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『ユージン・スミス――水俣に捧げた写真家の1100日』

山口 由美 20130427 小学館,237p.

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last update: 20211009

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■書誌情報

■山口 由美 20130427 『ユージン・スミス――水俣に捧げた写真家の1100日』,小学館,237p. ISBN-10: 4093798443 ISBN-13: 978-4093798440 1600+ [amazon][kinokuniya] ※ m34.

◎→関連情報

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 水俣病を世界に告発した写真家の本格評伝
 二十世紀を代表する写真界の巨匠、ユージン・スミス(1918-1978)の代表作であり、人生最後のプロジェクトでもあったのが、写真集『MINAMATA』(1975年)でした。なかでも有名なのが、胎児性水俣病患者の娘をいとおしむように胸に抱く母の姿をとらえた「入浴する智子と母」の一枚です。この写真は世界中に衝撃を与え、水俣の公害の実態を海外に知らしめる役割を果たしました。
 写真集『MINAMATA』のプロジェクトは、妻アイリーン・スミス氏との共同作業でしたが、もうひとり重要な役割を果たしたのが、当時ユージンのアシスタントを務めていた石川武志氏です。ユージンが水俣で過ごした約3年間、彼と生活をともにしながら撮影活動を支えた石川氏の視点から、独特の撮影手法や患者との交流、写真にかける情熱、情の深い人柄など、これまで語られることのなかったユージン・スミスの「水俣」がよみがえります。
 2012年、第19回小学館ノンフィクション大賞受賞作品。

【編集担当からのおすすめ情報】
「ユージン・スミスの仕事をここまで力に満ちて追求し続けた作者に感服した」(椎名誠氏)、「もはやたんなる取材者を超えて、なにか大いなる真実に肉薄していこうとする求道者の印象さえある」(高山文彦氏)と選考委員の先生方も絶賛した小学館ノンフィクション大賞の受賞作です。彼の生涯を追いかけた初の本格評伝をぜひお楽しみください。

┃内容(「BOOK」データベースより)
 世界中を震撼させた写真集『MINAMATA』はいかにして撮影されたのか。「フォトジャーナリズムの巨星」の本格評伝。第19回小学館ノンフィクション大賞受賞。

■目次
「水俣」への道のり
原宿のセントラルアパートで
月ノ浦の溝口家
智子を撮る―宝子とピエタ
実子を撮る―いとしく美しいひと
五井事件
孝子を撮る―日本の原風景となる漁村で
裁判と若衆宿―しのぶと恵美子
写真集『MINAMATA』まで
ユージンの死
封印された写真の真実

■引用

 撮影日:一九七一年一二月(94)

 「石川は、しばしばユージンと激しい写真論を戦わせたが、そのきっかけとなる一枚が、たいてい実子の写真であったと回想する。
 「こっちのほうがきれいに撮れていると、ユープソに言ったんてす・そうしたら、親にあ△105 げる写真ならこれでいい。でも実子の苦悩は写っていない、だから駄目だと言う。そんな時のユージンは、スイッチが入ってしまって、ロでは言い表せない彼女への思いがこみ上げてきて、泣きながら話すのです。
 ユージンは音楽も好きでした。お気に入りは、ジャニス・テョプリンの”サマータイム”。あの絞り出すような歌声を、これが音楽だ、と言うんです。ジャニスの歌の話をするときもよく泣き出した。それと同じ調子で、実子の写真をさして、これが写真だって、よく言っていました。いつもいつも泣きながらね」
 実子は、写真とは何かを強烈に訴えかける被写体たったのた。だからこそ、最後まで彼は自問自答を続けたのだと思う。」(山口[2013:105-106])

 「ニ〇一一(平成二三))年レ七月六日。
 熊本県全域に大雨洪水警報が発令され、水俣市全域に避難勧告が出ていた日。あの豪雨がなければ、私は、智子の父親、上村好男に会うことは出来なかったことになる。

