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『社会が現れるとき』

若林 幹夫・立岩 真也・佐藤 俊樹 編 20180420 東京大学出版会,384p.
http://www.utp.or.jp/book/b331385.html

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■若林 幹夫・立岩 真也・佐藤 俊樹 編 20180225 『社会が現れるとき』,東京大学出版会,384p. ISBN-10: 4130501925 ISBN-13: 978-4130501927 [amazon][kinokuniya] ※

若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき』表紙

■広告

社会がごく自然に存在してしまうことへの疑いと驚き.社会の現れはどのように経験され,思考され,人びとの行為や関係と結びついてゆくのか.そこに立ち止まることから始まる社会学的な問いは,多様な研究対象や分析方法へとひろがる.研究の最前線を示す新しい社会学論集.

■目次

はじめに(若林幹夫)(↓)
1章 「都市」をあることにする(若林幹夫
2章 空間の自由/空間の桎梏――都市空間への複数のリアリティ(西野淑美)
3章 近代日本における地位達成と地域の関係――戦前期生まれ著名人の中等教育歴が語るもの(中村牧子
4章 「商売の街」の形成と継承(五十嵐泰正)
5章 誰が自治体再編を決めるのか――「平成の大合併」における住民投票の再検討(砂原庸介)
6章 「素人」の笑いとはなにか――戦後日本社会とテレビが交わるところ(太田省一
7章 でも、社会学をしている(立岩真也)
8章 社会が溶ける?――日韓における少子高齢化の日常化とジレンマ(相馬直子)
9章 境界としての「思想」――歴史社会学的試論(遠藤知巳)
10章 想像のネットワーク――シベリア・極東ユダヤ人におけるアイデンティティのアウトソーシング(鶴見太郎)
11章 映画に社会が現れるとき――『ステラ・ダラス』の言語ゲーム(中村秀之
12章 自己産出系のセマンティクス――あるいは沈黙論の新たな試み(佐藤俊樹
おわりに 社会は現れる――一つの解題として(佐藤俊樹
 ※「おわりに」、近日中に掲載するつもりです。

■紹介

◆2018/05/01 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/991318021489639427
 「太田省一のテレビ東京の話はおもしろかった。若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき』(2018、東京大学出版会)関連情報→http://www.arsvi.com/b2010/1804wm.htm
 ▽太田省一@ota_sho
 「論集『社会が現れるとき』(東京大学出版会)で書きました。テレビ東京の歴史を軸に、テレビにおける「素人」の系譜を探る小論です。よろしくお願いします。目次などはこちらで。http://www.utp.or.jp/book/b331385.html

◆2018/04/29 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/990764557684559872
 「『社会が現れるとき』(東京大学出版会、2018)関連情報あり→http://www.arsvi.com/b2010/1804wm.htm
 ▽hrtmtsk@hrtmtsk
 「【ご恵投いただいたのでせめてもの宣伝】若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編(2018)『社会が現れるとき』東京大学出版会。いわゆる「駒場の社会学」には複雑な思いをもっているわたくしですが、この執筆陣にならんで家族政策の話をかましている相馬さんはかっこいいと思います。https://www.amazon.co.jp/%E7%A4%BE…

◆2018/04/27 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/990115412665761792
 「「西部遭は経済学の授業ももっていて板書している途中で数式がわからなくなったり学生の私語に怒って教室を出て行ったりという可愛いやんちゃな人でもあったが、パーソンズのことを口にしていた。『ソシオ・エコノミックス』…左翼をいくらかやり、近代経済学に移ったが…」http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm

◆2018/04/25 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/989330904047747072
 「『社会が現れる時』(若林幹夫・佐藤俊樹・立岩編、東京大学出版会)の目次→http://www.arsvi.com/b2010/1804wm.htm 「でも、社会学をしている」は私(立岩真也)が担当した章。その紹介(の紹介)→http://www.arsvi.com/ts/20182494.htm
 ▽tu-ta@duruta
 「立岩さん 執筆分担が聞きたいです。」

