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『ジャック・デリダ――動物性の政治と倫理』

Llored, Patrick 2013 Jacqes Derrida: Politique et éthique de l'animalité, Sils Maria
=20170225 西川雄二・桐谷慧訳,勁草書房,151p.

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last update:20221230

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■Llored, Patrick 2013 Jacqes Derrida: Politique et éthique de l'animalité, Sils Maria=20170225 西川雄二・桐谷慧訳,『ジャック・デリダ――動物性の政治と倫理』,勁草書房,151p. ISBN-10:4326154446 ISBN-13:978-4326154449 [amazon][kinokuniya] ※

■著者等紹介

内容(「BOOK」データベースより)
近代の主権概念は人間と動物の区別と不可分であり、政治は常に人間に固有なものとされてきた。西欧思想においては、人間と人間ではない生きものたちの政治関係の発明が避さられ、獣と主権者のアナロジーによって動物たちに日々ふるまわれる根底的な暴力が見えなくされてきたのだ。デリダが人生の最後に発明した「動物‐政治」概念から、「民主主義的な主権」の問いが開かれる。

著者について
パトリック・ロレッド(Patrick Llored)
リヨン第三大学講師。ティエリ・ゴンティエの指導の下で、博士論文「動物性のポリティックス――ジャック・デリダの哲学における主権、動物性、脱構築」で博士号取得。著書に、Jacques Derrida: Politique et ethique de l'animalite (Sils Maria, 2013)。La democratie animale. Liberte, egalite et animalite がVrin出版から近刊予定。

西山 雄二(にしやま ゆうじ)
首都大学東京准教授。著書に、『哲学への権利』(勁草書房、2011)など。編著に『カタストロフィと人文学』(勁草書房、2014)など。 翻訳に、デリダ 『哲学への権利』(全2巻、みすず書房、2014-2015)、『ジャック・デリダ講義録 獣と主権者』(全2巻、白水社、2014・2016)など。

桐谷 慧(きりたに けい)
東京大学大学院総合文化研究科/ストラスブール大学博士課程。論文に「ジャック・デリダにおける『今』の脱構築」(『年報 地域文化研究』第15号)、≪ La question de l'eschatologie chez Jacques Derrida ≫(UTCP Booklet 26)など。

■言及

◆立岩 真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2022/12/25- 『人命の特別を言わず/言う 補註』Kyoto Books

 第4章第1節2「慣れ親しんでしまった図式」(草稿)
 「本章のここまでを二〇〇九年に『唯の生』第1章に書いた。その後のことを私は何も知ら△200 なかったのだが、デリダは、動物と人間について、ずいぶんの関心をもち、 まじめに取り組んだそうで、関係する本もいくつか出ているようだ★03。だから、わからないと言ってばかりいないで、すこし考えた方がよいと思った。
 この人たちが話すこと、書くことは、いつものように難しい。ただ、この人の話を援用する人たちは、その難しい話を簡単な構図の話にする。そしてそれにも、たんに誤読とは言えないところがあるように思う。
 つまり、デリダであれば、人間=男が、動物を支配し、言葉を発して、自らを動物でない理性を有する男である人間として、この社会を構築したのだというのが基本的な構図だ。そこには、排除と支配、排除することにおいて成立するような支配があるとされる。周縁化と権力の生起・維持がつなげられる。「境界」を設定するその行ないを問うという営みはたんに知的な営みではないとされる。こうして単純化し通俗化してしまうと、おおむね四〇年とか五〇年とか、私たちに馴染みの図式だ。すると、結局、そういう思考法をどう考えるのかということにもなる。
 まず、そんな社会があって、その地域で、そんな具合に動物を扱ってきたというのは事実だとしよう。しかし、どこでもそうなるとは限らないし、実際限らなかったはずだ。すぐ後に見るように、肉食を否定し周縁に置くような社会もあり、そこからさらに変化していくその過程もある。だとすると、まず一つ、動物やその殺生の位置づけには複数があるというこ△201 とだ。こういう指摘自体は、一番自文化中心主義から脱していそうな話がじつはそうではない(かもしれない)という話であり、いささか嫌味ではある。ただたんなる嫌味として無視すればよいというものではないはずだ。
 むろんデリダたちもそれはわかっていて、より慎重であって、他の著作においてもおおねねそうであるように、自分は西欧社会のことを言っていると言うのだろう。すると、その限りで瑕疵はないということになる。しかし、こうして「地域限定」を認めると、そこにあったことに対する批判の論理をよその地域・文化にもってこれるのかということになる。普通には、それは無理なはずだ。別のことを言わねばならない。これは論理的な要請だ。
 そのような理路を通ってなのかそうでないのか、苦痛なら、洋の東西を問わず、人間/非人間を問わず存在するから、ということになるのか、苦痛がもってこられる。デリダのこの主題についての議論を解説する本を書いているパトリック・ロレッドもこの話をもってくる★04。結局ここに話をもっていくのか、そして、それは結局、さきに引いた対談でデリダが言っていることではないかと思う。しかし、苦痛における共通性については誰もがすぐに思うことだし、実際に様々な人たちも言っている。だから、難しいことを難しく書き続けたこの人からどうしても聞かねばならない話ではないと思う。そして苦痛をもってきた時に生ずる話は既にした。苦痛を与え合うことは、自然界において種々の生物・動物が毎日行なっていることだ(76頁)。その中で、すくなくとも事実上、人間だけが殺生を控えるべきだとし、そ△202 してそれをさらに、非西欧社会についても主張するのだとすると、それはなぜかと思うし、それはその人自身の長らくの言論の趣旨に合っているのかどうかと考えると、そうではないのではないかと思う。」()[200-203]

第4章★03 「『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(Derrida[2006=2014])。デリダが亡くなったのは2004年。その論を威勢よく紹介する本として『ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理』(Llored[2013=2017])。」
第4章★04 「「英語圏の文化やそこで発展している大学の知には二重の哲学伝統が疑う余地なく刻みこまれているのだが、この伝統によって、デリダの脱構築は動物の問いとの密接な関わりにおいて柔軟な仕方で熱心に受容された。〔二重の伝統とは、第一に〕ベンサムの功利主義であり、彼は動物の苦しみの問題をみずからの思考の中に書き込んだヨーロッパにおける最初の哲学者の一人である。そして、その現在の後継者としてピーター・シンガーがおり、…」(Llored[2013=2017:110-111])」


*頁作成:立岩 真也
UP: 20201230 REV:20221230
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