 「入浴する智子と母」の写真について書く以上、両親に会わなければならないと思っていた。しかし、それは簡単なことではなかった。
 写真が封印された理由が、そもそも「智子を休ませてあげたい」という両親の意向である。智子は、一九七七(昭和五二)年一二月、一二歳で亡くなったが、その後もユージンの「水俣」を代表する写真として、また水俣病の悲劇を象徴する写真として、注目され続けてきた。そうした状況に嫌気がさして、そっとしておいて欲しいから、という感情が封印の背景にある。簡単に話が聞けるはずはなかった。
 アイリーンには、早い段階で、上村家とのコンタクトは、はっきりと断られていた。
 水俣の関係者から紹介してもらうのも難しかった。
 ならば、直接、訪ねてみるしかない、と思った。
 […]△0195 […]△0196
 警戒を示しながら、それでもぽつりぽつりと父親は話してくれた。
 「スミスさん、人柄がよかったです。写真については、しんの強い人だったついつい誘導尋問に引っかかってしまったのかもしれん。断りにくい面もあった。あとで顔をあわせたら気まずくなる思うとですよ。しょっちゅう来ていれば、身近になるとです。スミスさんがいい人だったこともある。あげんニコニコ笑って、溶け込んだように来とると。それほど有名な人だとは思わなかった。外人さんがいるな、くらいに思うとりました。アイリーンさんがいなかったら、できなかったでしょう。そりゃあ、仲むつまじかった」
 二人の様子を思い出して、初めて笑顔を見せたのだった。

 そして、写真を封印した理由を聞いた。真つ先にロをついて出たのは、名古屋でタクシーの運転手をしていた妻の良子の弟が、「入浴する智子と母」の写真のポスターが雨の中で人に踏まれているのを見たという話だった。
 実は、「水俣展」のポスターの話は、複数の証言がある。
 原田正純の著書『宝子たち 胎児性水俣病に学んだ50年』には次のようにある。
 〈一九九六年、東京で初めての大規模な水俣展が品川で開かれました。(中略)
 水俣病を直接知らない若者たちが大勢加勢して会場は熱気に包まれていました。わたしも会場を訪れましたが驚いてしまいました。会場が熱気に包まれていたのはいいのです△0197 が、驚いたのはその宣伝にです。あのユージン・スミスの智子さんとお母さんの”母子像”の写真の大氾濫でした。品川駅から会場まであの大きなポスターが張り巡らされていました。駅には若者がいて熱心にフォーラムのチラシを人々に配っていました。チケットにもあの「母子像」の写真でず。これが都会風、現代風の大量宣伝なのでしょうか。しかし、駅でチラシを配るということは捨てる人も落とす人もいます。あの都会の品川駅です。当然踏みつけて行きます。ポスターだって雨風に打たれれば剥げ落ちます。わたしもそうですが、何人もの水俣病を知る人が顔をしかめました〉

 その時、顔をしかめたひとりが、水俣市会議負であり、水俣市民会議の代麦として患者支援と企業、行政の責任追及に闘った、日吉先生こと、日吉フミコである。
 患者支援組織のひとつ「水俣・ほたるの家」で会った彼女は、耳がだいぶ遠くなっていたが、「入浴する智子と母」の写真の話になると,かつて闘上であった頃を思わせる強い口調できっぱりと言ったのたった。
 「アイリーンも悪かとよ。東京の展示会に出しとらしたでしょう。智ちやんの写真がしきやぶられて、橋の上で、ふんだくられていた。私は展示会のある前の日に行ったとです。そうしたら、ビラがふふんだくられていく、これは大変だと思って、アイリーンにことわをようやらんねと言った。ちょうど雨の降る日でした。写真を出すだけならいいけど、ビ△0198 ラに使われて、そのビラがふんだくられてた。すごく腹が立って、あんなん使わせて。それでアイリーンと一緒に上村さんにことわりに行ったとです」
 アイリーンは、この件について、次のように語っている。
 〈水俣病を考える展示とシンポジウムが東京で開かれることになり、そのポスターやチラツに、「入浴する智子と母」を使用したいという依頼があったんです。私は使用を許可しました。
 そのシンポジウムに当日、智子ちやんのご両親も参加しました。その日は雨でした。駅から会場に向かうまで、至る所にその写真を使ったポスターが貼られている。チラシが配られている。そのポスターやチラシが、雨に打たれて道にたくさん落ちていたんです。道行く人がそれを踏みっけていく。踏みつけながら、そのシンポジウムの会場へと向かう。その光景を見て、ご両親は本当に心を痛めたんです。
 配慮が足りなかった。私の責任もあると思います。私が、著作権者なのだから、いろいろなことを考えなくてはならなかった。『こういうイべントで使用を許可すると、こういった事態が考えられる。それでもいいですか』ということをご家族に伝えて一緒に考えるとか。もっと細やかに配慮すべきだったと思います〉(『本の話』二〇一〇年一二月号「
「忘れえぬ女たち アイリーン・美緒子・スミス22決断、「入浴する智子と母」をめぐって」より)△199
 一九九六(平成八)年九月ニ八日から一〇月一三日まで東京・品川で開催された「水俣展」。
 上村夫妻が会場まで足を運んだのかどうかは、いくつかの証言があり、よくわからない。
 いずれにしても、それは水俣の問題を首都圏の人たちに広く知らせた意義のあるイべントだったが、同時に、あの写真を封印に至らしめる引き金を引いてしまったのである。
私は、智子の父から「「上村智子さんとお母さんの入浴ずる写真一について」というアイリーンと上村夫妻の間に交わされた覚え書きを見せてもらった。
 一九九九(平成一一年七月一日発行の「水俣ほたるの家便り」に掲載されたものだ。
 〈1、私、アイリーン・スミスは「上村智子さんとお母さんの入浴する写真」を上村さんご夫妻にお返しします。
 2、これはこの写真に関する決定権が上村さんご夫妻に帰属することを意味します。
 今後、この写真に関して依頼がありました時には、以下(別紙)の説明をし、写真の使用をお断りいたします)
 しばしば混同されるのだが、アイリーンは、写真のネガそのものを返したのではない、また著作権を譲渡したのでもない。「写真に関する決定権」を返したのである。その上で、写真に関ずる依頼は、アイリーンが断るとしている。△200
 文書の日付は、一九九八(平成一0)年一〇月三〇〇日。
 別紙には、一九九八年六月七日、私は上村さんのご両親と会い、この写真の新たな展示、出版等を行わないことを約束しました」とある。
 九八年、ということは、九六年の水俣展から、二年近く後である。