◆2018/04/24 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/988944889244147712
 「「二つめ。社会がいくつかの領域に分かれている、その諸領域の編成・境界設定がどうなっているのか(またどうあるべきか)という捉え方をし描き方をすること。…一つめの主題の後にやってきた。…その本〔『生の技法』〕になった調査をしているときにそのことを思った」http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm
 ▽リブロ@libro_jp
 「【新刊】『社会が現れるとき』若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹[編](東京大学出版会) https://www.honyaclub.com/shop/g/g19180437/
研究の最前線を示す新しい社会学論集。編者の他、西野淑美、中村牧子、五十嵐泰正、砂原庸介、太田省一、相馬直子、遠藤知巳、鶴見太郎、中村秀之。」

◆2018/04/23 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/988581492757483520
 「「年をとってから「ケアが大切だ」みたいなことを人はしばしば言い、それはそれで間違いではないとしても、もうすこし前もっていろいろと考えてあって、それで言った方がよいだろうといったことである。」http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm cf.「遠離・遭遇」→http://www.arsvi.com/ts/2000b1.htm

◆2018/04/22 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/988238900110942208
 「(続き)「なにかを言いたくなる。そしてすこし偉くなると意見を求められたりする機会が増える。そうして「べき」を語る人たちの割合が多くなる。それも自由ではある。ただ、どうせ語るならば最初から種々考えて自分の立場を吟味しておいた方がよかろうとは思う。」→http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm
 ▽東京大学出版会@UT_Press
 「【最新刊】若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき 』社会の現れはどのように経験され,思考され,人びとの行為や関係と結びついてゆくのか.社会学的な問いは,多様な研究対象や分析方法へとひろがる.研究の最前線を示す新しい社会学論集. 詳細目次掲載.https://buff.ly/2DFijXe

◆2018/04/22 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/988227038438801409
 「「多くの社会学者は、屈折した、斜に構えた人であるかもしれない。実際にそうであるかはともかく、自分のことをそう思っているのかもしれない。ただそういう人も、しばらく長く生きていると、いろいろと腹の立つこともあり、なにか感じ入ることもあり、なにかを言いたくなる」http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm

◆2018/04/20 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/987499366154887168
 「「社会と総称されるものの部分部分(市場、家族、政治、…)の境界について考え…たいと思っているので、長く留まるつもりはないのだが、身体の方から社会を見ていくことも必要だ…。…議論は多くはない。少ないなかで、星加良司と榊原賢二郎の著書がある」→http://www.arsvi.com/ts/20170140.htm →『社会モデル』」

◆2018/04/20 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/987479169436024832
 「『社会が現れる時』(東京大学出版会)販売促進のために「でも、社会学をしている」(立岩真也、2018)ところどころ載せていくことにしました。→http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm

◆2018/04/12 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/984596694112264192
 「arsvi.com/b2010/1804wm.htm でも紹介始めました。まず若林幹夫さんの「はじめに」を掲載。若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき 』。佐藤俊樹さんの「解題にかえて」もそのうち、と。ただここは買ってもらって読んでもらうのがよいかも。私が書いたのは「でも、社会学をしている」。」
 ▽東京大学出版会@UT_Press
 「【まもなく刊行】若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき 』社会の現れはどのように経験され,思考され,人びとの行為や関係と結びついてゆくのか.社会学的な問いは,多様な研究対象や分析方法へとひろがる.研究の最前線を示す新しい社会学論集. 詳細目次掲載.https://buff.ly/2DFijXe


