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『聞書き〈ブント〉一代――政治と医療で時代をかけ抜ける』

市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代――政治と医療で時代をかけ抜ける』,世界書院,388p

last update: 20110203

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市田 良彦石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代――政治と医療で時代をかけ抜ける』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

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〈ブント〉とは、「同盟」を意味するドイツ語。 かつて、60 年安保闘争を指導した新生政治集団「共産主義者同盟」の通称。だが、ここに語り出される〈ブント〉とは、短命に終わった小集団の名称や、それが表現し後代に遺した思想の固有性・特異性をはるかに超えた、ひとつの「時代精神」と呼ぶべきものでありさらに、連綿と未来に向かって「変革」を志す意志でもある。 ここで石井は、市田の質問に応えて、一個人である以上にその時代精神を人格化した存在としてかけ抜けてきたことを、骨太にかつ忌憚なく語っている。

内容(「BOOK」データベースより)
戦後日本の「国家と社会」を横断する“わが闘争”。

出版社からのコメント
戦後日本の「国家と社会」横断する”わが闘争”。 バリバリの左翼(60年安保・全共闘)から凄腕の病院経営者へ。 団塊の世代および若い世代に贈る骨太のメッセージ。 鎌田實さん推薦!

■著者

市田 良彦
1957年京都生まれ。京都大学大学院経済学研究科単位取得退学。現在、神戸大学大学院国際文化学研究科教授。専攻、社会思想史

石井 暎禧
1937年東京生まれ。東京大学医学部卒業。現在、社会医療法人財団石心会理事長。60年安保闘争時に医学連書記長として参加。病院勤務のかたわら65年の第二次ブント再建時に政治局員。地域医療研究会世話人、日本病院会常任理事・医療制度委員長、中医協(中央社会保健医療協議会)委員などを歴任(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

第1章 前史としての六〇年安保
第2章 渡り鳥による「ブント」再建
第3章 はぐれ鳥「東京一派」が全共闘で一肌脱ぐ
第4章 「四人組」の政治、丹頂鶴の医療実践
第5章 地域医療という新舞台
第6章 全国「医療‐介護」戦線へ

■引用

第1章 前史としての六〇年安保

1958「遅れたせいで、ダブらずに医学部に行った黒岩卓夫と同級生になりました。彼は信州の田舎の高校出身だったんですが、女房のほうが日比谷高校で僕の後輩でね。北大路秩子さん。彼女の学年には僕の弟とか加藤紘一もいました。」(市田・石井[2010:18])

クラフトユニオン医学連 (市田・石井[2010:22-])
 →全日本医学生連合(医学連)

1958 「当時、医学連の左翼の親玉は石井保男という男(10)で、彼は医学連の書記長でもあった。」(市田・石井[2010:19])

註10 「卒業を待たずにプラハの国際学連に副委員長として出向(五九年)。そのまま退学し、全学連分裂後も「全日本自治会総連合」代表のまま六八年まで同地に滞在した。ベルリン自由大学講師を経て帰国。七三年に復学した。その後精神科医として練馬区陽和病院に勤務。最近、回想録を出版した(『わが青春の国際学連かに、二〇一〇年、社会評論社」)(市田・石井[2010:40])

