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『日本の医者』
中井 久夫 20100925 日本評論社,309p.
last update:20110201
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中井 久夫
20100915 『日本の医者』,日本評論社,309p. ISBN-10: 4535804249 ISBN-13: 978-4535804241 2100
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若き日の中井久夫が、筆名(楡林達夫)で書き下ろした『日本の医者』「抵抗的医師とは何か」『病気と人間』の三作を完全復刻。日本医学界への真摯な問題提起の書。刊行後ほぼ半世紀を経た今、日本の医学・医療は進化したか。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中井 久夫
1959年京都大学医学部卒業。現在、神戸大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■目次
◆第一部『日本の医者』(初出 『日本の医者』楡林達夫・小山仁示編、1963年 三一書房より抜粋)
日本の医者
1 医者というもの
(1)日本の医学界
(2)医師の生いたち
(3)医学博士
(4)医者になってはみたものの
2 医学の発展のなかで
日本の医療の未来像
1 問題のむつかしさ
『日本の医者』あとがき
◆第二部「抵抗的医師とはなにか」(初出 楡林達夫『抵抗的医師とは何か――新入局者への手紙 あわせてほかの僚友たちへ』岡山大学医学部自治会刊行、1963〜1964年頃)
全文:
http://www.edu.hyogo-u.ac.jp/iwaik/teikou.html#0
上記HPの冒頭にあった文章
「この文書は、1963年(昭和38年)〜1965年(昭和40年)頃に西日本の医学部を中心に各大学の学生自治会等を通じて全国の大学生に配布された“パンフレット”である。医学生および青年医師に対して、旧来の医局講座制に対する抵抗を呼びかける内容となっているが、その知的な冷静さと人間に対する暖かい視線は、当時の、あるいはその後1968年の医師国家試験ボイコットで最高潮に達する医学部闘争における同種のパンフや所謂アジビラと比べて、極めて異色のものである。
著者の楡林達夫氏については、本文冒頭に出てくる『日本の医者』(三一書房、1963年)、『病気と人間』(同、1966年)の共著者の一人という以外に確たる情報はないが、今日にいたるまでその消息について根拠に乏しい“噂”が様々に語られてきている。曰く、市井の眼科開業医として今も淡々と臨床を続けているとか、あるいは、その後東欧に留学中プラハの春に遭遇し消息を絶ったとか、はたまた結局は守旧的な医学部教授におさまったとか。私としていま言えることは、近々、楡林氏のその後の歩みが明らかになりそうな気配がある、ということである。その見通しが明らかになった際には、このページ上でご報告することになろうかと思う。
なお、ここに掲げた本文は、1993年頃に故・安克昌先生――阪神・淡路大震災後の救援活動経験に基づいて書かれた『心の傷を癒すということ』(現在は角川ソフィア文庫)でサントリー学芸賞、2000年39歳で逝去――が、“デジタル写経”と称してパンフレット現物からワープロ原稿に起こしたものである。明らかに打ち間違いと思われる部分もあるが、筆者(岩井)の個人的感傷からそのままにしてある。
2010年3月30日 岩井圭司★ 記」
(1)第5章への序
(2)期待されない医師
(3)あなた自身の組織論
(4)入局を前にして
(5)波にのまれて若年寄
(6)幸福な科学技術=医学
(7)閉鎖的な人間関係
(8)あなたのうちなる「医局」
(9)天上の炎を盗む
(10)ゲリラの4原則
(11)持久戦の日々
(12)共犯者の痛みから
(13)抵抗的医師の日常的生活
(14)研究労働者の地位確立
(15)と億型低い声が
(16)新しい連帯の胎動
(17)両面作戦
(18)革命家は別の入り口へどうぞ
(19)もう若くない「あなた」にも一言
(20)残されざるべき死
◆第三部『病気と人間』(初出 『病気と人間――医学・医療の社会的背景』楡林達夫・小山仁示・金谷嘉郎共著 三一書房 1966年 楡林達夫/中井久夫担当箇所を抜粋)
『病気と人間』まえがき
病気とのたたかい
1 病気をなくすために
2 人類の歴史と病気
3 病気と医学
(1)伝統的な医療技術
(2)医療の近代化
(3)科学としての医学
4 のこされた問題
(1)医学・医療技術として
(2)医療体制として
日本の医療
1 今日の医学
2 医療のなやみ
(1)日本の医療構造
(2)医療のシステム
『病気と人間』あとがき
◆第四部 楡林達夫『日本の医者』などへの解説とあとがき
■引用1
(山田真『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』p.61、青医連中央書記局編『日本の大学革命6 青医連運動』p.18でも引用されている箇所)
*青医連中央書記局編 19690920
『青医連運動』
,日本評論社,日本の大学革命6,430p. ASIN: B000J9L1PA
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h01. ms.
