『二○世紀〈アフリカ〉の個体形成――南北アメリカ・カリブ・アフリカからの問い』
真島一郎 編 20110124,平凡社,765p
last update:20110124
■真島一郎 編 20110124 『二○世紀〈アフリカ〉の個体形成――南北アメリカ・カリブ・アフリカからの問い』,平凡社,765p. ISBN-10:458247621X \7560 [amazon]/[kinokuniya]
■内容
■目次
序 個体形成論 真島一郎
T 運動――個体は繋げる/繋がる
黒人の団結を訴えた男の名声と葛藤――ジョゼ・コレイア・レイテを通してみるブラジル黒人運動 矢澤達宏
オスカー・デプリースト――政治家への軌跡 竹中興慈
合衆国のアフリカ王、オセイジェマン・アデフンミ
――大西洋をわたる「ヨルバ人」が織りなす社会運動の変容 小池郁子
「人権デモクラシー」への反逆――アブディアス・ド・ナシメントと黒人実験劇場 真島一郎
帝国の都のアフリカの家――ホステルから見たラディポ・ソランケという個体 落合雄彦
U表出――個体のものである / ない、言葉
エリジャ・マシンデ――あるカリスマの奇跡 中林伸浩
ブリュリィ・ブアブレの1965年――文字と中間集団の夢 真島一郎
独自性と曖昧性――アミルカル・カラブルの言語観とカボ・ヴェルデの言語状況について 小川 了
白い肌の「黒人」――アメリカ合衆国ジムクロウ社会に生きたアレックス・マンリー 樋口映美
アレクサンダー・ペドワードの忘却――「牧者」と「狂人」、記録と記憶のはざまで 柴田佳子
V 耳――個体からの/への、声
リディア・カブレーラ――ネグロに理想を追い求めて 工藤多香子
語りえなかった経験――ヘスス・コロンの人種 阿部小涼
ピシンギーニャと呼ばれた男――20世紀初頭のリオ・デ・ジャネイロで黒人大衆音楽家であることに抗して 荒井 芳廣
苦難の自分史を翻訳する術――あるコンゴ難民のライフ・ヒストリーを事例にして
松田素二
「わたたちみんな、いくらかはダイアレクトを話すのですから」
――ルイーズ・ベネットのお喋りのなかに像を結ぶ〈民衆〉鈴木慎一郎
W権力 個体の力/力の個体
あるカレンジンジンの男、モイ――ケニア共和国第二大統領 津田みわ
デスィレ・デラノ・ボウターセ――「スリナム人」をめぐる中間集団の関連の中で 岩田晋典
個人支配の形成と瓦解――モブツ・セセ・セコが安全な悪役になるまで 武内 進一
セレンツェ・カーマ――「ノン・レイシャリズム」の実践と構想 遠藤 貢
X生――個体である/になる、ことの迷宮
駆けずり回ることを「運命」づけられて――ウィリアム・モンロー・トロッターという悲劇 大森一輝
モハメド・アリの「誕生」――人種の表象が変化する瞬間の一考察 藤永康政
パトリス・ムルンバ――ひとりの「開化民」の生成と消滅
ホジスン将軍の「肖像」――あるいは、個体形成を記述する困難 崎山政毅
ラベアリヴェル 校正係の夢――作家に非ざる作家としての20世紀個体形成 深沢秀夫
■引用
◆個体形成論 真島一郎
「グローバル化の辺境としては「後発途上」諸国の世界最大のぶろおくとして、20世紀最終四半期に構造調整プログラムと破綻国家の時代に突入していく教義のサハラ以南アメリカをはじめとする「南」が、同時代の鏡像として黒い公共圏のすべての土地にはつねに埋め込まれてきたし今なお埋め込まれていることを忘却しないために、本書は「間大西洋」と「アフリカ」の形容を選び取った。喩としての南を絶えず想起しつづけるための、そのかぎりでは大西洋の両岸における近代性と二重意識の様態としてこのうえもなく複数的な展開をとげた――しかも「もはや黒人だけが占有しているわけではない」(ギルロイ2006:12)――間大西洋の〈アフリカ〉が、本書では問われている。」 21