■細目次

はじめに――「社会が現れるとき」と「社会学(のようなもの)」が現れるとき
1章 「都市」をあることにする(若林幹夫)
1 「都市」をめぐる三つの言葉
2 「都市」という概念
3 「魚」はどう存在するか(あるいは、存在しないか)
4 「都市」はどのように社会的か
5 「大都市」――大きさの社会性
6 同時代的問題としての「都市」
7 「都市」をあることにする
2章 空間の自由/空間の桎梏――都市空間への複数のリアリティ(西野淑美)
1 都市の空間と社会
2 「地域」という括りのレリヴァンス
3 「都市生活」が反転するとき
4 「地域移動」をめぐるリアリティ
5 「社会」の現れ方の非均質性
3章 近代日本における地位達成と地域の関係――戦前期生まれ著名人の中等教育歴が語るもの(中村牧子)
1 問い――「著名人」はどこで生まれたか
2 なぜ中等教育に注目するのか
3 中学校教育の地域間格差
4 エリート著名人を生み出す教育の仕組み
5 エリートの出自と活躍領域の分化
6 非エリート著名人を生み出す教育の仕組み
7 戦前期日本社会の「階層構造」のすがた
4章 「商売の街」の形成と継承(五十嵐泰正)
1 はじめに――アメ横というアポリア
2 アメ横における「歴史の不在」
3 「アメ横商法」とエスニシティをめぐる視線の交錯
4 変わり続ける「商売の街」
5 「商売の街」を継ぐということ
5章 誰が自治体再編を決めるのか――「平成の大合併」における住民投票の再検討(砂原庸介)
1 はじめに
2 「平成の大合併」における住民投票の位置づけ
3 住民投票の分析
4 おわりに
6章 「素人」の笑いとはなにか――戦後日本社会とテレビが交わるところ(太田省一)
1 はじめに
2 テレビ東京から見る戦後
3 「素人」という鉱脈
4 社会的存在としての「素人」
5 おわりに
7章 でも、社会学をしている(立岩真也)
1 それでも社会学をしていると思う1
2 そう思う2――社会の分かれ目について
3 社会的、はパスした
4 もっとよくできた話も結局パスした
5 代わりに
6 ポスト、もパスした
7 戻って、素朴唯物論は使えるかもしれない
8章 社会が溶ける?――日韓における少子高齢化の日常化とジレンマ(相馬直子)
1 少子高齢化の日常化
2 少子高齢化社会があらわれるとき――少子高齢化社会におけるケアをめぐる問い
3 日韓社会の対応
4 「よさ」のコンセンサスなきジレンマ
5 二重化される課題と新たなケアワークの発見――ダブルケアがあらわれる瞬間
6 おわりに
9章 境界としての「思想」――歴史社会学的試論(遠藤知巳)
1 「思想」――弱化と分散
2 思想研究は何をしているか
3 「社会思想」と社会学――隠れた相互依存
4 「思想」の言説史へ
5 一九世紀西欧(1)――「思想」の実体化と発展史観
6 一九世紀西欧(2)――「真理」の分立と潜在的相対化
7 日本社会と「思想」
10章 想像のネットワーク――シベリア・極東ユダヤ人におけるアイデンティティのアウトソーシング(鶴見太郎)
1 共同体のアナロジーを超えて
2 相補的ハイブリッド性
3 シベリアのシオニスト
4 ハルビンのシオニズム
5 むすび
11章 映画に社会が現れるとき――『ステラ・ダラス』(一九三七)の言語ゲーム(中村秀之)
1 映画の解釈という言語ゲーム
2 フェミニズム映画理論の「女性観客」
3 スタンリー・カヴェルの「普通の人間」
4 〈階級の顕(ルビ:あらわ)な傷〉と映画の身体
12章 自己産出系のセマンティクス――あるいは沈黙論の新たな試み(佐藤俊樹)
1 自己産出系論の公理系
2 理解社会学の二つのモデル
3 自己産出系のsyntaxとの対応
4 制度の挙動をとらえる
5 「行為の意味を理解する」ことの定式化
6 ベイズ統計学の枠組み
7 行為の意味を推定する
8 解釈度を変数としてあつかう
9 自己産出系と解釈度
10 意味を「分布」としてあつかう
11 沈黙を測る
社会は現れる――一つの解題として(佐藤俊樹)

■紹介・言及

◆立岩 真也 2018/**/** 「(『社会が現れるとき』について)」,『UP』

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■はじめに 「社会が現れるとき」と「社会学(のようなもの)が現れるとき」

