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『境界を攪乱する――性・生・暴力』

竹村 和子 20130515 岩波書店,424p.

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竹村 和子 20130515 『境界を攪乱する――性・生・暴力』,岩波書店,424p. ISBN-10: 4000225979 ISBN-13: 978-4000225977 3800+ [amazon][kinokuniya] ※ s00. f03. t05.

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内容紹介
21世紀のフェミニズム批評を牽引した竹村和子。資本主義と異性愛主義、フェミニズムと暴力の抜き差しならぬ関係を曝き、バトラーと濃密な対話を重ね、不連続な「境界」を生きる夢を語る。思考がそのまま自らにはね返る場で、読み書き考える行為の意味、性と生の意味を突き詰めた著者が残した言葉の数々。(解説=上野千鶴子)
内容(「BOOK」データベースより)

精緻で鋭利な思考で、21世紀のフェミニズム批評を牽引した竹村和子(1954‐2011)。資本主義と異性愛主義の抜き差しならぬ関係を精神分析を援用して暴き、生政治にあまねく覆われた現代社会におけるフェミニズムの困難な位置に迫る。バトラーら欧米の理論家と濃密な対話を重ね、翻訳の(不)可能性を見据えた上で、なおも、「境界」の危うい裂け目を生きる夢を語る。思索がそのまま自らにはね返る息詰まる場で、読み・書き・考える行為の意味、性と生のありようを根底まで突き詰めようとした著者が残した言葉の数々。盟友・上野千鶴子が、その軌跡をあかす解説を付す。
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■目次

1 セクシュアリティ
 「資本主義社会はもはや異性愛主義を必要としていない」のか―「同一性の原理」をめぐってバトラーとフレイザーが言わなかったこと
 「セックス・チェンジズ」は性転換でも、性別適合でもない――パトリック・カリフィア他『セックス・チェンジズ』解説
2 フェミニズム理論
 フェミニズムの思想を稼働しつづけるもの
 修辞的介入と暴力への対峙―“社会的なもの”はいかに“政治的 なもの”になるか
3 バトラー解読
 異性愛のマトリクス/ヘゲモニー―『ジェンダー・トラブル』について
 いかにして理論で政治をおこなうか―『触発する言葉』訳者あとがき
 ほか
4 生政治と暴力
 生政治とパッション(受動性/受苦)―仮定法で語り継ぐこと
 マルチチュード/暴力/ジェンダー
 ほか
付論 「翻訳の政治」―誰に出会うのか

■引用

◆「セックス・チェンジズ」は性転換でも、性別適合でもない――パトリック・カリフィア他『セックス・チェンジズ』解説

 初出:パトリック・カリフィア、サンディ・ストーン、竹村和子、野宮亜紀『セックス・チェンジズ――トランスジェンダーの政治学』(石倉由・吉池祥子・レズビアン小説翻訳ワークショップ訳、作品社、ニ〇〇五年)→竹村[2013:45-72]

 固定観念と死角があった。本書[パトリック・カリフィア、サンディ・ストーン、竹村和子、野宮亜紀『セックス・チェンジズ――トランスジェンダーの政冶学』石倉由・吉池祥子・レズビアン小説翻訳ワークシヨップ訳、作品杜、ニ〇〇五]に所収されている本や論文を読んだとき、あらためてそう思った。もちろんTS(トランスセクシュアルの略)にまつわる問題系は、現存の性の制度に生きるすべての人の問越系であり、個別的な話題ではなく、性制度の構造そのものに関わるものと思っていた。しかしやはりどこかで、TSは性の二分法のなかでもう一つの性になる人・なりたい人だという固定観念かり抜けきっていなかった。またTSのセクシュアリティは、TSだけではなく、そのパートナーたちのセクシュアリテイでもあるという、ごく当たり前のことに思い至らなかった。しかしFTMは女から男に、MTFは男から女になった人ではないし、TSのセクシュアリテイは規範的異性愛ののセクシュアリテイとも違う。<0045<
 こう言うと、それはTSに対する医学的処置の「限界」、あるいはTSの「逸脱性」や「不不完全さ」を語っていると受け取られてしまうかもしれない。もちろん、そのどちらも意味してはいない。そうではなくてTSのセクシュアリティは、異性愛も含めてあらゆるセクシュアリテイの幻影性、過程性(in-processness)、そして相関性のなかにあるものとして位置づけられるべきであり、TSとストレート、またTSとその他のクイアとのあいだに線引きすることなど、じっは不可能ではないだろうか。
 しかしそのような線引きが、意識・意識下を問わず、もしも存在しているなら、その誘因は、TSが示唆する「性的身体」という概念である。だがそれこそがまさに、TSとそれ以外の人々との連続性を、また「身体」と「精神」のウロボロス的循環を示すものである。

1「完全に正常な身体」って?

