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『福祉社会学の挑戦ーー貧困・介護・癒しから考える』

副田 義也 20130116 岩波書店,326p.


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副田 義也 20130116 『福祉社会学の挑戦――貧困・介護・癒しから考える』,岩波書店,326p. ISBN10:4000246798 ISBN-13: 978-4000246798 \3300 [amazon][kinokuniya]

■内容(岩波書店HPより)

生活保護には援助を求める人びとを拒絶するしくみが内在し、老人・障害者介護にはつねに管理の側面が伴う。さらに、福祉サーヴィスを受けることがもたらす負の烙印……。多様な現場に飛び込み、福祉にまつわる光と影を見据えてきた著者が、新自由主義の嵐によって福祉国家の理念がゆらぐなかで、人間のための福祉をめざして送り出す渾身の書。

■著者紹介(本書より)

1934年生まれ.社会学者.筑波大学名誉教授,あしなが育英会副会長.専攻は福祉社会学,歴史社会学.筑波大学定年退官後は,金城学院大学教授,福祉社会学会初代会長などを歴任.著書に『生活保護制度の社会史』,『教育勅語の社会史』,『あしなが運動と玉井義臣』,『死者に語る』,『内務省の社会史』,『福祉社会学宣言』,『教育基本法の社会史』,編著に『死の社会学』,『老いの発見』,『ケア その思想と実践』ほか

■書評・紹介

◇盛山和夫 20130605 「[書評]101 福祉社会の葛藤と亀裂を見つめて――副田義也『福祉社会学宣言』『福祉社会学の挑戦――貧困・介護・癒やしから考える』」『UP』,東京大学出版会,488:44-48
◇時岡 新・藤崎 宏子・坂田 勝彦・株本千鶴・藤村正之 20140331 「書評セッション 副田義也著『福祉社会学の挑戦――貧困・介護・癒しから考える』」『参加と批評』,副田研究室,8:129-204
◇2013 「ブックガイド 副田義也『福祉社会学の挑戦』(岩波書店)」『出版ニュース』2013年5月上旬号
・20130422 「この一冊 『福祉社会学の挑戦――貧困・介護・癒しから考える』副田義也著」『週刊社会保障』67(2724):34
◇米澤 旦 201405 「書評 副田義也『福祉社会学の挑戦』――貧困・介護・癒しから考える」『福祉社会学研究』11:152−155

■目次

序 v
Ⅰ 貧困問題と福祉の機能 1
生活保護における逆福祉システムの形成 2-48
貧者の権利とスティグマ 49
Ⅱ ケアすることとは 79
ケアすることとは――介護労働論の基本的枠組 80
青い芝のケア思想 115
老人ホーム像の多様性と統一性 138
Ⅲ 死別体験と癒しの過程 175
自死遺児について・再考 176
震災体験の癒しの過程における「重要な他者」と「一般的他者」 207
Ⅳ 二〇世紀からの展望 239
日本文化の可能性 240
社会主義の不在と社会福祉の行方 266
二〇世紀素描――一九九八年三月・筑波大学・最終講義 286
あとがき 311


■初出等(本書「あとがき」より)

・「生活保護における逆福祉システムの形成」
→初出:20120331『参加と批評』副田研究室,6:1-42
・「貧者の権利とスティグマ」
→初出:居安正、副田義也、岩崎信彦編『21世紀への橋と扉――展開するジンメル社会学』世界思想社、2012年補筆。
・「ケアすることとは――介護労働論の基本的枠組」
→上野千鶴子ほか編『ケア その思想と実践2 ケアすること』岩波書店、2008年収録。
・「青い芝のケア思想」
→上野千鶴子ほか編『ケア その思想と実践1 ケアという思想』岩波書店、2008年収録。
・「老人ホーム像の多様性と統一性」
→『老人生活研究』第264号、265号、266号、1993年に収録。
・「自死遺児について・再考」
→『母子研究』第22号(終刊号)、2002年に収録。この論文は「自死遺族について」、副田義也編『死の社会学』岩波書店、2001年を受けての再考である。
・「震災体験の癒しの過程における「重要な他者」と「一般的他者」」樽川典子編『喪失と生存の社会学――大震災のライフ・ヒストリー』有信堂、2007年に収録。
・「日本文化の可能性」
→井上俊ほか編『岩波講座現代社会学23 日本文化の社会学』岩波書店、1996年に収録。
・「社会主義の不在と社会福祉の行方」
→鉄道弘済会『社会福祉研究』第52号、1991年に収録。
・「二〇世紀素描――一九九八年三月・筑波大学・最終講義」
→過去3回にわたって発表されてきた。1回目(1991年筑波大学院の講義での口頭発表)、2回目(1992年5月、四国学院大学の社会学開設部記念講演「支配の思想から共生の思想へ」)、3回目(1998年8月「二十世紀素描」とタイトルをあらため、筑波大学を定年退官するさいの最終講義として発表)。「発表の繰り返しは、主題の重要性を感じつつ、「おわりに」の部分の叙述が納得いかなかったことによる。」

