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『最後の人――詩人 高群逸枝』
石牟礼 道子
20121030 藤原書店,480p.
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last update: 20181025
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石牟礼 道子
20121030 『最後の人――詩人 高群逸枝』,藤原書店,480p. ISBN-10: 4894348772 ISBN-13: 978-4894348776 3,600円+税
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■内容
「『高群逸枝雑誌』連載と未発表の「森の家日記」、最新インタビューを収録!
世界に先駆け「女性史」の金字塔を打ち立てた高群逸枝と人類の到達した近代に警鐘を鳴らした世界文学(『苦海浄土』)を作った石牟礼道子をつなぐもの。」
[藤原書店]
プロフィール
◆高群逸枝(たかむれ・いつえ 1894-1964)
女性史学の樹立者・詩人。
熊本県下益城郡豊川村生まれ。熊本女学校修了後小学校の代用教員となる。その頃、橋本憲三と出会う。1918年旅先から送った「娘巡礼記」が『九州日日新聞』に連載される。長編詩『日月の上に』と『放浪者の詩』の出版で“天才詩人”の名声を得る。30年、女性アナキストを結集して「無産婦人芸術連盟」を結成、機関誌『婦人戦線』を創刊(〜31年6月)。31年7月から東京・世田谷の通称「森の家」にこもり、面会謝絶を掲げ一日10時間の勉学を終生つづける。夫の橋本憲三は全面的協力者となった。
代表作は『大日本女性史』第1巻の「母系制の研究」(38年)、『招婿婚の研究』(53年)。日本古代の母系制の遺存を論証、家父長制下の家族制度が、歴史の始めからの固定的制度ではないことを明らかにして女性解放論に学問的根拠を与えた。他に新女性主義を掲げる『恋愛創生』(26年)、通史『女性の歴史』全4巻(54-58年)、『大日本女性人名辞書』(36年)ほか著書多数。死後に橋本憲三編集『高群逸枝全集』全10巻(66-67年)が出版された。
◆石牟礼道子(いしむれ・みちこ 1927- )
1927年、熊本県天草郡に生れる。作家。
『苦海浄土――わが水俣病』は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出す。1973年マグサイサイ賞。1986年西日本文化賞。1993年『十六夜橋』で紫式部文学賞。2001年度朝日賞。『はにかみの国――石牟礼道子全詩集』で2002年度芸術選奨文部科学大臣賞。2002年7月、新作能「不知火」が東京で上演、2003年には熊本、2004年8月には水俣で奉納上演。池澤夏樹個人編集『世界文学全集』(河出書房新社)に、日本文学の中で唯一、『苦海浄土』(全3部)が収録される。
『石牟礼道子全集 不知火』(全17巻・別巻1)が2004年4月から藤原書店より刊行中。他に『石牟礼道子・詩文コレクション』(全7巻、2009〜10年、藤原書店)などがある。
■目次
◆最後の人――詩人 高群逸枝
第一章 森の家
第二章 残像
第三章 霊の恋
第四章 鏡としての死
◆〈補〉「最後の人」覚え書
森の家日記
「最後の人」覚え書――橋本憲三氏の死
朱をつける人――森の家と橋本憲三
『高群逸枝雑誌』終刊号「編集室メモ」より
高群逸枝との対話のために――まだ覚え書の「最後の人・ノート」から
◆〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの[聞き手:藤原良雄]
[附]『現代の記録』創刊宣言
[附]“隠れ”の思想と、壮大な自己復権
あとがき
高群逸枝・石牟礼道子関連年譜(1894-1980)
初出一覧
■引用
