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『日本精神障礙者政策史』

西川 薫 2010/12/30 考古堂書店,342p. 

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■西川 薫 20101230 『日本精神障礙者政策史』,考古堂書店,342p. ISBN-10: 4874997570 ISBN-13: 978-4874997574 342p. [amazon][kinokuniya] ※ m. ps. ist.

戦前の日本と現代日本における精神障礙者対策の連続性に着眼点を置き、傷痍軍人精神障礙者との処遇の違いについても言及した。

西川 薫(にしかわ かおる)
1965年新潟市生まれ
新潟県立加茂病院附属看護専門学校卒業
新潟大学経済学部卒業
新潟大学大学院経済学研究科修了
新潟大学大学院現代社会文化研究科 博士後期課程 単位取得満期退学
新潟大学博士論文提出 博士(学術)2009年9月
青松会 松浜病院において看護師として勤務
その後、長野県看護大学 助手、新潟医療福祉大学 講師を経て、現在、同大学准教授

目次

序章
 1.課題 1
 2.方法 3
  1)視角 3
  2)研究対象 4
  3)時期区分 4
 3.論文の構成 5
 4.用語の定義 6
 5.先行研究の検討 7
  1)精神障礙者政策史的研究 7
  2)精神医療史的研究 12
  3)精神障礙者に関連した法律の法学的研究 14

第T部 一般精神障礙者政策

第1章 治安維持政策の開始
 第1節 警察行政を活用した衛生行政 19
 1.警察行政を必要とした背景 19
  1)文部省から内務省へ移管した衛生行政 19
  2)ロシア皇太子来日に伴う治安と貧民隠し 20
 2.警察行政の対象とされた精神障礙者 21
  1)衛生行政における警察活用の背景 21
  (1)新政府に必要とされた警察権力 22
  (2)警察行政の確立 23
  2)刑法における精神障礙者 24
  3)行政警察規則 25
  (1)瘋癲監禁に関する取締規則 25
  (2)瘋癲人取扱心得 26
  (3)精神病患者取扱心得 27
 3.治安維持とは異なる考え方 27
  1)森有礼が目指した人道的処遇 27
  2)森が関与した京都癲狂院 29
 第2節 精神医学教育のはじまり 30
 1.日本における精神医学 30
  1)前史としての民間療法 30
  2)ドイツ医学の採用 31
  3)残存するイギリス精神医学 32
 2.外国人教師による精神医学教育 32
  1)東京医学校 32
  (1)外国人教師ベルツ 32
  2)愛知医学校 32
  (1)外国人教師ローレッツ 32
  (2)日本ではじめての附属病院 33
 3.帝国大学令・中学校令に基づく精神医学教育 34
  1)東京帝国大学での精神医学教育 34
  (1)東京帝国大学医科大学 34
  (2)精神病学講座の開設 35
  (3)榊俶(さかきはじめ)(初代教授) 36
 4.治療に対する考え方 38
  1)寛解の概念 38
  (1)寛解の発見 38
  (2)日本における寛解の出現 39
 第3節 精神障礙者の収容施設 40
 1.東京府癲狂院の前身である養育院 40
 2.東京府癲狂院 41
  1)東京府癲狂院の実態 43
  2)入院患者からみた処遇の実態 44
 まとめ 46

第2章 精神障礙者に対する治安維持政策
 第1節 精神障礙者に対するはじめての法律 50
 1.精神病者監護法を必要とした背景 51
  1)社会的背景 51
  (1)相馬事件 51
  2)政治的背景 52
  (1)不平等条約改正に向けた法体系整備 52
  (2)民法制定の整合性 53
  3)経済的背景 54
  (1)救貧対策 54
 2.国会における審議 54
  1)法案作成過程 54
  2)不成立となった第13回帝国議会 55
  (1)貴族院 55
  3)可決成立した第14回帝国議会 56
  (1)貴族院議会 56
  (2)衆議院議会 58
 3.精神病者監護法の制度体系 59
 4.精神病者監護法制定の意図 60
  1)精神病者の保護および治安維持 60
  2)法体系の整備 61
  (1)旧民法における精神障礙者の処遇 62
 5.精神病者監護法の意義 63
 第2節 呉秀三による精神医学の前進 65
 1.精神医学教育の実際 65
  1)東京帝国大学での精神医学教育 65
  (1)呉秀三 65
  (2)教室および附属病院 65
  2)東京帝国大学以外の精神医学教育 66
  (1)九州帝国大学 66
  3)精神病学科設置に関する建議 67
 2.身体に侵襲を加えない治療法 68
  1)作業療法 70
  (1)作業療法の実際 71
 3.看護教育の実際 72
  1)看護婦総数の推移 73
  2)看護婦養成機関 74
  3)精神病看護養成の実際 74
  (1)東京府巣鴨病院 75
  (2)岩倉看護学校 76
  4)精神看護の教本 77
  (1)看護者によるはじめての教本『新撰看護学』 77
 第3節 監置する場としての私宅 78
 1.私宅監置の実態 78
  1)呉・堅田による私宅監置の実況報告 78
  (1)統計的概観 79
  (2)私宅監置事例からの批判 80
  (3)精神病者監護法改正への意見 82
  2)内務省保健調査会の調査 83
 2.精神病者監護法の統計 84
 3.精神病者監護法の問題点 87
  1)「監置」の語の未定義 87
  2)精神病者監護法運用上の問題点 88
  (1)病室の構造を規定した警視庁令 88
  (2)精神病床数の不足 90
  3)精神病学の医師不足の問題 92
 4.精神病院における看護の実際 93
  1)東京府癲狂院 93
  2)東京府巣鴨病院 94
  (1)看護者の動向 94
  (2)看護者の採用と教育 95
  (3)看護者の業務 96
  (4)経営を支えた低賃金 97
 まとめ 98

第3章 民間精神病院活用政策
 第1節 保護・救療としての精神病院法 105
 1.明治期における精神病院の歴史 105
  1) 収容施設 105
  (1)前史としての岩倉など 105
  2)精神病院 107
  (1)福沢諭吉による西欧の病院紹介 107
  (2)加藤瘋癲病院 108
  (3)精神科病院数と病床推移 109
 2.精神病院法が必要とされた背景 111
 1)政治的背景 111
  (1)治安対策 111
  2)経済的背景 112
  (1)貧困対策 112
  3)社会的背景 112
  4)医学的背景 114
 3.国会における審議 114
  1)法案提出過程 114
  2)第41回帝国議会 116
  (1)衆議院 116
  (2)貴族院 119
 4.精神病院法の制度体系 121
 5.精神病院法制定の意図 122
 6.精神病院法の意義 122
  1)私宅監置から病院での保護・救療 123
  2)民間病院の活用 123
 第2節 身体に侵襲を加える身体療法の発展 124
 1.精神医学教育の実際 124
  1)東京帝国大学での精神医学教育 124
  (1)三宅鑛一 124
  (2)内村祐之 125
  (3)教室および附属病院 126
  2)東京帝国大学以外の精神医学教育 127
  (1)九州帝国大学 127
  (2)新潟医科大学 129
 2.身体に侵襲を加える治療法の進展 129
  1)持続睡眠療法 130
  2)発熱療法 131
  (1)マラリア発熱療法 132
  3)ショック療法 134
  (1)インシュリン・ショック療法 134
  (2)カルジアゾール痙攣療法 135
  (3)電気痙攣療法 136
  4)精神外科 137
  (1)前頭葉切除術(ロボトミー) 137
  (2)施行された手術の実態 138
  (3)前頭葉切除術の後遺症 140
  (4)前頭葉切除術の評価 141
 3.身体に侵襲を加えない治療法の進展 143
  1) 作業療法 143
  (1)作業療法の実際 143
  (2)作業療法の有効性 144
  (3)労働力としての作業療法 146
  2)森田療法 146
 第3節 保護・救療の場所としての病院 148
 1.精神医療の実態 148
  1)精神病院設置に関する建議 148
  2)精神科医の状況 149
  3)精神看護者養成の状況 151
  (1)精神看護者養成の実態報告 151
  (2)精神看護の教本 153
 2.精神病院法の統計 155
  1)代用精神病院 158
  (1)精神病者監護法 159
  (2)精神病院法 160
 3.病院で餓死した精神障礙者 160
  1)入院患者死亡率の増加 160
  2)餓死した戦中の入院患者 163
  3)戦時松沢病院の状況 166
 まとめ 168