■引用

「七二年論文にかんするもっとも痛切な反省は、福祉労働が管理労働の働きをもち、対象となる人びとに苦しみ、悩みを強制する事実を理論化できなかったことであった。「生活保護における逆福祉システムの形成」は、公的扶助労働における申請の拒否や支給の廃止が飢餓事件をうんだ事例の分析をつうじて、その理論化の課題を遂行した。…「貧者の権利とスティグマ」は、ゲオルク・ジンメルの貧者論を素材に、救貧制度から公的扶助制度をつうじて、制度的必然として、貧者の生存の権利とスティグマの付与とが成立することをあきらかにした。」[副田 2013:vi]

「生活保護行政を担当する福祉システムは、国家が責任をもって、困窮する国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障とする最後のセイフティ・ネットである。これは、これ自体として健常な社会システムである。ところが、このシステムがその内部から逆福祉システムを生み出す。それは援助を求める人び<0002<とを拒絶し、苦しめ、ときに死にいたらせることがある。そのとき、生活保護行政において、福祉システムは自らの内部から生じた逆福祉システムによって、その機能と責務を部分的に、あるいは全面的に否定される。これは自家中毒症に似ていないか。イメージづくりはここで終わる。以下、生活保護行政における逆福祉の作動と生成について、実証的・分析的に論じる。」[副田 2013:2-3]
「B、C両氏は無念の死をとげた。その死は、かれらの主観からは不本意に強制されたものであり、<0014<つまりは殺されたということである。それは、北九州市の生活保護行政を批判する世論が同意するところでもあろう。すでに見ていただいた事例分析は、かれらの死が、違法の生活保護行政によってもたらされことをあきらかにしている。…この行政は、ミクロ・レヴェルで具体的に観察すれば、福祉事務所とそこではたらく職員たちの社会的行為である。この論理の展開にしたがえば、それらの社会的行為は、福祉領域においてはたらく組織と人びとの犯罪、福祉犯罪である。」[副田 2013:15]

・生活保護問題対策全国会議の「告発状」(2007年8月24日付、福岡地方検察庁小倉支部)
「生活保護問題対策会議などがおこなったこの告発は、生活保護制度にかんする批判的研究において二つの新しい局面をひらくものである。
 第一。辞退届の提出の強要とそれにともなう生活保護の廃止は、これまで「生活保護法」への違反としてあつかわれてきたが、この告発によって、「刑法」に違反する「公務員職権濫用罪」および「保護責任者遺棄罪」(ばあいによっては「保護責任者遺棄致死罪」)にあたるという見方が示された。それは生活保護行政の責務を従来以上にきびしく問うものであった。検察サイドはこの見方を最終的にうけいれなかったが、それが提起した生活保護行政への批判的観点にはかなり同意していた。辞退届の提出の強要などにたいする批判の論議は、今後、刑法上の二つの罪を適用することによって、いっそう進化するであろう。
 第二。…すなわち、B氏が生活保護の申請を行なったのにたいして福祉事務所長は、「生活保護法」第四条二項をあやまって解釈して、その申請を受理せず、「日本国憲法」第二五条、「生活保護法」第一条で保障されているB氏の生存権を侵害した。その結果、B氏は餓死した。これは「公務員職権濫用罪」と「保護責任者遺棄致死罪」にあたるという見方を成立させる。検察サイドが起訴を相当とするかどうかは、つぎの問題であるが。水際作戦を批判するにも、刑法におけるさきの二つの罪の概念は有効であるとかんがえられる。
 以上二点における評価は、なぜ、これまでの生活保護にかんする批判的研究は、さきの二つの罪の概念の適応におもいいたらなかったのだろうかという疑問を誘発する。また、みずからの寡聞による<0021<誤りを恐れずにいえば、二〇〇七年のこの告発以来、その思想的意義に注目した、まとまった論考が出たのを、私は知らない。くわしく論じる準備は私にもないが、そのためのラフ・スケッチを述べておけば、従来の生活保護にかんする批判的研究は運動論的立場にかたより、獲得される成果に関心を集中させすぎて、行政官個人の責任や倫理をないがしろにしがちであったのではないか。社会学の社会的行為論でいう個人主義的方法の導入が強調される必要がある。」[副田 2013:21-22]