 「とにかく五九年一月に僕は共産党細胞・ブント細胞のLCになる。そしたら四月にはもう医学連の書記長になっちゃった。医学連は各大学医学部自治会単位の加盟でね。それぞれ非常に組織率が高くて、加盟していないのは自治会もってない慶応の医学部とか、ほんの少しだけ。日大も医学部自治会なかったかな。医学連の幹部はだいたい拠点校が出すんだけど、東京の私学だと日医(日本医科大学)が拠点で、東邦(東邦大学)がたまに出したり出さなかったり。面白いことに北海道の拠点は北大じゃなくて札幌医科大だったんです。そこから下りてくると、東北は福島医大。東北大は弱くてね。ずっと下がって千葉大でしょ。東京医科歯科大でしょ、それから東大、慈恵医大、京都府立、岡山大……。
 医学連というと全学連の一部みたいに安易に扱われるけど、医学連として医学生ゼミナールなんてのをもってるぐらいだから、かなり独自です。大規模に全国ゼミナールやってたのは医学系と教育系だけでしょ。[…]<0022<[…]その後の学生運動の展開を見ても分かるけど、医学連には非常にクラフトユニオン的な色彩があるんです。将来の職業が決まっているというのは大きい。教育系もそうでしょ。でも教育系は学生運動やってパクられると将来にひびく。[…]でも医学部の場合は、そういう気遣いがぜんぜんない。逮捕歴あっても関係ないもん。だから余計にクラフトユニオン的色彩を強めたのかもしれない。売り手市場なんだな。文部省のもってた国家統制力みたいなものが、医療の分野には及んでいなかったんです。
 しかし、石井保男、あいつ無責任にぜんぶほっぽりだして国際学連に行ったんだよ。翌年の医学連大会がもう大変。会計報告とかできないんだもん。なんにもなしで、なんにも分かんない。僕はもう居直って、石井のせいにして、なにも報告できませんけどとにかく予算案承認してくれってお願いしてさ。承認されましたけど、冷や汗もんでしたねえ。そのときの委員長が、僕より<0023<たしか二年上の池澤康郎(13)です。現、日本病院会副会長で、当時は東京医科歯科大学生です。なお彼は、血のメーデー事件(一九五二年五月)の時にピストルで足を撃たれて、入院した経歴をもってる。事件当時は大学二年生だったはずだよ。」(市田・石井[2010:22-24])

註13 「一九三二年生まれ。現在、東京医療生活協同組合・中野総合病院理事長。」(市田・石井[2010:41])

1960 黒岩卓夫(東大医学部自治委員長)(市田・石井[2010:27])

 「こっちからは東大本郷の部隊が最前列で、あっちからは委学連の部隊が医科歯科を中心にして、どーんと。樺美智子(東大武勲学部)、黒岩卓夫(東大医学部自治委員長)、丸山文昭(東京医科歯科大学、医学連副委員長)ほか一名、と四名の重体者が出るんだけど、それを聞いてうちの親なんかびっくり仰天でしたね。樺さんを含む三人は全員、息子から聞いてる名前なわけです。医学連の部隊が特に強かったとか政治方針が過激だったとかじゃなくて、東大本郷と仲いいから同一歩調を取ったというだけです。たまたま被害甚大になるような場所に行ってしまった。」(市田・石井[2010:27])

「黒岩は、ここで東大の自治委員長を逮捕させるわけにはいかないので、一か月集中治療室に閉じ込めました。逮捕されないように、大学も保護してくれた。怪我もそうとうだったけど、「隠した」んです。」(市田・石井[2010:27])

註07 「一九三七年生れ。医師。現在、医療法人財団萌気会理事長ならびに萌気園浦佐診療所(新潟県南魚沼市)所長。婦人の秩子(一九六〇年に学生結婚)は、数学教師、保育士として働いた後、新党さきがけの参議院議員も務めたことのある政治家。現在は南魚沼市で大地塾を主宰する。」(市田・石井[2010:40])

第2章 渡り鳥による「ブント」再建

インターン闘争 56-
「僕が方針出して、議案書を実際に書いたのは斉藤芳雄です。そうとう分厚い方針書を書いて、全国から来るノンポリ代議員を分担して全員とっつかまえ、大会前日の晩にそれぞれの下宿に引っ張り込んだ。方針書を示しながらオルグですよ。方針の中味は端的に、「インターン制度廃止。」(市田・石井[2010:57])

斉藤芳雄 註10 「医師。新潟県南魚沼市にある「ゆきぐに大和病院」で病院長を長く務めた。第五章にも登場する(同章註10参照)」(市田・石井[2010:99])

医卒連 58
「青年医師連合」(青医連) 58

 「インターン闘争と銀杏並木は並行してます。時間的にも考え方も。古賀たちの世代が本郷に上がってきて、その連中と我々が一緒になって、東大のまず社学同を再建して、それで都学連再建って方向に走り出す。そのときには責任上、都学連には医学部から今井澄を委員長として出さなきゃいけない、となったんです。
 キ学連再建大会は六三年一月です。しかしあのとき、理論もなにもないんで、もうみんな無責任でさ。」(市田・石井[2010:99])

