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『阿賀の記憶、阿賀からの語り――語り部たちの新潟水俣病』

関礼子ゼミナール 編 20161220 新泉社,242p.

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last update: 20181017

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■関礼子ゼミナール 編 20161220 『阿賀の記憶、阿賀からの語り――語り部たちの新潟水俣病』,新泉社,248p. ISBN-10: 4787716107 ISBN-13: 9784787716101 2000+ [amazon][kinokuniya] ※ m34

『阿賀の記憶、阿賀からの語り――語り部たちの新潟水俣病』表紙

■内容

◆新泉社Webサイト内のページ
 https://www.shinsensha.com/detail_html/04shakai/1610-2.html

「新潟水俣病は終わっていない――。新潟水俣病の公式発表から50余年。沈黙の時間を経て、新たに浮かび上がってくる被害の声がある。黙して一生を終えた人もいる。語られなかったことが語られるには、時が熟さねばならない。
次の世代に被害の相貌を伝える活動を続けている8人の語り部さんの証言集。」

【著者紹介】
関 礼子(せき・れいこ)
立教大学社会学部教授。
阿賀野川の新潟水俣病、沖縄・平安座島で自然と開発と暮らしをテーマにフィールドワークをした著書に『新潟水俣病をめぐる制度・表象・地域』(東信堂、2003年)、共著書に『沖縄列島――シマの自然と伝統のゆくえ』(東京大学出版会、2004年)など。福島県・檜枝岐村の民俗誌編さんにかかわり、村人とサンショウウオ漁に魅せられる(共著書『なぜ環境保全はうまくいかないのか』新泉社、2013年)。東日本大震災後の2011年5月から、縁あって原発事故避難の問題を調査。

[amazon]より

「語り部たちは、幸せな時代の阿賀野川の豊穣を語る。
 反転して、賑わいが消えた彼方の沈黙に新潟水俣病を位置づける。
 水俣病とは何であるのか、なぜ被害者を長く沈黙させてきたのか。
 被害者は何を恐れ、何に苦しみ、何に目を背けて沈黙してきたのか。
 なぜ語り始め、なぜ語り続けるのか。
 語る時をむかえた語り部たちの言葉を聴きたい。――――編者」

■目次

1 人から受けた恩は石に刻んでおけ、人に尽くしたことは水に流せ
  ――語り部・小武節子さん
2 次世代に語り継ぐことが使命である
  ――語り部・近四喜男さん
3 すべての被害者が救われるまで
  ――語り部・山崎昭正さん
4 自分と同じように「わからない」人のために
  ――語り部・山田サチ子さん
5 一〇〇人いれば一〇〇通り、一〇〇〇人いれば一〇〇〇通り
  ――語り部・小町ゆみ子さん
6 渡船場で差別を聞いてきた
  ――語り部・立川小三郎さん
7 「正しく」理解して行動する子どもに
  ――語り部・稲垣シズヱさん
8 しびれが出た頃からの爪はとってある
  ――語り部・曽我浩さん

解説1 語り部たちの新潟水俣病 関礼子
解説2 被害の社会的承認と修復的ポリティクスとしての「対話」 関礼子

文献・資料一覧

資料 新潟水俣病略年表
資料 水俣病救済制度の推移
資料 語り部口演回数

聞き書きを終えて
阿賀の流れをともに――編者あとがきにかえて

■引用

◇家族の水俣病史:
 「病名も知らされないまま亡くなった父

 私の家は両親と八人きょうだい。きょうだいはみんな仲が良くてですね、私も自分の家を持つときにはカンパしてもらっています。一〇人のうち、新潟水俣病の第一次訴訟が終わる頃には七人が認定されています。
 私も認定申請を勧められましたが断っていました。第一次訴訟の原告団長をしていた長兄が亡くなって、水俣病の恐ろしきもわかって、一九七三(昭和四八)年ですが、認定申請しました。新潟大学で神経内科、耳鼻科、眼科などを受診したんですが、結論からいえぱ一九七五(昭和五〇)年に棄却されました。
 椿忠雄先生に診断されましたが症状があるものの、水俣病の認定には至らず、ということなんですね。△049
 実をいうと、私もその頃は子育て時代で、ちょうど上の子が就職の時期でもありましたし、非常にほっとしたことを覚えています。
 親父の近喜代太一は、七六歳で亡くなりました。新潟水俣病が公表きれる一年前の秋、たまたま家に行ったら、一生懸命、四股をふんでいるわけです。四股をふんで「お前らに負けねぇ」なんて。その頃から親父は自分の体に変調を覚えていたと思うんです。形相も変わってきました。うちの屋号は「オケヤ」。親父は桶をつくる職人だったんで、怒ったことがない人だったんですが。
 本当に具合が悪くなったのは、一九六五(昭和四〇)年の春です。ムラの旅行を楽しみにし、参加するわけですが、土産話を楽しみにしていたら、非常に浮かない顔をして疲れて帰ってきた。開口一番、「年をとって旅行はするもんじゃねえぺ。」
 具体的には知りませんが、トイレが近かったことは聞きました。そのあと、みるみる言葉が弱くなって舌ももつれて。二日後に病院に連れて行って、二週間、通院するんですが、日に日に悪くなっていくんですよ。耳の聞こえは悪くなるし、手が震えてしまうし、目は視野が狭くなるし、しびれ、悪寒、物忘れ、ありとあらゆる症状が吹き出してしまうわけなんですね。医者も「このふらつきで通ってくるのは危険たから、近くの病院に紹介状を書くから行ってくれ」と、さじを投げる状態なんですね。「それで容態はどうなんですか」と聞いたら、「病名は△050 つけようもない」。これだけの症状が一気に吹き出す患者というのは、医者も会ったことがなかったというわけです。
 自宅療養で、発症してニか月後の六月二日に亡くなりました。新潟水俣病の発生が公表される十日前でした。本当に病名も知らされないまま、わけがわからないまま亡くなってしまうわけです。親父の遺体を前に、子どもたち一同、合掌するのですが、みな無言でした。次兄が「おい、みんな。親父は七六歳だよ。長生きだ。大往生だ。みんなで送ってやろうじゃないか。元気だして、いままでよりも、さらに頑張ろうじゃないか」と話をするわけですが、みんな、△051 黙ってしまう。」(関礼子ゼミナール編[2016:49-52])

■書評・紹介


■言及



*作成:岩ア 弘泰
UP: 20180516 REV: 20181017
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