 私は、ふと智子の父が「名古屋にいる良子の弟」と言っていたことを思い出した。当初、同じ「水俣展」ということで、東京と名古屋の違いを気にしていなかった。
 だが、彼は、確かに名古屋と言った。東京ではなく。
 「水俣展」はそのまま名古屋にも巡回したのだろうか。
 主催者である水俣フオーラムのHPを見て、私は、あることに気づいたのだった。
 それは、一九九八年八月に豊橋で「水俣展」が開催された事実だった。
 東京の二年後、豊橋で「水俣展」があった。
 豊橋は、名古屋九から在来線でも五〇分余りの距離だ。東京の「水俣展」の時、ポスターやチラシが踏み散らかされた事実は、複数の人の証言から間違いない。その時、アイリーンは使用の許可は出したけれど、上村夫妻には伝えていなかった。だから、日吉フミコはそのことを強く指摘し、ことわりに行かせたのであ△201 る。だが、少なくともその時点では、アイリーンと文書のやりとりには至っていない。
 さらに一九九七(平成九)年七月、海外から大きな取材の依頼が入る。
 フランスのテレビ局CAPAによる「二〇世紀一〇〇枚の写真」という企画である。その一枚として、水俣病の悲劇を象徴する「入浴する智子と母」の写真は絶対に必毎との依頼だった。これを上村夫妻は、インタビュー、写真の使用、いずれも断っている。「水俣ほたるの家便り」に寄せた、その時の心境である。
 〈私はその取材には気が進まず断りました。テレビ局の取材がどういうものか分かっていましたし、ヌご支援してくださる団体の方々の活用も、私どもの知らぬ所に数多くの写真が出ています。いろんな方面で必要の場合もあろうかと思いますが、私は亡き智子にゆつくりやすませてやりたい、そんな気持ちがつのってまいりました〉
 文脈から読み取れるのは、フランスのテレビ局から取材を断った理由のひとつとして、前年にあった「水俣展」における不信感があったのではないか、ということだ。それでも一九九七年七月の時点で、まだ覚え書きには至っていない。最終的な決定がされたのは一九九八年六月七日である。
 豊橋の「水俣展」は、一九九八年の八月二六日から三〇日である。開催のかなり前からポスターは、近舞D大都市である名古屋を含め、至るところに貼られていたことは充分に考えられる。それがたまたま雨に濡れて人に踏まれているのを、名△202 古屋でタクシーの運転手をしている智子の母の弟が目にしてしまったのか。
 東京と同じ主催者による「水俣展」。水俣病患者を支援するイベントであり、それ自体が悪い訳でない。それだけに度重なる繊細さを欠いたやり方に対するどうしようもない思いが、写真の封印という方法へ、上村夫妻の心の舵を大きく切らせてしまったのではないだろうか。

