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『ええ、政治ですが、それが何か?』

岡田 憲治 20140530 明石書店,273p.

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last update:20180823

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岡田 憲治 20140530 『ええ、政治ですが、それが何か?』,明石書店,273p.  ISBN-10: 4750340170 ISBN-13: 978-4750340173 \1800+税  [amazon][kinokuniya]
『ええ、政治ですが、それが何か?』

■内容

政治という言葉には悪いイメージがこびりついている。汚い、金がかかる、うさんくさい……。だが、そうやって政治を忌み嫌い隔離し、放置することで、 世の中はある一部の政治にコミットする人間の進みたい方向へと誘導される。政治を特別扱いせず、普段づかいにすることが社会をよりマシに変える第一歩。 政治と言葉の問題に取り組んできた政治学者が、政治にこびりついたイメージを払しょくすべく、政治とは何かを豊饒な言葉で語りつくす。 政治についての誤解と思い込みを払拭し、政治を取り戻すべく、軽妙な筆致で語りつくす「政治とは何か」。政治をあきらめないための渾身の講義。

■目次

はじめに

第I部 出発点を確かめる――政治的人間の諸条件
1 政治の味方をしてみたい――私たちはすでに政治的である

何とも可哀そうな政治だこと
政治をめぐるたくさんの“K”
少し考えればさほど特別なことでもない政治
誰もが政治の舞台にあがる役者である

2 政治を考える大づかみの定義――不完全な私たちが価値を選択して伝えるということ
統一的定義が存在しない「政治」
政治を生きる人間に与えられた条件と限界
国籍を選択するのは「政治的」判断である
ランチメニューを選択することとの決定的な違い

第II部 思い込みをとく――政治の4Kからの解放
1 政治は暗くて、汚い? 4Kの1――命と嘘の政治

政治は暗くて汚いのに週刊誌はなくならない
政治は「意に沿わない人たち」を生み出す
政治はすべての問題を扱わざるを得ない
政治は道徳と比較されてしまう
「嘘はつけない」と辞めた女性閣僚
立法府のメンバーと運動家の違い
特別の基準が必要な政治家
それでも残る「嘘」の問題

2 政治にはカネがかかる? 4Kの2――カネで何が失われるのか?
いったい何が本当は問題なのか?
真面目に議員をやれば普通にこれだけかかる
まだまだかかる出費
「カネ」ではなく「ヒト」がものを言わねばならない
昭和の噂話
カネで動いて言葉が失われる地獄

3 政治は偏っている? 4Kの3――無色無垢の安全地帯は存在しない
この世に政治的中立地帯などは存在しない
両端次第で真ん中はいかようにも変わる
メディアは完全なる公平など実現できない
「中立性=公共性=非政治性」という誤解
普通の人は「特定の思想」などは持たないという前提
正邪と真善美の基準を体現する「お国」という考え
政治的判断とは「国家の判断」のこと
「投票しないこと」=「脱政治」ではない

4 政治なんて関係ない? 4Kの4――政治とのかかわりと政治参加のヴァリエーション
関係の自覚と「切実さ」
政治と個人のかかわり方には9つのパターンがある
政治は町会や職場や教室にもある
政治エリートとの関係をどう考えるか
政治エリートをきちんとフォローするという間接的コミットメント

第III部 イメージを広げる――あのときのその人たちの格闘
1 政治とは「正しい世界を作ること」である――正義の実現としての政治

「正しい世界」のための政治
古代アテネの理念とソクラテスの死
プラトンがたどり着いた正しいアテネを作る「哲人王」という発想
「ないけれどあるもの」というイデア論
長く続いた黒人差別の克服
ブラウン判決と公民権運動
差別と貧困という宿痾との闘い
「正義の実現」という視点の危うさ

2 政治とは「自分で秩序を作ること」である――作為としての政治
政治的秩序とは何か?
「神の創造物」から「世界にはたらきかける個人」へのイメージ転換
戦国イタリアとマキャベッリの苦悩
『君主論』に託した政治の本質
原発をめぐる政治をマキャベッリならどう見るか
現実を動かすための知恵と工夫
自己肯定と他者への信頼がリアリズムを支える

3 政治とは「自分たち自身を支配すること」である――自治としての政治
矛盾する二重の立場を生きること
市民革命と長い習慣の終わり
不条理を受け入れる唯一の条件は「合意」である
ホッブス:人間は最後まで殺し合わないように最高権力を約束して作る
ロック:人間は公平な利益の調停人になれず最高権力を約束に基づいて作る
ルソー:人間は契約し己を全体に譲渡しみんなと一つになり真の自由となる
合意には必ず無理が含まれているから約束は定期的に確認されねばならない
自治とは覚悟を持って失敗を振り返る学習と訓練である

4 政治とは「戦いの勝者による支配」である――闘争としての政治
有無を言わせぬ原理
二人のカールとその政敵
根本から相容れない者同士としての階級
労働者を懐柔する資本家
本当の政治とは社会基盤をめぐる闘争である
政治的なるものとは「友敵関係」である
独裁擁護とその政治的帰結
調停し得ぬ対立
二一世紀における負の遺産

5 政治とは「これが現実だとさせること」である――現実観の統制としての政治
言うことのきかせ方――広義の権力
人はなぜ自発的に支配を受け入れるのか
民主政治における自発的参加と関与
現実という化け物
言葉が減らされた世界を描いた『一九八四年』
直面する「現実」と政策判断
「原発が止まると日本が止まる」という現実認識
最低コストを可能にする「沈黙の調達」