明治中期の日本の山野というものが、ことに春や秋の気配というものが、今日の都会のひとびとにはもうほとんど想像もつかないであろうほどに、いかに艶冶に息づいてひとびとの暮らしとまじわりえていたことか、ほんらい的な意味での生活者の絶唱ともいうべき書きものの見本のひとつがあるので、若いひとたちのために逸枝の感受性を育てた風土と対比してみる意味もあって少しひいてみることにいたします。|明治三十二年北関東は栃木県足利郡吾妻村の、渡良瀬川河畔に住んでいた漁師、庭田源八老人▽△が、足尾銅山から流出しつづける鉱毒被害のため、死に絶えてゆく自分たちの風土を眺めながら、田中正造翁に伴われて来た木下尚江に示した「紙きれ」の綴りものです。明治期に入ってから 文人たちの、詩歌の題材として切り取って来られる花鳥風月ではなくて、下層の、代表的生活者の魂に全的に生きていて、その生命の源泉であった風土とは左のようなものでした。(pp.191-192)
全生活をそこで生み養う風土であったからこそ、この生活者の魂によって、渡良瀬川河畔の生▽△きていたときのありさまは、ここでは切ないかぎりをもって生き返ったのでしょう。|一般しもじもの生活者は、ふだんはそれほどみずから高らかに、細部に亘っては風景などを語るものではないのです。なぜかといえば、文学者や詩歌人を名乗らない下層民たちは、この場合、多く、百姓、漁師たちですが、自己と自然とを不即不離の一体世界と成して生きていて、一体化することによって、表現の全きを得て自足しているからなのです。(pp.193-194)
逸枝は、あらゆる意味でわたしたちの時代の前の、まだ夢見てさえもいた時代の、いわば終りのときの揺籃として育てられたのでした。自然の心を受けもつ一員として、生かされていた頃の総意を体現しうる資質者として。ここらあたりはまたとくに、古代九州的山野がそっくりそのまま生きていた火の国の山系でもありました。二十代の半ばにはすでに全開してしまう彼女の、極限的官能に近いほどな詩人的稟性を育てるには、まったく選ばれし風土だったといえるのかもし▽△れません。(pp.195-196)
その幼時に披見した書籍を知るにつけてもおどろくのは、筆者自身の生い育ちとくらべてみた世界の違いです。時代は更に下って四十年後、ようやくデビュー時代に終止符を打って彼女が世田▽△谷の森の家で念願の学究生活にはいりはじめた頃、偏見を持たぬ直感で感じとっていながらそこではふれあうことのできなかった階層が、彼女出郷後の同じ不知火海のほとりの襞々で呻吟していました。(pp.203-204)
自分を閉ざして果て去る無名者たちの一生も、一生倦まずに努力して、自分を表現する意欲をうしなわなかった社会的知名人間も、その生命力にともなう光と影をあわせれば、ほぼ等価ではないでしょうか。その等しさを包み去る闇の深さもまた。わたしは自分の出自世界を経て、これまたまったく無名者たちの死にゆく世界である水俣病にかかわりながら、心ならずもひととき彼▽△女を離れる時季なども持ち、あらためて植物を含めた、土と海と川と山と天のあるわたしたちの生命系を思いました。個々の生命にとって世界はひとしく深いものであるからこそ、なお人間存在というものは限りなく互いを呼びあってやまないのだとおもうのです。(pp.205-206)
逸枝において、その学問も、詩も論文も、中心テーマは愛、とくに恋愛、そのモラルでした。もっと切実には、一日一日の生き方の中に、あるべき愛を求めていて、そのためにこそ彼女の芸術も学問も発露してやまず、愛しあうことが出来るかという一点にしぼられて、全世界は彼女のほう▽△へ向いていました。そのためにのみ、彼女はまれなる率直さをもってこの永遠のテーマとともにありました。彼女の著作のすべては、彼女独特の恋愛観に裏打ちされており、彼女自身の愛の遍歴は、全著作によってその姿を裏打ちされている、といえます。いやいや、彼女の出生、その存在自体こそが、なにものよりの深遠なテーマの本体なのでした。(pp.214-215)
彼女より、やや早く出生し、明治二十年代から三十年代には早くもくるしげな詩作活動をはじめていた前記の詩人たちがひきずっていた近代的自我や知性や、その内在的矛盾や自己亀裂やらを、もちろん逸枝とても要素のなかに持たない筈はないのですが、彼女自身はもうすこし、奥ゆきの深い感性を持っていました。けれども、出発したばかりの近代派知性の諸流には気づかれる筈もないままに、彼女は一種の野生的芳香を放ちながら自分を醸成させつつあったのです。(p.215)