 一九九六年、埼玉医科大学は、日本ではじめて外科的「性転換術」(現在の正式名称は「性別適合手術」)を認める「「性転換治療の臨床的研究」に関する審議経過と答申」(2)を発表した(実施は一九九八年)。それによれば、「「生物学的性」と「心理・社会的性」が(……)一致しないとき、これを性同一性障害」と呼び、その「もっとも主要なものは、性転換症あるいは性別違和症候群と呼ばれるもの」だと定義されている。この定義の前提には、画黙と区別された「生物学的性」(セックス)「心<0046<理・社会的性」(ジェンダー)があり、またその各々について、同様に明瞭に二分された性別――「雌/雄」と「女性性/男性性」――がある。
 だが他方で、医学的処置の第一要件である生物学的性の二分法に対しては、冒頭など二箇所で、「両性の中間型であるいわゆる間性と呼ばれるものがあるように、その区別は必ずしも絶対的なものでは無いこともまた、事実である」とか、「生物学的性はきわめて明瞭に、画然と分れているかに見えるが、必ずしも男女の境界線はっねに明瞭とは限らない」という留保が置かれている。しかしそれにもかかわらず、さまざまな「間性」(インターセックス)は「生物学的性の分化に関する障害」であり、それらに対しては「以前から医学的治療の対象として、外科的治療が行われてき」(強調引川者)たと語られる。つまり生物学的二分法に当てはまらない状況が存在するとしても、それをそWまま受け入れる――「自然で普遍的現象であり、人問身体と社会の豊かで貴重な一部分である」カリフィア、『セックス・チェンジズ』「第二版序文」七)とみなすのではなく、「障害」として「治療の対象」とするのである。

