『道標』61(2018年夏)号
《追悼 石牟礼道子さん》
人間学研究会 2018/06/29 152p.
last update: 20181003
■『道標』61(2018年夏)号
2018/06/29 人間学研究会 152p.
《追悼 石牟礼道子さん》
執筆者=奥田直美(カライモブックス)・石牟礼道子・石牟礼道生・佐藤薫人・大津円・岩岡中正・東島大・三砂ちづる・米満公美子・山本淑子・山田梨沙・米本浩二・臼井隆一郎・服部直明・辻信太郎・藤本憲信ほか
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◆石牟礼道子
■引用
◇上原佳久「「魂の秘境」にお供して」(pp.22-24)
「震える手で握った赤ペンが、指のすき間からぽとりと落ちる。握り直しては、またぽとり。それでも、石牟礼道子さんは原稿の推敲をあきらめず、こうつぶやきました。|「余計な言葉が、一つあってもいけません。」」(p.22)
「なぜ、そこまで書こうとするのか。車いすに座った石牟礼さんに気圧される思いで、幼い日々の思い出を語る声に耳を傾けました。「陽光を照り返して、一枚の布を敷いたように見える穏やかな不知火海。漁師さんは『光凪』と呼んでおりました」「魚【ルビ:いお】は天のくれらすもの。人間が好きにできるものではありません」。言葉によって目の前に立ち上がる不知火海の情景に包まれながら、「石牟礼さんは失われた世界を、言葉の力によって甦らせようとしているのではないか」と思わずにはいられませんでした。その失われた世界とは、豊かな不知火海に糧を求めて、自然と調和して生きてきた水俣の人々の暮らし。『苦海浄土』で描かれたように、有機水銀による海洋汚染で突然、断ち切られてし▽△まった世界なのだと想像します。」(pp.23-24)
◇児玉真也「合掌」(pp.25-27)
「石牟礼さんが八十七歳の折に上梓された詩▽△集『祖さまの草の邑』について、【傍点:あんなに獰猛な詩を書くおばあちゃん】は他にはいない、と、確かそういった独特な賛辞を贈られたのは伊藤比呂美さんだった。」(pp.25-26)
◇松岡洋之助「水俣病を告発する会――石牟礼道子さんとの日々」(pp.34-43)
「石牟礼さんの年賀状は味わいのあるもので、楽しみだった。毎年自筆の絵が書〔ママ〕かれていて俳句が添えられているものもあった。[…]石牟礼さんは画伯でもあったのだと、あらためて思った。」(p.35)
◇北川はるか「石牟礼さんの世界に出会って四十年」(pp.44-49)
「石牟礼さんの作品には、力のない人間への慈しみと同時に、この世で起こる理不尽な事への怒りと、それに対して絶望もあきらめもないしぶとさも感じる。」(p.49)
◇奥田直美「みっちん」(pp.55-57)
「この世界に人をひとり産み落とすということは末恐ろしいことのように思えたけれど、それでも『椿の海の記』や『あやとりの記』のみっちんが、この世のとりどりのものに囲まれて、「意識のろくろ首のようになって、わたしはこの世を眺めていた」(『椿の海の記』)、と書かれるそのさまは、生きることの切なさややるせなさ、汚らしさ恐ろしさがまざまざとあっても、やはり石牟礼さんの筆にかかれば、それは美しい。」(p.55)
◇服部直明「ところでお能はいかがでしたか」(pp.58-61)
「石牟礼さんの小説は、さらさらと読み進めることなどできず、腰をすえ、気合いを入れてしか私は読めないが、講演はわかりやすく話されるので、それを文字にした講演録も読みやすい。この講演〔1999年4月29日《第一回水俣病記念講演会》での講演「形見の声」〕は『水俣フォーラムNEWS』七号に収載させていただいたほか、水俣展の図録ともいうべき『水俣展総合パンフレット』の巻頭にも一部を掲載させていただき、さらに石牟礼さんの著書にも収められている。|もちろん、掲載の際には録音の文字起こしを整理したものを石牟礼さんにお送りし加筆・修正をお願いしたが、戻ってきたゲラは、丁寧な読みやすい朱字が入って、磨きがかけられており「こういうふうに手を入れるんだな」と感じ入った。」(p.59)
「石牟礼さんは|〔2004年に水俣で奉納された能「不知火」の公演を〕「天祐でしたね」|とおっしゃった。いい言葉を聞いたと思った。石牟礼さんは人を視るだけでなく、天を視ている。」(p.61)
◇馬場純二「シを巡る断想」(pp.62-63)