*山田 真 20050725
『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』
,ジャパンマシニスト社 ,216p. ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890
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※ ms.h01.
「端的な例をあげれば、ある大学病院では教授が、正常妊娠子宮を、(忙しいためにこんなバカなことが起きたのでしょうが)子宮筋腫と誤診したので、主治医は真実を知りつつ、若い未来の母から一切母性となる可能性を奪う全剔出を敢行したのです。名ざしはしないが、事実については責任を持ちます。
あなたが入局後五、六年たつうちに、あなたもまた、怯ゆえに患者を見殺しにする痛切な体験を必ずや持つでしょう。持たなければ幸運か、それともあなたの眼が見えなくなっているからです。私にはあります。
もちろん、日本の医療技術は、世界の医療技術の一環として、制度の如何をこえて、無数の生命を救い、病気を着実に治るものとしてきました。しかし、そのかげで、制度による無数の「殺人」もまた、ひそかに行われてきたのです。医師が、いかに医局での連帯感にひたろうとも、そのことは、他の医療労働者や公衆との断続・孤立のみならず、人の生命のひそやかな犠牲の上に成り立っていることをも知らねばなりません。医師は「医学」からすらも疎外されねば、医局の中での連帯を長期的にはつらぬけません。平たく言って、現場よりも大学、患者への献身よりも医局への忠誠を高く評価する「医局」では、「医学」から疎外されまいとするあなたの意思はいつかそれと矛盾・衝突するでしょう。
このことを知った時、私と医学界との連帯は終わりました。
私は、翌日から別に変ったことを始めたわけではありません。しかし、私の周囲の状況は、まったくそのままでありながら、突然相貌を変えて、私は、敵の首都にまぎれ込んだスパイであるかのような、孤独な自分を感じました。私はこの時から、別の医師――あとから知ったある医師集団の表現にしたがえば、「黒い医師」になりました。高度の医療技術を前提とする近代医学の実践の場を、現存の大学病院中心の現行制度の外にもうひとつつくることは白昼夢なので、私は大学をうごきませんでした。
あなたも、いつか、そういう孤独を感じる状況におちいるかも知れません。すでに予感しているかも知れません。しかし、予感と実感とは別です。そえは本当の孤独、さしあたり誰にも訴えようのない孤独です。医師は、公衆や他の医療従事者から、遠く遠く、切り離されているのです。連帯を離れることは一瞬だが、ただちに別の連帯に入れるわけではない。それは長くくるしい創造的努力ののちにやっと生まれるものなのです。しかし、おそらく、日本における正しい医師への復帰のみちは孤独を感じることから始まります。あなたは、なによりもまず、孤独に耐えてゆくようにしなければなりません。」(第二部『抵抗的医師とは何か』p.106-7)
「あなたが革命家であることはさまたげにはならないでしょうが、しかし、医師よりもまず革命家であると自覚するならば、医学の領域でたたかうよりも、せいぜい資本主義社会の
栗を喰む手段
にとどめておくべきでしょう。
それは第一に、革命家も医師も、きっちりした時間割の限度で動くのではないショウバイであり、それを二つ重ねてあなたの二十四時間におさまるとは到底思えず、二つは相互に殺し合うでしょう。
また、医療は社会を根本的にかえる主要な側面ではないが、革命家のおちいる一つの初歩的な誤まちに、自分のたたかっている局面を変革の主要な側面と錯覚しがちなことがあります。そういうあなたの苛立ちははっきり言ってわれわれのたたかいに有害です。そうして局所的な戦いは、しばしば収拾が重要であり、壮大なキャンペーンを組んでそこに含まれている問題の一切を、オモチャ箱をひっくり返すように一切合財くりひろげてみせたい誘惑とたたかう自制心が必要です。この自制心がなかったため、キャンペーンの火元のその後の運命はしばしば前にまさって悲惨であり、それが革新陣営への公衆の不信のみなもとの一つとなっていることを忘れないで下さい。」(中井(楡林)[1963-4?→2010:126]、下線部は傍点)