 この書物で私たちが問い、考えたいのは、私たちが「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」と見なすものが、私たちの集合的な生の構造や過程を通じてどのように現れるのか、そしてそのような社会の現れがどのように経験され、思考され、人びとの行為や関係と結びついて社会のさらなる現れをどのように支えたり、あるいは変えたりするのかということだ。
 経験科学としての社会学は、「社会」とそこに存在する「社会的なもの」や、そこに生じる「社会現象」を経験的対象としている。たとえば、社会階層論は階層という「社会的なもの」とそれによって構造化された「社会」を対象とし、社会病理学は「社会現象」としての社会的な病理(と見なされるもの)とそれを生み出す「社会」を問題とし、都市社会学は「社会的なもの」や「社会現象」としての都市や都市的生活様式や都市社会構造を対象とする。そして理論社会学は、そのような経験的対象としての「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」の成り立ちを一般的な形で問題としつつ、それらを統一的に記述し、説明する理論の構築をめざす。社会学の歩みと現在における多様な展開は、そのような試みの歩みと展開としておおよそ記述できるだろう。「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」が経験的事実として存在することが、社会学が存在し続けてきた条件となってきたのである。
 だが、それは社会学の条件であるだけではない。「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」は、社会学とそれをする社会学者たちにとってのみ存在するのではないからだ。社会を対象とする政策、社会的な問題に関わる運動や実践、社会現象をめぐるジャーナリスティックな言説、そして「社会」や「社会的」という言葉を使った何気ない言葉のやりとりなど、現代におけるさまざまな営みや思考は、「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」が対象や問題として存在することを当然のように前提とし、条件としている。「社会」があること、そしてその「社会」のなかにさまざまな「社会的なもの」や「社会現象」があることは、多くの人にとって自明である。人間が社会的生物であり、人間の生きる世界が社会的世界である以上、「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」は私たちの周囲に当然のように存在する。それは石を投げれば社会に当たる≠ュらいに自然なことだ。そんな風に多くの人は考えていないだろうか。
 もちろん、「社会」は「自然」ではない。それは「人工的」で「人為的」なものである。多くの社会学者はそう言うだろう。人間の階層は動物の集団内の順位とは異なる社会的諸資源の配分と関係しているし、社会病理は身体をむしばむ病とは異なり社会生活のなかの諸関係や諸構造に由来するのだし、人工環境としての都市とそこでの人間集団の営みは自然環境のなかの生物の集団生活とは異なる制度や文化や技術のなかにある。だから社会は自然ではないのだ、と。そんな「自然ではないもの」としての「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」が存在することを、社会学者ではない多くの人びとはもちろんのこと、少なからぬ数の社会学者もまた、ごく当然のように考えている。石を投げれば社会に当たる≠ニいう言葉で指摘したかったのは、そんな「ごく自然に社会が存在すること」への疑いのなさだ。

