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『快楽の効用――嗜好品をめぐるあれこれ』

雑賀 恵子 20101010 筑摩書房,254p.

last update:20130430

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■雑賀 恵子 20101010 『快楽の効用――嗜好品をめぐるあれこれ』,筑摩書房,254p.  ISBN-10: 4480065741 ISBN-13: 978-4480065742 \780+税  [amazon][kinokuniya]

■内容

嗜好品は古くから見出され、追い求められてきた。酒、煙草、お菓子。コーヒー、お茶、チョコレートなどのカフェイン。これらの多くは稀少品であったが、 資本主義の発展とともに、大衆消費品となっていく。この過程をたどると、快楽と癒着した歴史が浮かび上がり、欲望の形が明らかになる。 なぜひとは嗜好品を求めるのか? それを快楽とするならば、快楽とは何なのか? 嗜みとつき合うための技術と経験とは?  人文学と科学の両方の知見を援用しながら、生命の余剰とでもいうべき嗜好品を考察し、人間の実存に迫る一冊。

■著者略歴

大阪産業大学ほか非常勤講師。専攻は、農学原論、社会思想史。京都薬科大学薬学部、京都大学文学部卒業。京都大学大学院農学研究科農林経済学専攻博士課程満期修了 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

まえがき

第一章 煙草の愉楽
あるヘビースモーカーの告白/両切り煙草の悦楽/ある日の転向/感情がやってきた/嗅覚がもたらす情報/少量であれば?/死を生きる、自分の時を生きる /依存――精神と身体の反応/崩壊国家の嗜好品/極限状況での煙草/収容所での煙草/健康は義務である!?/生の痙攣/余剰だからこそ/コカへの眼差し /タバコと近代/宥め?

第二章 味覚の迷宮
共感覚/「甘い」という味覚/においと記憶、においと色――総合相互作用/生命を悦ばせる記憶/ヒトの味覚/ヒトはなぜ「甘み」を欲望するのか/料理と砂糖 /内田百閒とお菓子/おじさんだってパフェが食べたい/甘党の男たち/現在形で語る女、過去形で想起する男/「甘い」という日本語/聖書のなかの「甘さ」と塩 /ナトリウム‐カリウムポンプ/塩と生命/塩の男性性、砂糖の女性性/植物が差し出すもの

第三章 砂糖への欲望
砂糖の原料となる植物/砂糖はコーランに従う/イスラムの砂糖製法/ヨーロッパから新大陸へ/砂糖プランテーションの近代的労働/医薬品としての砂糖 /見せびらかすための「甘さ」/西洋中世の砂糖消費/お茶・コーヒーと砂糖/大衆化する甘さ/エネルギー補給としての食事

第四章 スイートメモリー
明治時代のお菓子/人工甘味料の誕生/都市の食卓、農村の食卓/戦時下のおやつ/なぜ甘さを求めるのか

第五章 最後の晩餐
最後になにを食べたいか?/自殺装置/死刑囚の最後の食事

第六章 〈デブ〉の奈落
学歴、肥満、貧困/ソウルフード/階級と食事/ハンバーガーの誕生/『スーパーサイズ・ミー』/ターゲットは子ども/量への志向/甘味料の人体への影響 /トランス脂肪酸は身体に悪いか?/ファストフードは健康を害するのか/モスバーガーとマクドナルドの戦略/肥満からみた米国 /真夜中のラーメン/ジャンクフードに介入する権力/簒奪されたもの/過剰でもなく、欠如でもなく

あとがき
参考文献

■引用

第一章 煙草の愉楽
死を生きる、自分の時を生きる

 そもそもがしかし、生命というのは、死に向かって雪崩打っているものではないか。生きるということは、身体の細胞レベルでつねに小さな死をはじけさせつつ、絶えず生成し、 変化し、運動し、死にゆくことである。
 いわば、それは、死に向かっての絶え間ない消費と言っていいかもしれない。
 もちろん、とはいっても、その流れを円滑にしたり、滞らせたりする要因は無数にあるわけで、第一、なるべく病気になりたくないのは、死の怖れもさることながら、 それがとにもかくにも苦痛であって不快な感覚であり、また自由度が狭められるからである。
 それになりよりも、生きている時間というのは、意外と長い。どのみち死ぬのだからとかいってみても、生きている時は自分の時を生きているのだから、感覚器官を働かせ、 意識をもってさまざまなことを知覚し、吟味し、考え、動き、触れ合い、行動し、実にいろいろな感情をうねりながら自分を織りなしているので、 というよりもそれが生そのものな>024>ので、出来るなら彩り豊かな楽しいものにしたいと願うのは、特異なことではない。一皮むけば美女も髑髏、などと嘯かれても、 その一皮がとても重要で、その一皮の厚みのために悩んだり、苦労したり、羨んだり嫉妬したり、あるいは気持ちのいい思いをしたり楽しかったり得だったりするのだから、 そういう嘯きは腐れ坊主にまかせておけばいいのと同様である。
 つまり、これもまた当たり前のことなのではあるけれども、わたしたちは要素還元的に分析できるようなところで生きていないのであって、 というよりも生きるというのは無数のモノとコトが織り合わさって絶えず変化している流動的なもので、だから、食べるというしなければいけない行為も、 生物学的な意味(行為の線形的な分析と理解)だけではもちろん捉えられないことであり、わたしたちは、全くもって栄養学的な面からの重要性も意味ないようなもの、 ある場合はむしろ身体に害を及ぼすものでさえ、そのものにこだわり続け、口にする。(pp.23-24)