第4章 優生政策の実施
 第1節 国民優生法を必要とした背景 175
 1.国民優生法の背景 175
  1) 政治的背景 175
  (1)軍人となる国民の体力低下 175
  2)社会的背景 177
  (1)劣等者による逆淘汰 177
  (2)精神異常者が及ぼす治安上の問題 178
  3)経済的背景 179
  (1)精神異常者対策の経済的損失 179
  4)医学的背景 180
  (1)優生遺伝学の台頭 180
 2.断種法論争 181
  1)断種法の科学的根拠への疑問 182
  2)精神医療後退への懸念 184
  3)ナチス断種政策の衰退 186
  4)精神病者遺伝家系調査 188
 第2節 国民優生法の制定過程 189
 1.国会における審議 189
  1)審議未了となった民族優生保護法案 189
  2)可決成立した第75回帝国議会 190
  (1)衆議院 190
  (2)貴族院 193
 2.国民優生法の制度体系 195
 3.国民優生法の意図 198
 第3節 精神障礙者に実施された優生手術 198
 1.精神障礙者に実施された優生手術 198
  1)優生手術施行予算 198
  2)施行された優生手術の統計 200
  (1)該当者調査及び手術実施統計 200
  (2)対象者別手術実施統計 200
  3)内村祐之の懺悔 201
 2.国民優生法の機能 202
  1)精神障礙者政策的な意味合い 203
 まとめ 203

第T部 一般精神障礙者政策のまとめ 208

第U部 傷痍軍人精神障礙者政策

第5章 傷痍軍人保護政策の必要性
 第1節 傷痍軍人保護政策の必要性 213
 1.傷痍軍人保護政策 213
  1)傷痍軍人保護対策審議会の答申 213
  (1)優遇に関する事項 214
  (2)教養教化に関する事項 215
  (3)保護施設に関する事項 215
  (4)その他 217
  (5)帝國傷兵保護院要綱 217
  2)傷痍軍人保護対策審議会答申の意義 218
 2.傷痍軍人の恩給制度 219
  1)陸軍省除隊精神疾患患者の恩給策定 220
  (1)恩給竝転免役賜金診断証書調製ノ参考 220
  (2)精神神経科治療ノ参考 221
  (3)国府台病院の恩給策定基準 226
  2)積極的に認定しようとした陸軍軍医 227
  (1)二等症から一等症への引き上げ 227
 第2節 軍隊における精神医療 229
 1.軍隊における戦時神経症の発見 229
  1)日露戦争における戦時神経症の研究 229
  (1)呉秀三による報告 230
  (2)荒木蒼太郎による報告 233
 2.第二次大戦における戦時神経症の研究 236
  1)内村祐之による報告 238
  2)国府台陸軍病院の報告 239
  (1)戦時神経症 243
  (2)戦時神経症の症状 244
 3.軍隊における精神医学教育 246
  1)陸軍 247
  (1)依託学生生徒制度による医学教育 247
  (2)陸軍における軍医依託教育 248
  (3)精神病学講義の開始 250
  (4)御前講義で述べられた精神病学の必要性 252
  2)海軍 253
  (1)海軍医学教育のはじまり 253
  (2)補科としての精神病学 254
  (3)精神医学教育の実態 255
 4.国府台陸軍病院における治療 257
  1)持続睡眠療法 257
  2)ショック療法 258
  (1)インシュリン・ショック療法 258
  (2)カルジアゾール痙攣療法 258
  (3)電気痙攣療法 258
  3)発熱療法 260
  4)楽物療法 260
  5)生活指導療法 261
  6)精神療法 261
 第3節 傷痍軍人の特殊病院及び療養所 262
 1.軍隊における医療機関 262
  1)陸軍 262
  (1)陸軍衛戍病院の精神病室 262
  2)海軍 262
  (1)必要とされなかった精神病室 262
  (2)海軍の精神疾患患者の実態 264
 2.精神疾患患者に対する特殊病院 264
  1)国府台陸軍病院 266
  (1)第五内科(神経症病棟) 268
  (2)第一外科(頭部戦傷病棟) 268
  (3)第二精神科(新病室) 268
  (4)下部転地療養所 269
  (5)青柳分院 269
  2)国府台陸軍病院の実態 269
  (1)戦時神経症者に対する軍医の苦悩 270
 3.傷痍軍人療養所 272
  1)傷痍軍人武蔵療養所 275
  (1)入所者の実態 276
  (2)武蔵療養所における治療 277
  2)傷痍軍人下総療養所 278
  (1)下総療養所の運営内容 281
  (2)下総療養所入所者の実態 282
  3)傷痍軍人肥前療養所 283
 まとめ 285

第U部 傷痍軍人精神障礙者政策のまとめ 292

終章
 1.日本における精神障礙者政策の意義 295
 2.今後の課題 298

■引用



 第2章 第2節 呉秀三による精神医学の前進
 2.身体に侵襲を加えない治療法 70-72

 「1)作業療法
 呉は、4年間(1898年〜1901年)欧州に留学を経験した。欧州の先進的な精神病院では作業療法が取り入れられ、スイス、ドイツでは結核療養所でも盛んに作業療法がおこなわれており、組織化と体系化が進められていた。
 呉は、ドイツで学んだ作業療法を巣鴨病院(現東京都立松沢病院)で実践した。そこでの作業療法の経験は、1916年に『日本内科全書』第2巻の第3冊「精神療法」において記述されている。その中で、作業療法にあたる概念を移導療法としてつぎのように述べている。「移導療法は叡智的療法の一つにして、病人の観念思想が病のために常規を逸せるをば他に移動することによりて正道に復せしむるを目的とする」。74)さらに呉は、日本内科全書の「移導療法」において、甲 作業療法と、乙 遺散療法(鬱散療法、今日のレクリエーションにあたる)を区分した。さらに甲を生産的肉体作業、不生産的身体作業、精神作業の3つに区分し、乙については受動性精神的作業として、読書、観劇、旅行などに分けてその有効性を述べた。
 作業療法とは、身体諸器官の生理的活動をいうのではなく、明確な目的をもって精神的に活動することをいう。規則的な作業は患者に様々な利益をもたらす。多くの患者は、罹患のために認識・感情・意志・行為を外界や他人と区別して受容することが困難になる。しかし作業療法を実施するときは、この状況が改善される。常に意識が動揺していた者も作業に興味が出てくると観念は意識の外に追いやられ、本来の精神的活動を再開し、受動的生活から能動的生活に移り自信と意志を強め病気を軽快へと導く。これは慢性患者においても同様であり、作業療法は患者の感情や観念に働きかけ、物事に対する興味を回復させる。75)
 作業療法は、心身を修養することにも効果がある。作業療法を実施することにより患者は安静になり、催眠剤の使用も少なくなる。さらに、作業療法は精神の不安を招く観念や衝動を他方へ誘転することにより関係脳部を休養させる。患者による作業は、家計に収入をもたらし経済状況を改善させる利点もある。76)<0070<
 作業療法は、神経病者や精神病者に応用して治療上の効果をもたらすことも少なくない。しかも、幻覚などに対しても作業は有効である。妄想性の症状においても作業は、妄想の発現を遮り、寛解状態に導く。不眠に対しても作業療法は、非常に有益である。77)
 作業療法の種類は、「(1)筋肉の勤労を要する生産的作業、(2)生産的ならざる筋肉作業、(3)精神的作業」78)の3つである。(1)筋肉の勤労を要する生産的作業とは、園芸、手工業、労役をいう。(2)生産的ならざる筋肉作業とは、遊戯をいう。(3)精神的作業は、病人の注意を移動することをいう。さらに、精神的作業は、生産的作業 (風景の撮影、製図、絵画、粘土の造形など)、不生産的作業 (読書、作文、習字、植物的検索、顕微鏡的検査、音楽弾奏など)、受容的作業(講話を聴き、彫像図画を鑑賞するように他人の作業を引き受けて精神を動かすもの)の3種に区別される。
 呉は、遺散療法をつぎのように説明している。遺散は、明確に作業と区分することはできないが、概括していうと「作業は精神を誘導すると同時に稽古訓練を求めるものであるのに対し遺散は純粋な精神誘導法である」。79)このように遺散は患者の症状に関する観念を他に移誘するほかに精神的嗜好により病人の情緒を良好にし、脳髄の過労疲憊を回復する作用がある。このような良い影響を得るには2つの条件が必要となる。1つは遺散の方法において患者の注意を引き、興味を喚起することである。2つめは、その種類、維持が患者の神経能力に適合していることである。呉は、作業およびレクリエーション(遺散)
を治療の主要な手段とみなし重視していた。この視点は今日の考え方を先取りしたものであり、医学的リハビリテーションとしての作業療法を論述した日本最初の古典文献といえる。