 もちろん封印に至った最大の理由は、上村夫妻自身も、またアイリーンも強調しているように「智子を休ませてあげたい」親心である。だが、その背景として忘れてならないのが、写真をめぐる心ない発言で傷ついた事実だと思う。
 「水俣ほたるの家便り」では次のように綴られている。
 〈そんな中で出てきました「あれたけ報道されるとお金が大部儲かるでしょうね」という、近所や周囲の人達の話が私たちの耳に入ってきました。私は智子の写真で金儲けしようなど考えても見なかったし、思ってもいませんでした。またそのような写真で金になるなど夢にもおもいませんでした。
 事実として写真は家族の生活の一部の糧にもなっていなかったのに、外部からのこうした話にとても耐え難い日々がどれほどあったかは、家族のものにしかわかり得ないと思います〉△203
 判決後は、ただでさえ地元では、補償金の入った患者家族に対ずるやっかみが激しかつたと聞く。それゆえに、判決前のように患者を写真に撮ることも容易ではなくなった。そうした状況の中で、あの有名な写真の被写体であったことで、どれほどの波風が上村家を襲ったか、想像に難くない。

 そして、そのことが、いまなお深い傷になって、写真というもの、ジャーナリズムというもの自体に対する不信感になっていることを、私は、あの集中豪雨の日、智子の父の言動から知らされたのだった。
 招かれざる客である私たちとの間には、しばしば沈黙が流れたが、とりわけ何の言葉も発することが出来ないまま、長い時間が流れるきっかけになった、あの言葉が私は忘れられない。
 「金にばなるから、あんたらは写真を撮るんでしょうが。こうして話ば聞くんも、金にばなるからでしょうが。違いますか」
 ユージンだって同じだろう、と続けられた言葉に、石川は、言い返したい衝動に駆られていた。写真集の出版で最終的に辻棲を合わせたとはいえ、どれほど金のない、あてのない状況で、写真を撮っていたか。無給のアシスタントだった石川は、自らの痛みとして、そのことをよく知っている。お金がなくて綱渡りのようたった日々。五井事件で殴られ△204 て、体もボロボロになって、命を張って写真を撮っていたのだ。でも、ここで言い返したら、せっかくの取材が駄目になってしまうと、反論を飲み込んだ。
 私も同じように、いくっもの言葉を飲み込んだ。
 そして、叩きつけるように降る雨音だけが玄関に響いたのだった。

 「金にばなるから写真を撮るんでしょうが」の一言は、石川の心を打ちのめした。
 ユージンは金のために水俣に来たのではない、何度も彼は言った。封印の遠因に、写真というものに対する不信感があったことが、どうにも居たたまれなかったのだと思う。
 アイリーンは、上村夫妻の意志に反して写真を公開し続けることこそが、写真に対する冒潰であり、否定であると言う。
 だが、その本人が、そもそも写真に対して、こうした感情を持っていたとするならば、そこから話しあうべきではなかったか。もちろん写真やジャーナリズムには、功と罪の両面がある。それでも、まがりなりにも写真のカを信じて仕事をする者であれば、その写真に対する否定的な感情を放ってはおけないはすである。封印の是非はともかく、ユージンが金のためにあの写真を撮ったなんて、ほんの一瞬でも思われたくないと、石川は私に熱く語ったのだった。
 京都にアイリーンを訪ねた時のこと、石川の話は、しばしばジャーナリスト論や写真論△205 に脱線した。そんな時、いつも最後にぼつりと言うのだった。
 「こんなふうに思うのは、ユージンに影響を受けたせいかな」
 しかし、石川が語る写真論にアイリーンが加わることはなかった。
 その時感じたのは、石川はいまも写真を撮る当事者であること。でも、隣にいるアイリ
ーンは、もう写真を撮る当事者ではないことだった。
 「水俣」の時代は、確かに彼女も写真の当事者たった。
 だからこそ、「水俣」の写真は、共著になった。しかし、一九八0(昭和五五)年以降の彼女は、環境活動家であり、写真家ではない。その後も写真を撮り続けてきた石川との間の、写真というものに対する温度差は、埋めがたいものがあるのだった。

