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『加害者と被害者の"トラウマ"――PTSD理論は正しいか』

笠原 敏雄 20110910 国書刊行会,310p.

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last update: 20140612

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笠原 敏雄 20110910 『加害者と被害者の"トラウマ"――PTSD理論は正しいか』,国書刊行会,310p. ISBN-10:4336054215 ISBN-13: 978-4336054210 3800+ [amazon][kinokuniya] ※ t06. m.

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内容紹介
人間はPTSD(外傷後ストレス障害)理論が考えるよりも強靱であり、強いストレス状況でこそ、人格は向上する。ストレス理論を基板としたPTSD理論を、豊富な資料を用いて検討。政治的背景の中で成立したPTSD理論は一体何を避けているのか?
内容(「BOOK」データベースより)
ストレス理論を基盤としているPTSD理論を徹底検証。政治色に彩られ、理論的にも破綻しているPTSD理論は、何を避けようとしているのか?豊富な資料と著者長年の臨床経験に裏打ちされたPTSD理論批判。

■目次

はじめに

第1章 PTSD理論の根本的問題点
第2章 PTSD理論の内部構造
第3章 PTSD理論の政治学
第4章 PTSD理論の心理学 1――心身の反応が起こる原因
第5章 PTSD理論の心理学 2――加害行為と"PTSD"
第6章 PTSD理論が忌避するもの
第7章 ストレスに対する対応――被爆者を中心として