註14 「東大医学部。医学連を経て、共産同ML派、ML同盟に。六九年の安田講堂攻防戦では防衛隊長を務めた。長野県の公立諏訪中央病院に赴任していた七七年に、安田講堂事件の判決が確定し、靜岡刑務所に服役した。そのとき、刑務所に向かう今井を病院スタッフ一同と多くの患者が駅で見送り、花束を贈ったエピソードはよく知られている。出所後、八〇年に諏訪中央病院院長。九二に社会党から参議院議員選挙に出馬し、当選した。その後民主党に移り、二〇〇二年に死去するまで議員の職にあった。」(市田・石井[2010:100])

第3章 はぐれ鳥「東京一派」が全共闘で一肌脱ぐ

1970 「地元の川崎に戻るまでの二、三か月は、頼まれて世田谷・三宿の自衛隊中央病院にパートで行ってました。自分の病院をどうやって作るのか、どういう地域医療をどう具体的にやるかまでは定まってなかったけれど、方向性は見えていた。
 ひとつは高橋晄正が六九年に出した『社会の中の医学』という本。これ薬害批判の本なんだけど、面白いことに序文で東大闘争のことに触れてるんです。彼は東大の講師だったでしょう。それもあって、東大闘争における自己否定論と結びついた新しい医療運動のあり方に、とにかくひとつのヒントになった。医療批判を軸にした病院経営ができないか、と。それから、中野の病院で実感したことなんだけど、民医連はもう「医療運動」してないのよ。民医連の病院は事務<0148<方主導の「選挙マシーン」であって、医者はいわば「お客さん」にすぎない。」(市田・石井[2010:148])
 「国民皆保険制度できちゃってるし、もう開業医の診療所では医療運動にならんと思ったわけ。だとしたらどうやって「地域社会」と関わるのか、そこのところで医療批判が軸になるんじゃないかと思った。党や役員事務員が病院を運動の基地として「借りる」のはもうダメ。あくまで医者と患者の関係を軸に”社会のなか”で医療をやりたい、と。高橋晄正は七〇年三月にも『現代医学――医療革命の指針』という本を出してます。それ自体はどうというほどの本でもないんだけど、医療自体の根本的なところに問題があるんじゃないかと言う。それはどうしたってこちらの頭のなかでは、東大闘争が提起した問題と重なりあって読めてしまうのよ。現代的な医療批判を病院の現場実践として追求できないか、と思ったんです。特に薬害、公害問題とのかかわりだね。」(市田・石井[2010:149])

 「僕のほうは青医連運動の続きみたいなものとして、七一年の「反医学会総会」にかかわっていきます。その年はちょうど、七月に「保険医総辞退」騒動が起きるような、診療報酬をめぐる医師会と国のごたごたが社会問題化してた時期でね。同時に、四年に一度の日本医学会総会の年でもあったんです。「医療」が大きな”国民的”関心事項になってた。青医連そのものは、インターン制度が廃止になっていわば勝っちゃったわけだから、六八年の四三青医連でおしまいなんだけど、その世代がちょうど医局に入ってるころ。彼らを中心にして、大学のそとの「市民」とも連帯しながら、医療告発運動を日本医師会に対抗してやろう、という動きが出てきた。それで第一回「日本の医療を告発するすべての人々の集い」というのを、東大でやります。通称「反医学会」。それからも医学会総会にぶつけるかっこうで何回かやってます。ただ僕はもう大学のそとにいるし、医局に残ってる連中とはどうも肌合いが違うとも感じたので、あくまで大統一戦線なんですけど。僕としては、もう告発より実践だろうという気持ち。だから、いわゆる大学の医局問題には関心もてないまま、医学連部隊を総結集させるお手伝い、というところかな。」(市田・石井[2010:156])

 「趣意書にもうたったけど、公害や薬厄については新左翼のメンツにかけても、という意識がありました。工業地帯である川崎の土地柄からしても、ブント的地域拠点主義からしても、さらには医学批判、「自己否定」的医療運動論からしても、とにかくうちが最先端の拠点になるんだ、という心意気。」(市田・石井[2010:182])