(1)作業療法の実際
 呉は、 1901年11月末に東京府巣鴨病院の女性室内に裁縫室2個を設けた。従来各室の片隅で自分の欲するままに作業していた患者を集めて、病院で使う枕や病衣を裁縫させた。しかし、病院では、慰労費がないので看護者に仕立物をできるだけ患者に依頼し、各自患者に慰労させるようにした。呉は、年報に「作業ハ精神病院ニ欠クベカラザル必要ナル療法ノ一ニシテ吾人ハ十数年来之ヲ施行セント冀望シテ而モ其機会ヲ得ザリシ」80)と記述している。この時点<0071<で巣鴨病院は、本格的に作業治療がはじめられたといえる。すでに、東京府癲狂院時代に中井常次郎、榊俶によって作業療法が取り入れられてはいた。しかし組織的に作業療法を取り入れたのは呉秀三が最初の人物である。
 呉は、患者慰労のため1902年1月21日に音楽会を開催した。「東京音楽学校ノ教授学生諸君ニ依頼シテ講堂ニ音楽会ヲ開催シ患者ヲシテ音曲舞踏ヲ試マシメ此機会ヲ以テ病院ト関係深キ朝野ノ人々ヲ招待シテ病院収容者ヲシテ院外社会ニ接近セシメンコトヲ企図シタリシガ此ノ如キコトハ開院以来未絶テナカリシコトトテ其結果ハ頗ブル好良ニシテ治療上看護上監督上ニ於テ利益ヲ与ヘタルコ卜少ナカラズ吾人ハ猶ホ此ノ如キ患者ニ慰楽ヲ与フル方法ノ公ケノ支出ニヨリテ給弁セラルニ至ルコトヲ切望シテ已マズ」81)と記述している。また「患者ノ精神療法ノ一端卜シテ」82)準備してきた遊戯は、拡張しようとしても費用が1年度に10円63銭5厘にすぎなかった。そこで、呉は、その進捗をはかるため1月14日に男女各一の遊戯室を設け(1899年増築の、触覚というべき第一区、第二区)、遊戯品および小説をすべてこの室に集めて患者を随時この部屋に入れるようにした。83)
 さらに施療患者に草取作業をさせて、呉自身がその慰労費を出したりするという具合に次々と作業療法、レクリエーション療法を推進していった。1902年10月には、呉の提唱で東京帝国大学教授婦人らの発起により精神病者救治会が設立され、同会の寄付により作業療法に用いられる器材が購入された。84)
 東京府巣鴨病院は、東京府荏原郡松沢村に約7万坪の土地を取得した。そして1919年11月7日には、全患者の移送を終え、東京府立松沢病院と名称を変更した。当時、治療の中心は作業療法であった。呉は、作業療法を実施するために患者一人に対して100坪の土地が必要であるとした。松沢病院に移転後も巣鴨病院時代の屋内作業療法は引き続きおこなわれた。同時に、道路整備、耕地整理などは、作業療法の種目として利用された。」(西川[2010:70-72])

74)秋元波留夫・冨岡詔子『新 作業療法の源流』三輪書店. 1991.128ページ
75)秋元・冨岡、前掲書、130-131ページ
76)秋元・冨岡、前掲書、131ページ
77)秋元・冨岡、前掲書、132ページ
78)秋元・冨岡、前掲書、134ページ
78)秋元・冨岡、前掲書、138ページ
80)岡田靖雄『私説松沢病院史』岩崎学術出版社. 1981.238ページ
81)岡田、前掲書、239ページ
82)岡田、前掲書、239ページ
83)岡田、前掲書、239ページ
84)松下正明編『臨床精神医学S1巻 精神医療の歴史』中山書店. 1999.356ページ

 第3章 第2節 身体に侵襲を加える身体療法の発展
 2.身体に侵襲を加える身体療法の発展 134-148

3)ショック療法
(1)インシュリン・ショック療法
 ウィーン大学のSakelは、1933年に精神病の治療にインシュリンによる人工的な低血糖昏睡をはじめて用いた。これより以前にSakelは、モルヒネ中毒者の禁断症状を緩和し、興奮を鎮める目的でインシュリンを使用していた。昏睡に至らない程度の量のインシュリン注射によって低血糖状態をもたらす試みは、かなりの効果をおさめていた。彼は、この方法が他の精神病の興奮状態をやわらげるためにも役立つのではないかと考えた。そして、適当な注射量を模索試行しているうちに、何人かの精神分裂病患者が偶然にも昏睡状態に陥った。この不測の事故から覚醒した患者の中に、思いがけなく興奮がおさまり、精神症状が軽減したり、消退した例がみられた。これがインシュリン・ショック療法開発の糸口となった。すなわちインシュリン低血糖の昏睡が精神症状の改善に役立つということについて、何らかの理論的根拠を得てそれに基づいて治療方法が考案されたというよりは、まったくの偶然の経験からこの方法の開発が導きだされたというのが実情のようである。117)
 その後、各地の追試報告は、その成績の「優れていることを証明し、精神分裂病の特殊療法の輝かしい第1弾として世界に広がっていった 。118)日本でこの療法を最初に導入し報告したのは、1937年に久保喜代二であった。その後2、3の変法が提唱され、また他の痙攣療法などとの合併療法も考えられた。しかし手技の煩雑さと経済的な理由から特殊な場合を除いてはおこなわれなくなっていった。119)
 インシュリン・ショック療法を実施するには、1〜2週間の準備期が必要であり、この期間の第1日目に通例インシュリン10単位を皮下または筋肉内に注射する。2日目以降は、インシュリンの注射量を10単位ずつ増量し通例10日前後、インシュリン注射量が100単位に達するころから患者の低血糖症状が強くなる。低血糖症状第1期の終わりごろには、次第に意識の障害があらわれ、低血糖症状第3〜4期の治療的昏睡にまで進む。ショック期にはいって最初の昏睡は、15分くらいで中絶し、その後、持続時間を延長して最長1時間程度までにする。120)
 昏睡を中絶する方法としては、30〜50%のブドウ糖溶液20〜40mlの静脈内注射を施行すると通例5分以内に覚醒する。意識を回復した患者には、砂糖<0134<水を大量(200〜500ml)に経口摂取させる。通例1週のうち6日間を治療日とする。通例では、20〜40回をもって1クールとし、全治療期間は1.5〜2ヵ月とされた。症状の好転がみられない場合はそれ以上治療をつづけても効果がない場合が多いので他の方法が選択された。121)
 この治療法の開発は当初から精神分裂病を対象として進められたものであり、その他に躁病様の強度興奮の場合、激しい不安状態などにも試みられたことはあるが例外であった。精神分裂病のうちでは、他のショック療法と同様に緊張型に最も効果があったが、実際には他のショック療法があまり奏効しない妄想型などによく用いられた。その他の型の場合でも、より簡易な療法を一応試みたにもかかわらず効果がないようなときに施行され、まれに寛解をもたらすこともあった。治癒率ないし寛解率についての報告は、かなり幅があるが共通して罹病期間の短いほど治癒率、寛解率ともに高くなっている。日本では、林ワらが全国16病院の統計から、941例の患者のうち完全および不完全寛解の合計を48.2%、そのうち発病半年内のものが62.6%、半年〜1年が49.5%、1〜2年が33.3%であったと報告している。122)