■引用

 わが国独自の心理的とり組み
 今から50年ほど前(1958年頃)に群馬大学精神科で,「分裂病再発予防5箇年計画」と名づけられたプロジェクトが,助教授の江熊要一を中心にして発足しました。これは,分裂病のモデルとして,動物の覚醒剤中毒に関する神経科学的研究を続けてきた臺弘が,教授として着任した翌年に当たります。この計画が,1962年に「生活臨床」という分裂病の長期的治療指針に基づく,有名なとり組みへと発展するのです(中沢,1975年b, 436ぺージ)。これは,在宅の分裂病患者に対するわが国独自の,一貫性を持った心理的対応法でした。「理論的な統一よりも実用的な指針」を優先させたこの生活指導法は,「患者が生活上のできごとに反応しておこす生活破綻」(江熊,1974年)を重視したユニークな方法です。その中で,分裂病の患者は,「色,金,名誉,身体」(異性との接触や交際,金銭的な損得,名誉心の傷つき,身体的な不調や傷害)という4方面でつまずいた時に再発を起こしやすいことがわかってきたのでした(臺, 1978年, 1, 5ぺージ)。なお,これらの対象患者の長期成績については,それから30年ほどが経過した時点で,いくつかの報告(たとえば,小川ら,1994年;湯浅,1989年)が出ています。<0197<
 わが国でこのように斬新なとり組みが,しかも中央ではなく地方方の大学で始められたことは,驚きであるとともにおおいに評価すべきことでもあります。とはいえ,この方法には,患者に生活規制を強いた(つまり,先の4方面へのかかわりを可能な限り避けさせた)結果として,現実に再発を回避さセることができたのかどうかがわからないという,深刻な欠陥がありました。科学的な立場から見ると,実証性が全くないのです。
 その一方で,心理学者を含むアメリカの精神分析家が中心となって(Kelman, 1963, p67),戦争神経症の治療施設から,器質精神医学の伝統を脱ぎ捨て,力動精神医学のメヅカへと大変貌を遂げていた国立国府台病院(荒川,1997年,156ぺージ)で,わが国初の分裂病の家族研究(小坂,1960年)を行なって学位を取得した後,地方の保健所を拠点にして,保健師たちとともに目覚しい活動を続けていたことで高く評価されていた精神科医の小坂英世(小坂,1963年; 66年a,d ; 68年)は,少々遅れてではありましたが,文字通り徒手空拳のとり組みの中から,社会生活指導と呼ぶ,生活臨床にのた方法論を独自に編み出していました(小坂, 1970年b ; 1971年a)。
 小坂は,登場してまもない抗精神病薬に過剰な期待を寄せる精神科医の,「"薬物によってなおしうる・冉発を防止しうる"という安直な治療に関する<0198<オプティミズ厶」や,外来治療よりも入院治療を優先させたがる「入院治療主義」を痛烈に批判しつつ(小坂,1970年a, 416ぺージ),実にエネルギッシュな活動を展開していたのです。小坂が入院治療に反対するようになったのは,当時まだ残存していた座敷牢に監禁された分裂病患者たちが,精神科病院に収容されている患者たちと同質のホスピタリズム("病院ぼけ")を示すことを,繰り返し観察したためでした(小坂,1972年a,6-7ぺージ)。このように小坂の場合も,リフトンと同じく政治的動機に突き動かされていたのですが,後ほど見るように,その展開のしかたは全く違っています。リフトンと違って小坂は,終姶きわめて科学的な方法を使っているのです。
 社会生活指導とは,精神科病院という非社会的状況の中で分裂病の患者に対して行なわれてきた院内「生活指導」に反発して,社会生活をする中で行なう生活指導という意味が込められた言葉です。同様の姿勢で治療に当たっていた小坂と生活臨床グループは,しばらくの間,互いに影響を与え合いながら交流を続けます。ところが,1970年頃小坂は,ある発見を機に生活臨床グループと袂t分かつのです。
 この時のいきさつに関連して,半ば冗談なのかもしれませんが, 74年頃に,小坂から,私は次のような逸話を聞いたことがあります。息子の分裂病が再発するたびに,真夜中に自転車で町中を走り回る女性がいたのだそうです。生活臨床グループの中心にいた江熊要一は,その女性の行動を「理解できる」と言ったのだそうですが,それに対して小坂は,「私には理解できない」と反論したというのです。ここまで見解が違っているのがはっきりしたことが,両者が決別するひとつのきっかけになったということでした。
 生活臨床グループの側は,このあたりの事情について,次のように論評しています。「生活臨床の考え方に強く影響された小坂さんは,これを分裂病の発病原因とみなすようになり,いわゆる分裂病家族因説にいちずにのめり込んでしまった」(臺,1978年,6ぺージ)。しかし,小坂のほうがまちがった道に入り込んで行ったとするこの主張は,事実を完全に曲解しています。小坂が独自に発見した方法こそが,原因らしきものを推定し,それにもっともらしい解釈を加えるだけで終わっていた,それまでの不毛な伝統的方法論から,それを科学的に確認できる革命的な方法論へと大きく飛躍したもの<0179<だったからです。
 正統精神医学の枠内では,ここから先で両者の評価が完全に分かれます。生活臨床は,一部の専門家から批判されている(たとえば,浜田,2010年)とはいえ,今でも公の場でとりあげられ,それなりに評価されているのに対して,小坂自身や小坂が考案した治療法は,それ以降,その存在をほぼ完全に抹殺されて現在に至っているのです。ちなみに,私が著書や論文として発表したものを別にすると,小坂の方法論が肯定的な形で最後にとりあげられたのは,学会での口頭発表(栗本,1980年)とごく最近の論考(林,2010年)を除けば, 1975年に,ある医学出版社から刊行された『精神科症例集 上』(岩崎学術出版)の中でした(岡田,1975年;浜田,1975年)。
 また, 1975年から82年までの間に,当時のわが国精神医学界の威信をかけ,その総力を結集して刊行された「現代精神医学大系」(中山書店刊,全25巻,56分冊)には,「小坂英世」という名前が,事実上4回出てきますが,肝心の小坂の創案になる心理療法(小坂療法)には,奇妙なことにひとこともふれられていないのです。
 それに対して, lO年ほど前に刊行された,川上武編『戦後日本病人史』(2002年,農山漁村文化協会)には,珍しく小坂理論という名称が出てきます。ところがそこでは, 1970年までの小坂の活動の概略を7行ほどにまと<0200<めて記した後,「翌七一年に,小坂はとつぜん診療を打ち切り,地域活動からも撤退してしまう」と述べられているだけなのです。続いて,「小坂の異常な高揚と挫折のありさま」(川上,2002年,415べージ)については,当時の小坂の同僚(浜田晋)が後に出版した著書(『私の精神分裂病論』医学書院)に描き出されているとして片づけられたうえ,治療法とは無関係の,否定的な人物評価が下されているのです。1971年以降の小坂の活動は,「新興宗教のカリスマ的なもの」(浜田・川上,2001年)にすぎないというわけです。
 ところで,生活臨床グループの活動の最盛期に当たる66年に,東大に移った臺の後任として赴任した教授も,脳の病理学的研究を行なってきた経歴の持ち主でした。したがって群馬大学の精神科は,政治的には一枚岩ではなかったそうですが,分裂病を生物学的原因を持つ疾患と見なす(臺,1978年,6べージ),ドイツ精神医学の系譜を引く伝統的立場に立っていたようです。そうすると,生活臨床という実践理念も,そうした分裂病脳疾患説のうえに成立したものであって,分裂病の心因論とは無縁の立場からの着想と考えなければなりません。生活臨床グループが掲げていた「理論的な統一よりも実用的な指針」という言葉の意味は,そこにあったということなのでしょう。
 次に,生活臨床グループを離れた小坂が,独自の道を行くようになるまでの経過をもう少し詳しく眺めてみましょう。精神疾患の心理的原因の本質がどのようなものかをはっきりと知るためです。