1977年3月・幸病院(神奈川県) 血友病自己注射の開始 「よっちゃんの血友病がここでモデルになった。[…]<0184<我が病院では、自己注射のための「血友病健康管理手帳」なんてのを作って、患者にもたせて注射の記録を記入してもらってさ、ちゃんとデータを集めて学会発表したんです。それで数年後に認可されたからね。自己注射、勝利だよ。うちの患者たちも「幸病院血友病友の会」を結成して、というか結成させたんだけど、全国の「ヘモフィリアの会」のなかで「ホーム・インフュージョン」(自己注射)推進運動の中心になりました。」(市田・石井[2010:184-185])
 cf.血友病

1974年頃? 「それから糖尿病。これも患者会作って、勉強会やったり、「糖尿病バイキング」なんていう<0185<食事療法の集団指導とか。[…]慢性なんだから、仕事しながら、家庭生活しながらの「闘い」でしょう。消費者相手の商品みたいなものをポーンと「医療」を放り込んだって、かなり徒労なんです。他人を巻き込んだ生活全般を医療的観点から組織し直していかないかぎり、いわゆる「包括医療」が課題になる。これを行政や医者に任せるんじゃなくて、下から 現場的にやっていこうとしていたわけだな。ほんと、自主管理思想であり、自己権力論でしょう? 倫理的に立派な「お医者さん」による「赤ひげ・ヴ・名ロード」でも、権力もった医者が上から治療を押し付けるのでもなく、あくまで医者−患者関係のなかで「階級形成」していく、そんな意識でいたから、大学に残って外科医師連合やってた連中とはどうも感覚がずれてきて、こっちはひたすら臨床志向、現場志向で、とにかく腕をみがきたい。患者との「関係」をどうにかしたい、みたいな。我々も「患者のために」と言うんだけど、奉仕することからも「偉い人」になることからもほど遠い。だから「自己管理を強制する」なんて言ってたんだな。黒岩は同じことを「ビジネスとしての医療」と呼んでた。」(市田・石井[2010:185-186])
 cf.人工透析/人工腎臓/血液透析 1900-

1975年3月・幸病院透析室開設/7月・幸病院夜間透析開始 「その危機を乗り切るために、友だちが、じゃあ透析がわりあい利益率が高いから、やったら?と勧めてくれましてね。でも我々は左翼だから、「商売」だけで飛びつくわけにはいかんというんで、内部でちゃんと検討したんです。これをやる意味はなにか、どうやったらいいのか、というようなことを、まあ意思統一はなかなか難しかったですけど、透析をはじめました。しかも、夜間透析の早期開始をめざして、夜間透析というのは、患者さんは昼間働いて病院に来る。透析には本人の自己管理が重要であって、そもそも我々はその技術的なお手伝いをするだけである。夜間透析なら、患者の暮らしの「お手伝い」という側面をよりはっきり打ち出せるだろう。これは我々が目指す自己管理型医療というものに非常にいい分野ではないか、積極的に取り組もう……具体的にはなかなか難しかった。機械室を含めて三部屋つぶしたからね。結局。<0189<一五ぐらいだっかな、機械は。ところが、これが商売として当たったんです。川崎市内では一番早く夜間透析を導入することになって、大成功。経営が立ち直るんです。」(市田・石井[2010:189-190])

第5章 地域医療という新舞台

1977年6月頃?/1978年3月:家庭透析開始 「ちょうど透析が当たってようやく黒字に転換したころだったし、あっという間に川崎のトップシェアを握ったもんで、これの専門クリニックと考えた。[…]涛透析は装置産業的なところがあって、技術としてはワンパターンだから、大規模であればあるほど効率がいいんです。技術的にみれば、血液透析・濾過というのは血管と機械を連結して、血液をフィルターにかけちゃうだけですから。もちろん、リスクも幾何級数的に高まるので、技術的に自信がないとできないけど、そこんところはすでに二年間、手探り<0216<で修練積んでたから大丈夫。というか、無謀に果敢。
 当時の透析は、臨床技術的にまだ難しくて。やらないと数週間で死んじゃう人が、やれば社会復帰もできるというすごい技術なんだけど、勉強のため見学に行ってた病院では、透析室内で患者さん死んでんだよ。[…]今ではでっかい体重計の上にベッドを乗っけて、水がどれだけ退(ひ)けたか刻々と分かるようになってるけどは、当時は機械の設定なんてヤマ勘でやってるだけ。心臓が弱ってると、血液がどーんと下がって、そのまま逝っちゃうってことがあったわけ。そのときにばーっとまた水を入れると、ひゅうっと戻るんだけど、そういうさじ加減がほんと修練なの。まあ勇敢に挑戦してきたわけです。手ごわくて怖い最先端医療に、二年間。」(市田・石井[2010:216-217])

