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『考える障害者』

ホーキング青山 20171220 新潮社(新潮新書746),189p.

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last update:20180410

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ホーキング青山 20171220 『考える障害者』,新潮社(新潮新書746),189p.  ISBN-10: 4106107465 ISBN-13: 978-4106107467 720+税  [amazon][kinokuniya] riv d04
『考える障害者』表紙

■内容

タブーと偽善を吹き飛ばす、本音度100パーセントの障害者論。

往々にして世間は障害者を汚れなき存在のように扱う。一方で、表には出てこないが、「厄介者」扱いする人もいる。 そんな両極端の捉え方ってなんかヘンじゃないか。――身体障害者芸人として20余年活動してきた著者は、偽善と建前を痛烈に嗤い、矛盾と盲点を鋭く衝く。 「24時間テレビ」「バリバラ」「乙武氏」「パラリンピック」から「やまゆり園事件」まで、本音度100パーセントで書き尽くした、前代未聞の障害者論。

■著者略歴

1973(昭和48)年、東京都生まれ。先天性多発性関節拘縮症のため、生まれたときから両手両足は使えない。 1994年、お笑い芸人としてデビュー。ライブを中心に活動中。著書に『差別をしよう!』『日本の差法』(ビートたけしとの対談)など。

■目次

まえがき

1 「タブー」を考える
障害者は気を遣われる
バカにしてるのか?
理解されないのはなぜか
そしてタブーになる
障害と障がいと障碍
差別用語は使う人の問題
税金の問題
働かない方がいいのか
労働は何のためか

2 「タテマエ」を考える
タテマエの弊害
人間みな平等だが
個性で片づけるな
こんな個性は嫌だ
治せるものなら治したい
多様性のために生きているのではない
一口には言えない
ボランティアが障害者を弱くする
私が見たボランティア

3 「社会進出」を考える
セックスボランティア
『バリバラ』への違和感
今さら感
何のための笑いなのか
パラリンピック
先人がいない苦労

4 「美談」を考える
『24時間テレビ』のこと
聖人君子のイメージ
ご意見は?
喜ぶ人がいる限り変わらない
感動ポルノ批判は容易だが
「感動するな」もおかしい
感動するなら評価をくれ

5 「乙武氏」を考える
日本一有名な障害者
よだれは見たくない
消臭されたウンコ
子どもは遠慮なし
不倫騒動をどう見るか
健常者の感覚

6 「やまゆり園事件」を考える
やまゆり園事件とは
介護者は天使ではない
容疑者はかなり極端
生きていい理由
本当に考える必要があること

7 「本音」を考える
同じ人間として扱ってほしい
ナンセンスな質問
バニラ・エア騒動を考える
異議申し立ての意義
愛想は大事
できれば大らかに
親切な人が壁になる
なぜダメ出しを
適切な線引き
結論というほどではないが
もっと胸襟を開いて話し合いたい

あとがき

■引用

理解されないのはなぜか
 では何故、障害者のことが世間に正しく伝わらないのか。
 理由は様々だろう。そのことについては、本書で何度も考えていくことになるが、すぐに思いつくものを挙げてみると、ざっと次のようなものだろうか。

・そもそも健常者との接点が少ない――資本主義の世の中で生産性がない(と多くの場合見なされている)障害者は世の中に出ていくことは極めて厳しい。世の中に出ていないのだから、接点が少ない。だから理解が深まらない。
・善意の人が社会の壁になっている――障害者の側に立って、味方になってくれている人たち、要するに家族や福祉や介護関係、ボランティアの人たちなどが、障害者に理>018>解のない人たちから我々を守ろう、少しでも社会に参加させようと過剰に振る舞い、結果的に社会と我々とを隔絶させてしまっているのをまま目にする。

 前に仕事である地方に行ったときの話。[…]また別のときの話。[…]>020>
 そりゃそうだろう。「いくらなんでもひどいよな」と友だちと話しつつ、ふと「ここでオレたちが同じようにゴネたら、向こうはどんな反応するかな?」と言ったら、友だちは「お前面白がってやりかねないから絶対ダメ」と言いつつ笑っていた。
 でもこんなことしちゃうから、障害者って悪いイメージがついちゃうんだよな……とつくづく思ったものである。
 もう一つ、障害者のことが伝わりづらい理由には次のようなものがある。>021>

