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『ガブリエル・タルド――贈与とアソシアシオンの体制へ』

中倉 智徳 20110331 洛北出版,448p.
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中倉 智徳 20110331 『ガブリエル・タルド――贈与とアソシアシオンの体制へ』,洛北出版,448p. ISBN-10: 4903127133 ISBN-13: 978-4903127132 \3200 [amazon][kinokuniya]

*本書は、2010年度立命館大学大学院先端総合学術研究科出版助成制度を受けて刊行された書籍である。

洛北出版HP[外部リンク]より、ご注文いただけます。
著者もご注文を受け付けています。trakukanaあっとgmail.comまでご連絡下さい。

■内容

オビより
「社交性の花を咲かせよ」

「慎ましやかな欲求の循環のなかで暮らすことは、もはや、望めないのか?」

「労働の喜びとは何か? それは、共にあり、共に作業すること、社交性が花を咲かせることである。そのためには、余暇の増大と、無数のアソシアシオンの群生が不可欠なのである――タルドの<欲望と信念に基づく富の理論・統治術を丁寧に読み解く。」

■目次

 序章
  本書の目的
  研究の背景
  本書の概要

 第一章 夢見る個人と社会の法則
  信念と欲望――社会的な量を求めて
  夢見る個人と模倣の法則
  対立と共感の社会論理学
  反復、対立、適応からなる社会進化論
 第二章 政治経済学を裏返す――精神間の心理学に基づく富の理論
  章序
  政治経済学を心理学化する
  間‐心理学と価値の一般理論
  経済の反復・対立・適応
 第三章 信念と欲望の経済的役割
  経済心理学における欲望の役割
  経済心理学における信念の役割
  欲求の循環
 第四章 労働と余暇の循環
  労働とは何か
  労働の苦痛
  「生きた労働」と労働の循環
  余暇の配分の実現に向けて
 第五章 貨幣と資本の循環
  貨幣とは何か
  潜勢性としての土地と貨幣
  発明資本と物質資本
  貨幣資本の循環
 第六章 心理的対立と価格
  費用価値と実践的三段論法の対立
  需給法則批判
  タルドの価格理論
  公正価格論
 第七章 闘争、競争、律動
  生産者同士の闘争、消費者との闘争
  競争と独占
  国際的自由交易と保護主義
  発明と模倣の病としての経済危機
  危機と繁栄の律動
 第八章 発明と所有――経済的な適応
  価値と適応
  発明と経済
  適応としての所有
  地代と所有
  所有の変化
 第九章 交換の体制からアソシアシオンの体制へ
  交換と分業の体制
  アソシアシオンの体制
  帝国と連邦
 終章
  タルドの社会学と経済心理学
  社会思想としてのタルド
  結語――アソシアシオン論者としてのタルド

あとがき
参照文献一覧
索引(人名・事項)

■引用

■書評・紹介

◇ウラゲツ☆ブログ:「国内著者の人文系注目新刊:2011年3〜5月」(2011年5月14日)
http://urag.exblog.jp/12578025/
「★タルドをアソシアシオン論者として再評価する本書には、次のような美しいくだりがあります。「「喜びは富を必要としない。というのも、人は貧困のさなかでも、貧困を共有し、友愛をもって分有することで喜ぶことができるからである。つまり、喜び、それは団結と力である。喜び、それは信であり、自己への信、他者への信であり、生のなかの信頼である」(タルド)。/このような「真の人間的な喜び」を人びとのあいだに広めること、このことによって人びとのあいだの不和を減らし、心理的な調和をもたらすこと――これがタルドの「アソシアシオンの体制」が目指すものであったのである」(402頁)。本書は博士論文に加筆修正したものとのことです。主査は小泉義之さん。」

◇週刊川上賢一「新刊」ガイド:「2011/05/24」(連載トピックス 川上賢一(株)地方・小出版流通センター)
http://www.mumyosha.co.jp/topics/kawakami.html
「●現代思想の世界で注目されている、カブリエル・タルドの思想を紹介する、「カブリエル・タルド−贈与とアソシアシオンの体制へ」3,200円 洛北出版は、タルドの「欲望」にもとづく「経済心理学」を紹介する書。労働の喜びとは何か?それは、共にあり、共に作業すること、社交性が花を咲かせることである。そのためには、余暇の増大と、無数のアソシアシオンの群生が不可欠と説きます。ISBN978-4-903127-13-2」