 「当時すでに、疾病構造の重点が成人病に移ってきていて、糖尿病や腎不全の場合が典型だけど、予防から医療、予後、社会復帰を一連の問題として捉えないと、患者は悪循環に陥るでしょう。遠くの出身大学病院に患者を行かせたり、予防と予後は医者や病院の仕事じゃないと言ってるかぎり、治療しても病状は悪くなるだけでね。こういう「医療秩序」は、我が病院にとっては「敵」そのもの。しかし、そういうのは既得権益擁護の業界内相互規制にすぎないから、こちらが従わなければ「商売敵」としては弱い。ニーズあるんだから。疾病構造の変化そのものが我々の「味方」でした。「幸病院・川崎クリニック腎友会」という我々の患者会は、作ってすぐに、「川崎腎友会」のなかで社会復帰率が最も高い患者会になりました。神奈川県の家庭透析第二号も我々のところです。」(市田・石井[2010:221])

1977年「八月に、同志になれそうなところを僕と黒岩でかき集めて、地域医療懇談会というのを開くんです。こじんまりとした交流会ですけど。夏だったし、遊びの要素も半分入れつつ、葉山でディスカッション。これがその後、医療分野において、ゆるいけれども一種の一派をなすものに育っていきます。その記念すべき最初の一歩が七七年の夏です。僕にとってはその後いろいろと社会的発言や活動を再開していくなかで、つねに”バック”をなしていた勢力ができはじめる。[…]
 集まったのは、うちの病院と黒岩のところ――あついはもう浦佐(新潟県)で「ゆきぐに大和病院」をはじめてた――以外では、関西の阪神医療生協――元は社会党系――の今泉さん、精神科では初音病院、これから病院作るぞとぶち上げていた九州の松本文六(7)たちでしょ、それから当時民医連から脱退していた京都の堀川病院なんかも来てくれた。僕は堀川病院とは親しくしてて、うちに地域保健部を作るときに見学に行って参考にさせてもらいました。浦池のルートで、やつの兄貴も来たな。九州で病院グループを経営してたんだけど、これが左翼でもなんでもなくてさ、「ミニ徳洲会みたいな感じで経営者根性丸出しのことをまくしたてるから、堀川病院の早川[一光]大先生、怒って帰っちゃった。我々のこの動きと同時かつ別個に、東<0225<大外科医師連合のメンバーが、地域病院連合として動きはじめてました。こいつらは東大全共闘のなかの医学部グループで、最初は医局改革派だったんだけど、結局かなりの連中が野に下り、中心的なやつらはすでに三つほど病院やってました。玄々堂君津病院(千葉県)、南大和病院(神奈川県)、関越病院(埼玉県)、名前は古風でいかめしかったりするけど、外科のほんとに近代派のお医者さんたち。大学の臨床に見切りをつけて、腕を磨けるシステムを作るべきだという主張をもって野に下ったんです。彼らが引きうけたのが、茅野市の諏訪中央病院、今井澄が外科医師連合の一員として七四年から行きます。彼は安田講堂の裁判を終えて、病院から靜岡刑務所に下獄する。外科医師連合は独自の「外科医療研究会」だったかを、このころからやりだしています。結局、我々の「地域医療懇談会」と外科医師連合のこの動きが、それぞれ別に二年間ぐらい続いたあと合体するかっこうで、七九年から「地域医療研究会」になっていくんです。その年、諏訪中央病院で準備会発足です。
 懇談会には精神科の病院も来てました。さっきも言った神奈川の青山会「初音荘」病院。でも精神病院の系統は地域医療研究会のなかではすっぽり抜け落ちるんです。精神科医医師連合の連中が結局、学会攻撃に熱心になって、そっちでは学会主流を取っても、民間の病院団体、日本精神病院協会のほうに食い込めなかったことが大きい。しかも改革派の精神医科病院連合を作らなかった。いくつか良い仕事をしていた病院があったんですがね。
 ちょっと話は戻るけど、六八年の六月に安田講堂占拠があって、七月に東大全共闘が結成さ<0226<れて、一〇月に「精神科医局解散」ってのをやります。医局を解体して「東大精神科医師連合」にそっくり変えちゃった。一〇二名で。さらに医局解体を進めて、赤レンガの自主管理闘争になる。教授と数名の共産党系は本館の外来を抑え、病棟のほうとは精神科医師連合が占拠して、とまあドンパチもあった。僕もおつき合いで行きましたよ。あのときの反乱グループが今や精神医療界の中心です。でも、あいつらは実践的な主流派形成ができていない。日本精神病院協会(日精協)は保守派に抑えられっぱなし。精神医学会に乗り込んで多数派を一回完全に取るんだけど、そのまま不発弾として寝てる。日精協のほうはいまだにどうしようもないのが主流なんです。我々はもう養鶏場じゃありませんと言うんだけど、それは薬物治療が進歩したおかげであって、少なくとも「地域医療」の視点はない。とにかく精神科や大学病院の連中とは例の反医学会総会、「日本の医療を告発するすべての人々の集い」では大同団結して一緒でしたけど、それからはどんどん疎遠になります。まあ彼らは単科としてのまとまりの方が強く、一直線に「反医学」でしたね。病院経営のあり方よりも「医学」そのものに関心が向う、告発タイプの典型です。」(市田・石井[2010:225-227])