第IV部 政治を救い出すための言葉――振り返りと未来へのまなざし
1 政治を立場に応じて使いまわす――私たちにできることとできないこと

政治の言葉を増やしイメージも増やす
イメージが増えるとは現実が増えること
それぞれの居場所で考える
頑張ればできる「呼びかけ」:「動く羅針盤になる」ものとしての政治
少し頑張り「友人を作る」:「仲間作り」としての政治
主体的には動かないが最悪をさけるために「力を貸す」:「力添え」としての政治
何もできないが「居合わせ見守る」:無力な者ができる「励まし」としての政治

2 主体的選択により生まれるもの――自分の頭で考えて決めて覚悟すること
「選んだのだから引き受ける」という覚悟
「おまかせ」時代の終わり
「選択」をせずなし崩し的に流された戦争指導者たち
「政治的意志」の自覚も「責任意識」もなかったエリートたち
政治的意志とリアリズムがもたらすもの

おわりに
より深く政治を学ぶためのブックガイド
あとがき

■関連書籍

◆岡田 憲治 20160810 『デモクラシーは、仁義である』,角川書店(角川新書),241p.  ISBN-10: 4040820894 ISBN-13: 978-4040820897 800+税  [amazon][kinokuniya] j08/o03/pp/r10/sm02
◆岡田 憲治 20111028 『静かに「政治」の話を続けよう』,亜紀書房,227p.  ISBN-104:36 2015/01/074:36 2015/01/07: 4750511242 ISBN-13: 978-4750511245 \1600+税  [amazon][kinokuniya] ※ s03/pp/p06
◆岡田 憲治 20101030 『言葉が足りないとサルになる――現代ニッポンと言語力』,亜紀書房,223p.  ISBN-10: 4750510203  ISBN-13: 978-4750510200  \1600+税  [amazon][kinokuniya] as01/w01/pp

■引用

 
第I部 出発点を確かめる――政治的人間の諸条件
2 政治を考える大づかみの定義――不完全な私たちが価値を選択して伝えるということ
 
 千差万別の価値観を持ち、不確定要因を大量にもたらす人間が営む政治を考えるとき、以下のような「押さえ」が必要となります。一〇項目にまとめてみました。 (1)から(6)は、政治における人間の抱える条件です。(7)から(10)は、その条件の下で人間がある種の切実さに突き動かされてなす営みです。そして、 これらすべては人間にとって決して特別で特殊な行為ではありません。そうせざるを得ないと思えばそうするしかない人間の当たり前の活動です。
 人間は、

(1)確定された自分などというものがなく、
(2)他者のことは本来的に理解できず、
(3)すべての場面で正しい判断もできず、
(4)心根はさほど悪くないのにどうしても自分を優先してしまいがちで、
(5)偏見や思い込みから逃れられず、
(6)暴力の恐怖から自由になれず、

そしてこうした条件をかかえ、さまざまな状況に直面して右往左往する生き物であるが、そういう同じダメさ加減を共有する他者が複数いることを前提に、>034>

(7)自分が世界を解釈するやり方に依拠して(価値観)、たくさんの選択肢の中から、
(8)明日は別の判断になってしまうかもしれないけれど、(暫定性)、
(9)言語に支えられた肉体の運動(ムーヴメント)によって、
(10)大中小の「決めごと」をしなければならない。

 そして、

 「こう決めた」と心の中ではなく、他者に向かって言う、表現することを「政治」と呼ぶ。

 それは「私は〇〇を私は選択した」と世界に向かって自分の価値判断を示すことになります。まとめて言うとだいたいこうなります。
 政治とは、

 「この世の解釈をめぐる選択を、あくまで言葉を通じて不特定多数の他者に示すこと」

です。>035>

 そして、これは「直接的におよび間接的に」、「明示的におよび暗示的に」、また「意図的におよび心ならずも」示されます。胸を張って朗々とだけが政治ではありません。 「示しているとされてしまうこと」も含まれます。
 これが広義の「政治的なる行為」です。政治は、永田町や霞ヶ関や地域の役所や政治家の間でおこなわれる「特殊な活動」だけではありません。政治は、 「私はこう考える、こう行動する、これが大事だ、これは絶対に受け入れられない、それはいかがなものか」と、それを「自分の勝手でなく、私たちの問題」というくくりの中で、 声に出して伝え、それを自分ができなければ頑張っている人を助けることです。政治とは、世界に対する自分の立ち位置を部分的に開示することなのです。(pp.33-35)
 
 […]生物学的な基準で見る「人種(race)」や文化・言語・宗教等の基準で見る「エスニシティ(ethnicity)」は選択できない属性です。 […]でも「国民」はどうでしょうか? 大学一年生の講義において、政治学ではこういう表現でそれを説明します。>040>

 国民、ネーションは政治的なアイデンティティである。

[…]「オレはカナダ国籍を選んだ」ということを示すことは、自分の部分的アイデンティティを「政治的に選択した」ということなのです。[…] 「払った税金に見合う行政サービスを受ける権利がある」という世界の解釈に依拠して、カナダ人になる選択をしたのです。(pp.39-40)
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第II部 思い込みをとく――政治の4Kからの解放
1 政治は暗くて、汚い? 4Kの1――命と嘘の政治
 
 […]やや穏当な言い方をすると、「決めると角が立つ」のです。「私の望むことが選ばれなかった」という落胆した人間をたくさん見るのは切ないものです。 だから暗い話になるのです。(p.48)