「石牟礼道子さんが逝った。|不思議なことに、喪失感がない。|もともと、彼女は地上から浮き上がった生を生きていた。彼女の文体は宙を彷徨う。過去と現在と未来とを自由に出入りし、人びとの汗と躍動感と笑い声と、生命のさざめきとしか呼びようのない数多の生命の貌を克明に描き出す。」(p.63)
◇岩岡中正「魂の灯りを継ぐために――深悼・石牟礼道子さん」(pp.66-70)
「多岐にわたる豊かな森や「宇宙」(コスモス)のように生成する石牟礼さんの全貌をつかみとるのは容易ではなかった。私は、『苦海浄土』を文学表現論からだけ色々論じられるのにやや不満で、それよりまだ比較的論じられなかった文明批判からのアプローチがずっと魅力的だった。私は、一種の専門の職業病からあくまで客観的(というのは、もとよりあり得ないことだが)に、思想史的文明史的文脈から思想家・石牟礼を学び明らかにしたいと思ったものである。石牟礼さんはたんなる詩人、小説家でも語り部でもなければ、ましてや告発のジャンヌ・ダルクでも巫女でもない。私は石牟礼さんを、現代に生きて時代をさし示す、言葉の本当に意味での「詩人」であり現代思想家だと思って学んできた。こうして私は石牟礼さんを、水俣病やその根底の「近代」に対する鬼神のような告発者・運動家であると同時に、あるべき「もうひとつのこの世」(「原郷」)を描いてみせる、母のような和解と救済の人という、「ヤヌス神」(二面神)だと思っている。|石牟礼さんが亡くなられてちょうど10日後に現代俳句の金子兜太氏が亡くなられた。この石牟礼さんと兜太氏の二人は、「戦後近代」の成果であるとともに、運動を通して自己を創造するとともに、文学創作を通して現実と関わりこれを変えていく、「文学の力」を私たちにしっかりと示してくれた。さらに石牟礼さんは、生ぬるい戦後の市民主義を超えて、「近代」の病である水俣病への告発とその被害者への共感から出発した。「悶え神」としての彼女は「道行き」の共同性を通して自己展開するとともに、近代文学を超える土俗性とアニミズムをもった、戦後を突破する思想家となられた。」(p.67)
「石牟礼さんの文学と思想は、「わが死民」というときの「わが」にこめられていて、それは、市民である私たちの「市民性」という名のエゴイズムへの徹底的自己否定と自己超越を私たちに迫るものである。その意味で石牟礼さんの文学は、葛藤と自己放棄から衆生済度へ至る「苦悩の文学」であり、その先に石牟礼さんの「ひと様【ルビ:さま】の文学」という高貴な文学がある。」(p.68)
「「私は『知』ということばはあまり好きません」と石牟礼さんがはっきり言われたことばが今でもはっきり耳に残っている」(p.69)
「「私は風にそよぐ雑草の一本として精霊の物語を伝えていきたい」とは、私が石牟礼さんから直接聞いたことば」(p.70)
◇藤本憲信「石牟礼道子を心に描く」(pp.71-80)
「患者の彼女による記録は単なる聞き書きではないという。石牟礼の半生の生活に寄り添った渡辺京二の説である。患者の話を口移しに記述するだけでは、患者の苦衷を真実として捉えることは不可能であろう。石牟礼の心象を濾過して初めて患者の心は命の叫びとして蘇ることになるであろう。私は『苦海浄土』の次の一節を読むことによって、石牟礼と渡辺が異口同音に唱える説が、最もよく理解できる。」(p.73)
「「石牟礼の記述は決して聞き書きそのままではない」とする説は、この重要な一節によって証明される。九平少年の心は石牟礼の心と重なる。九平少年の言葉は石牟礼の言葉であり、石牟礼の言葉は九平少年の言葉である。両者一如の境地である。石牟礼が水俣病問題の本質に迫る原点はここに存すると言っても、決して過言ではない。蓬氏に対する心遣▽△いも、九平少年の温かさであり、それは同時に石牟礼の心でもあった。私はここに九平少年のみならず、石牟礼の、全犠牲者に対する愛の発露――と言ってもまだ足りない、何と表現してよいやら言葉を失う――をまざまざと見る思いがする。」(pp.75-76)
◇松本克夫「『苦海浄土』に導かれて」(pp.81-85)
「この本〔=『苦海浄土』〕をいつ読んだのか定かではないが、駆け出しの記者にとっては衝撃だった。正直のところ、恐ろしい本だった。|水俣病患者たちの生霊のような言葉に圧倒された。」(p.81)