 「「ゆきぐに大和病院」はブント系の医者のたまり場というか、亡命先でね。亀も五、六年はいたかな。それから斉藤芳雄も。芳雄ちゃんが黒岩から院長職を引き継いだ。ブント系でもって先駆的な、二木立が言うところの「医療・保健・介護複合型」施設を整えていったんてず。でも結果的に富と、その先駆性が足を引っ張ることになっちゃった。介護や在宅のほうに引っ張られて、地域病院としては非常にまともなんだけど、医療本体のほうが追いつかなくなるんです。脳外科、循環器科、さらに心臓も外科と内科に区別する、というふうに専門分化していく医療の高度近代化をやりきれなかった。
 それに対して諏訪中央病院のほうは[…]」(市田・石井[2010:231])

 註07「現在は社会医療法人財団「天心堂」理事長。一九四二年、大分生れ。一九七一年九州大学医学部卒業。六八年六月の米軍機墜落事件(ファントム戦闘機が九大工学部の建物に激突)を機に、学生運動に参加、医学部自治会委員長となって無期限スト闘争を組織する。一九八〇年、大分市に天心堂へつぎ病院を設立し、院長に就任。地域医療研究会の主要メンバーの一人である。二〇〇七年には参議院議員選挙に立候補したが、落選」(市田・石井[2010:266])

 註10「一九三八年生れ。一九六四年、東大医学部在学時に医学連委員長。六五年のMLブント分裂(年表参照)に際しては、石井と同じ統一推進派に。しかし六九年には機関中央派(第三章参照)の立場だった。ブント首都圏委員長を経て、赤軍派を除名した第九回大会で中央委員となる。現在、ゆきぐに大和名誉委員長」(市田・石井[2010:266])


 「その昔は町長さんと仲良しになって、一緒に猟銃買ったりみたりなんかしてたのに、とにかく病院を辞めて、彼は自分の診療所を作ります。それと同時に、地域医療研究会のなかに「たの<0230<しい診療所分科会」という、いかにも黒岩らしいネーミングの会を立ち上げる。これがだんだん自立・分離していって、今は「在宅ケアを支える診療所・市民・全国ネットワーク」というNPOになってます。地域医療研究会のなかでは内科系の人たちが、こういう「在宅医療」路線の方に行くんです。」(市田・石井[2010:229-230])

 (これ=「ゆきぐに大和病院」)「これに対し諏訪中央病院のほうは、元々外科医師連合系だったということもあり、連中は、今井を別にすれば医療思想として特に左翼的ということはなかった。ただし、今井の近代派ブ・ナロード路線は佐久総合病院などの長野の病院運動を引き継ぐものとはして、病院全体を牽引していたと言えます。先端医療を田舎へ移植しようという発想だな。東京からその手の連中を連れてくるんだけど、ある意味では大学病院のコピーを作ろうとしたんです。病理やなんかも東大から引っ張ってきた。研修重視の姿勢も僕なんかより先に強く打ち出してます。だから、<0231<大学に対抗して医局う作る路線だと言ってもいい。東大での医局解体路線がそういうかたちに”止揚”された。それと、外科は手術するんだから、病院でないとやれないでしょう。在宅だけでは立ち行かないんです。
 近代派ということで、徳洲会も途中から来てるのよ。」(市田・石井[2010:231-232])
 地域医療研究会に「代々木系も最近はけっこう来ます。初期にはしかし、共産党に近いけどもろに代々木ではないという若月さん(佐久総合病院)と早川さん(堀川病院)が、地域医療の先輩、先駆者として来てくれたぐらい。」(市田・石井[2010:234-227])
 →若月 俊一早川 一光