◇『京都新聞』2011年6月19日 朝刊 9面 評者:村澤真保呂
「19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの思想家、ガブリエル・タルドが近年、再評価されつつある。本書は、彼の大著「経済心理学」を取り上げ、緻密な分析をつうじて、その思想を明らかにした労作である。
 タルドは、現代のインターネット社会を予言したかのような社会学の著作「模倣の法則」で日本でも再評価が進む、しかし、経済思想の領域でもタルドが現代のグローバル資本主義を予想しその矛盾を乗り越える経済学を提唱していたことは意外に知られていない。
 タルドは、ベンサムにはじまり現代の経済学まで継承される「利己的個人』に立脚した独自の経済学を構想した。個人は「快楽」を求め「苦痛」を避けるという人間観にもとづくベンサムは、経済政策によって国民の快楽の合計値を上げることを説いた。そこから経済学では、快楽を求める利己的個人による競争が、いかにして社会全体の調和に結びつくのかが課題になる。アダム・スミス以来、自由主義経済学は「市場」がその調和をもたらすと考えるわけだが、現実の経済格差や貧困をみても、そのような考えを素直に認めることは難しい。
 それとは逆にタルドは、最初に競争ではなく、調和から出発する。つまり個人は他者と協力的であると考えるのだ。個人の経済心理をめぐるそのような考察から出発して、タルドは地球規模の協業体制(アソアシアシオン)を構想するにいたる。それは著者によれば、「外部へのはけ口を求める現在の欲望を、未来への欲望へと変えることによって解決する」試みである。当時の帝国主義が行き着く果てに地球規模の競争社会を予想したタルドは、それが人類にとって不幸であることを確信し、「もうひとつの経済学」を確立しようとしたのである。
 本書は、いまだ全体像が明らかにされていないタルド思想の重要な側面に光を当てた、貴重な労作である。」

◇『週刊東洋経済』2011年6月25日 133頁 評者 橋本 努 (北海道大学大学院教授)
「ガブリエル・タルド 贈与とアソシアシオンの体制へ 中倉智徳著 〜「余暇」を論点に独自の経済社会学を築く」
全文リンク
社会は「夢」、「催眠状態」と変わらない。ただ一瞬だけ「夢」から覚めることがある。「発明」の瞬間である。発明は共同幻想を打ち砕き、社会を革新する。だが社会は、今度は「新たな夢」の中へと入っていく──。

 そんな奇抜な観点から独自の経済社会学を築いたのは、フランス社会学の創始者の一人、ガブリエル・タルド(1843〜1904)。最近、にわかにブームになってきた。本書は主として、タルドの大作『経済心理学』を読み解いた好著である。

 「ホモ・エコノミクス(経済人)」に対する批判は、鋭利で含蓄が深い。「幸福への欲望」を他の「欲望」類型と対比する視点も興味深い。「胚―資本」と「子葉―資本」の区別も示唆的だ。そして何よりも面白いのは、「余暇」を誰に、どの程度配分すべきか、という論点である。

 タルドは三つの解決法を検討する。一つは「社会の最良の部分」たる高貴で卓越した人たちに、すべての余暇を集中させる方法。残りの人々は余暇なしに労働させられる。第二に、全員が一定時間労働し、一定時間余暇をもつ方法。これは平等主義的な解決である。最後に、余暇は「悪徳」だから、すべて取り上げてしまうという方法。働くことこそ美徳であり、余暇は必要ないという考えである。

 従来、優れた人々に余暇を集中させる第一の方法が、諸々の発明を導いてきた。だがタルドは、労働者の勤務時間短縮と余暇の増大を展望する。労働は有用な植物、余暇は野生の草花である。科学や産業や美術はこの「野生の草花」によってこそ、革新されるというのである。

 余暇に加えて、タルドは組合(アソシアシオン)を展望した。真の組合は、労働者の魂に喜びを取り戻す。その理念と構想は、現代人にとってもなお魅力的なビジョンを与えるだろう。