彼女のいうところの愛、本来それは神のごとき原始性の発露である筈だったのに、これを現代日本の風土性、つまりこの男性的風土性の中に通じさせるためには、左のように彼女は云わねばなりませんでした。(p.216)
わたしがどれほど深い愛を彼女に捧げているか|そのためわたしはいま病気である▽|△わたしは彼女をみごもり|彼女はわたしをみごもり|つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ(pp.244-245)
世俗的なさまざまの意味で私の一生は、逸枝先生に御会いする(全集の前の『女性の歴史』)直前にすべて終りました。そして、逸枝先生との出遭いによって私はのっぴきならぬ後半生へと復活させられたといえましょう。|うつし世に私を生み落した母はおりましても、天来の孤児を自覚しております私には実体であり認識である母、母たち、妣たちに遭うことが絶対に必要でした。それは閉鎖され続けてきた私の中の女――母性――永遠、愛の系譜にたどりつくことですから。つまり普遍を自分の実体として人類につながりたいという止みがたい願望に他なりません。|つまり私は自分の精神の系譜の続母、その天性至高さの故に永遠の無垢へと完成されて進化の原理をみごもって復活する女性を逸枝先生の中に見きわめ、彼女の血脈が、全く無知である者、または未知の者といってもよく、裏返せば無限大である私ゆえに、私の血脈にも流れ及んでいることを感じ、そのなつかしさ、親しさ、慕わしさに明け暮れているのです。(p.248)
あなたと同じように彼女は貧乏人で、貧乏人の心を持っていて、つまり人類の大部分、人類の母の側に属して、あなたが水俣病をたとえば科学の方からで▽△なくて、社会科学の方からでなくて、人間そのものの魂の中からみて、知恵をひらいて資料集めをやり出したり、人の時間を搾取、いや搾取でない、つまりその事で相手に反対給付を、つまりよろこびをあたえて、そこから文献をひき出して水俣病をとりかこんで人間の原存在の意味を問う形で公害にとり組んでゆくように、全く彼女も、自分一人の知恵でその一番基本的資料をよくも探しあてて、あのような推理をやってのけていったのですから、招婿婚を探し出してきて、そして日本の史学に土管をあけたのですよ。大きな土管を。まだ誰も知らないが。全くあのひとは、あのひとの心は人類と共にいつもあって、僕はそれをおもうと……彼女は天才ですよ。(pp.282-283)
自然科学と人文科学、社会科学、すべての学問を統合総括するもうひとつ上の学問、たとえば人類学、とでも名づけうる学問が今後生まれねばならぬ。アカデミーの共同研究がそこまで行くであろうか。(p.288)
現世的なものたちとの決別がやってこようとしている。いつでも終ることのできる対話を私はくり返す。それがせめてものこの世の秩序に対する私の奉仕だった。私のながい間の、もうすっかり忘れかけてさえいる憂愁は、この世にある境界、塀のたぐいだった。なんと人々はその中にとらわれて生きていることだろう! 塀も、その中にいる人々でさえ、私には顔にかかるくもの巣のようなものだった。原始はもはやどこにもない。▽|△しかしまだ私には歩くことができるのだった。街を歩く。狭められた小さな畦道を歩く。ふいに汽車に遭う。私はこの汽笛がきらいではない。あの音は何かを断ち切る。船を見る。電車にひかれそうになる。しかしそんな事はわすれてしまう。歩くとき、塀も人々も境界もなくなってしまう。つまり私だけが原始そのものになって歩くのである。するとあの太古の精霊たちがかえってくるのだった。光や闇や靄や、樹々や、露や、横たわっている石たちが、遠ざかってゆく太陽と地面の下の深い地層の中からかえってくるのだ。私はどこにも腰かけないで歩いてゆく。(pp.299-300)
森の家は彼女がしつらえた幻の家であった。つまり擬制の共同体でもあった。擬制。このことに限っていえば、彼女はほとんど生涯――自分との諸関係を擬制の中にしつらえてしまった。ここに彼女の孤独はもっともきわまる。|ただ、彼女の同伴者「K」氏はうすうす彼女の孤独の本質を探りあてていた。森の家といえども家であるかぎり「家」「イヘ」、家父長婚の単細胞の形をまぬがれえない。この二人の共同生活は、あきらかに幻の共同体であり、晩年に至るにつけ、二人とも言葉に出して「われわれは今がいちばんしあわせですね」とたびたび確認しあっていた。(p.300)