 だが、社会学という知の可能性の中心には、社会がそんな風にごく自然に存在してしまうことへの違和感や驚きがあると、私たちは考える。
 自然ではないものとして社会が「ある」のは、人が他者たちと共に集合的な生を生きることによって、そこに社会をあらしめてしまうからだ。自己と他者たちの間を様々な規則や制度や表象で架橋し、他者たちと共に世界を生きる関係の構造と過程を通じて、私たちは「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」を現象させながら、それをごく自然にあるもののように受け取って生きている。自分たちの先祖が動物をはじめとする自然界の事物だったとするトーテミズム的な思考は、近代人にとってはおとぎ話のような虚構だが、そうした思考を生きる人びとにとって自然である。近代人にとって市場経済は自然な、それこそ人間の本性に基づくものと思われているけれど、市場社会を生きていない人びとには「貨幣」や「価格」といった虚構に支えられた不自然な制度に見えるだろう。どちらの場合でも社会の現実性は、トーテム神話や貨幣と価格の現実性を信じて人びとが集合的に振る舞う時、それを振る舞う人びとにとって現れるのだ。
 外側から見るとなんとも奇妙で驚くべきことが、内側を生きている人びとにはごく自然なものとして存在し、生きられている。このことを、次のようなたとえで言うこともできる。あるスポーツを行なっている人たちと、そのスポーツをまったく知らないでそれを見ている人たちがいるとしよう。プレイしている人びとにとっては、一緒にプレイする人びとの一挙手一投足がルールに即した意味をもち、それに対して激しい感情すら生じるような現実性が、プレイヤーの動きを通じてそこでは現象し続けている。だが、それを見ている人びとには、眼の前にいる人びとがなぜそのように動き、それに対してなぜ喜んだり怒ったりしているのかわからない。ことによると、それがスポーツであるかどうかや、そもそもスポーツとは何なのかも分かっていないかもしれない。プレイしている人びとにとって現れ、感じられている現実性が、見ている人びとには現れも感じられもしないのである。
 「社会が現れる」とは、たとえて言えばそういうことだ。私たちはそんな風に社会を生きている。だから時に、社会のそんな現れ方や感じられ方についての違和感や驚きの芽のようなものを、ふと感じてしまうこともあるのだが、そんな違和感や驚きを見つめ、そこから考える視点や方法をもたないかぎり、多くの場合、それらはやり過ごされてしまうのである。
 けれども私たちはこの本で、そんな違和感や驚きの前に立ち止まり、目をこらして、私たちの周りに「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」があってしまうことと、そんな社会を生きる私たちの存在について、私たちの生のさまざまな局面や位相から問い、考えたいと思う。人間の集合体が一定の規則や制度の下に、相互行為を行ないつつ集合的に生きている状態を私たちは「社会」と呼び、そうした集合的な生を生きる人びとの行為や経験の特定の様相や感覚や対象性のなかに、人は「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」としての現実性を見出す。そして社会学とは、そうした現実性が経験的な対象として現れ、経験されてしまうこと自体を問い、それによって私たちがごく自然なことと考えている「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」が現にあるように現れてしまうことに驚き、そうした現れを支える構造や過程に迫ることができる知の試みなのだ。
 当然のように存在する社会と、その社会をごく自然に生きる人びとの意識や感覚や感情や行為を「自然にあるもの」ではなく、集合的な生の構造と過程を通じて現れる「虚構」やその「効果」のようなものとして問うこと。もしかしたらそれは、どこか素直でない、ひねくれた問いのように思われるかもしれない。だが実は、そんなひねくれて見えるような問い方こそが、私たちが「社会」と呼ぶ対象に対する素直な問い方なのである。そうした「素直にひねくれた問い方」によって、社会学の理論と実証の双方にわたる基底的な問いと、そこから可能になる社会学的思考の新たな展望を提示すること。それが本書で私たちが目指したいことである。

 この本を作ることになったきっかけは、東京大学教養学部・大学院総合文化研究科で長らく教鞭を執られてきた山本泰先生が二〇一六年三月に定年退任されたことだった。ここに集められた論考の執筆者の多くはかつて山本先生を指導教員とし、そうでなくとも何らかの形で山本先生の指導を受けたのだが、目次を見ればわかるように、それぞれが対象とするものも、それについて記述し、分析し、考察する理論や方法や文体もきわめて多岐にわたっていて、普通言う意味での「社会学」でないものもそこには含まれている。だが、明らかに雑多に見えるこれらの論考を並べて読んでみると、そこには「社会」や「社会的なもの」や「社会現象」に対する問いの感覚≠竍間合いのとり方≠フゆるやかな共有が感じられるだろう。「素直にひねくれた」と先に述べたそんな問いの感覚≠竍間合いのとり方≠アそ、私たちが山本先生から受け取ったもの、あるいは私たちそれぞれが個々にもっていた感覚や問題意識と山本先生の学問的な感覚や問題意識が共鳴するところに現れてきたものなのである。この意味で本書は「社会が現れるとき」をめぐる論考集であるだけでなく、著者である私たちにとっての「社会学(のようなもの)が現れるとき」をめぐる論考集でもあるのである。

                     二〇一七年九月   若林 幹夫


UP:20180102 REV:20180407, 12
社会学  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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