 しかし、暗いか明るいかという基準だけで政治のことを脇に寄せてしまい、暗くて汚いものをひたすら忌避してしまうと、政治が持つ、 「決めること」が持つポジティヴな意味を見失ってしまいます。[…]人間社会に生きる以上、「決める」ことをしないで生きていくことはできません。 そして、決めないと、誰かが勝手にどんでもないことや、冗談のようにバカげたことを決めてしまいます。だったら、深くため息をついて、 ぼちぼち「よりましな決めごと」をするしかないのです。(p.49)
 
 […]公権力を担う政治家は、ただの人ではなく、判断一つで人々の人生を台無しにすることもできる普通でない立場の人なのです。 […]普通でない人には普通でない基準が必要です。その基準は以下のようになります。

 「最終的に人々と公共利益を守る目的」から逆算して考え、そのためにできることを自分の運命など二の次にして決断し、実行し、結果を残すことがどれだけできるか?

 この基準でダメなら、そういう政治家は退場してもらうか、別の仕事で後方支援してもらう他はありません。(p.63)
 
 […]懸命にやっても、政治家がやはり「嘘つき」という誹りを受けることはもうこの世界では不可避なのです。だから、残された道は何かと言えば、 意外につまらない結論ですが、「懸命に説明する」以外にありません。こういう問題に秘策や奇策はありません。(p.64)
 
2 政治にはカネがかかる? 4Kの2――カネで何が失われるのか?
 
 政治において「カネにものを言わせる」ことがよろしくない最大の理由は、「カネにものを言わせる」ことで、 「ヒトに」ものを言わせる契機、動機、技能、技法、期待、希望、慎重さ、勇気、責任、自由を失わせてしまうからです。 […]清潔なファシズムよりも、腐敗したデモクラシーのほうが何倍もマシだと考えられる最大の根拠がここにあります。(p.76)
 
 政治はカネがかかります。でもナイーブに「腐敗だ!」とだけわめき散らして、政治においてカネを扱うときにどういうところに気をつけなければならないかを考えないと、 バカげた清貧主義に陥るだけです。そしてそれは、地下に潜行するカネの暗躍を促進させます。カネに責任があるのではありません。 カネがかかること「そのもの」に問題があるのでもありません。「カネさえあれば強引に決めごとをできる」という「言葉を置いてきぼりにする力学」が問題なのです。(p.82)
 
3 政治は偏っている? 4Kの3――無色無垢の安全地帯は存在しない
 
 政治的中立などという「安全地帯」みたいな位置はこの地上にはありません。

 政治的な中立というのは、あくまでもおおよそ現実的に想定可能な政治的な立ち位置の両端を決めたとき、 端と端の間の位置関係においてのみ「相対的に」決まる位置づけに過ぎません。(p.84)
 
 […]政治的に偏らない判断をするなどということは不可能ということになります。当たり前です。 人々の想定する「常識的に見て実現可能性の高い政策判断の幅」は、客観的に決まっているわけではありませんし、 それこそ[…]その幅を「ここからここまでくらいですよ」と人々に納得させることが、あるいはそういうふうに思わせるように誘導するのが政治ですから、 もう最初から中立などないのです。(p.87)
 
 […]「行政が中立の立場で私的利益に依拠した“民間”団体のバイアスを正す」という、似非中立性が信頼するに足る立場として無批判に容認されていることです。 この場合、中立=公共性=非政治性というおかしな基本認識が前提とされています。「公共性の担い手である行政は、公共利益を志向する中立的政治主体である」というのは、 非常に人々の心に刻まれてしまっている誤解です。(p.91)
 
4 政治なんて関係ない? 4Kの4――政治とのかかわりと政治参加のヴァリエーション
 
 止むに止まれず、それ以外には致し方なく、そうまでしてもどうしても自分の願いに沿う現実や状況を手に入れたいときには、人間は病気を押してでも、 孤立してでも、友だちを失っても、やります。そうでもない切実さなら、やりません。シンプルです。(p.103)
 
 気に留めておきたいのは、どういうかかわり方かはわからないけれど、漠然と政治は私と関係があるのだと思って、 それでいてどうすればいいのか見当がつかないという人々です。難しそうなことは全然わからないけれど、 政治とかにかかわって自分がこの世の中とちゃんとつながっているんだ>110>なと実感したい、 あるいはこのまま何もしないで砂をかむような虚しい生活をおくっていくかと思うと焦燥感でいっぱいになるという人たちです。(pp.109-110)

 […]世界には「ワカラナイことは、スベカラクみなこの世には存在しないことにする」と即断する、最強の人々がいます。 とにかく、政治を特殊人種のやることとも、特殊な活動とみなすのでもなく、「そんなものワカンナイから存在しないし、だから関係ないし」と考え、 そんなものなくても生きているし、これまでの人生で特に困ったことも迷惑被ったことも覚えてないから「必要ない」と考えている人たちです。(p.112)
 
 […]憂慮しているのは、それなりの切実さをかかえて政治へかかわろうという事態になったときに、 政治と自分との関係をすっかりと固定的に考えてしまうような誤解と思い込みがあると、個々の人間の持つ潜在的な力を発揮できないような気がすることです。(p.113)
 