 […]△206 […]△207 […]△208[…]
 ジム・ヒューズの記事には、少なくとも撮影された時、被写体である智子の両親は、写真を撮るだけでなく、水俣を世界に知ってもらうために写真を使うことも了承してくれたと、ユージン自身の証言として記してあった。こうした証言は、原田の『宝子たち 胎児性水俣病に学んだ50年』にもある。
 〈わたしが「どうしてあんな写真を撮らせたの」と聞いたことがありました。その時良子さんは「よかじゃなかでずか、あれを見た人が、政府のえらか人、会社の偉か人が見て、環境に注意してくれらすなら、この子は世間様のお役にたっとです」と言われました〉
 そうした彼らの当時の気持ちを最も的確に物語るのが、上村夫妻がユージンとアイリーンに宛てた手紙かもしれない。先にあげた「Uemura」と封筒に裏書きされた手祇である。 これもアリゾナのCCPで「W. Eugine Smith Archive AG33」から見っけたものだ。
 最終日の午後、もうこれでおしまいという箱の中、見つけた時の感動は忘れられない。手紙には、一九七五(昭和五0)年五月二六日と消印があった。
 それは、五月一九日に『MINAMATA』の写真集が到着したのを受けて書かれた、言うならば心のこもった感謝の手紙だった。△209
 何度もお礼の言葉を重ね、世界から公害がなくなるよう、共に戦ってゆこうと呼びかけくいる。
 手紙に記された写真集『MINAMATA』の力強い肯定は、そのまま彼らにとっての『MINAMATA』、すなわち「入浴する智子と母」の肯定と読んでいいだろう。
 通り一遍の感謝状ではない、公害という理不尽な敵に対して、『MINAMATA』をもって共に戦う戦友としての手紙でもあるように私には思えてならなかった。

 「入浴する智子と母」は、否定されていなかった。少なくとも写真集が出された時点では、好ましいものとして上村夫妻に受け入れられていた。
 そのことなあらためて確認出来たことが、私はうれしくてならなかった。
 坂本しのぶの母親、フジエが言った言葉を思い出す。
 顔をあわせるたび、何か話をするたび、こちらから「入浴する智子と母」の写真の話を聞いた訳でもないのに、彼女は何度も繰り返した。
 「あげな写真ばとるちゅうことは、家族同然になっらんちゃ、よう撮れんよ。ほんなこつ親しくなからんぱ撮れるはずがなからんよ」
 それは、母親としての実感たったに違いない。母親が心から納得していなければ撮れる写真ではないと、私の目をじっと見てきっぱりと言うのだった。△210
 撮影と発表の時点においては、何の問題もなかったのだ。
 封印は、写真そのものに原因があったのではなく、その後に生じたさまざまな状況によってもたらされたものなのである。
 そのひとつとして、智子が亡くなったことがあげられるだろう。
 「亡くなったのにかわいそうかなという気持ちがあった。もし智子が元気だったら、そう考えたかどうかわからない」と父親も言っていた。
 しかし、智子が亡くなったのは一九七七年のことである。「封印」までには、それからニ〇年余りのタイムラグがあるりだ。

 アイリーンは、封印の決断をした根拠として、ユージンの言葉をあげている。
 (写真家には二つの責任がある。ひとつは、被写体に対するもので、もうひとつは、見る側に対するものだ。もしニつの責任がうまく合致したのなら、それは自動的に編集者に対する責任もまっとうすることになる)
 手紙や講演などで、何度となく繰り返された言葉である。
 しかし、実際の状況の中で、生きた言葉としてそれを聞いてきた石川は、見る側に対する責任を果たすことが、結果として、被写体に対する責任を果たすことになるのではないかと考える。被写体に対する責任とは、たとえば水俣でおきている悲劇や当事者のおかれ
△211 た状況を世界に伝える責任ということであり、被写体の申し出によって、写真な封印する責任ではない、と彼は言う。
 さらに、このコメントを理由にするのなら、見る側に対する責任も明確に語られなければならない。アイリーンはいくつかコメントをしているが、「アイリーン・アーカィブ」英語版のこの言葉が最も簡潔なので引用する。
 〈見る人を尊重するというのなら、私たちはその人たちに嘘をついてはならないのです。智子を休ませてあげなければならないという事是を隠して、私たちはどうしてこの写真な出版することが出来るでしょうか〉
 上村夫婦の「休ませてあげたい」気持ちを無視するのが冒漬と感じるのは、人として当然のことだ。そう言われてしまえば、まっとうな人問であれば返す言葉はない。しかし、それによって、検討すべき問題をすり替えてしまうことに私は違和感を覚える。
 アイリーンまたこうも言っている。
 〈ですから、この写真はこれ以上公開されるべきではない、と判断した過程を明らかにすることが、ニつの責任を果たす道たと私は考えたのです〉(『本の話』ニ〇一〇年一二月号「忘れえぬ女たちアイリーン・美緒子・スミス22決断、「入浴する智子と母」をめぐって」より)
 しかし、「水俣展」の経緯は、たとえば「アイリーン・アーカイブ」の英語版には説明されていない。結果、ジム・ヒューズの記事には、封印されたきっかけとして、一九九七△212 年のフランスのテレビ局の取材を断った話しか書かれでていない。
 英語で記されたものには、「水俣展」の事件がまったく取り上げられていないため、封印に至った経緯がブラックボックスになっていて、上村夫妻の「休ませてあげたい」という意向とアイリーンの決断が、唐突であると同時に、冒しがたい事実として、よリコメントしにしくい状況を与えている。
 それでも彼は、慎重にこの決断の問題点をあげる。
 〈私は確かにアイリーン・スミスの上村さんの感情に対する配慮と智子の思い出を守るための配慮を高く評価しますし、この気持ちを共有もします。ユージン・スミスもそうであろうと確信します。しかし、それでも、私にとっては、写真や芸術作品をコントロールする主体が、それらが表現する被写体に移ることで、先例として確立してしまうであろうことに最大の関心があるのです〉
 芸術作品の運命が、被写体の意志に委ねられることへの強い懸念である。