第6章 全国「医療‐介護」戦線へ

 「そうこうしていると、厚生省周辺の連中が慌てだしたんです。こちら主導でマスコミまで乗って世間が騒いでいるから、厚生省御用達文化人みたいなやつらが一派として動きだすんです。省のなかの改革派官僚と組んでね。こっちも喧嘩しながら仲良くという感じの官僚が、あのときはみんな介護保険準備室に群がっていた。この連中と、業界紙なんかにいて、ちょっと厚生省の紐が付いてるみたいなやつが、文化人を引っ張り込んで「介護の社会化を進める一万人市民委員会」というのをやりだす。九六年の夏です。「新しいタイプの市民運動」とかいうことになってるけど、できた経緯は官主導。「ビラまかない、デモしない」、反対運動ではない「提言・対案」型市民運動と称しているんだけど、震源地は役所だし、代表が堀田力と樋口恵子だからねえ。滝上は過激だから、あんな御用達連中なんか相手にできるかって毒づいてた。しかも、行政や行政にくっついている連中からは、滝川のほうが蛇蝎のごとく嫌われていました。近づきたくない人間って思われてた。あいつが司会するならシンポジウムに出ない、なんていう人もいたぐらいです。僕のところにはしかし、委員会が旗揚げ直前にお呼びがかかったんだよ。直前というところがミソでね。準備段階で声をかけるとうるさいし、乗っ取られるかもしれない、けど、お呼びもかけないんじゃあ敵に回すだろうし、というで最後に声をかけたわけ。それで滝川と相談して役割分担することにしたんです。あいつは”そと”で厚生省批判をがんがんや<0286<る。僕は委員会を「統一戦線」と位置付けて、”なか”に入り、主導権を握る。あいつは実業家だから、悪口言われても別に勝つ困らないし、僕は「左翼」でそもそも警戒されているから、仲良くしとくぐらいがちょうどいい。
 作戦はみごとに成功。けど僕のの場合、バックに地域医療研究会をもったことが大きかった。この年の地域医療研究会は八月に神奈川で総会を開いたんだけど、僕が会長だったから、介護保険問題を中軸に据えた同研究会としては最大の集会をやりました。だから最初から、地域医療研究会をまとめて一万人委員会に入れるのは簡単だった。まとめて入れてしまえば、ほかのやつはみんな「個人」だけど、僕だけが学生運動や労働運動でいう「大単産」をもってることになって、発月力は圧倒的でしょう。当時、公的介護について税方式か保険方式かという議論があって、地域医療研究会のなかでも意見が分かれてました。でも僕は第二次ブントのときみたいに、内部論争禁止令じゃないけど内容討議をいっさい押さえ込んで、ごっそり一万人委員会にもってたんです。税か保険か、とりあえずどっちでもいい、とにかく公的介護保険をやらせようじゃないかと説得して、まとめて加入。委員会に名簿をばーんと渡して、「これ全部会員になるからよろしく」。いきなり千人ぐらい入れちゃった。あっちから見れば大組織ですよね。あとはそれをバックに大暴れ。」(市田・石井[2010:286-287])