「一九八〇年、和歌山県御坊市で暴力団員が生活保護費を不正受給していた事実が新聞で報道されたのをきかっけに、マス・メディアの広い範囲で不正受給防止キャンペインが展開された。厚生省は、これによって国民が生活保護に反感と不信の念をもつことになるのを恐れ、生活保護の制度と予算を<0038<防衛する必要を認めて、一九八一年一一月一七日、「生活保護の適正実施の推進について」という厚生省社会局保護課長・監査指導課長通知」を出した。これは、「社保第一二三号」という番号がついていたので、「一二三号通知」と呼ばれることになった。」[副田 2013:38-39]

「この一二三号通知は、生活保護の開始と継続にあたって、収入調査・資産調査の徹底と不正受給の防止を目標としており、それ自体は正当性をもつ内容である。一部の研究者がスティグマの強化に抗議しているが[脚注43]、公的扶助は本来スティグマをともなう制度であるから、それは二義的な問題である。ただし、くわしくはいわないが、一九八〇年代初頭は、福祉見直しが政策化し、行政改革がはじまり、革新自治体、労働組合などの対抗勢力が衰退してゆく時代状況である[脚注44]。そこで出された123号通知は、その本来もつ意図をこえて、水<0040<際作戦の強化や辞退届の乱用を加速させたとおもわれる。」[副田 2013:40−41]

脚注43:大友信勝「生活保護制度改革に問われるもの」、大友ほか『生活保護「改革」の焦点は何か――誰もが安心して暮らせる日本のために』あけび書房、二〇〇四、一〇−一一ページ。
脚注44:多田英範『現代日本社会保障論 第二版』光生館、二〇〇七、第一章。

「福祉国家において、ひとは権利の主体、スティグマの客体として生きるほかない。
…人びとは排除されつつ包摂される矛盾した存在である。」[副田 2013:73]

・青い芝のケア思想

「…横塚は、健常者集団は青い芝の会の手足となりきるべきだと宣告する。私はこの宣告を心情的に理解するのだが、論理的にはこれに疑問がある。寡聞による誤りを恐れずにいえば、この疑問に触れた先行文献を私は知らない。そこで、以下にあえて記すことにする。青い芝の会の「行動綱領」の第一は、CP者が現代社会において「本来あってはならない存在」であると言明する。それはどのような意味で「本来あってはならない存在」であるのか。横田弘のコメント、かれは「働けない」から、自力で生活できないから、資本にとって余剰価値をもたらさないから。くどくどいう必要はあるまいが、ここでは、現代社会において人間存在が労働力に還元され、その人格や人権が無視されていることが批判されている。労働力還元主義が非人間的イデオロギーであると告発されている。この論法によれば、健常者に障害者の手足になりきれという要請においても、健常者は労働力に還元されている。青い芝の会は、労働力還元主義批判によってCP者を養護しつつ、労働力還元主義によってCP者を介助する健常者を位置づけている。約言すれば、横塚の前出の言い分は労働力還元主義批判にもとづく労働力還元主義の主張である。それは内部に論理の矛盾をふくむ。
 …横塚の前出のエッセイをよみながら、私は深くかんがえることなく、朱ペンで走り書きしていた。「人間は他者の手足になりきれるか!」、「かれの頭脳と心臓はどこにゆくか!」。」[副田 2013:133]
 
 「…私としては、横塚が健常者は「友人」であるという規定を、もう少し根気よくもちこたえるべきであったとおもうのだが。
 …私の言い分は横塚にたいして酷にすぎるであろうか。それをひとつのユートピア思想であるとみて、評価することはできないだろうか。横塚は、一九七七年九月に厚生大臣にあてた「障害者の自立についての青い芝の会の見解」という文章を発表している。そこでは、かれは、CP者にとっての介護者は、家族、施設職員、ヴォランティアではなく、「この社会を構成するすべての健全者」であるべきだと主張している[脚注20]。この主張を立岩真也は、「まず自らの存在を当然とすること、存在が社会全体によって直接的に支えられていることを当然とする」といいかえている[脚注21]。横塚のさきの言い分が現実の社会生活のなかでそのまま主張されたら、介護したくないという個人の自由意志を無視するのかという抗議が、かならず出てこよう。しかし、それをCP者の存在が「社会全体によって直接的に支えられる」という理念が表明されているのだとみるならば、それは説得力をもっている。社会全体がCP者の手足になりきるべきだ、そうして、健常者組織はその社会全体の代表者であるとみたらどうだろうか。しかし、ひとりの社会学者としていえば、二〇世紀はユートピア思想が実現して、社会主義の悪夢をみたのであった。われわれはユートピア思想を警戒することをも忘れるわけにはゆかない。」」[副田 2013:134]




作成:中村 亮太 UP: 20140911 REV:
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