▽△迷惑かけてなにが悪い」といい返せるようになっている人にもなっていますが、一般には少数派に属する人は、迷惑といわれつづけて甘受していることが多いのです。」(pp.159-160)
「「自分は正しい」と確信している人が集団になって「迷惑だ」と声をあわせるとき、そこにはちょっとしたファシズムが生まれるように思います。|だから他人に対して迷惑だと思ったとき、すぐ口には出さないで、まず「自分は多数派になっていないか。強い立場にあたるのではないか」とたしかめてみることが必要なのではないでしょうか。」(p.161)
「でも自分のほうが弱い立場で、はっきり「迷惑だ」といっておかないと危険が生じる恐れがあるような場合は、はっきり迷惑という必要があるでしょう。」(p.161)
「患者が医者の指導に対して文句をつけたり反抗したりするのは、患者らしくない態度として排斥されますが、それは医者にとって好都合なことでした。|このように医者が完全に主導権を握るルールをつくることによって、これまで医者は患者を薬漬け、検査漬けにし、十分な利益をあげてきたわけです。|学校では生徒たちが生徒らしくふるまわされてきました。教師は勝手に校則をつくり、それに生徒たちをしたがわせてきたのですが、その校則には「生徒らしい服装」だとか「生徒らしい礼儀」だとかが盛り込まれています。」(p.166)
「障害をもつ娘の涼については、なるべく障害者らしくならないように、障害者らしい生活スタイルにならぬようにと願って援助してきたつもりです。アイヌ人が、特定の地域のなかに押しこめられ「観光の対象」として生きることを求められているように、障害者は健常者の迷惑にならぬよう、あまり人目につかぬところで“清く正しく美しく”生きるように求められています。|生産性に寄与しない障害者は、その存在そのものが社会にとってのお荷物とされるわけですが、「それ以上迷惑をかけなければ優しくしてやってもよい、しかし、強く自己主張するようなことは社会の許容範囲を超える」と、このあたりがおおかたの社会的合意であるらしいことに障害者の側は感づきます。|そういう範囲で生きていきさえすれば、それほどの摩擦もなくそれなりに“幸せ”に生きていけそうに見えるので、障害者の親などは“自粛して生きる道”を選ぶことが多いように思います。▽|△特別支援学校などでおこなわれる
“特別支援教育”
の実態は結局“将来、社会のお荷物にならないよう幼いときからこどもをしつけておく教育”になっているように思われるのです。|もちろん生産性に寄与できる可能性あるこどもには、その生産性を少しでも高めるための教育をして「障害者なのによくやっている」と褒められることを目標にしますが、寄与できないこどもは、もはや教育の対象ではなく、しつけの対象になるのです。そして、その結果は健常者と別のところでひっそり生きていくことにもなるわけですが、そういうなりゆきをぼくは嫌悪します。」(pp.168-169)
「お母さんが
予防接種
の功罪について一生懸命勉強し、「一切受けない」とか「最低限二種類だけ受けよう」と決断します。|するとそのお母さんの前に立ちはだかるのが「あんたのこどもが感染症を保育園へもちこんでくるのは迷惑」というほかのお母さんたちの声や「予防接種をひとつもしないなんて、こどもへの虐待行為だ」と叱責する医者の声です。|日本では予防接種は義務になっておらず、受ける受けないは個人の自由のはずなのですが、周囲の力で事実上強制されてしまうのが現実です。予防接種だけでなくあらゆる点で自由をじわじわ奪いとられつつあるのが、いまこの時だと思います。|こどもたちのいのちを、そして暮らしを守っていくために、ぼくたちはいっせいに「自由を我らに」と叫ばなくてはいけません。新自由主義といわれる時代に「自由を!」と叫ばなければならないというのは、なんとも皮肉なことだと思うのですが。」(p.173)
「【編集後記】今号は、小児科医・山田真さんがたっぷりつまった一冊になりました。これまでの「ち・お」にそのときどきのテーマに寄せていただいた言葉がもとになっています。そこに一貫してあるのは、常識を疑い、不正義や差別に怒る、まさに
『闘う小児科医』
(山田真、小社刊。おすすめ!)の姿。そして、言葉と言葉のあいだから立ちのぼるワハハの力。|同時刊行の『Chio通信』06号は、小児科医・
毛利子来
さんの追悼号です。こちらは、膨大にのこされた毛利さんの言葉のうちの厳選七編を、山田さんと編集部で選びました。|ふり返れば二五年前、「ち・お」は毛利さんと山田さんを編集代表にスタートしたのでした。|強力な応援団の言葉を胸に、生活のなかでがんじがらめになりそうな心を柔らかく保っていたい、そう思います。
六月二五日 編集人 奥田直美」(p.189)
■書評・紹介
■言及
◆立命館大学産業社会学部2018年度後期科目《比較家族論(S)》(担当:村上潔)
「現代日本におけるオルタナティヴな「子産み・子育て」の思想と実践――「母」なるものをめぐって」
*作成:
村上 潔
UP: 20181006 REV:
◇
子/育児
◇
障害者と教育
◇
家族 family
◇
『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(『Chio』)
◇
身体×世界:関連書籍
◇
BOOK
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