 その根底には、性的身体はニつしかない、ニつでなければならない、という不文律があみる。その埋由はおそらく、性的身体とはつまるところ生殖に寄与しなければならず、したがって性的身体の中心的出来事は、当然のことながら生殖に関与する性器的事柄で、それ以外のものは、たとえ異性変であっても、また性器を介していても、生殖セクシュアリティのための付け足しである、という考えが根本にあるからだろう。だが性的身体は性行為の場面においてすら、かならずしも生殖に役立っていない。いや生殖を意図しなかったり、少なくとも現代の日本では、生殖を避ける場合のほうが圧倒的に多い。人の性実践が性器のみにかかわらないこと、また性器が生殖以外のセクシュアリテイにも貢献していることは言うまでもない。だがそれにもかかわらず、まず最初に生殖を特権化して、性器を中心に性的身体を男女に人為的に二分し(つまり人の性的身体を雄化・雌化し)、そのニ分法の自明視のもとに、それに「適合」しない身体を、そのどちらかに「適合」させよようとする。
 「答申」では、「今回の申請対象にはこの(インターセックスの)ような障害は含まれない」と述べられてはいる。しかし右記の意味で、インターセックスとトランスセクシズムは同じ位相の出来事となる。つまりどちらも、性的身体を画然と二分することから発生する"disorder"(障害・混乱・不調)であるからだ――トランスセクシズムも、「性同一性障害(geder identity disorder)」と呼ばれている。したがって、いかに「答申」が、セックスは生得的なものであり、「文化、社会、歴史」の産物であるジェンダーとは次元が違うと繰り返しても、セックスを「文化、社会、歴史」の性別二元論で解釈するかぎり、生物学で語られる身体の範疇は、歴史的範疇化の結果にすぎない。かりに客観的で生得的な事柄があると仮定したとしても、それらは、当然発生しうる無数の生物学的ヴァリエーションの一つにすぎない。そこに存在しているのは、ニつの性的身体だけではないのである。
 この点で興味深い指摘がある。バーニス・ハウスマンは、『チェインジング・セックス――トランスセクシュアリズム・テクノロジー・ジェンダー概念』(一九九在年)のなかで、インターセックス<0048<を「治療」しようとする――「男」か「女」にしようとする――医学の制度的欲望が、異性愛主義の生産・強化に寄与してきたと述べている。彼女によれば、一九世紀の細菌学の発達とニ〇世紀中葉の抗生物質の発見によって、多くの病気は細菌によって発症することがわかり、それにつれ医療は、病気の特定や治療を担うものとなっていった。だが内分泌医療が扱う事柄は、「細菌の侵入や発ガン物質」といった外的要因によって引き起こされるのではなく、「人体内部で発生する疾患」なので、治療対象の病名化に当たって、「ビタミン不足による疾病と同じく、欠如の結果」(26 強調引用者)と解釈された。そしてさらに、「内分泌物はビタミンとは違って、身体そのもののなかで作られ、(……)特定の社会的原因もない」ゆえに、内分泌不調は「「自然の過誤」」――すなわち「自然の大構想」と人々が考えているものに起きたミス」(強調引用者)とみなされた。よって、ホルモン不調の調整に成功するとき、それは、「偶燃で残酷な自然のカ」に対する医学の「勝利」となり、「人間の理想のための勝利」となり、「正常さの勝利」(26)になると考えられたのである。こうして自然界における性的身体の連続性は、近代の科学思想によって、正常/異常、健康/病気に分類され、異常・病気へこの場合はインターセックス)に対して、医学的処置が施されることになる。
 この歴史的文脈のなかにTS医療を位置づけようとする医学の言説は、奇妙な転倒ロジックに陥ることになる。というのも、まず医学は、トランスセクシズムとインターセックスをはっきりと区別する。たとえば「答申」では、インターセックスは「生物学的性の分化に関する障害」であるが、<0049<TSのほうは「生物学的に完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきりと認知」(強調引用者)していると定義されている。このTSの定義は、「答申」を受けて翌九七年に出された日本精神神経学会のガイドライン「性同一性障害に関する答申と拡言」でも、まったく同じ文言で語られている。つまり「性的身体」という点では、TSは「完全に正常」であり、健康なのである。他方、TSの困難さは性役割によって引き起こされ、また性役割は「可塑的」で「時代や文化によって変化する」(「答申」)と認めっっも、その当面の変革は望めないので、TSの強い願望と悩みの重篤さに鑑み、医療処置を行なうと説明される。
 そうなると、身体の「正常さ」が確認されたうえでなされるこのような施術は、病の治療ではなく、クライアントの杜会的生の向上のためのサービス施術となる。しかし性別を特権化する風土のなかでは、性別操作にかかわる医学には「特段の倫理」が求められ、だがその倫理的検討は、杜会的性別が生物学の性別範疇化に与えてきた影響には触れないので、医療実施の根拠を、TSが現在経験している心的困難さに求めることになる。ジェンダーとセツクスの連動性を再検討しないままで検討される医学倫理では、両者が交差している状況はまさに「障害」となり、よって「トランスセクシズム」は「性転換」と訳され、また「性同一性障害」「性別違和症候群」(強調引用者)とも名づけられて、病理化されることになる。しかしいったいどこが「病気」なのだろうか。
 心的障害ということを持ち出すのなら、「自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきりと認知している」(強調引用者)TSの状況は、レズビアンやゲイのある人たち――たとえば「レズビ<0050<アンは、女ではない」と宜言したモニク・ウィテイッグ――に比べると、社会通念を受け入れているという意味で、「心的正常さ」の度合いは、皮肉にもはるかに強いと言えるのではないか。ちなみに同性愛のほうは、日本楕神神経学会が遅まきながらも、埼玉医科大の「答申一の一年前の一九九五年に、治療対象となる疾病から外した(8)。
 ただし本論で問題にしようとしているのは、TS施療の是非ではない。なぜなら、たとえ多様多種の性的身体を認知する社会が到来したとしても、また施療によって処置前よりも身体的に不都合な状況が生じるとしても(疾病治療でさえ、こういったトラブルと無縁ではない)、性にかかわる事柄だけを、特権的に施療の範囲外におくことはできないからだ。人が人の身体に加える科学的手当の「倫理的」問題は、TS医療を含む、あらゆる医学的処置の連続性において議論されなければならない。逆に言えば、性的身体への処置を特別視することこそ、性別二元論のイデオロギーの軌拗さを物語っている。
 では、ここで問題になるのは何か。それは、医学的処置の「まえ」のTSを「生物学的に完全に正常である」とみなす性別二元論的な医学言説が、医学的処置の「あと」においてもTSが依然として経験せざるをえない差別・抑圧に、連動することである。正常/異常、男の身体/女の身体というくっきりとした峻別こそが、医学的処置以前のTSを苦しめ、「孤立感、恥、おそれ、不幸、仕会的被差別感などの感情を抱」かせ、また「社会的不利益や就職上の困難などの現実的な問題」(「答申」)を被らせていると同時に、処置以降のTSにさえ、孤立感や被差別感、社会的不利益を与え<0051<えているのである。
 たしかに、一九九六年まで日本ではこの種の医学的処置かタブー化されてきたために、埼玉医科大学の決断は、TSが抱える問題を広く可視化し、TSに新しい可能性を与える水路を切り拓いたことは事実である。しかしそれゆえ、ともすれば日本初の公的医療に向けて、その是非にのみ焦点が当たり、処置の「あと」のことは看過されがちとなった。これについては、たとえば「答申」では、手術後に「性別変更などの戸籍上の問題やさまざまな公文書の変更などの法律的問題、あるいは社会生活上の問題や公衆道徳にまつわる問題など、解決しなくてはならない多くの問題が予想される」とだけ触れられたが、翌年出された日本精神神経学会のガイドラインでは、「性別や戸籍の変更など、さまざまな法的問題」について、「法曹界は(……)早急に討議を開始し、適切な結論を且すことを要望する一と述べられ、医学的処置後に関しても、問匙の共有化がはかられはじめた。二〇〇四年には、限定付きながら戸籍の改計を認める「性同一性障害特例法」が超党派で採決された。
 TSは、処置前も処債後も、連続して性別二元論を攪乱する存在であり、それゆえに二元論を温存する社会においてTSが抱える問題は、医学的処置かなされて以降も、解決・解消されるとは言えない。むしろTSが、処置前のみならず処置後も引き続いて社会に投げかけてている問題こそ、TSの偏向性というよりも、性別二元論の社会の偏向性、そのゆえにストレートな「正常な」性的身体と自認する者をさえ、じつは隠微に抑圧している構造を、明るみに引き出すのではないたろうか。事実、戸籍改訂の国会決議前後ょり、世田谷区議連などにおけるTSの可視化が高まり、地力自治<0052<体のなかには、公文書から性別記載欄を削除する動きが出てきている。性別によってまず公的入人格を規定する公文書の性別記載欄は、TSのみならず、レズビアンやゲイ男性、そして女を抑圧してきた風土を象徴するものである。フェミニストやレズビアン/ゲイ・アクティヴィストの長年の悲願が、TSの運動によって成就しつつあるという意味で、公文書からの性別記載欄の削除は、TSが提示している問題系の社会的広がりを示す一つと言えるだろう。