 石川は、「入浴する智子と母」が封印された状況を「すごく残念だ」という。
 「水俣」の写真は、もちろんこれだけではない。しかし、この写真は特別だという。「水俣」の枠をこえて、人類に与えられた芸術作品としての普遍性をもつのではないかとご考えるからだ。「入浴する智子と母」は、人類にとって失ってはならない芸術作品なのだ。△213
 ジムもまったく同じことを指摘していた。
 石川は、それをジョン・レノンのイマジンに喩え、ジムは、ミケランジェロのピエタとモナリザに喩えた。
 テム・ヒューズの記事の話をすると、私の友人の写真家たちもまったく同じことを言うよ、と彼は笑った。
 こうした意見は、芸術のためならば、被写体の意向が犠牲になってもしかたないという意味ではない。実際のジャーナリズムの現場では、写真の被写体となった相手に拒否され
たら、その写真は掲載出来ないというのが、常識的な判断である。だが、それは、撮影の時点で受け入れられなかった写真において、だと思う。
 もし「入浴する智子と母」が、嫌がる相手を無理強いして撮った写真ならば、どれほど素晴らしい写真であったとしても、私たちは、その扱いに慎重でなければならない。
 しかし、「入浴する智子と母」は、少なくとも当初は受け入れられた写真なのた。

 私は、あらためて、プロローグで紹介した上門拳の「るみえちやん」の写真を思い出す。記念館の学芸員は、被写体との微妙な関係があった「るみえちやん」の写真を、だからこそ、いっまでも人々が見ることの出来る作品であり続けられるよう、「配慮」をしていると語ってくれた。△214
 もちろんアイリーンは、上村夫妻に対しては、ある意昧、最高の「配慮」を実行したことになる。だが、「休ませてあげたい」という気持ちを尊重しながら、もっと小さな「配慮」を丁寧に重ねていくことで、「るみえちやん」の写真がそうであったように、芸術作品としての命を守る方法はなかったのたろうか。
 その可能性を探る手段のひとっとして、「入浴する智子と母」の写真が封印に至った状況を法的に検証してみることにする。
 法的な問題の可能性があるとすれば、それはプライバシー権の一部としての肖象権侵害ということになる。だが、そもそも合意のもとに撮影され、発表後も長い間、被写体の両親に受け入れられていたこの写真は、撮影行為自体に違法性はない。
 撮影が合法な場合における「撮影」と「公表」との関係については、東京地判二〇〇七(平成一九)年八月二七日の判決がある。
 〈テレビ局が被疑者の様子を撮影し放映した事案において判決は、
 「撮影された映像は、後の使用が想定されていることが通常であるから、当初の撮影行為が違法なものと認められない場合には、当該撮影の結果得られた映像の使用についても、当該使用行為が、当初の撮影行為当時において想定されていた使用方法とは全く別個の行為で、当該使用行為により、被撮影者の人格的利益の侵害が社会生活上の受忍限度を超△215 え、新たな人格的利益の侵害が生じていると評価されるような場合を除き、違法な映像の使用とはならないと解すべきである」との規範を提示した〉(『プライパシー権・肖像権の法律実務[第2版]より)
 判断の背景にあるのは、肖像権侵害の免責となる、憲法一二条一項に示された「表現の自由」の権利との調整である。「表現の自由」の権利をこえてなお、違法性を生じる場合としてニつの要件をあげているのだ。
 封印に至った「入浴する智子と母」の写真の状況に照らし合わせてみる。
 すると、「水俣展」における「公表」の状況がこれらの要件に合致しているかもしれないことに気づかされる。すなわちポスターやチラシとしての使用は「当初の撮影行為において想定されていた目的と乖離している」と考えられ、さらに原田医師や日吉フミコの証言は「被撮影者の人格的利益の侵害が社会生活上の受忍限度を超え、新たな人格的利益の侵害」となったことを裏付けているのではないか、ということだ。
 さらに公表の内容と方法に言及したものとして、東京地判二〇〇〇(平成一ニ)年一〇月二七日の判例の見解がある。
 「その表現行為が、公共の利害に関する事実その他社会の正当な関心の対象である事実と密接に関係するものであり、かつ、その公表内容及び方法がその表現目的に照らしイ之相当なものであることを要するものというべきである」)(前掲書より)△216
 ただし、前掲書の著者は「公表の方法」は要件としてあげなくてよいという見解に立っている。ところが、興味深いのは、「あまりないと思われる」として注に示された、滅多にありえないであろう事例が「水俣展」の状況に似ていることだった。
 〈たとえば、人の顔写真のアップをステッカーにして街中の電柱等に大量に貼るというような態様であると、公表”方法”の相当性が否定される場合があるということになろうか〉(前掲書より)
 この表現は、たとえば原田医師が眉をひそめて報告した状況に以てはいまいか。
 これらの法的見解は、「入浴する智子と母」をめぐる状況が肖像権侵害に相当した可能性を示すと同時に、しかし、その違法性は、写真の撮影行為や写真それ自体ではなく、その後に生じた使用目的や方法に関する問題であることを示唆している。
 「入浴する智子と母」の写真それ自体に問題はないのだ。