「「アフリカ系アメリカ人」や「英語圏カリブ人」のようなナショナルな基盤をもとに正典を構築する身ぶりから実際はだれが利益を得ており、またナショナルな同一性をめぐる「連帯」の想像力の背後で実際はだれとだれが排除されているかを問うときのギルロイ(2006:70−71)には、なるほど一個の批判理論としてじつに正当な響きがある。とはいえ、そうした彼の立場を後ろ盾としながら、たとえばポスト福祉国家やポスト産業社会といった特定地域のスタンダードに仕立て上げつつ脱近代のノマドを称揚するだけでなく、いかに周回遅れの夢であれ、ナショナルな自律のかたちをなおも切望してやまぬ人々の姿を視野の一角に捉えぬようでは、トランスナショナルな黒人公共圏をめぐる史的想像力も、間大西洋アフリカの20世紀からいたずらに乖離していくばかりではないだろうか」 25
人文・社会系諸学で過去20年余りに生じたさまざまな思潮の底流にあるのは、近代国民国家のレジームに裏打ちされて相互に交錯しつつ連鎖的に成立した三水準の歴史主体、すなわち、国家、社会、個人の権利づけを複数の視角から根本的に問い直す、主体の再考作業だった。近代性を批判的に再考する、という多少とも困難を伴う作業の延長としてそれが展開していたということは言うまでもない。とりわけ、モダニティとポストモダニティのはざまにおかれた主体論の婚譚といえるのは、整合的な同一性の体裁を帯びた政治主体のたち上げこそが、社会に排除と抑圧をもたらすことはもはや原理的に疑いえない一方で、主体をいっさい措定せずに政治や歴史の諸力を語ることもまた不可能であるという、主体のディレンマに関わるものだった。 27
集団権の否定にかえて個人を基本権を優先させる発想はまた、単一のネイションという理念型に沿って社会空間を均質化し国内市場を統一して「国民経済」の確立へと向かう志向、及びそうして成った市場空間=市民社会の内部で自由に行為し所有する私的自治の主体としての個人を庇護する前提の上に成り立っている。主体としての国家と個人は表裏一体の発生論で繋がれてきたばかりか、こうして国家主体の成立が個人主体の構築を二重の意味で――法空間の権利主体および市場空間の所有主体として――連動的に促すことになる。
これらの局面における個人とは、国家の法により権利が「授けられ」、市場の内部で自由が「与えられ」たものとして表象されるかぎりでの「自由」かつ「自律的」な主体であり、場合によっては全体化と個別化にむけた権力の配慮さえ投じられる対象=客体の別名としての「主体」である。……しかし、ならばそこにはまた、問いのかたちとしてある深刻な不在が刻み込まれていることにならないか。不在とは個人そのもの、いや「個人」という言葉で呼ばれ封印されてきた名もなく名づけがたくもあるある何か、主体構成の呼びかけをまえに否応なく「自由な主体」たろうとしてきた何か、本書があえてそう呼びなおそうとしている個体の場こそが、今この局面にいたって不在を画しているのではないか。 32
主体構築以前的ともいうべきその場で起きていたことに目を向けるために、本書では、主体構築にかえて個体形成の表現を選び取った。それは伝記とは異なる次元、伝記に抗する次元での記述と考察をめざす本書の方向性を照らしだす表現でもある。個体形成研究は、固有名と人称を介した同一性の語りの機制が、個体の場所の何を覆い隠してきたかを追求する。主体構築の過程でなされたはずの排除的実践を可視化するために、個体が特定の名で呼びかけられつつ主体化していく――「あのひとは〜となったのか」の――過程で忘却されたり、半ば故意に棄却された語りや行為を、主体構築後の安定した主体「著者」の位置から整序せず、矛盾や葛藤や非合理をあえて残したまま叙述する作業をめざす。逆説的にもその試みこそが、生ある限り個体化をくりかえす当の個体と共に流れ、断裂し、あるいは遡行し、反復し、循環する前主体的な時の様態を描き出すことになるだろう。34
■書評・紹介
■言及
*作成:近藤 宏