(2)カルジアゾール痙攣療法
 Sakelによるインシュリン・ショック療法が、はなばなしい脚光を浴びて、精神病治療界に登場してから、わずか2年後の1935年、ハンガリーのModuna(⇒Meduna)によって、精神分裂病療法に対するカルジアゾール痙攣療法が報告された。当時は、てんかんと精神分裂病が同一患者に合併して現われることはほとんどないと考えられており(その後の経験で実際は時々、合併して現れることが知られている)、両者のあいだに何らかの生物学的な拮抗関係があるのではないかとの仮説が多くの人たちに支持されていた。Nyiröは、この仮説に基づいて、てんかん患者の血液を精神分裂病患者に輸血することで、症状好転を図ろうと試みた。Medunaもまたこの考えから出発して、精神分裂病患者に人為的に痙攣を起こすことを企てた。その方法を模索した結果、最初カンフル油を筋肉内に注射して痙攣の起こるのを待つ方法をとっていた。しかし、不安定で実用には至らなかったので、のちに静脈内に注射のできる水溶性の合成強心剤カルジアゾールを使用することにしてはじめて成功をみた。したがってMedunaによる精神病の身体療法の開発は、理論的根拠が、その当否は別とし<0135<て比較的はっきりしていたといえる。この方法が発表されると、2年前に登場していたSakelのインシュリン・ショック療法に比べて手技が簡易で効果もまた劣るところがなかったので、たちまち広く精神病治療界にいきわたっていった。123)
 カルジアゾール療法は、強心剤(カルジアゾール、メトラゾール)を3〜5ml、静脈内に注射することによって痙攣をもたらすものである。カルジアゾールを注射して痙攣が起こるまでの数秒から十数秒のあいだ患者は、心悸亢進や強い不安恐怖を覚える。したがってカルジアゾールの注射量は、痙攣を起こしうる範囲でなるべく少なく、かつ注射後痙攣までの時間は出来るだけ短いほうがよい。しかし、肘静脈からの注射による限り心悸充進や不安恐怖などがさけられないという問題点が残った。124)
 戦時中はカルジアゾールの輸入が途絶えて入手困難となったため、安河内五郎は、カルジアゾールを節減するために、カルジアゾール頚動脈注射法を考案した。この方法は、注射量を最小限にして薬剤による不快感をなくし、また注射するとただちに痙攣が起こるので、痙攣前の恐怖感がないなど利点があることが明らかになった。注射量は、静脈内の場合のおおよそ1/10量である。通常0.5mlとしたが、回を重ねることによる薬剤への慣れはほとんどなかった。また痙攣は薬剤注入が終わるとただちに起こる点が静脈内注射の場合と違う。頚動脈注射には、肘静脈注射に比べて高度の手技が必要とされるという難点があるが、無力型の患者などに時折みられる静脈の極端に細小な例では、むしろ頚動脈注射のほうが容易なこともあった。このほか薬物の注射による痙攣療法として、カルジアゾールの代わりにパラオキソカンファーや、水溶性の天然カンファーの静脈内注射も試みられたが、いずれもカルジアゾールにとって代わりうるほどのものではなかった。125)

(3)電気痙攣療法
 カルジアゾール痙攣療法の成功は、より簡便、確実、安全、安価な痙攣誘発法の開発を研究者に促した。1938年にCerletti & Biniは、電気ショック療法を開発した。註7)以来この方法は、その簡便さのゆえに急速に全世界に普及して、20世紀後半にはいって向精神薬療法が精神病治療の主流となるまで15年以上 註8)の長いあいだ治療法の王座の位置を占めた。126)<0136<
 日本では、安河内・向笠によって開発された50〜60Hz、交流80〜110Vを2〜3秒通電し、痙攣を起こさせる方法(200〜800mAから最高1600mA)がおこなわれた。直径約3cmのガーゼで包んだ電導子を飽和食塩水で湿し両側側頭窩にあてておこなう。通電と同時に意識消失、ついで強直性、間代性痙攣が生じ、睡眠に移行する。睡眠に移行後5〜10分で意識は回復するが、回復後一時的に逆向健忘を生じることが多く、時には痙攣後にもうろう状態や運動不穏のみられることがある。本療法の適応は創始期想定されていた精神分裂病よりもうつ病(うつ状態)に対してであることがわかってきているが、緊張性興奮や昏迷、ヒステリー性の諸症状にも用いられた。127)

4)精神外科
(1)前頭葉切除術(ロボトミー)
 脳に外科的侵襲を加えることによって、頑固な精神病者の反社会的或いは非社会的な面を取り除き、少しでも社会的適応性を多く得させようとすることが所謂、ロボトミーを中心とする精神外科の目標である。精神外科の試みは1890年にスイスのBurckhardtによってなされ6例の精神病患者の前頭葉、側頭葉、頭頂葉等の皮質の部分的切除がおこなわれ、この種の手術の可能性が印象づけられた。1935年の夏にロンドンで開催された第2回国際神経学会では、前頭葉機能の問題がとりあげられ、Bricknerの前頭葉切除例、Fulton and Jacobsenの猿の前頭葉切除実験報告等がおこなわれた。ポルトガルのリスボン大学教授Monizは、数年前から抱いていた精神外科の着想をこの学会により更に確信した。1935年11月12日にMonizは、Almeide Limaと共に苦悶の強い頑固な初老期鬱病患者に手術をおこない、この分野の開拓に先鞭をつけた。Monizの方法はFrontale Leukotomie(前頭葉白質切載術)といわれ前頭部の小骨孔から両側前頭葉白質内に少量の無水アルコールを注入し、或いは針先に仕掛けた鋼線の蹄係の回転によって白質を数箇所に於いて破壊し神経路を遮断するものであった。128)
 その後、Walter Freeman & James W.Wattsは、1936年にこの方法をアメリカに移入し、若干実用的な術式に改め、Prefrontal Lobotomy(前頭部前頭葉切載術)とした。この方法により初老期鬱病をはじめ精神分裂病(統合失調症)、神経症、その他種々の精神病に適用し600例以上の症例をこなした。そ<0137の術式は、眼窩外線より3cm後方、顴骨弓上縁より6cm上方に小骨孔を作り硬脳膜を切開し鼻中隔膜剥離子(⇒剥はりっとうなし)を脳実質内に挿入し、冠状縫合の面で白質下に於いて白質のみを上下に充分切載する。このようにロボトミーは、世界各国に普及し始めた。ちなみに、1948年8月3日から7日までリスボン大学において、Monizが会長を務め、第1回国際精神外科学会を開催している。同学会は、日本、ドイツ及び旧ソ連を除く27カ国から200名以上の神経外科医及び精神神経科医が集まり、5,000例の手術例が報告された。さらに1949年にMonizは、ノーベル賞を受賞している。129)日本において最初に精神外科手術を施行したのは、新潟医科大学であった。