 アイリーンの「入浴する智子と母」の封印の問題に対する見解は、基本的に「アイリーン・アーカィブ」の記述がすべてだと彼女は言うが、簡潔にまとめられた英語版に対して、て、日本語版は、「清里フォトアートミュージアム友の会・会報11号」(二〇〇〇年一一月一〇日発行)に掲載されたインタビューの収録というかたちがとられている。アイリーンの意見そのものは、先に引用用した英語版の内容と同じだが、この時の座談会に登場した館△217 長で写真家の細江英公に、改めてこの問題の意昧について話を聞いた。同ミュージアムはインタビュー当時、「入浴する智子と母」を所蔵しており、写真家として、また写真を所蔵する美術館として、二重の意昧で当事者であったからた。
 「基本的には、表現の自由と被写体のプライバシー権のどちらを重視するかという問題でしょうが、それに加えて、社会的影響力ということも考えなければならないと思います。つまり多くの人の意見ということです。この写真は、土門拳のるみえちやんの写真と比べて、水俣病という公害を訴えている点において、より社会的な意昧が大きいと思います。写真家の立場としては、おおいに論じてもらいたいし、火を消してはいけない根本的な間題ですね」
 石川自身がそうであり、また彼の出会った多くの写真家がそうであったように、封印の問題を細江も「大変残念なこと」と締めくくった。
 被写体の意見を尊重することは、写真家としての立場や意見以前に、人として従わざるを得ない良心の問題である。だが、写真家にとって、作品が封印されることは大きな打撃であり、ひとりの個人としての良心と、写真家として全うされるべき表現の自由との葛藤に向き合わなくてはならない。
 いずれにしても、東京の「水俣展」でチラシやポスターになっていなかったら、そして、その状況が豊橋の「水俣展」で繰り返されなかったら、これほど極端な結論にはなら△218 なかったに違いない。当時、アイリーンはシドニー在住で、逐一確認ができない状況にあ)たことも影響したのかもしれない。そして、どういう理由があったのかはわからないが、再び同じ事態が生じてしまったのである。
 写真の封印は決して必然の運命ではなかったと、私は思う。
 あまりに人の心を動かす写真であったがゆえにポスターやチラシにする発想が生まれたのかもしれないが、そうではなくて、人の心を動かす唯一無二の写真たからこそ、ことさらに撮影者と被写体に対する敬意をもって、「るみえちやん」の写真と同じように大切に守ってきたのなら、封印には至らなかったはずだ。
 「休ませてあげたい」の言葉は、写真それ自体に対する否定ではなく、水俣の広告塔として使われた状況にあげた声だと解釈すべきではないか。
 石川がことさらに「すごく残念だ」と言うのは、人間としての良心と写真家としての麦現の自由のせめぎ合いという問題だけでなく、渦中の当事者のひとりとして、封印が回避されたであろう可能性を信じるからこそ、なのであろう。△209 〔本文終わり〕