◆中井 久夫 20100925 「楡林達夫『日本の医者』などへの解説とあとがき」,中井[2010:282-308]
「私が京都大学医学部医学科に在学したのは昭和30年4月から34年3月である。」(p.286)
「昭和32年の夏からは眼科の診療助手をした。そこの顧問をされていた大学眼科の助教授にずいぶん丁寧に教わった。しかし、その眼科診療所に労働組合が出来て、何と私が初代組合長に選ばれてしまった。私は法学部時代の労働法の知識をせいいっぱい動員して、団体交渉には私がいつも労働協約の素案(たたき台)を作成した。」(p.286)
「私は、自分が札付きになっているに違いないこの街からいったん消えようと思った。私は大阪大学付属病院のインターン生(医学に関する実地研修生)となった。」(p.287)
「年が改まって、久しぶりに母校京大に行き、「入局者懇談会」に出た。そこでの話題は、(1)どれだけアルバイトを認めるか、(2)いつ学位をくれるのかの二つに集中した。会の目的上そうなるのは自然であったが、気持ちが暗くなった私はその講堂の地下へと階段を降りた。そこにはウイルス研究所予防治療部があって、クラブの先輩がいた。「日本の医師の士気は最低です」というと、相手は「まぁ、落ち着け」と返し、「ウイルス研究所物理部に助手の席が一つ空いている。そこはどうか」と言った。私は先のみえない長い無給生活の想像世界に明るい光が射す思いがして、「それもいいな」と答えた。」(p.288)
「たまたま、私のすぐ前で、教授が私の指導者で10年先輩の助手を連続殴打するということがあった。教授の後ろにいた私はとっさに教授を羽交い絞めした。身体が動いてから追いかけて「俺がこれを見過ごしたら一生自分を卑劣漢と思うだろうな」という考えがやってきて、さらに「殿、ご乱心」「とんだ松の廊下よ」と状況をユーモラスなものにみるゆとりが出たころ、教授の力が抜けて「ナカイ、わかった、わかった、もうしないから放せ」という声が聞こえた。
これだけのことであるが、しかし、ただでは済まないだろう。その夜、私はクラブの部室を開けて、研究所の全員を集め、「今までもこういうことがなかったか」と詰問した。「あったけど、問題にしようとすると本人たちがやめてくれというんだ」「私はけっしてそうはいわない」ということで結局、教授が謝罪し、講座制が一時撤廃され、研究員全員より成る研究員会による所長公選というところまでいった。(…)5階建ての新ウイルス研究所棟の部屋割りを3時間でやり遂げたまではよかったのだが、そのうち、若い者たちが所内の人事を左右するような議論が横行するようになった。私は、革命後の権力のもてあそびは、こんな小さい改革でも起こるのだな、とぞっとして、東大伝染病研究所の流動研究員となって、東京に去ることにした。(…)研究員会のほうは「京大V共闘」となり、学園紛争の波の中に溶けて行ったと後に伝え聞いた。」(p.290-291)
「『日本の医者』の反響は4つだった。
まず、版元を介して私の了解を求めてから、京都の下宿まではるばる訪ねてこられた
近藤廉治
先生という精神科医があった。
第二は、東大伝染病研究所第一ウイルス部、私が身を寄せた研究室の室長さんで、ご機嫌斜めであり、もう二度と一切ものを書くなといわれた。
第三は、厚生省では歓迎されて回覧しているといううわさだった。誰が教えてくれたのかは記憶にない。なるほど厚生省では医局制批判が歓迎されるのだなとわかった。(…)(p.293)
第四の反響は、岡山大学医学部の自治会から来た。当時は、それまで学生運動の外にいた医学部が学生運動に呼び込まれつつあった。インターン制度廃止を訴えるのが大勢であった。ただ、岡山大学医学部自治会だけはインターン制度強化を訴える独自路線を打ち出していて、自治委員長が私に会いに来られた。私は、インターン制度廃止は易きにつくもので、医学生に媚びるものだと感じていたので大いに共鳴して、多分、その時にとったメモや下書きをもとにして書き上げたのが、「抵抗的医師とは何か」である。それは岡山大学医学部自治会の費用でしゃれたパンフレットに仕立てられた。ただ、医学生運動の中では反響を呼ばず、ごく少数派に止まったと思っていた。」(p.295)
「『日本の医者』の読者でただ一人、京都に訪ねてこられた近藤廉治先生には今日まで御親交をいただき、後に精神医学の多くを実地に学ぶ師の一人になった。時々、淺草の大道芸見物などに誘って下<0300<さった。私の硬さをほぐそうと思われてのことであったか。