(2)施行された手術の実態
 新潟医科大学外科では、次々に前頭葉切除手術に関する研究発表をおこなっている。ここでは、1940年以降の発表研究論文を詳細に引用し当時の状況をみる。1941年に中田瑞穂らは、「前頭葉切除術による観察」130)を発表している。この時点で「かくの如くして前頭脳を切除したのは、主として真性癲癇、精神異常者等で少数の腫瘍例を加へ総数約50例を得て居る」131)とすでに50例もの手術をおこなったことを公表した。さらに「分裂病の陳い症例では偏側切除でも両側切除でも著しい好影響を獲る興へ得ないが(中略)精神病の特殊な症候をある點好轉せしむる可能性については吾々はまだあきらめて居ない」132)と意欲を述べている。
 ついで 1942年に板井左次郎(新潟医大外科)は、精神分裂病(統合失調症)5例を含む「前頭葉切除手術(52例)による観察」133)を発表している。総括のなかで、一側前頭葉切除の範囲は、大多数が皮質運動中枢から3〜5cmで全症例の平均切除量は70g(最大115g、最小17g)であった。
 1942年に中田らは、「精神異常に対する脳手術的療法」134)という論文を発表している。この論文の中で全く治療の道のない慢性期の分裂病に対し両側前頭葉の切除をおこなったが「ほとんど無効であった」135)と報告している。中田は、「軽症分裂病及び分裂病以外の精神病には、尚試むべき手術でないと考へるので1例も行って居ない」136)としている。同年「前頭葉切除術と前頭葉白質切載術に就いて」137)において中田は、「西洋で実施されている白質中心部の小切載−これをLobotomyとかLeucotomyと呼んで居るわけであるが此の<0138<手術は全く無危険である事を吾々は数例に於て確認し得るに至った」138)と報告している。
 さら癲癇気質が著明で病的に興奮し、時として狂暴または沈鬱の症状を呈する癲癇患者に両側白質切載をおこなった例を「一側或は両側前頭葉切除と云ふ手術では未だ嘗て見られなかつた位に、時としては手術直後から、おそくとも僅々数日のうちに明かに人柄が一変し、快活となり、はきはきして来て、連日気難しかつたものが急に愛そうよくなつたり、近来親子の間で談話もしなかつたといふ青年がにはかに親しく父親に対坐し打ちとけて世間話をするようになり、今迄出来なかつた暗算が極めて容易に又正確に出来やうになつたと云ふやうな激変振りを見ることが出来た」139)と紹介している。そして将来、精神外科が各精神病にも有効であるという示唆を「西洋における最近の成績によるとメランコリーとか躁鬱病とか神経質と云ふような、比較的寛解する機会のある病症では勿論のこと、最も難症たる分裂病に於てさへも或る程度立派な成績を挙げ得るに至つたらしい點は、或は理由のある事かも知れない」140)と述べている。
 1942年に城谷敏男(新潟医大精神科)・板井左次郎(新潟医大外科)は、「前頭葉切除患者(癲癇)に施行せるRorschach精神診断学に就いて」141)を発表した。この論文では癲癇患者への前頭葉切除術を心理学実験であるロールシャッハ(Rorschach)精神診断学 註9)との関連で報告した。論文の内容は、「切除前後に於てRorschachの個々の検査像に就いては変化したものがあるが少数であり又切除後に表れ全実験例に認められると言ふ様な特有の検査像は得られない」142)とするものであった。この論文は癲癇患者にとって前頭葉切除術は、有効ではないことを間接的に指摘しているともいえるが、城谷は積極的に精神外科を批判し、今後手術の中止を促すような論述はしていない。
 さらに、中田らは1943年に白質切載術と切除術の違いなどを論述している。精神外科に関しては、その後、新潟医大以外でも疋田(九州帝国大学医学部外科)らが精神分裂病(統合失調症)13例を含む19例、柳川(北海道帝国大学医学部精神科)が精神分裂病(統合失調症)3例を含む7例の前頭葉切除術を報告している。143)<0139<

(3)前頭葉切除術の後遺症
 板井佐次郎は、1942年に「前頭葉切除手術(52例)による観察」144)において前頭葉による精神機能の変化について先行研究の総括にもとづき、つぎのように述べている。前頭葉の外傷、腫瘍、その他の病変例の示す症状としては、性格や気質の変化、憂鬱状態、刺激性、悖徳症(精神運動障害)、自発性欠乏、運動亢進状態、躁状態、注意集中困難等が挙げられている。これら種々の症状は「すべてある事象を本質的に把握する能力の障礙を基礎として、これより二次的に生ずる」。145)一方、前頭葉切除による脱落状態に関しては、かなり著明な精神機能の欠陥を残すという論者に対して脱落症状としてみなすべきものは極めて僅少にすぎないと主張するものがある。しかし、その成績は全く一致したというまでには至っていない。146)
 さらに、板井佐次郎は、一側前頭葉切除後の脱落症状については、切除脳の左右の如何を問わず「特に専門的に或る特殊の検査法でも創案して施行せぬ限り、従来の精神機能検査法と称せられるものに依っては、「中々捉へ難い」147)とした。さらに、「平易な日常生活とか、患者が術前に携って来た職業というものは、術後といえども大体変わりなく遂行し得る。もし、変化があるとすればそれは複雑な高等機能、例えば対極を洞察し、重点を把握し善処し得る能力の障礙である。すなわち患者が社会に出て従来と異なった環境におかれた場合、或いは新事態に直面して新たな判断などの必要に迫られた場合、或いは高等な知的職業に携わる場合において当惑したり、失敗を重ねたりする事があるような漠然としたものであって(中略)両側切除例においても同様に当てはまる」148)としている。
 前頭葉切除手術を施行した52例の総括は、「何れにしても前頭葉前半の脱落によりては、術後、猥褻になるとか、諧謔を弄し、不道徳になるが如き著明な生還を来たせるものは一例もなかった。従って、従来一般に信ぜられたやうな前頭葉病変による多彩な著明な諸症候は、すくなくとも之を前頭葉前半の全脱落を以て説明する事は出来ない」149)と結論づけている。その後、1945年までの間にロボトミーに関する後遺症を含めた研究報告は見当たらない。後遺症の問題が取り上げられるようになったのは、戦後、ロボトミーの数が増え、大きな後遺症として人格変化が問題視されるようになってからである。しかし、それまでの間、ロボトミーに対する主だった反論はなされることはなかった。

