p. 252, 277
【1.病者の「権利」と「義務」】アメリカの社会学者タルコット・パーソンズの定式化以来、医療社会学あるいは医療人類学においては、「病人の役割」(sick role)をとる者に対して、「二つの権利と義務」を社会が承認している、という考えが存在する(p.252)。 ※パーソンズの原定式は、一、通常の社会的役割の責任免除。二、自力によってよくなることが期待しえない――すなわち他者に依存する権利が正当化される。三、病んでいることを望ましからざる状態であるとし、”よくなりたい”と希求する義務。四、有効な治療技術を以てする援助を求める義務。でパーソンズはこれを普遍的なsick role とした(p.277)。
pp. 256-257
【2.「働くこと」あるいはそれへの促しはつねに治療的だろうか】リハビリテーションは、単純に「働くこと」に向けられたものではない。それは、人生のもつ多様性にむかって患者の個々の人生を開こうとするものであり、したがって単なる職業教育ではない(p.256)。これをわざわざ言うのは、リハビリテーションの一部である「働くこと」が、広義の治療目標と同じ意味として掲げられていることが少なくないからである。〔中略〕しかし、「働くこと」と「治癒」とをイコールとすることは、「服薬しないこと」と「治癒」とをイコールとするのと並んで、患者自身も周囲も陥りやすい誤りである。その結果は無益な焦慮であり、性急と挫折である。〔中略〕「働けば治ったことになる」は、周囲の圧力があってのことだ。患者が自分の考えのように語ることもあるが、その口調には復唱するような感じがないか?「働けない」ことをめぐって、患者は慢性のおとしめを受けつづけており、そうでなくても深く傷つけられた自尊心の回復をめざして、多くの患者は無理にでも働こうとする(p.257)。
pp. 260-263
【3.一般に人は何のために働くか】第一の目的は言うまでもなく「金銭獲得」である。貨幣取得は当然、欲望の充足をめざすか安全感の増大をめざすかである。一般に両者の混合であるが、患者の場合、もっぱら後者である。第二の目的は、何らかの職についていると「社会への安全通行証」が与えられ、これが安全保障感のもとになることである。これはわが国の文化においては強力な切り札である(p.260)。第三の利益は、自尊心の増大である。もっとも増大というより自尊心低下の程度の減少である場合が多いかも知れない。これは社会に大きく規定されるが、現代のわが国においてはおおむね「働くこと」は自尊心の減少を招かないであろう。もっとも問題は残る。もっぱら働くことに自尊心を置く生き方は、偏った危ういところがある。とくにわれわれの患者の場合、病いのために再び働けなくなることが実際にありうるので、度重なる自尊心の低下は、長期的に回復困難な自尊心喪失に陥る可能性を強めると私は思う(p.261)。第四の利益は、ほとんど身体感覚的な「機能快」(funktionslust)とでもいうべきものがある(p.262)。第五の利益は「働くこと」にひそむコミュニカティヴな価値である。何かをつくる、ということ、何かの仕事を達成するということを媒介として生まれる生き生きとした対人関係は積極的なメッセージをはらんでいる。第六の利益は「休息」を引き立たせ、「休息」を深いものにするということである。これは意外に本質的なものである。快く「休む」ために働くということである。第七は人生のメリハリを与えるものの一つである。ただし、あくまでその一つであって、それ以上ではない。第八は対人関係体験の一つの基礎である。これは周知のことだ。このようにみてくると、リハビリテーションにおける「マージャンはできるけれども働けない患者」の存在は、それほど不思議ではないであろう。第一に患者の賃金報酬は一般に少なく、威信あるいは自尊心への向上、帰属による安全保障の増大も、B級労働者あるいは恩恵的労働者である限りさほどの動機づけとならないであろう(p.262-263)。