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『肉食の哲学』

Lestel, Dominique 2011 Apologie du carnivore=20200630 大辻都訳,左右社,172p.

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last update:20220121

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■Lestel, Dominique 2011 Apologie du carnivore, Fayard ISBN-10:4865282793 ISBN-13:978-4865282795 =20200630 大辻都訳『肉食の哲学』,左右社,172p. ISBN-10:2213655820 ISBN-13:978-2213655826 [amazon][kinokuniya]
 ※ドミニク レステル (著)
■出版社の頁:http://sayusha.com/catalog/books/p9784865282795

 「BOOK」データベースより
 肉食は我々の義務である。ビーガンの心がけは立派だ。だがその道は地獄に続いている。食うことの本質に迫る挑発的エッセイ。

■目次

アペリティフに代えて
アミューズ――倫理的ベジタリアンをどのように捉えるか
オードブル――ベジタリアン実践小史
一皿目のメインディッシュ――倫理的ベジタリアンに「ならない」ことの、いくつかの(正しい)理由
二皿目のメインディッシュ――肉食者の倫理
デザートに代えて
日本語版へのあとがき
訳者あとがき

■著者・訳者(出版社の頁より)

ドミニク・レステル(Dominique Lestel)
1961年生まれ。哲学者、動物行動学者。動物行動学を起点に人間と動物や機械の関係について論じている。主な著書に『動物性 ヒトという身分に関する試論』(L’Animalite: Essai sur le statut de l’humain, 1996)、『文化の動物的起源』(Les Origines animales de la culture, 2001)、『ヒトは何の役に立つのか』(A quoi sert l’homme?, 2015)などがある。

大辻都(おおつじ・みやこ)
1962年東京生まれ。フランス語圏文学。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。博士(学術)。京都芸術大学准教授。著書に『渡りの文学 カリブ海のフランス語作家マリーズ・コンデを読む』(法政大学出版局、2013年)、『アートライティング1 アートを書く・文化を編む』(共著、藝術学舎、2019年)などがある。
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■引用

アペリティフに代えて
アミューズ――倫理的ベジタリアンをどのように捉えるか
オードブル――ベジタリアン実践小史
一皿目のメインディッシュ 

「世界中ほとんどの文化において植物はある種の感覚を持つと考えられており、とりわけシャーマニズムの文化では顕著だ。西洋でも、少なくともゲーテ以降には見られる考えである。興味深いこの現象は今日ますます研究が進んでおり、なかでも…」(Lestel[2011=2020:46]) ※立岩[2022]で引用

「多くのベジタリアンは、動物を殺さない意志を正当化するのに反=種差別の主張をふりかざす。反=種差別主義者にとって、彼ら自身の種、すなわちヒトを別種の生物の犠牲のもとに優遇するのは受け容れがたいものだ。種差別という語は一九七〇年、英国のリチャード・ライターが導入し、一九七五年、オーストラリアのピーター・シンガーにより再度取り上げられ、人種差別という語と重なりながら練り上げられてきた。だが種差別と人種差別は同じ意味をもっているのか? そこには疑問の余地がある。またカニバリズムは動物には稀であり、大型の肉食動物には存在しない。豹が同類を食うのを拒むからといって種差別主義者と言えろうか? そしてもし栄養を摂るのにヒト以外の動物を殺すことに同意するとしたら、ヒトは種差別主義者でありうるのだろうか? あるいはより正確に言えば、ヒトは豹よりも種差別主義者でありうるのだろうか? 他の種より優位に立とうとは考えず、自身を動物コミュニティのひとりだと認識している私からすると、あらゆる捕食動物と同じ行動を受け容れることが、唯一真の反=種差別的位置を築くことに繋がるように思える。つまりある種の種差別のかたち――「他△052 の動物がそうであるように種差別主義者である」ことは、逆説的にも種差別主義者にならない唯一の方法なのだ。」(Lestel[2011=2020:52-53])
 リチャード・ライターについての訳注:「Richard Hood Jack Dudley Ryder, 1940- イギリスの心理学者、動物の権利を守る活動家」([168]) ※立岩[2022]で引用

「たとえばスティーブ・サポンツィスは、捕食動物の生態を草食や果実食に転換しようと考えている。
 狐を草食にしたがるような過激なベジタリアンは、進化の極みとしてヒトは他のすべての種の上位に立てると信じており、肉食は不道徳で避けるべきものと考え、さまざまな生き物の食生活を進んで倫理的に規定し、まったく頼まれてもいないのに他の動物のためと称してヒトの食生活を規則で縛ろうとする。」([57])

「より普遍的に言えば、ベジタリアンが拒んでいるのは、現実世界が本質的に闘いの世界であり、たがいの基本的利害は一致するどころかむしろ衝突するとの認識である。だがある生物にとっての食われないという利益が、その捕食者の食うという利益につねに勝っていると言えるだろうか。」
(Lestel[2011=2020:61]) ※立岩[2022]で引用

「動物が個々のレベルで自分の苦痛を最小限にしたがるとしても、普遍的に見ればその動物にとって苦痛は何らかの意味を持つかもしれない。じっさい,あらゆる苦痛を排除した世界の本当の意味について考えてみなければならないだろう。△70そんな世界は端的に言って耐えがたく、さらに痛ましく不毛であるはずだ。われわれの理性はふだんこうした問いには閉じられている。なぜならわれわれは願望を現実と取り違え、善意は完全に無償だと言わんばかりに、有益だと信じ込む行為の代償のことは考えない傾向があるからだ。」(Lestel[2011=2020:75]) ※立岩[2022]で引用

 「進化について
 苦しみも残酷さも利害間の絶えざる対立も存在しないウォルト・ディズニーの魅惑の世界に生きたいと願うことは、少し大人になれば諦めるはずの子どもの夢である。ラドヤード・キプリング式のジャングルの掟という古の世界観をきっぱり捨て去ったからといって、進化の理論とミッキーの世界が両立するわけでは決してない。」(Lestel[2011=2020:75]) ※立岩[2022]で引用

 「じっさい徹底したべジタリアンが動物的な生に向ける敵意はじつに深い。彼らが心底満足する唯一の方法は、地上のあらゆる動物的な生を消滅させることだろう――それはすべての苦痛とすべての捕食を根絶する唯一の解決策である。大半のべジタリアンは悪びれもせず、そんな企みなどないと抗弁するはずだ。だがある意味、こうした態度が状況をいっそう悪化させるように思える。彼らは潜在的には自らのやり方が無益で根拠を欠くことに気づいているからだ。だとすれば、途半端にしか達成されない倫理的な計画に意味などあるのだろうか?」(Lestel[2011=2020:75]) ※立岩[2022]で引用

 「真に徹底したべジタクアンはまた、すべての肉食動物がバイオテクノロジーによってべジタリアンになり、すべての肉食動物の「未来の元被捕食者」が今後は捕食者の存在しない生態系のもとで繁殖するような変化を撃むはずだ。そして,技術による肉食動物の根絶が可能になったとき、人間はその根絶を倫理的帰結としておこなわねばならないだろう。」(Lestel[2011=2020:81]) ※立岩[2022]で引用

 ハラウェイ[83]

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2022/12/25- 『人命の特別を言わず/言う 補註』Kyoto Books

 序章★04



*頁作成:立岩 真也
UP: 2021 REV:20211213, 29, 20220116, 0213
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