(4)前頭葉切除術の評価
 1940年から1945年までの期間におけるロボトミーの評価に関しては、戦中という特殊な状況を考慮する必要がある。精神科医は、治療に際して多くの制限を課せられていたことはいうまでもない。その当時の状況について精神科医 註10)が集い語った「戦中・戦後の精神病院の歩み」150)を検討することでロボトミー評価の一助としたい。戦争中の精神病者の医療に関して当時の状況を立津政順は、つぎのように述べている。「治療として、激しい症状の患者、興奮の患者、あるいは拒食の患者があって、電気ショック療法とかインシュリン・ショック療法をやらなければならなかった。それから進行麻痺の患者も多かったので、熱療法をやらなきゃならなかった。そういう手のかかる患者さんが何人かいるために、それに手をとられてあとは犠牲になったということもありましょうね。だからそういったものが片づいてきて、ようやくいまのようないろんな余裕のある考えが出てきたというふうに私は思います」。151)これに対し本吉功は、「1944〜1945年あるいは1946年頃はインシュリン・ショックなんかちょっとしかやれなかったんでしょう。薬がありませんし、それから砂糖がない」。152)さらに西尾雄三郎は、「私は自分たちでつくったりしました。インシュリンの粉末を手に入れてきて。そうじゃないと、買うインシュリンというのは、きわめて弱くて表示してある単位はあてにならない、うんと高単位でないとだめでした」153)と苦労を語っている。
 戦中時における精神科医の無力感と戦後に積極的に施行されたロボトミーとの関連について、つぎのように述べている。「結局戦争の時は、そういうふうに医療が無力だったというんですが、そういう経験を経て、ロボ卜ミーが始まってきて、だんだんいろんな手を加えていくことになりましたね」。154)すなわち、当時主流であったインシュリン・ショック療法は、戦時下の物資不足のためインシュリン自体が手に入らず、高価な治療のためにおこなうことはできなかった。こうした中でロボトミーは、前頭葉の手術という方法を用い、医師ら医療従事者の労力で治療物資を必要としないものとして脚光を浴び登場した。このことを裏づけるかのように野瀬清水は、「当時は、まだ向精神薬もなく、治療としての頼みの電撃療法を50回も100回も、ただ繰り返すだけで、インシュリン・ショック療法も、当時の措置入院料は治療代等は全く支払わず(中略)治療という治療には、何でもいいからすがりつきたい我々の気持ちが、時あた<0141<かも丁度導入され始めたロボトミーにタイミングが合い、しかもこれが経済的にもインシュリンに比べ我々医師の労力と汗のみで全く費用が要らないという点も、大いにロボトミーの全盛期を迎えた理由であった」155)と述べている。
 ロボトミーが本格的に脚光を浴びたのは、1945年以降のことである。その理由の一つには、戦時体制の下で積極的に精神病者に対する治療をおこなう必要がなかったことが考えられる。戦時中の精神病者は、病院焼失により自宅に戻り家族の保護を受けざるを得ない状況にあった。さらに運よく焼失を逃れた精神病院の患者たちも、食糧不足のため栄養失調により死に至る者が少なくなかった。さらに医師は、戦地に出向き精神病院にはほとんどいなかった。これらの理由により、ロボトミーは、治療の第一線に登場することはなかった。
 しかし、ロボトミーの研究と治療は、人格変化という重大な後遺症の兆候がうかがえたにも関わらず継続された。後遺症を批判するに足る症例が整わない中で中田らは、一気に症例数をこなしていったといっても過言ではない。このような背景について大津正典は、つぎのように述べている。「第一に慢性患者の蓄積を前にして、何か一挙に解決する手段はないものかといった考え方と焦りを共通してもっていた。第二に反証となるデータがないから何もいえないとする『客観主義』、および患者を医師としてよりも、研究のマテリアルとして感ずる態度があった。第三に神経病理、精神病理、生化学云々と分かれていた各研究グループの間で、他にくちばしを容れるのがタブーのようなものであった」156)と当時の医学における研究至上主義を振り返っている。
 ロボトミー推進論者であった廣瀬貞雄は、1949年に「ロボトミーの効果の核心が人格の変化にあるとすると、その施術にあたって人道的立場からの是非が一応問題になると思う。此の點に就て我々の実際的の感想を云うならば、術後相当の期間を経た後の印象では、少なく共人格変化の実際的な、社会的の価値はそれ程低くない様に思われる。実際、強迫神経症の極端に拘泥の激しい状態や、explosiveな精神病質の社会的に実害の大きい状態と比較して、術後相当の期間を経たロボトミーを受けた人の人格が、実際的の社会的価値として果たして低いと云えるであろうか。唯持って生まれた性格から、多少共被動的に離れると云うことは、主観的の問題として簡単には片付けられぬことと思うが、客観的に充分症例を選べば、術後の自覚症状として、自己の性格の変化をそれ程問題にせぬところからしても、人道的にも許されて良いと思う」157)として<0142<いる。
 その後、廣瀬は1954年に「ロボトミー後の人格の変化というものは、非常に重大なもので、広い意味での知能の障碍であり、見方によっては人間性の喪失ということにもなる」158)と今までの主張と全く反対の発言に変わり、人格の変化という後遺症の重大性を認めた。廣瀬の言動の変化は、当時のロボトミーを取り巻く状況を示していると考えられる。1975年になり吉田哲雄は、「手術の結果として非可逆的な人格破壊、後におこるけいれん発作、とくにその発作の重積、手術時の出血や手術による死亡は、いずれも重大です。そしてこのような重大な手術が、きわめて粗雑な理論にもとづいて行われてきた」159)と批判している。
 このように中田が1939年に日本ではじめての前頭葉切除を施行してから、一部の批判を受けながらも1949年まで、実際には積極的な支持を受けて精神医学の中で推移したといえる。1971年にようやく石川清臺弘をロボトミーによる人体実験の当事者として暴露したことをきっかけに本格的な批判がはじまり、1973年「特集 精神医療と人体実験」160)において、さまざまな論文が発表されロボトミー廃止の方向へ向かった。そしてロボトミー中止に大きな影響を及ぼしたのは、1975年の日本精神神経学会である。その学会で吉田哲雄は、ロボトミーに対する批判として「人体実験的性絡をもちつつ、粗雑な理論にのっとって、手術される人々を抑圧しつつ強行し、脳の破壊を通じて他人の人格を変えて行こうとする精神外科は、あくまでも批判されるべきもの」161)と明確に述べている。しかし、日本においては、1939年に精神外科が開始されて以来、1971年ころまで、かなりの数のロボトミーが実施されていた。実施数について正確な数字は公表されていないため、事情の把握は今後の課題である。

3.身体に侵襲を加えない治療法の進展

1)作業療法
(1)作業療法の実際
 作業療法の重要性を提唱する呉の意向を継承したのは、加藤普左次郎と前田則三であった。加藤普左次郎は、1919年10月6日に松沢病院の医員に就任し、同年11月に呉から作業療法担任を命じられた。前田則三は、1921年3月8日に見習い看護夫の辞令を受け同年3月10日から作業係として勤務した。そし<0143<て1922年10月10日からは作業治療専任の看護長になった。呉は、非開放患者を含めなるべく多数の患者に屋外作業をさせることを推進した。これを受けて加藤と前田を中心として松沢病院の作業療法は大きく展開した。彼らは、池掘り、築山を作業療法の種目に加え大規模な作業を実践した。この大規模な作業には、1921年から1925年までの3年半が費やされ、その成果は、現在の東京都立松沢病院に将軍池、加藤山という名称で現存している。1925年6月でみると平均在院患者699名のうち男性140名、女性90名が作業に従事した(病棟内96名、屋内作業場64名、屋外70名)。
 加藤の実践した作業療法は、現在作業療法の基礎として認められているシモン(Simon,H. 1867-1947)の実践を先行するものであった。加藤は、作業療法の治療効果とその必要性を説き、「作業療法と開放療法とは密接な関係があり、残存能力の積極的な強化を行うことに作業療法の意義を見出そうとした 」。162)この考え方は、ドイツにおいてシモンが精神病院における積極的作業療法の実践を提唱する中で、「患者に残っている健康な精神を激励し、強化することが積極的治療である」163)と述べているものと同じ内容である。すなわち加藤らは、シモンよりも先行して精神病院での作業療法に取り組んでいたといえる。