 社会生活指導から小坂療法へ

 小坂英世がその独自の原因論を構築するきっかけとなった最初のヒントは,社会生活指導の中で,「色,金,名誉,身体」という"弱点"を分裂病の患者たちに回避させようとする試みの中から浮かび上がったものでした。1969年,再発して急性症状(幻覚・妄想や興奮)を示している分裂病の患者に,その原因に関係すると思われる,ある具体的解決策を与えたところ,それまで出<0201<ていた症状を消失させることに,初めて成功したのです(岡田・小坂191970年, 178-180ぺージ)。それを嚆矢として,その後,分裂病症状の消去に続々と成功するようになったのでした(小坂,1972年a, 12-13ぺージ)。そのおかげで患者に生活規制を強いる必要がなくなったわけですが,人権という側面から考えても,この進展はきわめて意義深いものでした。そしてく,こうした作業を操作的に行なうことで,単なる主観的推定ではなく,原因を客観的に確定できる方向へと大きく一歩を踏み出すことになったのです。ただし,この方法が使えるのは,具体的解決が可能な場合に限られます。次に紹介するのは,その頃に小坂が遭遇した,分裂病症状の出現および消失の経過を明瞭に示す実例です。やはり拙著に引用したことのある事例ですが,わかりやすい例なので,あらためて紹介することにします。
 ある時自宅静養中の男性(J)が,高額商品の代金を父親に渡して銀行から送金してもらったところ,その領収証に収入印紙が貼られていないことに気づきます。そこで,銀行に抗議に行こうとしましたが,それまでのよに短絡的行動を起こして失敗するのを恐れて,そのことを小坂に電話で相したのです。ここに,わずかながら本人の進歩がありました。本人から事情を聞いた小坂は,銀行に電話を入れて,担当者を本人のもとへ謝罪・訂正に来させるよう手配したのですが,行員はなかなか来ませんでした。

 いら立った彼は,しだいに興奮状態に発展していった。大声で,数おきに私に電話してきた。しまいには嗄声になってしまった。はじ,のうちは,銀行側の来宅が遅い,待っているといらいらするなどとしていたのが,しだいに支離滅裂な,苦悶状の内容になってきた。ついには苦しいので入院させてくれと喚くようになった。在宅していた両親もオロオロしてしまい,今までにない興奮で,あたりちらし,手のつけうがない,入院させてくれといってきた。私は電話で,あるときは本人をなだめ,あるときは本人を叱りつけるいっ.ぽう,患者の手もとにあるクスリを追加服用させるようにした。そしてJと両親に,行員が謝罪・訂正にきさえすればおさまるはずだから,それまで辛棒して待つよう指示した。<0202<
 やっと行員が到着し,謝罪と訂正が行なわれた。まるで引き潮のように,Jの興奮はしずまっていった。(小坂,1970年b, 37-38ぺぺージ)

 ここには,短時間のうちに症状が再燃して,それまでになかったほど悪化したにもかかわらず,その再燃に関係する問題が解消した瞬間に,その症状が消失するまでの経過が,鮮やかに描き出されています。もちろん,この鎮静は,一時的なもので終わったわけではありません。この時の興奮ないし再発は,小坂が自信を持って予測していた通り,銀行員の事務的処理と謝罪によって完全に解消したのです。薬にしても,大量に投与されたわけではありませんでした。小坂は,このような実例から突き止められた方法を使うことによって,再発後に症状のコントロールができるようになったのです。この時点では,本当の意味で心理療法と呼べるような段階にはまだ到達していませんでしたが,次の段階はまもなく訪れます。