 しかし、エリートというものをただ単純に「特別な選ばれた人たち」と括ってしまうと、民主政治において非常に重要な仕事を軽視してしまいます。 それは「エリートのコントロール」という、普通の有権者が担当する仕事です。政治に間接的にかかわるということは、エリートに決めごとを委ね切ったり、 丸投げしたりすることではありません。代行はしてもらいますが、管理とコントロールはリーダーたちと横並びの対等関係にあるフォロワーの仕事であり、 その意味で王道をいく政治へのコミットです。(p.117)
 
 […]もうエリートを鬱憤ばらしの対象とするのではなく、こう考えたらどうですかという提案です。エリートとは次のような人たちです。

 言語能力と情報処理能力と、いくばくかの想像力と、受験勉強という苦行に立ち向かう体力>120>と忍耐力を偶然持ち合わせ、 親や周りの関係に蓄積された文化資本があり、能力を伸ばすことを可能にした条件と環境に恵まれ、 かつその能力を発揮する舞台がたまたま生まれた場と時代においてマッチしたという幸運があったのだから、 人生のいくらかの部分を「自分ほどの幸運に恵まれなかった人のために尽くして生きる」ことに充てる義務と責任を持っている人たち。

 […]エリートは、持ち得た能力を世界に返さなければいけません。自分の持っている力が、人間の持っている力の一部分を構成するに過ぎない以上、 このことは道徳的要請ではなく、論理的必然です。こうした互酬性を理解できず、公に尽くす義務と責任に無自覚なエリートは、もはやエリートとは呼べず、 それは「勉強の上手な(勉強が「できる」のではありません!)、要領(ただの「段取り」です)のいい残念君」です。(pp.119-120)

 […]政治エリートがきちんと仕事をするために決定的に必要なものがあります。それは、政治的リーダーシップを担う彼らを、 きちんとコントロールする第二集団の「フォロワーシップ」>121>です。第一集団としてのエリートたちが十分に機能しなかったり、 誤った判断を下そうとしたり、自分を過信して暴走しそうになったときには正しくチェックし、注意を促し、ときには退場させたりもするフォローする人たちが必要です。 […]自分も社会も政治も、やはりこのままではいいというわけにはいかないと少しでも思っている人は、もはやこのエリートをコントロールするフォロワーの一人です。
 エリートは、与えられた能力で義務と責任を果たすべきですが、フォロワーはそうした連中が「何だかムカつく」からではなく、 与えられた幸運と能力をこの社会にきちんとお返ししているかどうかに「のみ」関心を持ち、もしそれを十分に果たしていないと判断したら、 別のエリートに取り代えればよいのです(選挙!)。★8
★8 役人には選挙がありませんが、選挙で選ばれた大臣には役人のトップの人事権がありますから、間接的に役人に緊張を与えることは可能です。 政権交代が成熟的にできるようになると、これが機能し始めます。あと五〇年くらいかかるかもしれませんが、すこしずつ進歩します。(pp.120-121)

 政治エリートは、元より社会を「リード」しなければなりません。それが義務だからです。しかし、フォロワーは「リードされる」のではありません。 リーダーたちと自分たちは身分が違うのではなく、社会における「役割」が異なるが原則横ならびの関係だと考え、責任を持ってエリートをフォローしなければなりません。 もっと言えば、政治エリートを作り、育て、成熟させるためには、三つのものが必要です。つまり本人たちの「人格」と「歴史の蓄積」と、 「横ならびのフォロワーのコントロール」です。
 政治においては、自分でコミットしなくても、エリートにまかせる部分がたくさんありますが、だからといって自分は関係がないのではなく、 彼らをコントロールするというかかわり方を理解して必要なことをやれば、それは紛うことなき政治であります。そう考えれば、多くの人々にとって政治は「関係がある」と、 さほど肩に力を入れることなく思えるはずです。政治は、エリートがやっているから関係ナイのではなく、エリートがやっている「から」関係アリなのです。(p.121)
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第III部 イメージを広げる――あのときのその人たちの格闘
1 政治とは「正しい世界を作ること」である――正義の実現としての政治
 
 政治は、「正しい世界」を実現するためにあるものだという考えがあります。>125>[…]政治を嫌う、あるいは忌避する、 そしてシニカルな態度で政治を評価する者たちの多くは、「しょせん政治は汚いものだ」とか「政治家は悪どいことばかりやっている」という印象や確信を持っているでしょう。 しかし、この汚いという否定的な評価の中には、それとは裏表の関係にある想いがセットになっていることが多いのです。 つまり「本来なら政治はそうであってはいけないのだが」という、政治に対する真摯なる期待と希望が前提として入り込んでいるということです。 […]もう少しまともな世界、真っ当な社会を望むのは当たり前のことです。(pp.124-125)
 
 正しい世界、正しい社会を作るという政治の役割を典型的に表現している事例のもう一つは、二〇世紀半ばのアメリカ合衆国における公民権運動(Civil Right Movement)です。 ここでの正しい世界とは「人種差別を克服した平等なアメリカ社会」のことです。>133>[…]人種差別の最も悲惨なところは、現実における不利で貧しく苦しい生活だけではなく、 自分の現状を必死で合理化し、奴隷主人に自ら進んでしたがう精神を作り上げてしまうことです。それは自力で世界を変えようとする希望と勇気を自分自身から奪うことになります。 (pp.132-133)
 