とにかく、私は、今後の身の振り方を決めなければならなかった。助手という地位を差し出すというと、京大ウイルス研究所はにわかに私に好意的になって、臨床ならいるでしょうから、と学位を出すといい、私は未発表のデータをまとめ、岩波から出ていた『生物医学』に投稿した。[…]
年度末までの短期間、私は伝研に研究に来ていた東大小児科の医師の紹介で、東京労災病院の神経内科と脳外科に一か月ずつ見学に行った。私は精神科もたずねてみようと、近藤先生にお会いしに行った。先生は、「おお、それを言いだすのを待っていた」と言われ、「あなたには東大分院神経科の笠松教授のところがいい。あの大きな頭であなたでも受け入れるだろう」と言って紹介の労をとって下さった。」(中井[20100925:300-301])
「この第四部をコピーしていると、神戸大学の精神科医たちが目ざとく見とがめた。筆者が誰だかわからなかっただけで、長い間読みつがれてきたのだそうである。特に岡山大学医学部自治会が刊行したパンフレットはコピーを重ね、打ち直され、インターネットでも読めるようになっているという。私の方はそうとは知らなかった。精神科医たちは復刊本にもペンネームを出してほしいと強く求めた。どうやら楡林達夫は別人格を持ってしまったようである。」(p.307)
「1966年春から私は東大分院で精神医学の初歩を学んでいた。」(p.303)
「東大を中心に学園紛争が盛んになった。1968年は、世界的に「学生反乱」の年だった。東大の<0303<精神科は、病棟を占拠して立てこもる赤レンガ派と精神医療をもっぱら占拠されなかった外来で継続した外来派とに分かれて、20年続くことになる。
赤レンガ派は、助手を公選することにし、分院では私も候補にしていると聞いて、私は赤レンガ病棟に出かけて行った。[…]
当時、青木病院の専任であった私は薄暗い廊下で占拠組の一人と会った。当時は医局長をなぐった、なぐらぬの話題の人であった。私は辞退の旨を告げ、彼は私のペンネームを挙げて、楡林達夫を超えてみせると語り、私は「お手並み拝見」と言って立ち去った。彼はとうに故人である。多くの人たちが世を去っている。
私は敗戦のショック以来、一切の党派に属さない決意をしていたのであった。ショックとは、敗戦ではなく、それは予期していて、ただ終わり方がわからなかったのだが、人々の一変ぶりに驚嘆した。私はそう器用にはゆかない。」(中井[20100925:303-304])
東大分院病棟医長に就任。
「私は、安永科長に、病棟医長に就任の翌日、答申した。要するに、占拠という事態となれば病棟管理権は認めても主事医権をはじめ医療関係の決定権は病棟のスタッフが掌握するという内容であり、私は誰が来ても、これで説得する自信があると断言した。安永先生は「それでゆきましょう」といわれた。<0305<
占拠は起こらず、その代わり、赤レンガの中から一人、分院に移る希望の人が名乗り出た。そして、代々木病院からは一人を研究生として採用してほしいうという申し出があった。両方とも採用した。二人が地下の医局で酒を酌み交わすまでには何か月もかからなかった。
そして、私は三年後、名古屋大学精神科医局の助教授に選ばれ、東京を去った。私はかねがね患者を先頭にたてる運動に批判的であった。その直後の病の悪化を憂えたのである。私は「翌日の医者」になることにした。時には、患者を交えた集会の設計について助言を求められることなどもあったが、これらは全く別の物語となろう。要約すれば、私は私は一九八〇年から一九九七年まで神戸大学医学部精神神経科の教授をつとめた。その期間について、私は大きくない手中の権力を活用することに努めたとしかいうことができない。」(中井[20100925:305-306])
■言及
◆立岩 真也 2011/02/01
「二〇一〇年読書アンケート」
,『みすず』53-1(2011-1・2 no.):-
http://www.msz.co.jp
,
◆
http://pata.air-nifty.com/pata/2010/11/post-2bfd.html
UP: 20110201 REV:20100207
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