 「僕は税か保険かはどっちでもいいと公言していたけど、内心では保険方式のほうがいいと思っていたんです。まさに国家論の問題として、〈左翼=社会主義=国営〉、ゆえに、資本主義下において福祉は税、なんていう「左翼的」図式はもう成り立たない。国家権力でもって富裕層から税を取り立てて労働者に福祉を、という左翼の税方式は、実はうまくいったためしがないでしょう。ソ連でさえ医療は社会保険方式だったし、イギリスの国営医療なんてとっくに破綻している。医療や福祉全般をすべて国の政策でもって上から動かそうとすると、どこかで無理がくる。無理だから余計に官僚支配が強まって、腐敗も生まれる。変えるべきときに変えられないで破綻する。自立的なシステムでないと危うい、と思ってました。日本の場合は医療をすでに保険方式でやってきてるから、税方式の介護なんか導入したら、医療と介護をつなげようがない。税か保険かでわーわーやってたこと、厚生省に近い連中が、とにかく保険でないと実勢にはできないと言い出して、僕も事実上それに乗ったんです。論争を棚上げにするというのとはほんと<0299<はそういうことでね。介護「保険」に協力しながら、そのなかの自分の獲得目標として、医師会にはヘゲモニーを取らせない、という姿勢で臨んだんです。「加齢・疾病」限定のところで争えばいい、老人病院を介護施設に変えさせればいい、と。」(市田・石井[2010:300])

 「しかし医師会勢力の後退は思った以上だったかもしれない。去年はとうとう、日医執行部から中医協に委員を出せなかったでしょう。政権が変わったからというより、何党政権にかかわらず相手にされなくなったと言ったほうがいい。けれどここへ来て、奇妙なねじれ現象も起きてます。介護保険の導入から〇六年の二つの保険の同時改定にいたるまでは、言ってしまえば日医プラス老人病院という”旧勢力”を追い落とすため、旧医学連”左翼”と旧”赤色”官僚、若い改革派官僚、さらには規制緩和派の一部までが、喧嘩しながらも手を組む構図があった。一種の統一戦線がたしかにあった。そこには代々木まで入ってる。日病が小泉に出した「提言」なんて、規制緩和派との喧嘩の産物だけど、彼らとき妥協を成立させて、対”旧勢力”統一戦<0327<線を旗揚げしましたと宣言したみたいなもんでしょう。”敵”からもそれは次第に見えてくるよね。政権交代の後、彼らは民主党にすり寄ってるでしょう。今度は彼らが”左翼”政権と組んで、「介護難民を出すな」キャンペーンをはじめてる。二〇一二年を睨んで「日本療養病床協会」――現在は名前を変えて「日本慢性期医療協会」――の一部に巣食ってた連中は露骨にやってます。「日本慢性期医療協会」の主流は、もう事態の進行の先が読めているから、さっさと新しい流れに乗ってますよ。読めない連中、転進できない連中が、自分たちのところが今日「難民キャンプ」なのに、明日「難民を出すな」、そのため自分たちを守ってください、という「運動」を展開している。日医も民主党支持の人間を会長にしたでしょう。民主党のほうも彼らからのラブコールにまんざらでもない様子。”右”と”左”の連携具合が完全にねじれたよね。二〇一二年にまた医療保険と介護保険の同時改定があり、そのとき介護療養病床はなくなってるわけですが、どういう戦線構造になっているだろうか。政党と政権がどうなっているかまったく分からないし、今、みんなその年をじっと睨みつつ、構えてますよ。」(市田・石井[2010:327-328])

 「社会主義は結局、開発独裁でしかなかったし、左翼は国家論なしに「国家を打倒する」と言ってた。廣松さんだって、マルクスにはネガティブなかたちでの国家論しかないと認めてた。それに、国家を打倒する革命なしに、国家は市民社会のなかに段々と溶けて行っちゃっているんじゃないか。国家は死滅するのか、眠り込むのたかという議論が昔あった。僕は今、「眠り込む」に近い考え方をしてます。あるいは、段々と溶けて行ってるこの現在が「死滅」ということなんじゃないのか、と。」(市田・石井[2010:331])

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2011/01/01 「社会派の行き先・3――連載 62」,『現代思想』39-(2011-1): 資料

◆2010/12/20 http://blog.goo.ne.jp/akisigi/e/5e6841036e513285dffbcbe874a90acd

◆立岩 真也 2011/02/01 「二〇一〇年読書アンケート」,『みすず』53-1(2011-1・2 no.):- http://www.msz.co.jp,

◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2): 資料


UP: 20101207 REV:20101214, 20, 20110108, 0203, 20140824
石井 暎禧  ◇全日本医学生連合(医学連)  ◇東大闘争:おもに医学部周辺  ◇医療/病・障害と社会  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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