エビローグ 220

 震災による原発事故は、期せずして私の取材の方向性も転換させた。
 これまで語られることのなかった水俣時代のアシスタント、石川武志を中心にすえてユージンの「水俣」を検証することは、もともと私が描いていた青写真だった。しかし、ユージン亡き後、もうひとりの当事者であるアイリーンの存在も重要たった。
 ニ〇一一年一月、私は、石川を交えてアイリーンと京都で会った。すでに東京で二度ほど会っていたが、この時は、二日間にわたって話を聞いた。二人は姉と弟のようであり、久しぶりに再会したクラスメイトのようであり、その何気ないやりとりを見ることで、私は、「水俣」の空気感を知ることが出来た。
 そして、震災と原発事故がおきた。
 現在のアイリーンは、反原発活動家である。
 「水俣」の裁判の頃のような、めまぐるしく忙しい日々が彼女にやって来た。
 そのことが、結果として、彼女の話を聞くことに固執しないという方向性を選ばせた。そして、私は、アリゾナのCCPの資料であるとか、ジム・ヒユーズの伝記に軸足を置く△222 ようになったのである。ささらに、その後の見解の相違により、アイリーンにインタビューした内容は記せなかったことをおことわりしておきたい。
 これまで、日本においてユージンの「水俣」は、ほとんどアイリーンから発信されてきたように思う。一方、日本にもたらされるユージンをめぐる情報も、ほとんどはアイリーンを通してのものだった。アイリーンからの乖離によって、私が新しい情報ゾースを海外に求めたことで、新しいものが見えたような気がする。
 そして、もしもアイリーンも水俣に同行していたら私は上村家に行くことはなかっただろう。[…]△223

■関連情報

Smith, William Eugene[ユージン・スミス]

◇『ユージン・スミス』著者が明かす「誤認」と「新事実」
 2020.11.13_07:00  NEWSポストセブン
 https://www.news-postseven.com/archives/20201113_1609458.html
“ホテルや建築、近現代史などをテーマに「旅する作家」として活躍する山口由美氏が初めて挑んだ本格評伝『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』は、世界的な写真家と水俣の人々との濃密な関係を描き出して高く評価され、2012年の小学館ノンフィクション大賞を受賞した。しかし、同書を読んだある関係者から事実誤認の指摘が届き、新たな事実が明らかになった。著者の山口氏が自らレポートする。”

◇解決しない、ということの意味
 2020-12-31『伝えるネットねこレポート』
 https://blog.goo.ne.jp/tutaerunettoneko/e/37b1bb858e3bb424302dc8378c431c75

◇石井妙子 20211001 「「水俣病の少女が入浴する写真」をめぐる、写真家と被写体親子の「知られざる葛藤」――なぜ写真は“封印”されたのか」,『現代ビジネス』
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/87864
“『女帝 小池百合子』で今年、第52回大宅賞を受賞した石井妙子氏の新作、『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』がこの度、文藝春秋社より出版された。伝説の写真家ユージン・スミスと妻アイリーンはなぜ出会い、なぜ水俣へ向かったのか。ふたりが撮り、世界に発信した水俣病の被害とはどのようなものであったのか。ふたりの生涯を通じて、水俣病問題の本質に迫ったノンフィクション作品である。筆者の石井氏に話を聞いた。”

◇佐伯剛 20211001 「[第1176回]水俣とMINAMATAの違い」,『風の旅人――放浪のすすめ』
 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2021/10/01/224247
◇佐伯剛 20211004 「[第1177回]「MINAMATA」なのか、「OUR MINAMATA DISEASE」なのか。」,『風の旅人――放浪のすすめ』
 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2021/10/04/125634
◇佐伯剛 20211005 「[第1178回]映画「MINAMATA」について、ユージン・スミスは、どう思うだろう?」,『風の旅人――放浪のすすめ』
 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2021/10/05/155615
◇佐伯剛 20211007 「[第1180回]映画MINAMATA――正義と真理の隔たり」,『風の旅人――放浪のすすめ』
 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2021/10/07/154744

◇tu-ta「「水俣病の少女が入浴する写真」から考えたこと」
 2021年10月06日『今日、考えたこと』
 https://tu-ta.at.webry.info/202110/article_3.html


UP: 20150703 REV: 20211005, 09
Smith, William Eugene[ユージン・スミス]  ◇水俣病  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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