 こうした燎火のごとく広がった運動は、公民権運動のクライマックスとでも言うべき、一九六三年のワシントン大行進(Great March on Washington)へとつながっていきます。 この年の八月に、より強力な公民権法の制定によって差別撤廃を求めるために、公民権運動各種団体は首都ワシントン記念塔に向かって行進するという統一行動をしたのです。 そして、二〇万人が集結したこの記念塔でおこなわれたのが、キング牧師の有名な演説『私の夢(I Have A Dream)』でした。(p.137)
 
 […]黒人差別がもたらしたものをより明確に理解するために押さえ>138>るべきが「貧困」「経済格差」というものです。ワシントン大行進は、 抽象的な権利を求める運動ではありませんでした。そのスローガンは「雇用と自由(employment & freedom)」でした。つまり経済的要求です。(pp.137-138)

 以後、アメリカの民主党政権は、ジョンソン大統領の発した有名な「貧困との闘い(War Against Poverty)」をかけ声に、 […]貧困と格差を解決する壮大な政治的チャレンジを八〇年代の共和党レーガン政権まで継続していくことになります。
 その中で有名なのは、「積極的差別是正措置(Affirmative Action Program)」でした。[…]民主党政府はいわゆる「割当制度(quota)」を導入して、 結果としての平等をある程度確保できる積極的介入をするのです。(p.139)
 
 間違った世界、誤った社会を正しくすることは政治の持つ重要な役割です。しかし、世界史は同時にこの考え方に根本的な問題提起をしています。 それは「正しさを判断するのは誰なのか? そしてどのようにそれを確定するのか?」という問題です。 […]自分が生きる世界や社会を「正しい」とか「間違っている」と判断する基準>143>は、判断する者の価値観です。 […]世界を変えることに主導的な役割を果たした者たちが稚拙かつ強引なやり方で己の価値観を「大義」へと翻訳すると、悲惨な事態となります。 […]あらゆる独裁と強権政治は、正しい世界のイメージを一部の者が有無を言わせず武力で人々に押しつけるものです。(pp.142-143)

 政治を「正義の実現」と考える視点は、政治の持つ重要かつ必要な機能に目を向ける重要なものです。しかし、 この視点が持つ危うさも同時に理解しておく必要があるのです。(p.144)
 
2 政治とは「自分で秩序を作ること」である――作為としての政治
 
 政治とは、自分の努力によって秩序を作り上げることです。[…]政治的秩序とは、ある政治的共同体において、政治状況を把握しておきたいと願う者が、 ある種の「力」を動員してこの状況をコントロールできるようにしておける状態のことを言います。(p.145)
 
 こうした中世的世界観が動揺し、世界の秩序に関するイメージが大きく変化するきっかけとなったのがルネッサンスと宗教改革です。 […]宗教改革は、信仰をめぐる激しい論争とともに、もう一つ人間の考え方に重要な転機を与えました。それは「個人」というものを意識するきっかけです。 […]>149>「世界と状況に一人立ち向かう主体的な個人」への人間イメージの転換が準備されます。まさに「自分で世界にはたらきかけていく」人間です。 こうした人間イメージの転換が、作為としての「政治の発見」と結びつきます。(pp.148-149)
 
 『君主論』は、先を見通せない政治的動乱の中でマキャベッリが獲得した認識をメディチ家の君主に伝える目的で書かれました。[…]言い換えますと、 「動乱を生き抜くために君主に必要とされるものは何なのか」ということです。(p.151)

 […]リアルな人間観察をしておけば、そしてそれを前提に状況をある種の力でコントロールできるなら、そのとき人間は「作為」を通じて秩序を作ることができると、 マキャベッリは忠告したのです。[…]「こうすれば世界の状況を制御できるのか」という、ここに「政治の発見」があったのです。
 中世における政治学とは、ひたすら神の言葉の解釈をめぐる観念的論争に過ぎませんでした。しかし、人間の自覚的、主体的な状況へのはたらきかけと、 同時に変わりゆく状況との不断の観察を通じた自分自身の変化をも織り込んだリアリズムを中心に、 マキャベッリ以降の政治学は政治の行為者の行動を考える合理的アプローチに道を開いたのです。 マキャベッリを「近代政治学の父」と呼ぶのもまさに故なしとしません。(p.153)
 
 しかし、実はマキャベッリが訴える政治的リアリズムは、「オレも他人も世知辛く、しょせんは>162>汚れた人間に過ぎん」という自己否定的悲観主義ではなく、 心の地下水脈を辿っていけば自己肯定と他者への信頼に基づくリアリズムなのです。(pp.161-162)

 マキャベッリは、永いこと『君主論』を書いたことによって、人間を信頼しない君主擁護者であると蛇蝎のように嫌われてきました。しかし、近年の研究によって、 マキャベッリが実は、遥か遠方に君主なき「共和制」を志向していたのだという新解釈が提出されるようになりました。政治的リアリズムとは、 その場その場を小賢しくやり過ごすための手練手管に回収されません。そこには人間に対する根底の信頼と、それゆえに人間を正確に理解しようとする希求が基礎となる、 もう一つの政治の側面があるのです。(p.164)
 
3 政治とは「自分たち自身を支配すること」である――自治としての政治
 
 政治とは「自治」です。このレンズで政治を見ると、考えるべき問題は「支配を納得する理由は何か?」となります。(p.165)