(2)作業療法の有効性
 1935年10月3日の全国公立及代用精神病院協会第4回総会において内務大臣は、「作業療法の適切なる施設方法如何」を諮問している。これに対し高野六郎予防課長は、つぎのように説明している。「近時医学の進歩に伴い精神病者に対する治療の進歩も亦見るべきもの少なからず、就中作業療法は精神病院に最も特殊なるものにして大いに其の発達を期待されるべきものである。本療法に依りて病者の精神力を恢復せしめ痴呆化を防ぎ得るは精神病学の定説なども之を有効にならしむるには適切なる施設方法を必要とするは言を俟たざる所である。依て専門家に諮問し最も実際に即したる具体的方法につき考察を願ひ答申されんことを望む」164)とし三宅鑛一ら9名を委員とし諮問を付託した。
 これに対し1936年10月5日に第5回公立及代用精神病院協会総会が開催され答申案 165)が承認された。この答申案は、以下の10項目から構成されている。1.準備作業、2.室内作業、3.室外作業、4.個人的作業療法、5.院外委託作業、6.病勢と作業、7.作業時間、8.作業の指導、9.作業療法に必要なる施設、10.作業<0144<報酬である。これらの内容は、当時の精神医療の実態に照らし合わせると現実離れしているように思える。しかし、政府は精神医療において作業療法の有効性を認め、それに対して諮問委員会が答申していたという事実は大きな意味をもつ。
 1943年に発表された岩田太郎の「精神分裂病の作業療法」166)では、作業療法の有効性についてつぎのように述べている。「かつて慢性不治と考えられていた精神分裂病がインシュリン・ショック療法やカルチアゾール痙攣療法、さらには電撃療法の出現により画期的な業績によって一躍治癒可能となったことは医界の他の分野には比すべきものもない一大盛事であり、われわれ精神科医の欣賀に耐えない。これらの新鋭療法は、陳旧例も精神状況にある程度の改善を招来する。この事実は、精神分裂病が可逆性の疾患であることを示唆するものである」。167)しかし、これらの療法によっても効果のない場合や寛解しても再発を防ぐことは難しく「未だ精神分裂病の療法壁なりとは称し難い」。168)実際に岩田は、2、3の症例にショック療法を試みた。しかし、持久的好転が期待できない症例ばかりで落胆していた。そして、精神分裂病のように内向的乖離性異常性格を有する者が徐々に自閉的傾向を増強しついに病的思考に迷入してしまうような疾患には、一時的な衝撃的諸方法より、持久的に底力のある体験療法によって病根たる性向の抜本的な変化を促すべきであると考えたのである。169)
 岩田は、作業療法によって軽快ないし良好以上の寛解を示した者は、74名の中の23例であると報告している。その23例の詳細な事例検討の結論として「一定の系統と規律ある作業療法は単なる注意の転向、気分の転換のみに止まらず、自閉症の打破、思考の調整、感情の賦活、意思の矯正ならびに鼓舞の強靭なる諸作用を具有する(中略)。これ等の諸作用は正に精神分裂病の治療に凱切であってあますところがないから、分裂病治療の根幹を作業療法においている。すなわち近時の諸種『ショック』療法その他の療術を適宜に利しつつ、合理的に作業療法を進めるならば、新鮮例はもとより陳旧な分裂病をも治療に向かせしむることが可能であろうと思う 」170)としている。さらに、「方法的には未だ随分研究の余地があるが、余は所詮分裂病は作業療法によって可逆性であり、しかも其の治癒をももたらし得る疾患であることを確信しようとしている」171)と締めくくっている。<0145<

(3)労働力としての作業療法
 戦時下における作業療法は、精神病者の労働により生産品を作り出すという思わぬ評価を受けることになった。この状況について内村祐之・管修は、つぎのように述べている。精神病院における作業療法は、治療以外に病院の経理にとっても重要である。松沢病院では、作業患者数を増加させることに努めた。その結果、1933年において一日平均男女合計163名(在院患者の16.8%)であったものが1940年には、最高536名に達し、在院患者の半数以上が作業療法を受けるようになった。作業の種類も16種類にまで増えた。各作業による収入をみると合計で8万1千円となっている。これから生産に必要な諸材料などを差し引いても4万3千円が病院の純利益になる。生産品において収入金額が大きいものは、家畜、ついで農業であった。家畜に関しては、入院患者への牛乳、卵、豚肉として食事に活用されている。農業に関しては、1940年に空き地を利用して米30石、馬鈴薯2千貫もの収穫をあげている。172)
 このように戦時下の作業療法は、患者の労働力を最大に活用することにより病院の食料と人的資源の不足を補うものであった。さらに「本療法を実施しなかったときには、生産方面に使用される患者の作業力は破壊的方面にその捌口を見出すか、又は長期監禁生活は諸種の合併症頻発の原因となる。是等のために蒙る病院の物質上の損失竝びに薬剤の消費量は決して尠少ではない。是等直接竝びに間接の利用を併せ考ふるならば、本療法の病院経理に及ぼす意義は極めて大なるものがある」173)としている。作業療法は、戦時以前に療法としてあまり評価を得ることはなかった。しかし、戦時体制という異常事態において作業療法は、入院患者による食料供給を中心とした労働力、患者の精神的安定をもたらすという二つの点において予期せぬ評価を受けることになった。

2)森田療法
 森田療法の成立は、1920年前後のことである。森田療法 174)とは、神経質に対する精神療法であり精神交互作用による悪循環を断ち、とらわれから脱却するために患者に症状を「あるがまま」に受容させ、やるべきことを目的本位、行動本位に実行させ、人間に備わる自然治癒力(常態心理)の発動を促すことにある。175)森田療法において作業は、治療的に大きな役割を果たしている。森田は幼児期に地獄絵を見た恐怖から神経症的体験に悩み、自らそれを克服し<0146<た体験にもとづいて、神経衰弱の精神療法に取り組んだ。森田は青年時代より東洋哲学に興味をもっていたが、東京帝国大学医学部卒業後、東京府立巣鴨病院に勤務した。当時、呉の指導のもとに積極的に進められていた作業療法の経験を積んだ。この経験は、森田療法の創設に大きな役割を果たしている。176)作業療法は、森田療法の根幹をなすものであったが、作業療法と森田療法は、ある一点で大きな違いをもっている。すなわち作業療法は、各患者に適した作業種目が選ばれるのに対して森田療法は、作業することそれ自体を重視したのである。
 森田療法の治療の方向は、人間に備わる自然治癒力の発動を促すことである。そして、精神交互作用を断ち、思想の矛盾を打破することである。つまり根底にある感情執着の悪循環を断ち切る。森田療法では、症状それ自体が人間性の一部であると認め、症状を受け入れたまま、同時に患者の持っている生の欲望、つまり人間がたえず向上、発展を指向するエネルギーを自然に用いて建設的に行動させ、自己を自覚させる。177)森田療法の治療対象は、神経質である。神経質は、強迫観念症、普通神経質、発作性神経症の三類型に分類される。森田療法の主な対象は神経症であるが、心身症、うつ病、精神分裂病、アルコール依存症、ターミナル期にある対象にも拡大されつつある。 178)
 森田療法の治療技法は、安静療法と訓練療法を根本療法とする4期から構成されている。第1期:絶対臥褥期(患者を隔離し食事、用便のほかは臥褥状態を4〜7日間維持)、第2期:軽作業期(3〜7日間)、第3期:重作業期(1〜2週間)、第4期:生活訓練期(1〜2週間にかけて日常生活に戻る準備、外出をさせ、複雑な実生活を訓練する)、40日の入院治療によっておこなわれる。森田療法は、不問技法、作業の重視、集団生活の利用という3つの要素を軸に組み立てられている。不問技法とは、症状に関する訴え、言葉にとらわれるということを極力排除し、ひたすら行動を通して体得に至らせる技法である。森田が特に着目した点は、神経症患者の多くに認められる共通の性格傾向であった。森田療法は、九州帝国大学の下田光造に高く評価され、1938年ころより徐々に広く知られるようになった。今日、森田療法は、日本独自の世界に誇るべき療法として位置づけられている。精神医学の発展に伴う森田療法の位置づけを図(3−1)に示しておく。<0147<

             森田療法
              ↓
ドイツ精神医学――――――――――――――――――→現代日本精神医学(各国折衷型)
        ↑  ↑        ↑ ↑ ↑
     イギリス精神医学      力動精神医学(英米)
     精神分析学(フロイト)    社会精神医学、精神衛生
     フランス精神医学      向精神薬療法
     パブロフ(条件反射学)

