HOME
>
BOOK
>
『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』
折原 浩・熊本 一規・三宅 弘・清水 靖久 20130815 緑風出版,304p
Tweet
last update:20201029
このHP経由で購入すると寄付されます
■折原 浩・熊本 一規・三宅 弘・清水 靖久 20130815 『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』,緑風出版,304p. ISBN-10:4846113167 ISBN-13:978-4846113162
[amazon]
/
[kinokuniya]
※
■
東日本大震災と原発事故で言葉を失った経験を忘れないようにしたい。荒れはてた廃墟を前にして、何かが間違っていたのではないかと私たちは考えた。福島の原発事故は、とくに科学者への不信をかきたてた。事故直後テレビ番組で解説した大学教授たちは、原発を推進してきた利益関係者だったからか、メルトダウンの事実を直視できなかった。この人たちは、業界や権力と癒着して、開くべき口も開かず、科学者としての判断力さえ鈍らせていたのではないか。そのような科学者の責任が問われたのが大学闘争であり、東大闘争であった。彼らはそのとき学生だったのに、何を学んだのか、何か忘れないでいたことがあるだろうか。
大学闘争を闘った学生自身が大学闘争についてもっと語ってほしい。あれは何だったのか、大学が廃墟となった経緯と問題について、廃墟のあとの経過について、十分に明らかにされていない。本書は各地の大学闘争のうち、東大闘争から考えることを試みる。1945年の第一の廃墟からだけでなく、1969年の第二の廃墟から、現在の第三の廃墟を考える。大学闘争を闘った学生たちが語り出すとき、ともに歴史をつくっていくことができるだろう。
「BOOK」データベース
科学者の責任が問われた東大闘争…科学者の責任が問われた原発事故…何が間違っていたのか?
■
折原浩(おりはらひろし)
1935年東京に生まれる。1964年東京大学大学院社会学専攻単位取得退学。1965-96年東京大学教養学部、1996-99年名古屋大学文学部、1999-2002年椙山女学園大学人間関係学部教員。専門は社会学。著書『危機における人間と学問』(未来社、1969年)、『デュルケームとウェーバー』(三一書房、1981)、『ヴェーバー「経済と社会」の再構成』(東大出版会、1996)、『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か』(勁草書房、2007)、『マックス・ヴェーバーとアジア』(平凡社、2010)他。
熊本一規(くまもとかずき)
1949年佐賀県小城町に生まれる。1973年東京大学工学部都市工学科卒業。1980年東京大学工系大学院博士課程修了(工学博士)。現在、明治学院大学教授。ごみ問題で市民サイドからの政策批判を行なうとともに、埋立・ダム・原発で漁民・住民のサポートを続けている。著書『日本の循環型社会づくりはどこが間違っているのか?』(合同出版、2009年)、『海はだれのものか』(日本評論社、2010年)、『脱原発の経済学』(緑風出版、2011年)、『がれき処理・除染はこれでよいのか』(共著、緑風出版、2012年)など多数。
三宅弘(みやけひろし)
1953年福井県小浜市に生まれる。1978年東京大学法学部卒業。1993年筑波大学経営・政策科学研究科修士課程修了。総務省・情報公開法の制度運営に関する研究会委員、日本弁護士連合会・情報問題対策委員会委員長、内閣府・行政透明化検討チーム座長代理などを歴任。現在、弁護士、獨協大学法科大学院特任教授、内閣府・公文書管理委員会委員。著書『情報公開ガイドブック』(花伝社、1995年)、『情報公開法解説』第2版(共著、三省堂、2003年)、『情報公開を進めるための公文書管理法解説』(共著、日本評論社、2011年)など。
清水靖久(しみずやすひさ)
1954年広島県三原市に生まれる。1984年東京大学大学院法学政治学研究科退学、九州大学教養部で社会思想史担当。現在は九州大学大学院比較社会文化研究院で日本政治思想史を研究教育している。著書『野生の信徒木下尚江』(九州大学出版会、2002年)。論文「丸山眞男、戦後民主主義以前」(『法政研究』2011年12月)など。