第四章 スイートメモリー
都市の食卓、農村の食卓

 『家の光』一九三八年六月号には「農村婦人はなぜ早く老いこむか――働き相応に栄養をとることが大切」と題した医学博士の提起が載っており、 内務省の調査によると農村人の九〇%が病気(栄養不足)であるとの数字をあげて、雑穀飯か七分搗き米、煮干しの入った味噌汁、ニシン・イワシのような海魚、 換金用の養鶏養鯉を自家用に食することを勧奨しているし、三八年一〇月号「栄養はなぜそんなに大切か――国立栄養研究所技師原博士に母乳児・幼児の栄養を訊く会」では、 母の身体がどこの国よりも悪い結果、子どもが弱いことを、工場の設備や原料が悪いと良い品物が作れないことにたとえ、戦争時は若年層が出て行くために生産率が低くなるので、 健康を増進し、同時に医療費・食費の節減から>156>「生理的に経済をする」ように呼びかけている。(pp.155-156)

 こうしてみると、母性が強調され、いわゆる良妻賢母型専業主婦の「手作り」の家庭料理が推奨されていく都市部中産階級に対し、農村部では、 もとより食事というものがほどんど「手作り」なのであって、村落あげての生活改善運動が女性に任され、そのための栄養を考慮した共同炊事が提唱されている、 という図式が浮かびあがる。
 実際に行なわれた各地の生活改善運動の事例紹介でも、妊産婦や哺乳児童、離乳児童の栄養改善を目されて、自家用の栄養野菜、豆、七分搗き米、野菜の皮、魚頭や腸を、 工夫>157>して食べるなどが行なわれていたようだ。(pp.156-157)

第六章 〈デブ〉の奈落
簒奪されたもの

 けれども、健全である、ということは、どういうことなのだろう。あるいは、自然な身体とはなにものなのだろう。わたしたちの身体や振る舞いが観察され、統計化され、 標準化されたものから、理念型として立ち現われてくるものと、ほかならぬこのわたし、の生とは、おそらく、かかわりのないものだ。わたしたちは、自分の生を生きるしかない。 にもかかわらず、わたしたちが、なにかをしたい、と欲望するとき、その欲望は、ほんとうに自分の中から自発的に出て来ているのだろうか。
 医学的制度や互助貯蓄や保険といった諸制度がどのように動いているかということを少>241>し考えてみるだけでも、わたしたちの生命が、 あらゆる数値的処理からはみ出し手に負えない固有のものではなく、加算的な総和として把握されていること、わたしたちは、なにを心配され、 親切そうに偽装されているが余計な介入を受けているのか、ということがほのかに浮かびあがってくるだろう。
 そして、わたしたちは、繰り返すが、自分の身体を(労働力)商品としてさらけ出しながら、さまざまな生命の価値(品質)という網をかけられ、 身体そのものが市場となっている世界を生きているのだ。これが、わたしたちの生きている自由な世界というものなのである。
 それでは、わたしたちは、?き出しのひ弱な身体をさらけ出した、自由の奴隷なのだろうか。
 いや、断じてそうではない。そうであるとしても、そうではないのだ。
 なるほど、わたしたちの身体は、市場とはなってはいるが、しかし、それは、外部からの観察であり、観察され把握されたものから抽出されたのが標準化された 〈健康な身体〉なのであって、ではいったい、〈健康な身体〉がいいというのは、誰が決めたのだろうか。
 繰り返すが、〈健康な身体〉というモデル型があるとしても、それは、生きているわたしとは、異なる位相にある。>242>
 というのも、生きる、というのは、消尽に向かって消費し続けることだからだ。つまり、生きているわたしたちは、絶え間なく運動しているのであって、 変化しているからである。
 だから、完全に健康である身体というのはないだろうし、完全に正常である身体というのもまた、存在しないだろう。
 わたしたちは、なるほどひ弱で、無力である、と外部からは観測される。しかし、外部からの観測というのは、定時の、定地点の、定点からの観測であって、それは、 運動をある静止と捉えたものに過ぎない。
 わたしたちの生というものは、この一瞬、この一瞬で、この地点が集まったあらゆる場所で、微細に運動し、相互に干渉し、衝突し、変形して、すなわち、動き、 変化しているものなのだ。無為に、無力にみえようとも、だ。
 だから、内側から観察すること――外側の観察から導きだされた標準に自分を合わせていこうとするのではなく、 いまの傾き歪つでありながらもでこぼこと動いている自分を認識すること。認識するというのはまず、存在を肯定することから出発する。
 理念型として示された〈健康な身体〉に向かって生きるのではなくて、とりあえず、まず、自分の身体を生きてみる。
 その都度の釣り合いをとりながら、自分の身体を生きてみる。>243>
 あとは、なんとかなるだろう。(pp.240-243)

■書評・紹介

■言及

北村 健太郎 2013/02/20 「老いの憂い、捻じれる力線」
 小林宗之・谷村ひとみ『戦後日本の老いを問い返す』:120-142.生存学研究センター報告19,153p. ISSN 1882-6539 ※



*作成:北村 健太郎
UP: 20120922 REV: 20130430
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