なかくら・とものり
立命館大学非常勤講師。専門は社会学、社会思想史。1980年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程修了。論文に「タルドとデュルケムにおける協同と分業――政治経済学に抗する社会学」など。

洛北出版 3360円 445ページ

◇ハーポプロダクション 選書 「革命の現心」
 http://www.mosakusha.com/web-geppou/2011/08/post-42.html
ガブリエル・タルド 贈与とアソシアシオンの体制へ

[2011年5月/四六H/448頁/¥3,200+160] 著=中倉智徳 発行=洛北出版

夜の社会学者タルド、その二重生活者ぶりに興味があった。パリ国立図書館勤務の傍ら、しこしこエロ小説を書いて匿名で出版したバタイユ然り。貴族の出、裁判官であり後に司法省統計局長まで昇りつめたこの男と思想的な友達になれるかどうかという悩みを解決してくれたのが本書。ラッツァラートの功績も大きいが、この本のおかげでタルドが「あっち側の人間」から「こっち側の人間」になった。洛北出版の本はおもわずレーベル買いしてしまうくらい毎度装丁や帯のコピーがイケている。「社交性の花を咲かせよ」を座右の銘にしよう。

■言及

◇偽日記@はてな「2011-08-121」http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110821
●中倉智徳が描き出すタルドの「発明と模倣」、ラトゥールの言う「代理派遣」、清水高志が描き出すライプニッツやセールの「媒介」や「ネットワーク」等が、いわゆる表象代表(リプレゼンテーション)的な思考の枠組みと根本的に異なるところは、「代理」はするけど「代表」はしないというところではないだろうか。

いかにネットワークの重要性や匿名的な力を言い立てようとも、それをある固有名や特定の言説、作品、集団によって「代表」しようとするならば(あるいは根拠づけようとするならば)、「代表する権利」についての闘争から(つまり、私と私の鏡像との間の、あまりに古臭い主従闘争から)逃れられなくなる。

私は、何の正当性とも関係なく、たんに彼について、彼に代わって語るが、それは既に別の誰かの言葉と入り混じっていて、私の言葉は彼を表象しはしない。私が語る彼の言葉は、ばめから私のものでも彼のものでもない。この、代理しつつも「代表しない」思考が、差異が差異へと際限なく無限に送り返されるという類の思考とも違うのは(あるいは、社会構築論的なものとも違うのは)、そこに「媒介(それは佐藤雄一の言う「固有値としての支持体」と、ぼくのなかではぴったりと重なる)」こそが世界へと通じているという「信」があるというところではないだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20101012

私の語る彼の言葉は、世界のなか(ネットワークのなか)での耐久性によって測られる。つまりそれが「世界」を信じるということになる。

それ(媒介-固有値)は出発点(媒介、具体性)であると同時に到達点(固有値としての支持体、理念)であり、だからこそ、あり得べき「超越性」として機能する。つまりそれは、「この世界そのもの(そしてそのなかにいる「人間」)を信仰する」ことを可能にする。

●模倣(ネットワーク)の法則について仔細に分析しながらも、「発明」という出来事が生じるのはあくまで様々な模倣が反響する結節点としての「個人」であるとするタルドの議論では、つまり「発明する個人」こそが「固有値としての支持体」を生む可能性をもつことになる。発明が、既存のネットワークやアーキテクチャに依存するものではなく(それは発明ではなく再生産-模倣である)、「新たなもの」として、複数のアーキテクチャ(ネットワーク、文脈)のハイブリッドとして起こるためにこそ、個という(ある意味「閉じられた」)結節点が必要となる。個人とは、そのような様々な交雑の、それぞれに異なる可能性としてある。そこで、ある一つの偶然の交雑でしかない「個」の場で起こった「発明」が、「固有値」となり得るとしたら、そこには「脳の協働」あるいは共鳴という現象が(ネットワークを通じて)起こる必要がある。

●引用、メモ。『ガブリエル・タルド』(中倉智徳)、第二章「政治経済学を裏返す」より。

《「発明と模倣は、富と価値の唯一の社会的な源泉である」ということになる。富が富となるために信念と欲望が必要であるということは、具体的な品物やサービスを生産する者たちだけでなく、信念と欲望を発明によって生産する者と、それを受容し模倣によって再生産する者とが必要であるということである。タルドによれば、事物やサービスを富であると思わせる欲望を真に生産するのは、芸術家や詩人たちである。》