 心理療法としての小坂療法
 具体的解決策をとる方法と相前後して,小坂は,再発した患者が,まさにその直前に起こっていた,その原因に関係する出釆事の記億を消しているという事実に注目するようになっていました。1970年,ある再発患者に,再発の原因に関係しているらしき出来事を指摘して,その記憶を蘇らせたところ,それまであった症状が一瞬のうちに消えることが確認されました。そして,急速に,薬を服用する必要のない状態になったのです(小坂, 1972年a,4べージ)。次に紹介するのは,小坂がその頃に遭遇した事例です。
 ある大学の男子学生(E)は,夏休みにスイミング・クラブに通って水泳を習うことにしました。しかし,体面にこだわるEは,女性と一緒に練習するのを嫌い,男性だけの教室を選んで入会したのです。初日の練習から帰宅すると,それまで寛解状態(分裂病の症状がほぼ完全に消えた状態)にあった、Eに,妄想や独語(異常な独り言)や不眠が出現していました。明らかな再発です。しかし,その症状は,小坂とのやりとりにより一旦消失し,Eは,また水泳教室に通うようになりました。ところが,数日後, Eの症状が再び悪化したのです。同じような症状が出て,水泳教室に行かなくなり,部屋に<0203<引きこもってしまったのでした。小坂は,症状が出現したあたりの状況をEに間い質し,その原因を探ろうとします。

 最初は何も出てこなかった。私は念入りにこの数日間の日常を思い出させようとした。しかし,症状に気をとられていた彼の記憶はきめて曖昧であった。私は受話器をとりあげて,母親を呼び出し,一つ一つ確認していった。しかし原因に該当しそうなものは,何一つとして出てこなかった。受話器をおいて三分ほどしたときに,母親から電話話が入った。これはプールにいき出したばかりのときのことなので無関係と思うがと前おきして,プールで中学時代の友人Xに出あったという報告をうけたことがあるという。私は彼にむかっていった。
 「今君のお母さんから電話があってね,君がプールでXという友人に出あったことが影響しているかといってきたのだけど……」
 「アッ,それだ」
 彼はいった。と同時に緊張しきっていた彼の表情はゆるみ,1〜2秒おきに神経質にロもとにいっていた手の動きがとまった。
 聞いてみると友人のXは,大へん水泳上手の水泳自慢だそうであり連日のようにそのプールに来ているのだそうである。彼はそこでEを発見すると呼びかけ,以後Eが練習しているわきで,公衆の面前もかまわずに,大声で叱咤し,注意し,笑うとのことである。Eにとっては,大へん自尊心を傷つけられることなのであった。そしてある日極端にハッパをかけられたので,次回にいく気がしなくなったのであった。彼には毎回顔をあわせているものだから,母親には別に報告しなかったとのことである。
 後は一瀉千里であった。彼は足どりも軽く帰っていき,プールにおもむいた。(小坂, 1970年b, 26-27べージ)

 信じがたいことでしょうが,分裂病の症状は,この程度のことで"憑きもの"が落ちるかのように,一瞬のうちに消えてしまうことが少なくないのです。しかし,的が外れた指摘をしただけでは,何の変化も起こりません。本<0204<例は,まだ"抑圧"に完全に焦点が絞られるようになる前の段階だったため,小坂は,どの部分の記憶が最も深く消えていたのかについても,水泳教室の初日に起こった再発と原因が共通しているのかどうかについても,なぜこの時に症状が再燃したのかについてもほとんど追究していませんが,プールで友人Xと顔を合わせていた記憶が消えていたのは確かなようです。このあたりの何かが("気合を入れられた"ことを含めて)症状の原因に関係していたことは,Xの存在を指摘された瞬間に,一連の出来事を多少なりとも思い出L,心理的操作によっては消えないはずの症状が消えたことでわかります。
 とはいえ,この場合,自尊心を傷つけられたことが原因のようにされていますが,この部分は患者Eや小坂の解釈なのであって,本当にそれが原因の核心かどうかは,実はわからないのです。このような解釈を加える余地の残ることが,その後の小坂の原因論が次々と変わってゆく主因なのでした。
 それはともかく,この手続きは,神経症について精神分析で主張されている抑圧解除と全く同じだと考えた小坂は,既に精神分析学派とは決別していた(小坂1970年b, 70べージ)ものの,やむなくフロイトに敬意を表して,この手順を,抑圧解除という精神分析用語で呼びました。そして,この時点で,生活臨床グループと袂を分かったのです。この頃から,想像を絶する小坂の苦難が姶まります。
 この段階になると,心理的原因の意味がはっきりしてきます。分裂病の患者は,その症状の原因を"抑圧"しているため,それと引き換えるよつにして急性症状(幻覚・妄想や興奮や府民)が出ています。したがって,上の事例のようにその記憶を意識に引き出せば,それまで出ていた症状が,その瞬間に消えるわけです。これは,自分の目で見たことのない人には,絶対にと<0205<言ってよいほど信じられない現象でしょう。"自我を崩壊"させるほどの原因で起こったはずの,本物の"内因性"精神病の幻覚・妄想や興奮が,その程度のことで治まるはずはないではないか,というわけです。しかし,まさに「百聞は一見にしかず」で,実際に目の前で見れば認めざるをえなくなります。