食後、別巻のお話。|「[…]彼女はむずかしいなあ。うっかり書くと規定してしまう結果になってしまうのですよ。【傍点:あのこ】はほんとに天才でしたよ。[…]あれは原始人でもあり、未来人でもあり、▽△したがって現代人であるわけだが。[…]」(pp.301-302)
われわれは、いやすくなくとも私は、男性(男権)世界とはもう対語をもたない。|男をみただけで、たくさん、とおもい辟易、あるいは恐縮してしまう。男権支配の遺語をいかなる進歩的男性であろうともその発想の土台にひきずっている。彼らは心情のかけらを空発したあげく、倦怠という麻袋にくるんで、投げ出しているにちがいない。男の人たちの悲劇は自己の閉鎖性の中に世界がすっぽりとはいってしまうことだろう。(p.316)
彼女は神だ、とおっしゃる橋本憲三という人の生涯。(憲三氏を)いまだ書かれざる男性論としてみる場合、この人の懺悔層あるいは布教者、いや彼女への帰依ぶりは徹底している。逸枝の下僕【ルビ:しもべ】という言葉がいちばんぴったりする。(p.317)
「彼女は最後に新しい時代にむけてのユートピア小説(または詩劇)を書こうと思っていた。科学と人間が分化しない世界にむけて、その故に彼女流に科学を踏まえた文学を[…]書きたいものだと思っていた。|科学は(学問一般を含めて)人間に即していえば、二十世紀とは、その本来性、本然性を失っている。科学は今変態的発達をしているんだという認識をもっていました。[…]」(p.323)
玉名のあたりの山の紅葉の美しさ。三池あたりの海岸線の好もしさ。いつかこんな田舎の海岸線をひとりで歩いた気がする。たびたびこんな小さな美しい山や丘にわけ入ったことだった。それはわたしがまだ少女のころである。少女の魂に魅入った山川の霊はまだ私をはなれない。童話のような桑畑の丘。(p.328)
遠い故郷、熊本の益城平野や球磨盆地の空と、その森は辛うじて呼吸しあっている。武蔵野のこの一角は、彼女らにとって、安らぎの異郷だった。|彼女は晩年近くには、「望郷の詩人」だとその故郷から敬われていた。故郷への思いが、詩にも学問的著作の中にも深くにじみ出ていて[…](p.333)
故郷の深い内実や実存を抱え持っている詩人の姿勢をとることは、東京的文化、東京的思潮、そして東京を源とするジャーナリズムと必要な均衡を保ち、必要な距離をおく結果にもなっていた。二人はそれを「計画的排他的に外部と接しょくを絶った」としている。(p.334)
それまでの家庭生活にくらべてあまりに世界がちがうのに圧倒され、〔水俣の図書館、淇水文庫の〕特殊資料室の大書架に誘われてたたずむうちに、ふと夕光の射している一隅の、古びた、さして厚味のない本の背表紙を見たのである。|「女性の歴史・上巻・高群逸枝」|とある。われながら説明のつかぬ不可思議な経験というよりほかはないが、夏の黄昏のこの大書架の一隅の、背表紙の文字をひと目見ただけで、書物の内容については何の予備知識もないのに、その書物がそのとき光輪を帯びたように感じられた。つよい電流のようなものが身内をつらぬいたのを覚えている。(p.340)
木や岩や水や暗がりや、太陽が、ただちに神でありえた時代が遠く去ってしまった現代では、詩の力が、かつての神歌【ルビ:オモロ】のようにそれを代行せねばならぬと高群逸枝は思っていた。しかしながら、詩の霊力と照応すべき時代の稟性が、神の生きていた時代よりさらに衰弱している現代においては、彼女の寂寥は宿命でもあった。(p.381)
思えば森の家とは、高群逸枝とその夫憲三との住んでいた、最初のクニというか、祭祀所を意味していた。そこはまた、彼女の詩と学問を象徴する場所でもあった。象牙の塔の学問というものが仮にあるとすれば、それはわたしたちには縁がない。けれども、〈森の家の詩と学問〉というものがあることを、このふたりが示したことによって、詩と学問は、いつでも万人のためにひらかれていることをわたしたちは知る。(p.383)