  図(3−1)森田療法の位置づけ(⇒簡易図)
出典:保崎秀夫『図解臨床精神医学講座1 精神医学入門と診断法』メジカルビュー社.
1988.4ページより筆者作成」


117)懸田克躬編『現代精神医学体系 第5巻B』中山書店. 1977.35ページ
118)懸田編、前掲書、5-6ページ
119)懸田編、前掲書、35ページ
120)懸田編、前掲書、35-36ページ
121)懸田編、前掲書、36-37ページ
122)林ワ・秋元波留夫「精神分裂病の予後及び治療」『精神神経学雑誌』第43号 第10号. 1939.739-740ページ
123)懸田編、前掲書、6ページ
124)懸田編、前掲書、12ページ
125)懸田編、前掲書、12ページ
126)懸田編、前掲書、7ページ
127)加藤正明編『新版精神医学事典』弘文堂. 1998.573ページ
128)廣瀬貞雄『ロボトミー』医学書院. 1951.1ページ
129)廣瀬、前掲書、1・2ページ
130)中田瑞穂・田中憲二・板井佐次郎「前頭葉切除術による観察」『精神神経学雑誌』第45巻 第5号. 1941.225-279ページ
131)中田・田中・板井、前掲書、257ページ
132)中田・田中・板井、前掲書、257ページ
133)板井左次郎「前頭葉切除手術(52例)による観察『精神神経学雑誌』第46巻 第5号.
1942.225-279ページ
134)中田瑞穂・板井左次郎・油木信一郎「精神異常に対する脳手術的療法」『精神神経学雑誌』第46巻 第6号. 1942.383ページ
135)中田・板井・油木、前掲書、383ページ
136)中田・板井・油木、前掲書、384ページ
137)中田瑞穂・田中憲二「前頭葉切除術と前頭葉白質切載術に就いて」『精神神経学雑誌』第46巻 第6号. 1942.384-385ページ
138)中田・田中、前掲書、384ページ
139)中国・田中、前掲書、384-345ページ
140)中田・田中、前掲書、384-345ページ
141)城谷敏男・板井左次郎「前頭葉切除患者(癲癇)に施行せるRorschach精神診断学に就いて」『精神神経学雑誌』第46巻 第6号. 1942.384ページ
142)域谷・板井、前掲書、385ページ
143)八木剛平・田辺英『日本精神病治療史』金原出版. 2002.132ページ
144)板井、前掲書、225-279ページ
145)板井、前掲書、234ページ
146)板井、前掲書、234ページ
147)板井、前掲書、235ページ
148)板井、前掲書、235ページ
149)板井、前掲書、278ページ
150)「(座談会)戦中・戦後の精神病院の歩み」『精神医学』第14巻 第8号. 1972.688-703ページ
151)(座談会)前掲書、694ページ
152)(座談会)前掲書、694ページ
153)(座談会)前掲書、694ページ
154)(座談会)前掲書、695ページ
155)野瀬清水「松山精神病院におけるロボトミーの実態」『精神経誌』第77巻. 1975.559-562ページ(八木剛平・田辺英『日本精神病治療史』金原出版. 2002.152ページ)
156)大津正典「精神外科−当時の医療状況など−」 『精神経誌』第77巻. 1975.553ページ
157)林ワ・廣瀬貞雄「ロボトミーに対する批判」『脳と神経』第5号. 1949.310ページ
158)廣瀬貞雄「ロボトミー後の人格像について」『精神経誌』第56巻. 1954.379ページ
159)吉田哲雄「精神外科−歴史的展望−」『精神経誌』第77巻. 1975.550ページ
160)『精神医療』東大精神科医師連合.第3巻 第1号. 1973
161)吉田、前掲書、550-551ページ
162)松下正明編『臨床精神医学S1巻 精神医療の歴史』中山書店. 1999.358ページ
163)松下編、前掲書、358ページ
164)岡田靖雄「日本での精神科作業療法ならびに精神疾患患者院外治療の歴史(敗戦前)」『長山泰政先生著作集』精神科医療史研究会. 1994.371ページ
165)岡田、前掲書、371-373ページ
166)岩田太郎「精神分裂病の作業療法」『新作業療法の源流』三輪書店 1991.228ページ
167)岩田、前掲書、228ページ
168)岩田、前掲書、228ページ
169)岩田、前掲書、230ページ
170)岩田、前掲書、251ページ
171)岩田、前掲書、251ページ
172)内村祐之・菅修「精神病院経理に対する作業療法の役割」『精神神経学雑誌』第45巻 第5号. 1941.46-47ページ
173)内村・菅、前掲書、46ページ
174)松下正明編『臨床精神医学講座15 精神療法』中山書店. 1999.121-130ページ
175)松下編、前掲書、162) 457ページ
176)日本作業療法士協会『作業療法全書 第5巻』共同医学書出版. 1994.207ページ
177)日本作業療法士協会、前掲書、208ページ
178)日本作業療法士協会、前掲書、209ページ

註7)1937年、スイスの Münsingerで聞かれた「精神分裂病の最新の治療法」に関する第1回国際会議でインシュリンおよびカルジアゾール療法のさかんな普及ぶりが報告されたなかで、イタリアのローマ大学の Cerletti,U.の意を受けて、共同研究者の Bini,L.が分裂病の治療法として、痙攣を誘発する方法の一つに電気が使えるだろうという予報的な発言をした。電気痙攣療法について学会で言及された初めての機会であったとされている(懸田克躬編『現代精神医学大系 第5巻B』中山書店. 1977.6-7ページ)。

註8)その間、無痙攣電気衝撃、強化電気痙攣、緩和電気痙攣、麻酔電気痙攣、一側電気痙攣、電気麻酔などさまざまな変法が提唱されたが、結局原法に比べて特別にすぐれていて、それにとって代わるというほどのものはなく、主として原法に準じた標準法がおこなわれていた。ただし現在では電気痙攣療法は、当初考えられていた精神分裂病の治療法としてよりは、むしろ躁うつ病、とりわけうつ病の即効的療法としての効果がより高く評価されている(懸田克躬編『現代精神医学大系 第5巻B」中山書店. 1977.6-7ページ)。

註9)10枚のインクのしみが何に見えるかから、その人の世界の見方、すなわち性格や人格を知ろうというものである。その発想は、ヘルマン・ロールシャッハによって考案されたもので、投影法の代表的で魅力的なテストとして発展している。10枚の左右対称のインクのしみは、ロールシャッハが作ったもので、印刷屋に頼んで仕上がってきた時、偶然できてしまった黒インクのムラが濃淡反応として生かされるようになったという逸話もある。その10枚の図版を全世界共通で使うことにより、膨大なデータと臨床体験から研究が積み重ねられ、共通の知的財産としてまとめられており、今なお発展を続けている (http://ww9.tiki.ne.jp/~s-nakamura/nakamurayan/sinrigaku/ink.htm)。

註10)座談会の出席者は、西尾雄三郎(当時国立療養所久里浜病院)、菅修(当時国立コロニーのぞみ園)、本吉功(当時明治学院大学社会学部)、加藤伸勝(当時京都府立医科大学精神神経科)、後藤彰夫(当時都立松沢病院)、臺弘(当時東京大学医学部精神医学)、立津政順(当時熊本大学医学部精神神経科)、長坂五朗(当時浅香山病院精神科)である。

◆西尾 雄三郎・菅 修・本吉 功・加藤 伸勝・後藤 彰夫・臺 弘・立津 政順・長坂 五朗 1972 「戦中・戦後の精神病院の歩み」(座談会),『精神医学』14-9:688-703

■言及

◆立岩 真也 2013/12/ 『造反有理――精神医療現代史 へ』,青土社 ※

◆立岩 真也 2011/08/01 「社会派の行き先・10――連載 69」,『現代思想』39-(2011-8): 資料


UP:201110807 REV:20110808, 09, 10, 13
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