「それまで、言葉がこれほどに力を持つ文章に出逢ったことはなかった。|新聞記者をしていながら、新聞記事にどういう意味があるのかと疑問に思えたものだった。これ以上のものはとても書けない気がしたからだ。同時に、商売柄、石牟礼さんがどういう取材をしたのか、気になった。どうやってここまで聞き出せたのか、恐らくメモも取らないままにどうやって文章をまとめられたのか。|その疑問は、後に渡辺京二氏にいわれて文庫本の解説を読んで氷解した。」(p.81)
「『椿の海の記』は、[…]近代の波に浸される以前の暮らしのありようの記録としても読める。著者は当時の暮らしを歳時記か民俗学の記録のように記しているのだが、読む側はああ何て豊かなのだろうとうらやましい気持ちになる。」(p.83)
「石牟礼さんは、〔『神々の村』に〕「時の流れの表に出て、しかとは自分を主張したことがないゆえに、探し出されたこともない精神の秘境が、人びとの心の中にまだ保たれていた」と書き、「人の心の中に残された秘境へとわたしは旅立たねばならない」と決意する。しかし、秘境からの声はなかなか届かない。国であれ会社であれ労働組合であれ、「日本近代にむかって「出征」したものたちは、遠いアフリカの砂漠と飢餓に寄せる想像ほどにも、それぞれの母郷をむしばんでいる病変をわが身のことと思わない」からである。「人間全般の内部に、壊死が起こりつつあることの予兆を」つかみそこねているのである。」(p.84)
「『苦海浄土』三部作を告発の書だといえば、石牟礼さんに叱られそうな気がするのだが、著者の意図はともかく、この三部作がチッソというより近代を告発していることは疑いようがない。しかも、近代の暗部や裏面を告発しているというより、近代の核心をぐさりと突いているのである。果物の芯が腐るように、近代も人の心という芯が腐っていると。個の言葉を失い、組織の言葉、制度の言葉しか発せられなくなるのが近代であると。|『苦海浄土』には、これを土台にして、近代をどう読み解くかという宿題を与えられたような気がしている。」(p.85)
◇三砂ちづる「書くことと真実」(pp.86-87)
「石牟礼さんがノンフィクション作家ではないことは、本文と同じくらい有名な
『苦海浄土』講談社文庫版の渡辺京二氏による解説で、世に知られている。『苦海浄土』は「聞き書き」などではなく、石牟礼道子の「小説」であることは、だから、よく知られるようになった。それでも、なお、見よ、石牟礼道子はいかに、現実を動かしただろう。綿密な調査より何より、水俣病の真実に近づいただろう。丁寧な資料の読み込みや、現場における聞き取りなや観察などの行動がなかったわけではない。それは誰よりも、あった。それでもなお、何より彼女の「ビジョン」というものが、彼女の言葉と文章を通じて、現実よりも真実である世界を詳細に提示し、それは真実でしかありえない迫真の力を携え、結果として人を動かし、人の心を動かし、現実を動かし、現実として立ち現れる。[…]|私たちが真実に近づくには、どうしてもこういう力が必要なのである。書くことで真実に近づき、真実を作り、真実を提示する。」(p.87)
◇木庭亮輔「石牟礼さんのやさしいお声」(pp.88-90)
「では『苦海浄土』は、おそらく聞き書でもルポルタージュでもないかもしれないもうひとつの「いい仕事」(渡辺「わが谷川雁」)、
森崎和江の『まっくら』とどこが同じでどこが違うのか。ともに谷川雁と深く関わる過程をくぐって生まれた両作品の、どこまでが同じでどこからが違うのか。」(p.88)
「石牟礼さんが幻視する水俣は「愛憎ただならぬ占有空間」、不動不滅の「絶対領域」である。かつて海と空のあいだに生きた民は、いま死民に変化させられた。死民となった人びとの群は、進むに進めず、戻るに戻れない。そのようなわが村人たちが「わたくしの身辺に寄りなずむ」。そのような人びとのことが心から去らないわたくしは「そのようなものたちの影絵の墜ちてくるところにかがまり座って」いる。「前世とは、たぶん、罪障を宿している世界である。」」(p.90)
◇辻信太郎「編集後記」(p.151)
「皆さんの文章から浮かび上がってくるのは、作品については一切妥協を許さぬ厳しい作家であった石牟礼さんが、日常は、どこまでも優しくユーモアに満ちた生活人であったお姿です。」(p.151)
◇山本哲郎「編集後記」(p.151)
「並外れた理解力、想起力、連想力もそれ〔「一語入魂の努力の積み重ね」〕が培ったのであろう。[…]人間関係や生類や自然に対する桁違いの感性を言語化できた秘密に違いない。」(p.151)
■書評・紹介
■言及
*作成:村上 潔