■引用
◆折原 浩 20130815 「授業拒否とその前夜――東大闘争へのかかわり」,折原他[2013:17-94]
二三「
解放連続シンポジウム『闘争と学問』
駒場キャンパスでは、西村秀夫、最首悟(生物学、助手共闘)、石田保昭(東洋史)、信貴辰喜(ドイツ語)の諸氏と語らい、一九六九年晩秋にはB「連続シンポ」を開設した。「正常化」がなしなし崩しに進められ、全共闘系の学生・院生・教官が集う機会もなく、分散と昏迷を余儀なくされた局面で、再結集軸とはいかないまでも、誰もが思い思いに集まって語り合える「広場」は確保しようという趣旨である。ほぼ週に一回(七〇年に入ると週に二、三回、各回約半日)の頻度で、テーマを決めてシンポジウムを開き、終了後には希望者がその場に居残り、任意にたむろして語りマを決めてシンポジウムを開き、終了後には希望者がその場に居残り、任意にたむろして語り合った。第一回には、三百人近い学生が参集した。
当初のテーマには、「精神科医師連合はなぜ粘り強く闘うのか」「生活・闘争・模索(文学部社会学共闘)」「林学科闘争の軌跡と現状」など、学内の闘争現場からの報告が多い。海外出張から帰った宇井純氏も、第七回(一九七〇年一月十四日)に「なぜ公害にとりくむにいたったか」、第三五回(五月九日)には「公害の政治学」というテーマで参加している。他方、一九七一年四月からは、(復活した入試の第一、ニ年度を受験して)入学してきた新入生を対象に、「東大闘争の事実と△065 その意味」シリーズを開設し、同年十月十九日の第五回(通算第一四三回)まで、最首氏と筆者が報告を担当した。しかし、全体の流れとしては、関心が学内から学外に向かい、教育・差別・公害の三大テーマに収斂していった。なぜか。
全共闘運動は、従来の学生運動に「大学の存在を肯定し、そのなかで管理され、抑圧されている
被害者
として、その枠内で自分たちの権利を拡張しようとする」限界を見出し、「大学の枠内では被害者としてある自分が、全社会的に見ると、まさに大学生・院生・教官として特権者・
加害者
である」という関係を見据えた。
そこから、学内では、学生以上に、(あるいは、まさに学生によって)抑圧されている職員・臨貝との連帯を志向し、地震研・応微研では(「臨時職員をさしあたり正規の職員として雇用せと要求する)「臨職闘争」を闘った。と同時に、全社会的に見て、体制の抑圧を厳しく身に受けている学外者の闘いに関心を寄せ、具体的かつ持続的にかかわって「自己否定」
の方向性
を探り、「自己否定」を
実あらしめよう
とした。そこから、三大テーマについて、各地の闘争者を招き、具体的事実の報告を求める企画が組まれた。それを契機に、参加者には「ひとつの闘いに、腰を据えて取り組みたい」という思いがつのり、救援会のような小運動体をつくっていった。そうしたグループに、「エチル化学労組を支援する会・東京連絡会」、「八木下浩さんを囲む会」(注47)、「東京伝習館救援会」(注48)などがある。
他方、そうした学外への流れに拮抗する形で、自分たちの思想的ルーツを問いなおす企画も組まれている。例えば、「科学技術論@A」(最首、上谷)「アジア農民闘争と毛沢東思想」石田)、「東大闘争と法学的世界観」(森下、山田)、「マルクス主義の詣問題@A」(村尾、富岡)、「ヨーロッパ人類学と植民地主義」(小野)、「アナーキズム論」岡安)、など。同時に、そうした問いなおしを踏まえて、「対抗ガイダンスに向けて@ 薬学批判」(岸江)、「同A 工学批判」(熊本)のように、「正常化」として再開された授業
の中身
を、
専門の部局ごとに
洗い出し、進学を予定している学生に、問題点を示し、
専門性に即した
批判活動の継続と展開を期待する企画も、
萌芽
を現している。「連続シンポ」とは別に、この方向を一歩進め、教官の専門的研究
内容
への批判にも踏み込んだ『ぷろじぇ』同人の企画については、後段第二五節で採り上げよう。
「連続シンポ」の運営は、誰でも名乗り出て担える建前であったが、じっさいには西村氏の全面的配慮のもとに、熊本一規君と故灰庭久博君が、実行委員として支えてくれた。しかし、「連続進歩」も、三年あまりで行き詰まった。理由は、いろいろ考えられようが、筆者はこう思う。「二元的固定化」の廃棄という理念から、「運営業務の