・「とにかく大変だ」「不憫でかわいそうだ」というイメージが先行し過ぎている――日本テレビのチャリティー番組『24時間テレビ 愛は地球を救う』に出てくるのは、障害のせいで何らかの苦労をしている障害者である。もちろん、年に一度そういう人たちを見れば、「大変だなあ」と思うのはごく自然な感覚だろう。しかし、この番組はとかく障害者を不幸に、不憫に、哀れに描こうとしすぎていて、等身大からはかけ離れているケースが非常に多い。

 傍から見ればものすごく大変そうに見えても、当事者にとっては、その「大変」は日常だから、傍で見ているほどではないこともある。もっと言えば、本当にただ「大変」なだけでは人は生きていけない。「大変」な中にもおかしみがあったり、なんらかの遊びがあったりするものだ。だけど、そういう部分はまず描かれない。また、身体的にも経済的にもすごく大変な人もいれば、そうでもない人もいるのだが、そのへんはあまり伝わらない。「わりと普通に暮らしていて、お金もそこそこあり、まあまあ満足しています」という障害者はテレビ的ではないのである。(pp.17-21)
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そしてタブーになる
 ともあれ、ほとんどの健常者は、障害者のことをあまり「知らない」。それは仕方のないことなのだが、そこからいろんな誤解が生じる。そして、自然に「知る」プロセス、お互いが歩み寄るプロセスがない。
 そんな中でも、障害者は自分たちの社会参加を訴える。健常者側も、それに対して「社会参加、もちろん結構なことですね。出来ることはやりますよ」という反応を一応は示す。昔ならいざ知らず、「障害者は邪魔だよ」なんて大っぴらに言う大人はまあいない。
しかし、一方で、本音ベースでは、「だけどお前らハンデがあるから俺たちと同じことはできないだろ?」という気持ちがある人も少なくはない。実際にそうなのだが、しかしそんな「政治的に正しくない」ことは言ってはいけない。だから何も言わなくなる。そして、ますます接点が減る。完全な悪循環である。
そこでどうするかと言えば、障害者のことはよく「知らない」し、彼らが何をしようとしているかも「知らない」、さらに何を求めているかも「知らない」。そういう風になる。なかには本当に興味がないし、関わりたくないのかもしれないという人もいること>023>だろう。
 それでも、大人として何となく、障害者を「平等」に「社会の一員」として扱おうとする。しかし、それは本気ではない。それは障害者にも伝わる。そうすると、障害者側の反感を買ってしまう。
 こんなことをずっと繰り返しているんだと思う。
 その結果、障害者なんて本当は特別なものでもなんでもないのに、気を遣う対象となり、一種のタブーになってしまっているんだと思う。(pp.22-23)
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障害と障がいと障碍
 この、分からないが故に気を遣うということの象徴みたいなものが、昨今目にする機会が増えた「障害者」という表記を「障碍者」や「障がい者」に変えるべきという意見。これは、二〇〇〇年代に入ってからよく議論されるようになった問題だ。実際に、こうした意見を反映して、「障がい」といった表記に変更した自治体や団体も少なくない。
 もともとは東京の多摩市が「障がい」としたのが先駆けで、そのあと全国に広がった動きだ。パラリンピックなどに関係している公益社団法人の「日本障害者スポーツ協>024>会」も二〇一四年からは名称を「障がい者」に変更している。国でも鳩山由紀夫氏が首相時代に作った「障がい者制度改革推進本部」ということで、話題になったこともある。
ただし、さまざまな議論があって、メディアも含めて、いまだに統一はされていないのが現状だ。
 「『障害者』はやめよ」という方の意見は、主に「害」という文字には否定的な意味合いが強いから、というものだろう。こういうことから偏見が助長されるのだ、と。(pp.23-24)