いまだに完全に、『母系制の研究』『招婿婚の研究』を読み解くに至らないが、この二著は、このような彼女の、それ自体が使命を帯びた(彼女の自覚以前の)詩人の力、いってみればその霊能で読み解こうとした歴史への呼びかけ、つまり逸枝の求める意味での歴史の叡知への、全身全霊をもってした呼びかけの記述と思われる。(p.387)
身近な水俣を中心に考えてみても、不知火海海域の各地に、声をひそめて畏れ敬まうように「あのひとはまんまんさまぞ」とか、「悶え神さま」とか称ばれる人びとがいる。[…]▽|△悶え神とは、自身は無力無能であっても、ある事態や生きものたちの災禍に、全面的に感応してしまう資質者のことである。[…]ことに悲嘆のきわみの時に悶え神たちが来て、共に嘆き悲しみ加勢してくれた(饒舌の意味ではない)ことを、悲嘆の底に落ちたことのあるものは、生涯のよき慰めとする。その悶え神とは、ただじいっと涙をためて寄り添って来るまんまんさまであったり、背中を黙って撫でて去る老婆であったり、憂わしげに、片隅から見あげている、いたいけな幼女であったりする。そして、わが身も不幸を負っているものである場合もある。(pp.389-390)
現実には社会の脱落者、生活無能者とされるこの種の人びとを、目ざわりとして葬りはじめたのが、いわゆる近代市民社会であった。そしてこのような非情の時代になって来たとき、絶対弱者たちの意識の表現者、聖痕を負う者の悶えの表現者は詩人でなければならないと彼女は考えていた。(p.390)
前近代から超出している世界では、あの絶対無償の相互世界は失われ、悶えの共有によって、互いが世俗の中に聖化を遂げ合う構造も失われ、自分で超俗を目ざすしかない。けれどもそれは必ずひずみを産まずにはいないのである。なぜならば、ここで超絶者たらんとするものも、自分の外側だけでなく内側にも、近代を抱いてしまっているからである。ことにも彼女は超近代の極をも持っていた人であった。なにしろ「日月の上」の人である。自己分裂は深かったろう。(p.392)
ことあるごとに「世間の人々が眼をそば立てて不審がる」自分を、幼児の頃から発見せねばならぬ人間は、さらにふかく、「詩化・劇化」の世界を自分で創るものである。現世という巨大なフラスコの中にいる彼女を世間という業火[ごうか]が灼く。その火炎が強ければ強いほど現身の彼女はそのフラスコの中で、昇華を遂げ、つまり自ら詩化し劇化されていよいよ香りを放つしかけになってゆく。(p.403)
私事を書かせて頂けば、処女作『苦海浄土』のかなりの部分は、東京世田谷の朽ち果ててゆく森の家で、お励ましにうながされて書き進められた。当時そこしか、わたしの身を置く場所はなかった。逸枝の霊に導かれている気持であった。チッソ東京本社座りこみの心の諸準備も、森の家でなされた。はじめていうことである。|その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評者であった。いかに透徹し卓絶した批評家であられたことか。(p.414)
一九六三年冬、私は三十七歳でした。|ようやくひとつの象徴化を遂げ終えようとしていました。[…](pp.425-427)
●→Link
〔石牟礼:〕当時、私は、村の中の石牟礼家の嫁になっているんですが、お嫁にいってみたら、何かしら違和感がある。全部価値観が違う。あらためて村全体を見てみたら、よその嫁さんたちも、女性は不当なあつかいを受けていると思ったんです。(p.437)
〔石牟礼:〕そういうなかで雨の日などに淇水文庫に往きまして、『女性の歴史』という本を読みました。その時に、うそみたいですけれど、背筋がゾクゾクゾクして電流がその本から伝わって来たんですよ。背表紙に高群逸枝と書いてあった。電流が背中を行ったり来たりしまして。(p.439)
石牟礼
背表紙を見ただけで。その時、丸い光輪が本の上に射したんです。夕陽がもれて、そこに、たまたま当たったんだろうと思いますけれど。よくよく見たら『女性の歴史』と書いてあって、ハッとして読みふけりましたが、興奮しましてね。かねてから私が思っていることに全部答えてある。それですぐ高群逸枝さんに手紙を書きました。そしたら逸枝さんは一カ月ぐらいして亡くなられました。|秋になってから憲三先生が妹の静子さんと二人で、私の水俣の家に訪ねて来られました。[…]それで森の家を、「彼女の勉強した跡をぜひ見ておいてほしい」とおっしゃいました。[…]ものすごい出来事です。私はそういうこと、全然予想していなかった。(p.439)