平等な
負担」が建前とされ、追求されたが、西村氏他の主力メンバーには、多彩な参加者には委ねきれない責任があり、他方、多様なテーマについて各地から闘争者を招聘する見返りに、先方から招聘を受けた場合、誰もが「輪番で
平等に
」出向くというわけにもいかなかった。そのため、主力メンバーに負担と疲労が溜まった。ま、一九七〇年度以降の新入生からの参加は、いやおうなく漸減し、学生との接点を求めるかぎり、方針転換を迫られていた。△067
注47 公教育における身体障害者差別を告発し、普通学級への入学を要求した。
注48 福岡県柳川市の伝習館高校で創造的な教育実践を試みて処分された茅嶋洋一氏らを支援しながら、公教育のあり方を問うた。△093
二六 授業拒否の敗北と総括
[…]
じっさい、一九七七年の夏、全共闘運動の志を継いだ文学部学生有志が、「東大百年祭・百億円募金」に反対して文学部長室に泊り込んでいたところ、現場から小火が発生してしまった。学生は、「失火」の疑いで本富士警察署の取り調べを受けたが、署の実験では、タバコの火や蚊とリ線香では床面に火がつかなかった。ところが、文教授会は、床面の発火地点と灰皿との間に、フトンがあり、これが「着火物」となって火災にいたった、と主張し、「学生の失火」と断定して、処分を画策した。
『学内広報』に発表された火災現場の図面を見ても、当のフトンは、発火点から約四〜五メートルは離れた位置にあり、火源と発火とを媒介することは不可能であった。だが、このときも、ある党派の学生が、「消火作業の放水で、フトンが離れた位置に飛ばされたまで」と主張し、処分をそそのかした。しかし、フトンは、窓ないし扉からの放水では飛ばされようのない方角にあった。
なるほど、小火そのものは痛恨の不祥事で、筆者もまずは、若者の闘争規律の甘さないし弛緩を、原則的に批判した。しかし、そうだからといって、市民としては刑法の「軽失火」を問われることもない事案につき,文教授会が
出火原因を捏造
して処分することは、容認できない。一九六八〜六九年には、文処分の事実関係にかんする論証と発表が
遅れ
、これが機動隊導入を許す
一△073 因
ともなつたので、こんどは迅速にことを運び、当時本郷で開かれた討論集会で、加藤一郎著からの引用も交えた資料を添え、所見を発表した(注57)。この集会には、旧助手共闘とその周辺の批判的少数者が、数多く出席していて、筆者の所見に賛成し、その線でそれぞれの学部教授会メンバーを説得してくれたと聞く。処分案は、こんどは評議会で採択されず、葬られた。文教授会は「いつか来た道」の破局を、寸前で免れた。
◆清水 靖久 20130815 「さまざまな不服従」,折原他[2013:95-157]
「教養学部では、十一月六日から十日間の期末試験があり、六七年度入学の学生は八カ月遅れで十二月一日に各学部へ進学し、学生は半減した。授業を拒否しつづける折原や石田保昭らは、解放蓮続シンポジウム「闘争と学問」を始めた。十一月十三日に教員学生の有志が折原研究室で相談し、十一月二十五日に第一回が開かれ、七〇年三月三日まで一八回、二〇〇人から二〇人までの出席者があったという(石田保昭「あらたなたたかいの胎動」『朝日新聞』七〇年三月十日)。シンポジウムは回を重ね、七〇年九月五日で六一回、公害、出入国管理、教育などの具体的な問題と取り組んでおり、「『大学』解体のトリデを再構築してゆく運動」を着実に進めていると折原は記した(「大学の新しい闘争」『朝日新聞』九月十五日)。西村秀夫(一八〜〇五年)は、五一年に矢内原忠雄に呼ばれて学生部教官となった無教会派の信徒で、東大闘争にも学生とともに深くかかわったが、六九年十一月には進学相談室教官となり、このシンポジウムに毎回参加していた(西村『教育をたずねて』七〇年十月、『西村秀夫紀念文集』〇七年五月)。
[…]△115」
■言及
*頁作成:
立岩 真也
UP: 2022 REV:
◇
東大闘争:1970'〜
◇
解放連続シンポジウム『闘争と学問』
◇
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
◇
病者障害者運動史研究
◇
身体×世界:関連書籍
◇
BOOK
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