まことに現代社会の諸状況は、"濁悪末世"そのものの具現といわなければなりません。低位で安定した社会にあって押し隠されてきた、あるいはそれが可能とおもわれてきた少数者への差別・抑圧・排除の論理が、いまや公然と国や自治体の政策に反映され、現実化されています。
こうした悪循環の罠が民衆を呪縛して、格差社会をさらに昂進させると共に、蔓延する時代閉塞の焦燥感が、逆に正義と平和への理想主義を遠景に追いやり、絶対多数の自公政権によって憲法改悪・軍事国家としての再生が着々と推し進められているのです。
翻って、平安末期から鎌倉時代にかけて、親鸞の時代もまた終末論的な末法思想が広まった時代です。法然を師と仰いで生涯にわたり、浄土往生を説く真実の教えを継承し、独自の寺院を持つことはしないで、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとったため、親鸞の念仏集団は多くの民衆に浸透して隆盛したが、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けてしまい、元久2年(1205年)、奈良の興福寺は九か条の過失を挙げて、朝廷に専修念仏の停止を訴えました。
そのため、建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられたのです。
親鸞は越後に流罪されたのですが、そこで出会った非農業民である猟師、漁師、いし、かはら、つぶて、ワタリ、タイシといった屠沽の下類(被差別民衆)との邂逅によって、親鸞の専修念仏の思想は大きな変革を余儀なくされるわけです。
有名な『歎異抄』(唯円)にある「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おや」という悪人正機説は、絶対他力の本願とともに、親鸞思想の核心ともいえます。
しかし、弟子の唯円が「増悪無碍」(悪のしほうだい)を親鸞の意に反して、「悪を恐れないのは本願ぼこりなので往生が不可能であるということ自体、善悪の宿業を理解していないことである」(『歎異抄』一三章、著者の私訳)として、悪もまた宿業(前世からの業論)であるという、親鸞の教説(『教行信証』)とは真逆な解釈にもとづいて悪人正機説を理解していますが、こうした解釈は親鸞への反逆でしかなく、まさに「あさましき」愚論と言えます。
「救われない」という自覚をもったものが「救われないまま」に共に「救われる」という超絶的な論理にこそ、親鸞思想の神髄ではないのか。
親鸞が一度たりとも首肯したことのない「宿業」論こそ否定すべき対象であって、そうでなければ、親鸞思想の本質を見失ってしまうことになるのではないか。
さらに往相廻向・還相廻向の思想的転換は、死後に浄土へ往相することではなく、還相もまた死後に浄土から穢土(現実世界)へ廻向することではなく、親鸞にとっては往相・還相廻向ともに阿弥陀仏の願力による廻向であって、現世において実現されなければならないものなのです。「死んで生きかえる」のではなく、「生きて生きかえる」、まさに現実変革の核心的思想が投影されていると解釈すべきではないか。
吉本隆明『最後の親鸞』をはじめ、先行研究の成果を批判的に検証しつつ、壮大な親鸞思想の全貌を新たな解釈をとおして克明に描き出し、その核心を独自な視点から抉り出した社会学的考察です。