 革命的な方法論
 現に,小坂の言う通りの現象が起こることについては,当初は小坂の理解者であり,後に小坂理論を強く批判するようになった精神科医の故・浜田晋も,その講演の中で,「確かにその霊験あらたかな症例があったことも事実で,私達の眼前で『よくなってしまう症例』を見せられたものです」と,皮肉を交えながらも率直に認めています(浜田, 1986年, 256べージ)。この友現から判断すると,浜田は,小坂の方法によって症状が消える場面を,同僚たちとともに,一度ならず何度も目撃しているらしいことがわかります。その頃の浜田は,実際に同じ患者を小坂と共同で診察していた(浜田,1975年)ことに加えて,その中で,小坂の方法を利用して,症状の消失に独力で成功したこともありました(たとえば小坂,1972年a, 190-203ぺージ)。それどころか浜田は,小坂とは独自にその方法を使って得られた,その成功例らしきものも,何例か持っているようなのです(たとえぱ浜田,2001年,150-151, 202ぺージ)。
 これが本当なら,未だに治癒不能と考えられている"内因性"の精神病が,症状出現の直前にあった出来事を思い出させるという簡単な手続きによって,操作的に治療できることになります。しかも, "慢性化"した患者であっても,薬を必要としない状態にまで好転するというのです(その驚くべき実例のひとつは,小坂の論考〔1971年b〕に詳しく紹介されています)。しかし,世の常識からすれば,そのようなことがあるはずはないでしょう。
 実際に急性や慢性の症状を示している患者に,心理的原因を指摘して,原因に関係する出来事を思い起こさせることができさえすれば,その瞬問に症状が消えてしまうという,小坂の主張が正しいとすると,どういうことになるのかを,ここで,あらためて整理しておきます。まず,そうした手続きを通じて,心理的原因というものが明確かつ客観的に特定できることになりま<0206<す。また,もしそうなら,分裂病は可逆的な心因性疾患であって,脳内の異常や遺伝子の異常に基づく非可逆的なものではないことになりますし,それが操作的に治療できることにもなります。したがって,もしそれが本当なら,精神医学が始まって以来の,まさに革命的な方法と言えるはずです。

 坂理論とトラウマ理論の相似性
 それまでもそうでしたが,その後も小坂の治療理論は,短期間のうちに大きく変わってゆきます。次の段階では,再発の真の原因は出来事自体ではなく,患者がその打撃を受けた時に,その気持を思いやることができない両親の"冷たい仕打ち"にあるとされました(小坂,1972年a, 18べージ)。
 ついでながらふれておくと,家族の持つ問題が発症の引き金になるという脈絡で,正統精神医学の枠内でも容認されている研究領域としては,「(家族の)強い感情表出high expressed emotion」と呼ばれるものがあります。家族のから強烈な陰性感情をぶつけられる状況が,精神分裂病を含む精神疾患の初発や冉完に関係するストレスになるというのです。そして,例によってここで,患者側の"ストレス脆弱性"が問題にされるわけです。これについては,欧米ではいくつかの書籍(たとえば,レフら, 1991年)や総説論文(たとえばHooley,2007)が出ていますし,わが国でも迫試研究が行なわれています。しかしながら,この分野の研究は,発病状況を,主として家族による影響という側面から統計的に調べようとしているだけであり,根本は,ある意味で生活臨床と同じで,心理的影響を問題にしながらも,心理的原因を突き止めようとしているわけではありません。
 話を戻すと,親の「冷たい仕打ち」として,今から40年も前に小坂が列挙したものは,当然というべきか,昨今の児童虐待の専門家が掲げる心理的虐待の内容とほとんど同じです。次の通りです。<0208<
・子どもとの約束を守らない
・何でも親が決める
・子どもの胸のうちを汲み取らない
・子どもがいやがることを無理にさせる
・子どもに親の見解を押しっける
・子どもをぺット扱いする
・子どもに言いたいことを言わせない
・子どもに言われても聞き流す
・子どもに対して納得のいく説明をしない
・子どもに謝るべきことがあっても謝らない,言い訳・弁解にに終始する
・実の子どもを「もらいつ子,拾いっ子」と言って叱る材料にする
・子どもに芸をやらせたり,からかったりして慰みものにする
・生まれた子犬や子猫の処分を子どもにさせる
・親が再婚であることや異父・異母がいることや養子に出した同胞がいることを子どもに話さない
・愛人との密会に子どもをだしにしてつれてゆく
・手術・性行為・家畜の屠殺などの衝撃的場面を平気で子どもに見せる
・子どもがだいじにしているものを勝手に捨てる
・子どもの服装を親が勝手に決める
              (小坂,1972年a, 35-37ぺージ)