 自治を考えるときにまず無視できないのは、「支配者=被支配者」という前提です。これは自分が「言うことをきかせる立場」であると同時に、 「言うことをきかせられる立場」でもあるという悩ましくも矛盾した事態です。[…]
 つまり「自分たちで決める」という自治の意味の中には、「協力してやる」ということだけではなく「決まったら言うことをきかせる」という強制的契機も含まれているのです。 […]何よりも肝心なのは、「政治とは自治であ>167>る」という政治の視角では、「どういう理由で人は言うことをきくことを納得するのか」ということです。
 実は、人間の長い歴史から見れば、こういう問いの立て方は非常に新しいのです。(pp.166-167)
 
 社会科の教科書には、市民革命は「王権を制限し議会中心の立憲主義を打ち立てた」と、その栄光を讃えていますが、むしろ彼らにとっては、 これまでの慣習と異なるやり方で統治運営を模索しなければならない、非常にキツい事態であったのです。[…]
 そして、そのキツさは原理的には少しも変わることなく今日の政治に引き継がれています。 今日>169>「生まれながらにして統治者の血統である」者が現実の統治を担っている政治体制は、 ほぼ例外に属します。ほとんどの政治的共同体においては、他者から自分の自由が制限されることを望まないにもかかわらず、 自治を通じて自分から制限される関係を選びとるという矛盾と不条理を、人間はどう克服していくかという大きな問題が未だに完全に解決されることなく立ちはだかっており、 それと取り組みながら、私たちは今を生きているからです。(pp.168-169)
 
 […]自分たちがしたがうべき権力は自分たちが合意した権力だけだと明確に主張しました。しかも、ロックはこの「契約を通じた合意」という考え方に、 とてつもなく重要な留保条件を付帯しました。それは「信託(trust)」という考え方です。
 人々の合意によって作られたとは言え、その最高権力である議会が作った法が、約束を結んだ者たちの意志に反して生命や財産や自由を奪うような事態となったときには、 つまり「私たちの持つあの、人としての真っ当なセンスや常識」から著しく逸脱するようなものである場合には、契約は無効であるとしたのです。 これは「自然法に基づく抵抗権」と呼ばれます。これは、後にも触れますが、合意が不動なる永遠のものではないという、権力に対する重要なクサビであることを意味します。 「多数決で決めたのだから正しい」とする、今日の民主主義でさえ陥る失敗を防ぐための論理として、この権利は世界中を守る人々を守る最後の砦の役割を果たしています。 (p.177)
 
 ホッブスにおいては君主、ロックでは議会とされた主権のありかは、ルソーにおいては「人民」となり、ここに人民主権のロジックが成立します。(p.180)
 
 […]契約という考え方の中には「この約束事は、それを支える根本部分でおかしなことが起きたら、約束は無効になる」という前提があるということです。 ですから当然「合意は(永久のものではないから)定期的に確認されなければならない」となります。[…]それは時空を超えて今日の「政権交代」になります。
 契約を定期的に確認しなければならない理由がもう一つあります。それは合意という約束に至る手段がたくさん存在していて、最良の方法が決定していないことです。 […]言い換えれば、合意には必ずなんらかの無理が含まれているということです。[…]>183>これは、自治としての政治につきまとう宿命のようなものです。(pp.182-183)
 
 最後に、自治とは自分たちで決めるということですから「人のせいにすることはできない」という条件があります。[…]自分たちでやったなら、 それは誰のせいにもできません。自分たちが覚悟して引き受ける以外にありません。もしダメな決めごとになったのなら、それは私たちがダメだったのです。 […]人間は、必ず間違え、失敗します。[…]自治には、それを含めて起こったことを引き受ける覚悟が必要です。
 でもこのことは、面倒なこうした宿命も裏を返せば自治の運営の技法を学習する契機が豊富に存在するということです。[…] 自治は振り返りと学習の契機を常に内包しているということです。(pp.183-184)

 […]本章における政治観には、「政治=学習と訓練」という側面が含まれているとも言えましょう。そしてこれは「政治に進歩はあり得るのか?」 というまた別の巨大な問いに結びつきます。(p.184)
 
4 政治とは「戦いの勝者による支配」である――闘争としての政治
 
 政治とは闘争です。生きるか死ぬかの闘争に勝った者が権力を奪取することです。闘争に勝った者が、その後の政治秩序の原理を指定することができます。 これは政治が持つ、目を背けることのできないおどろおどろしい性格です。(p.186)
 
 政治がこうした様相を明白にして立ち現われてくるには、二つのことが前提となります。一つは、「この世界には調和不可能な利益の対立というものがある」という事情です。 […]>187>
 もう一つは「例外的状況においては、多様な利益を考慮することはできず、既存の制度や規則は無効となり、強力な力を持って決断がなされるのが当然である」という考えです。 […]危機の回避を目指す決断がなされなければならないということです。(pp.186-187)
 
 […]マルクスの言ったことの本質の部分を手放さない人たちは、それを根本的な解決と見な>194>しませんでした。議会でなされる妥協と調整など、 しょせんは資本家たちの安全地帯でおこなわれる、真の矛盾をこまかし、闘いを穏健な場へ着地させる、欺瞞に満ちた方策に過ぎないと断ずるのです。 議会で法や制度をいじって、適当なところでお茶を濁すやり方は、本当の政治がどこにあるのかをとらえていないからだと考えます。(pp.193-194)
 
 […]マルクスはこれでは話が逆立ちしていると批判します。人は貧困な精神から貧困になるのではない。 この生産関係における強者が決めた勝手なルールによって惨めな状態に追いやられているから「その関係を映し出すような心の持ちようになる」のです。 これは「どんな生活をしているかが人の気持ちのあり方を決める」というベクトルです。マルクスの言葉で言えば「存在が意識を規定する」ということです。(p.195)
 