 でも、どうなのだろう。「害」の字はたしかにあまりいい字ではないのかもしれない。しかし、それでいえば「碍」の字も「さまたげ」という意味らしいから、別にいい字とも思えない。
 「『害』にはわざわいという意味があるけれど、『碍』にはないから」
 そんな理屈もあるらしい。しかし、ここまで行くと、「お前は歩く漢和辞典か!」とツッコミの一つも入れたくなる。というか、もはやただの屁理屈にしか聞こえない。普通の人はそこまで漢字一文字に対して深くは考えていない。ということは、偏見を助長することにはつながらないと思ってしまう。
 そもそも、それで言えば「障」の字だって、「害」と同じくらいいい字ではない。なにせ「障りがある」という時に使うのだ。「耳障り」「目障り」の「障」である。
 もしも「害」の字を排除していったらどうなるか。そのうち「障」の字も気になりはじめるのではないか。すると、こんな人が出てくるかもしれない。
 「『障』は『翔』にしてはどうでしょうか。羽ばたくみたいで素敵ですよ。『害』も『碍』も論外です。ここは『涯』でどうですか。『はて』という意味でだから、『はてまで>026>翔ぶ』というイメージになります。ね? 『翔涯者〔しょうがいしゃ〕』。素敵でしょう?」
 なんだか昨今のキラキラネームかインチキな広告代理店の口上みたいだし、こうなるともう暴走族の「夜露死苦〔よろしく〕」「仏恥義理〔ぶっちぎり〕」とも変わらない。
ちょっと話が脱線したけれど、「障がい者」「障碍者」派の人たちに対しての反論は、簡単に言えば次のようなものになる。
 「表記を変えたからといって、障害者に対する無知や、そこから起きる偏見や差別が変わるわけではないだろう」
 興味深いのは、意外と障害者やその周辺の人たちにも、こういう意見の人は少なくないという点だ。「言葉を安易に変えると、かえって実態を隠してしまう」と考える人もいるようだ。
 当事者の立場から本音を言えば、こういう言い換えはどこか安易な感じがする。ごまかされている感じがするのだ。そして、そんな安易なことで事足れりとしてしまう感覚が透けて見えちゃうから、「こんなんで変わるわけないだろ」という批判が出てくるんだと思う。(pp.25-26)

 cf. 社会モデル(social model) / 個人モデル(individual model)

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差別用語は使う人の問題
 そもそも差別用語というものの定義自体、時代や社会によって変化する。現在、差別用語として一般的にはほとんど使われなくなってきている障害者を指す「片端(カタワ)」「盲(メクラ)」「聾(ツンボ)」等の言葉は、もともとは差別的な意味合いをもつものではなかったという。それぞれ「身体が不自由」「目が見えない(または不自由)」「耳が聞こえない(または不自由)」という直接的な表現を避けるために用いられた言葉なのだそうだ。
 しかし、使う側が差別的な意味合いを込めて使ったから、言われたほうは傷つき、結果差別用になったということだろう。
 人権団体等、さまざまな団体や関係者がこうした用語に対して抗議をして、時間を費やしながら、事態をよくしようとしてきたことは分かる。先ほども述べたように、言葉の力は侮れない。実際にさまざまな差別(的)用語で相当数の人たちが苦しめられてきた歴史が間違いなくあったわけで、その歴史を考えると簡単に「言葉の問題じゃないよな」なんてことは言えない。
 ただ、自分も芸人として話芸を生業として、最近では落語などにも挑戦している身なの>028>で、現在差別用語になっているこれらの言葉を、当時の時代性を忠実に表現しようとした落語や演劇、映画等の台詞にまで使ってはいけないという動きについては、やや行き過ぎではないかとも思う。むろんそうはいってもその表現をすべて是とすることにより、使っている方は差別的意図がなかったとしても、差別的意図のある人たちに使える材料を提供することにもなりかねないということもよくわかる。また、仮に、「当時の時代性」を再現した結果とはいえ、そうした言葉が現代に定着することに安易に手を貸すことにもなりかねない。特に「当時の時代性」やその言葉が使われていた当時の背景など、予備知識の無い子どもなどが接する作品で、差別用語がガンガン飛び出したら、その言葉の持つ影響を理解せずに使ってしまいかねず、やはり問題だろうとも思う。
 このように言葉の問題はとても複雑だ。(pp.27-28)
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■関連ウェブサイト

◆NHK『バリバラ』サイト
http://www6.nhk.or.jp/baribara/
◆NHK『バリバラ』twitter
https://twitter.com/nhk_baribara
◆日本テレビ『24時間テレビ 愛は地球を救う』
http://www.ntv.co.jp/24h/
◆乙武洋匡 twitter
https://twitter.com/h_ototake

■関連書籍

◆河合 香織 20040701 『セックスボランティア』,新潮社,238p. 1575  ISBN: 4104690015  [amazon][kinokuniya]

倉本 智明 編 20050620 『セクシュアリティの障害学』,明石書店,301p.  ISBN: 4750321362 2940  [amazon][kinokuniya] ※

橋口 昌治 20110325 『若者の労働運動――「働かせろ」と「働かないぞ」の社会学』,生活書院,328p.  ISBN-13: 9784903690704 \2625  [amazon][kinokuniya]

■書評・紹介

■言及



*作成:北村 健太郎
UP:20180105 REV:20180410
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