2 すべての人はトランスセクシュアル

 「すべての人はトランスセクシュアル」と言うと、TSからも、それ以外からも、反発の声があがるだろう。TSからは、TSが具体的・現実的に被る社会的・心理的困難さを平準化し、あるいは比喩化するという批判が出されるかもしれない。ちょうど「クイア」という言葉が、ときに前衛的ファッションとなって一人歩きをし、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・TGなどの個別的生や、そこから生まれる実際的要求を見えなくさせてしまう危惧があるのと同様に。他方、TSでない人たちからは、TSフォピアに溢れた反応が寄せられるかもしれない。TSフォビアはさてお、として、普遍主義や比喩化といった陥穽は避けなければならない。野宮亜紀が本書[『セックス・チェンジズ』]所収の論文「日本における「性同一性障害」をめぐる動きとトランスジェンダーの当事者運動」で述べているように、「現実の当事者の「生」を無視して形而上学的に「性」を語るこ<0053<とに終始してはならない」(五六二)からである。しかしその、うえで、ここで「すべての人はトランスセクシュアル」と言うのには理由がある。すべての人は、成人でさえも、それぞれ「男」や「女」や「なにか別の性」の身体になっている、あるいは移っている途上だと思うからだ。
 自然界に存在する性的身体のヴァリエーションが、インターセックスに対する医学的見解Dの歴史のなかで男女に二極化されていったと前節で述べた。しかし性的身体のヴァリエーションは、染色体や性ホルモンといった生物学上の事柄だけではなく、そういった生物学的事項の何を、どのように、どこまで具体的身体として受けとめて、社会的に生きていくかという認識上の問題でもある。」(竹村[2005→2013:45-54])


UP:20130617 REV:
竹村 和子  ◇  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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