 それは、人間の欲望と利益を相互調整することで済む「平時」においては見えてこない、政治の反道徳的で悪魔的な表情です。政治とは暴力的であり、 甘っちょろい感傷や夢想を一瞬のうちに駆除する冷たい「事実性」、つまり有無を言わせず眼前に突きつけられる事態としてあるのであって、 そこに必要とされるのは今や影も形もない欺瞞だらけの「理性を通じた討議」などではなく、敵を措定して決断する鋼のような独裁的国家意志だけなのだという、 強力なロジックです。敵は敵、友は友、そして敵の敵は友、友の敵は敵です。曖昧なことは何もありません。シュミットは、母国の破滅と彼自身の政治的失敗と通じて、 こうした「政治的なるもの」を私たちに示したのです。(p.202)
 
 日本でも、今日隣国を敵国と決めつける感情を煽り、人種差別と排外主義といった不寛容と、 そこから自ずと見え隠れする自我の脆弱なエスノセントリズム(自民族中心主義)を濃厚にした政治運動や発言、 そしてそうした国際社会が容認しないような価値観に依拠した杜撰かつ粗暴な言語表現への無警戒な寛容が同時に生じています。[…]
 格差と不透明な未来は、かつての一億総中流幻想から見れば「例外状況」かもしれませんが、多民族が協働しながら社会を構成していることを忘れ、 在日韓国籍の住民の生活圏に集団で侵入し「〇〇人を殺せ!」とわめくヘイトスピーチを放置する事態も「例外的」、「異常事態」であり、 まさに民主主義の危機であると言わざるを得ません。政治を闘争という視点からリアルに認識することと、それを規範的に受け入れることとは全く別のことです。(p.204)
 
5 政治とは「これが現実だとさせること」である――現実観の統制としての政治
 
 政治とは、決めるための判断材料である基本認識を、多彩なやり方で「これが現実だということにさせてしまうこと〔原文傍点〕」です。 […]政治とは現実解釈を制御して、他者の行為を指定することです。ここは人の言うことのきかせ方という広義の「権力」のはたらきの話になります。(p.205)
 
 […]近代政治思想が理想とした政治的共同体のあり方とは、理性に基づく討議が議会においてなされ、言論が練磨されることで多様な社会的利益が調整され、 それは公共利益へと収斂し、一滴の血を流すこともなく社会統合されていくというものです。[…]
 これを前提にするならば、理想とはかなり離れてしまっているとはいえ、痩せても枯れても民主制の下に生きる私たちは、 自分が持つ価値観に依拠して決めごとをするという政治の原義を意識したときに、その決めごとを導き出した根拠を、自分で考え評価することが必要です。 […]自分が生きる「劣等生ギリギリの民主的社会」をちょっとはましなものにしようとする主体的な態度です。(pp.210-211)
 
 […]現実とは「これが現実だと思っていること」、つまり経験と直感に照らして、そのときの身体条件の下で作った、 著しく違和感を抱かない「収まりのいい解釈」のことです。言葉が現実を造形させる(原文傍点)のです。
 逆に、あるものを説明する言葉が減少すると、失われた言葉が担っていた現実が縮減し、なく>213>なってしまいます。現実が消えるのです。 言葉がないと人間はものを考えることができないのです。(pp.212-213)
 
 霞ヶ関のエリートは、[…]永田町の政治家の背中を叩き、押して、ひたすら増税の道を突き進まんとしています。ほんの数年前の、 キャリア官僚の天下り先や利権の隠れ蓑になっている公益法人、特殊法人の整理と統廃合をすれば、十三兆円以上の財源は十分調達できるのではないかという議論と、 そうした議論から生まれた「現実解釈」など、もはや影も形もありません。「財務省の統廃合整理」という言葉を、 誰かが存在しないものとさせてしまうことに成功したからです。
 政治の巧妙なところは、こういう言葉の死亡宣告を、最初にこれを政治的に発した当事者(民主>219>党のリーダーたち)にやらせたことです。その結果、 彼らは役所の広報紙である一部のメディアの煽動によって「嘘つき」とされてしまい、 「財政危機を回避するために増税は不可避」という現実解釈の説得力がなぜかアップしてしまいました。(pp.218-219)
 
 半世紀も前に、日本の政治学の巨人であった丸山眞男は、「『現実』主義の陥穽」という論文において、 日本人が持つ「現実/非現実」という場合の現実の構造に三つの特徴があると指摘していました。★21 第一に、現実とは日本では端的に「既成事実」と同じものだとされます。 […]>222>第二に、日本では錯綜し矛盾した側面すら持つ現実の多面的な表情の中でも、現実の一つの側面だけが強調されることです。[…] 第三に、日本ではそのときどきの支配権力が選択するものが優れて現実的だと考えられ、 それに反対する者は簡単に「観念的」、「非現実的」というレッテルをはられてしまうということです。[…]
 これを原発政策に当てはめてみると、「もうすでに五〇年以上すごいカネをかけて作ってしまってどうしようもない」(既成事実)から 「石油が止められたときのことを考えれば」(一面的強調)、国家の決めることにたてつくのは(現支配権力の偏重)、現実的でないとする 「現実主義」ときれいに符合します。(pp.221-222)
★21 丸山眞男『丸山眞男セレクション』(平凡社)所収。
 