《タルドは、知識としての富の生産の事例として、書物の生産を挙げている。(…)書物は物体として「接触可能、領有可能、交換可能で消費可能」なものであり、この意味においては他の富と同様であるが、それは書物の価値の一面を捉えたものにすぎない。書物それ自身が、「知的で領有不可能、交換不可能で本質的に消費不可能なもの」としての科学的な価値や文学的な価値をもつものだからである。(…)書物の価値は、書物を手放したところで失われはしない知識や情報などの信念にあるからである。この意味で、書物の「所有は本質的に集合的である」ということができる。》

《発明が多数の人びとのあいだで模倣されていたものの結合であったことを考慮すれば、「書物はいまや、遠く離れた、以前と比べてお互いによく知らない協力者の助けを伴って作られている」ということもできる。ラッツァラートは、この信念と欲望の生産=発明がなされるためのこの協働関係を「脳の協働」と呼び、現代の資本主義における生産において大きな役割を果たしていると指摘した。》

◇偽日記@はてな「2011-08-19」http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110819
サイト内から一部引用
「タルドにおいて「個人」は、(ベンサムが想定するように)合理的、功利的に行動するのではなく、欲望を大前提に、信念を小前提にして導出される実践的三段論法に従って行動する。つまり、快の増大や苦の縮小のためではなく、快がなかろうが苦があろうが、信によって行動する。そしてその信念や欲望は、他者から「模倣」によって与えられ、寄せ集められたものにすぎない。だが、その模倣されるもの(信念や欲望)は、誰か個人のうちで発明されたものであり、発明は、常に誰かのうちで起こっている。こうした見方は、少なくともぼくにとってはとても納得がいくものだ。」


◇偽日記@はてな「2011-08-16」http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110816
サイト内から一部引用
「ラトゥールをもうちょっと読みたいと思って『科学論の実在---パンドラの希望』を買い、タルドも読もうと思ったのだが、パラパラみてみたら、いきなりだとちょっときつそうなので、日和って、『ガブリエル・タルド---贈与とアソシアシオンの体制へ』(中倉智徳)というタルドの研究書を買ってみた。」

「『ガブリエル・タルド』は、最初の方にある「本書の概要」までを読んだだけだが、タルドの発想がすごくラトゥールと近い感じなので驚いた。ここでは、タルドの社会理論が「調和的統治術」だと書かれているが、ラトゥールもまた、今まで視野の外に置いていたハイブリッドを視野に納めることによる「管理生産(近代の暴走に対する、減速、緩和、制御)」を主張していた。」

「●問題の解決は「原理的」になされるのではなく、今ここにある雑多さの中から、その交雑として見いだされるという点もまた、ラトゥールと共通している。しかしこれだけだと、「発明」と、資本主義が強いる「絶えざるイノベーション」とどこが違うのか分からなくなる。だが実は、資本主義は、労働力ではなく、この「発明の力能」こそを搾取するのだ、と。ここで、(進化、競争、乗り越え等々ではなく)ラトゥールの「減速、緩和、制御」にも近い、「調和」というニュアンスが意味をもつ。」

「《ラッツァラートによれば、現在の資本主義によって捕獲される人間の力は、労働力よりも「発明の力能」である。このような観点から、タルドの思想を、新たな資本主義への批判の道具箱として利用できるとラッツァラートは考えている。労働は再生産であり、発明こそが真の生産であるといったタルドの区分、そしてこの意味で、労働ではなく余暇こそが生産的なのだというタルドの主張を、ラッツァラートは高く評価する。》」

「●まあ、まだここまでだと何とも言えないけど、ただ、「調和」という言葉から即座に欺瞞の匂いを感じとるのはモダン-ポストモダンの悪い癖だとは思う。」



UP:20110420 REV:20110523 0602, 0604, 0619, 0718, 0720, 0819, 1101
ガブリエル・タルド [外部リンク]  ◇労働  ◇身体×世界:関連書籍 2010-  ◇BOOK 
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