石牟礼
〔現在、高群逸枝を〕いよいよますます尊敬しています。あの時代に、よくまあ、こういう鋭い、純粋さで押し切っていくようなことができたものだと。そして、彼女の感じているこの世への感受性の熱いこと。純度も高いけれども、世間にたいする、人間にたいする思いの深さは、私のお手本で、大切にしたいと思っています。そして男女のあり方が、羨ましいですね。羨ましいけれども、羨望というのと違う。男と女は斯くあらねばならないと思っています。最敬礼です、お二人にたいしては。|日本の古代にあったような、純粋な。(p.453)
高群逸枝の中にある原衝動に私はとどろくような血縁を感じた。|私の本能の中の影の部分であった抽象的な「母系」が、形として実在する母系として逸枝が生きたことに、私はなんとも混乱しながら慕わしい気持をつのらせてしまった。|現身の母はあれども、かくあるべき母の姿を逸枝の中にみたとき、その人は世に亡き人であり、私は彼女を、この世ならぬところで相逢う妣であるとしなければならなかった。(p.438)
高群逸枝の思想は、日本近代思想の終焉に当り、思想史的にみても、人類史がもちうる希望への予言にみちてゆるぎない。菩薩がいみじくも女性の疑似体であるように、さらには女性的なあらわれをそなえて▽△いるのと逆に、彼女の思想は彼女自身が女体である故に顕現するほかなかった菩薩行ではなかったか|もしやひょっとして、彼女は人間を超えたこの世ならぬ存在になろうとひそかに決意したのではなかったか。|彼女にみえている家父長制とは、老衰した性のような日本近代思想を常にもてあそびながら、その思想の根元と、あるべき未来をつなぐために彼女が選んだ方法は、痛苦にみちたナルシズムのみを自己媒体とせざるをえなかったのであろう。|彼女の中には人間復権への全面的な絶対的欲求があった。彼女は復権の完成をめざしていた。その意味でながい隠れの時期は(彼女が名のり出るまでの)自己完成の時期であった。彼女が人類、と発言する時、自分とへその緒のつながっている人類、または自分が産む人類、という認識はほぼ彼女の生理感覚となっていたとおもわれる。(pp.458-459)
むきつけな政治体制に対置するには、彼女の母性我はあまりにも純粋であるがゆえに、あえかなものにすぎ、(これを彼女は天上性とも称した)後半生の全面的隠遁生活をもって更にそれは、母性我の美学ともいうべき性の原始性の、恢復を自己の性でもって探り出すべく、どじこもってしまうのである。|その意味で彼女は世紀的な詩人であると言いたい。|逸枝における「言葉」のならびない権威。(p.460)
私の育った水俣川の河口地帯では、女が農事にたずさわらないということには、周囲の目が冷ややかだった。|そういう環境に育って、家事の過酷さや農作業から解放されたいとねがいながら、引けめも持っていて、矛盾も極まっていた時期に、高群逸枝さんの『女性の歴史』と出会った。
■書評・紹介
◆藤原書店 > 書評・紹介 > 最後の人 詩人 高群逸枝
【検索結果】
◇小池昌代 20121202 「最後の人 詩人 高群逸枝 石牟礼道子著 対象に飛び込み混ざりあう魂」『日本経済新聞』朝刊
https://www.nikkei.com/article/DGXDZO49063790R01C12A2MZB001/
■言及
◆立命館大学産業社会学部2018年度後期科目《質的調査論(SB)》
「石牟礼道子と社会調査」
(担当:村上潔)
*作成:
村上 潔
UP: 20181010 REV: 20181023, 25
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石牟礼道子
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産・生
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家族 family
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