 […]そのとき、政治はその解釈を望む「誰か」の意志によってコントロールされることになり、そしてそれが成功裏に進めば、ある価値判断に依拠した決定は、 その最終かつ最高段階の帰結を手にすることができます。それは有権者の「沈黙の調達」です。そして「誰も何も言わなくなった」事態です。 政治が政治を消滅させる政治の勝利です。
 これは現実の持つ意味の振り幅と中心点を、なるべく作為性を脱色させながら(「手を加えました感」を薄めて)ある地点へ着地させることです。 […]こうなると、人は政治を対象化させることすらできなくなります。なぜならば、そこには「言葉」がなく、 言葉がないということは政治が存在しないということだからです。
 政治など存在していないと思わせるのが政治の最高かつ危険な機能です。(p.223)
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第IV部 政治を救い出すための言葉――振り返りと未来へのまなざし
1 政治を立場に応じて使いまわす――私たちにできることとできないこと
 
 リーダーシップとは、メンバーに共通する利益を実現するための作業マップをみんなに指し示すことです。[…] 「私たちはいまココにいると呼びかけること」と言い直しましょう。つまり「羅針盤」です。(p.235)
 
 […]多様な価値観に依拠して生きている者たちが大量にいる世界では、それぞれが違うのだということが前提ですから、そういう条件にありながら 「では何で私たちは志や利益関心を共有していけるだろうか」と考えねばなりません。そのためには、違いを強調することよりも、 「私たちはどこまでをともに歩き、どこで道を分かつのだろう」ということの中の「ともに歩ける道」を探し出すほうが、 人々のポジティヴな気持ちと力を引き出すことができると思うのです。
 […]生活者として生きていれば、せっかく持っている力と意志は「違い」よりも「共有するもの」を探しながら緩やかに結びつくことで大切にするべきだと考えます。 とにかく仲間を作って元気を出すのです。
 […]友人を増やす目的は必ずしも多数派を形成するという仰々しい政治目標だけに回収されません。現実の問題として、 人間一人の能力(一定期間に考え、判断し、それを実行するための障害をとり除き、決定後のフォローをする等)には限界がありますから、 役割分担をして力を組織化しておかなければならない>238>場合が多いのです。(pp.237-238)
 
 日々を生きる、自分の力のなさを痛感する者なならば、[…]むざむざ頑張っている人を見殺しにしないように、あるいは多くの人が望んでいないのにもかかわらず、 望んでいない方向にズルズルといこうとする事態を止めるために、「力添え」をすることならできるかもしれません。(p.238)

 選挙とは、最良の選択をするためにあるのではありません。[…]五人に一人し>240>か支持されていない人たちに政治権力を与えないための、 他者への力添えです。「どうしても実現したい政策なんてないけどさ、あいつらだけはご免だから協力するぜ」です。それを不真面目だと誰が言えましょうか?
 […]政治は、最良の選択ではなく、最悪を避けるために「力添え」をすることです。(pp.239-240)
 
 何とかしなくてはと思っても、そうそう何かができるわけではありません。[…]>241>「それでも何でも、何かができないだろうか?」と思うなら、 人間に残された最後の政治的行為があります。それは「他者を励ますこと」です。何もできない自分の無力さに打ちひしがれても、自分には何もできないと思っても、 それだけ(原文傍点)はできます。(pp.240-241)
 
2 主体的選択により生まれるもの――自分の頭で考えて決めて覚悟すること
 
 大切なのは「選択」することです。[…]>243>
 しかし、選択するということは非常に重要なことを同時に生み出します。それは「これは私が選んだものだ」という毅然とした態度です。 そして、選択したことによって事後的に起こることをどっこい受け止めねばならないのだという覚悟です。(pp.242-243)
 
 こう考える最大の理由は、[…]「責任というものを大切にするための前提になっているもの」に気付いてほしいからです。 それは「政治的なリアリズム」というものです。きちんと判断するためには、世界をきちんと見なければなりません。感情や思い込みや、 希望的観測を現状認識にすり替えるような知的怠惰に陥ってはなりません。(p.254)

 リアリズムに裏づけられた明晰な政治的な意志とそれを受け止めようとする覚悟と責任意識は、真の意味の政治的道義というものを生み出すのです。 政治的道義とは、「私は嘘をつけない」などという脆弱な意志ではありません。「これはオレが自分の頭で考え、判断し、選択したものであり、 それは自分の政治的意志が下支えとなっている。この判断の結果起こることを自分は覚悟して受け止めざるを得ない。どれだけ頑張ったかではなく、 どういう結果をもたらしたかだけで、結果を評価して自分の進退を人々に委ねよう」という道義であると私は考えます。最高の道義としての政治は、 「優しい心」ではなく、冷徹な現実の評価が存在してこそ生まれるのです。
 もう一度そのことを踏まえて、あの定義にもどりましょう。

 「この世の解釈をめぐる選択を、あくまで言葉を通じて不特定多数の他者に示すこと」

 きちんとこれができるために必要なのは、「自分の頭でものを考えることと、そのための素材を言語として残すこと、 そしてそこから現実をきちんと描くこと」です。
 このことができるために必要なものは、能力だけではありません。勇気です。(p.256)
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■書評・紹介

岡田憲治「「政治は特別な活動ではない」という本を書きました。」2014年6月1日日曜日
http://okadakenji.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html
『大人の政治読本&愛おしき学生に告ぐ』

■言及



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*作成:北村 健太郎
UP: 20141122 REV: 20150103, 20180823
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