 そのため,その頃の小坂は,患者への両親の謝罪を治療の根幹と位置づけ,それを両親に強く迫るという方法をとっていました。それとともに,幼少期の"抑圧体験"の心理的解決も重視するようになったのです。幼少期の"掴圧"体験が,初発の準備段階として重要な役割を演じていると考えたからでした。この頃の考えかたは、独自の心理的原因論の核心である抑圧解除という方法を別にすれば,ジュディス・ハーマンのような臨床家の唱えるトラウ<0208<マ理論とよく似ています。患者に対する謝罪を両親に強く迫っていたことも,一部の人たちが使っている方法と共通しています。
 当然と言うべきか,その段階の小坂療法には,両親に対する子ども(患者)の逆うらみという概念がありませんでした。そして,患者側の言い分をほとんどそのまま受け入れ,徹底的に患者の味方をしていたのです。加えて,患者たちが,逆うらみから親元を離れたがるのを,自ら保証人になって,自宅の近くに転居させることまでして援助していたのでした。これは,ある意昧で政治的な活動と言えるかもしれません。要するに,親に虐待されて分裂病を発病した不憫な子どもたちなので,手を差し伸べてあげなければならない,という認識だったのです。
 この段階までの小坂理論を,ここで整理しておきます。両親による幼少期の虐待が"抑圧体験"を生み,それが無意識の中で積み重なった結果,小坂が皮肉を込めて"分裂病患者のもちあじ"と呼んだ性格や行動の偏りが起こります(小坂,1974年)。そして,思春期以降に,世間から社会的自立を求められる段階で,さまざまな出来事に遭遇し,その対応を迫られると,特有の"もちあじ"のため対処を誤り,その傷つきから新たな抑圧を起こす結果,分裂病症状が出現するというのです。
 さらには,その"もちあじ"自体も親の接しかたがゆがんでいたために形成されたと考えるわけですから,PTSD理論からしても全く違和感のないまさに分裂病のトラウマ理論です。ただし,重ねて強調しておけば,症状出現の直前に,その心理的原因があるという考えかたは,現今のトラウマ理論とは(もちろん,他のあらゆる心理療法理論とも)根本から違っています。そして,この点こそが,トラウマ理論を含む心理療法理論一般の生成の謎を解く,きわめて重要な鍵になるのです。
 小坂が考えていた分裂病患者の"もちあじ"とは,おおよそ次のようなものです。

・自己の責任で決定しないこと
・ある人々(身体の悪い人、貧乏な人、学歴や資格のない人、ある種の職業の人、独身者等)に対して強烈な差別感を持っていること<0209<
・親子間に両面的な共生関係があること
・他人の気持・立場を的確に理解しないこと・万事につけて対処することが拙劣なこと
・抑圧を起こしやすい傾向を持っていること
・疾病への逃避を起こしやすい傾向を持っていること
           (小坂, 1972年b, 15ぺージ)
[…]」(笠原[2011:197-210])
 トラウマ理諭から脱却した小坂理論
"抑圧解除"法による治療と患者への対応困難化
"抑圧解除"法による治療が不問に付される
 専門家たちの奇妙な反応
楕神科医たちによる人格攻撃
専門家の非専門家的抵抗
 非専門家的抵抗の起源を探る
抵抗が起こった時点を突き止める
"抑圧解除"によって症状が瞬時に消えることに対する抵抗の理由
患者自身の責任という側面に対する抵抗
人間観の変更を迫られることに対する抵抗
 PTSD理論と人間の主体性

■言及

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.


*作成:八木 慎一
UP: 20111107 REV: 20140612
笠原 敏雄  ◇トラウマ/PTSD  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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