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『ここまで』

磯 春樹 編 2010/09/01

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last update:20170501


■ 磯 春樹 編 2010/09/01 『ここまで』

 ※承諾を得て全文を再録しています。

■ほんとは一番家をひっぱっていかなあかんのに、歩けないために家族の人にまかせきりやった、いう気もちが強いです。 田中徳吉

 たなか とくよし
 1953年(昭和28年)7月、滋賀県野洲郡に長男として生まれる。1964年(昭和39年)3月、第一びわこ学園に入所、1966年(昭和41年)2月、第二びわこ学園入所。脳性麻癖で車椅子に乗る。難聴のため補聴器使用。1993年、頚椎固定術施行。
 2001年、胃ろう増設。県立八幡養護学校高等部を1985年、31歳で卒業。17歳頃より「おはなし」を作り始め、1998年春からは、わたぼうし語り部塾で、「語り」を学び続けている。生活面は食事以外は全介助。

 第一章 おさないころ

 一歳か二歳ごろは、まだ、つかまって立つことができてました。
 ほで、おふろあがる時も、だれかに持ってもらって立ってました。
 四歳くらいになって、立つことはできてたけど、歩くことができなくて、野洲病院で手術をしました。でもよくならなかったです。
 毎日、うばぐるまに乗って、にわとりを見るのが好きでした。ナイフではっぱを切ることができてました。それを少しでもにわとりのえさにしようと思ってました。
 ひとりであそんでました。ときどきは、たんぼやはたけを見にいったりもしていました。おとうさんが、たんぼやはたけを たがやしていました。それが、ぽくが外へでる機会やったと思います。
 家には、おとうさんとおかあさんと。おばあさんと、おねえさんふたりがいました。
 おとうさんは大工。なにかをはこんでたみたい。でも、はっきりはわかりません。
 おとうさん、こわかった。ぼくには怒らないけど、家族に怒る。ぼくがわけのわからないこと言うと、「(昼間)家からぼくをどっこもつれていかなかったやろう」て、おかあさんたちに怒る。ほで、家、出て行く。で、半時間ほどたって帰ってきて、神さまに、「わるいことした」て言ってる。ぜったい ぼくを 家からどこにもやりたくない、いうきもちがあって、ぼくを はなさないよ ていうきもちがつよい おとうさんでした。
 学校に行けないことは、別になにも思わなかった。
 家にいる時、宇は書けませんでした。書けるようになったのは、第一びわこに入ってからです。職員に教えてもらいました。
 病気はなかったです。
 家ではごはんはたたみにすわって、スプーンでたべてました。おしっこは、しぴんで、うんちはなにか、おけみたいなのをおいて、うしろからだいてもらって。
 六歳か七歳くらいに、おとうさんが、ぼくの足をなおす機械を、どこかに行く機会があって、その時にそれを、本気になって買ってこようと思っていた。でも、バスに乗りおくれたから、行けませんでした。
 おかあさんは、痛気で家にいなかった時が多かったです。ほで、野洲町の保健婦さんが、おかあさんの病気を調べてたわけ。だから、入院退院のくりかえしやったの。
 そして、おとうさんに、おかあさんとおんなじ病院で手術をしたらっていうように、すすめてくれました。でもおとうさんは、ぼくを手離したくなかった。でも、保健婦さんは、手術があかんかったら、どこか施設に入れてみたらっていう話になりました。それから、おとうさんは反対みたいやっだけど、第一びわこ(学園)に入ることになりました。そのことをぼくはあんまりなんにも思わなかった。

第二章 施設に入って

 岡崎先生が、家まで訪問に来てくれました。そして、保健婦さんに負ぶわれて、第一びわこまで行きました。九歳の時です。
 施設に入るって、たぶんわかってなかったんやないかなあ。ちょっとさみしかった。
 第一びわこ学園での生活がはじまったから、少しびっくりした。生活を変えるのに時間がかかった。第一びわこでは、音楽を聴いたりとか、くんれんとか、つみきあそびとか、字を書く練習をやってました。
 へやの外に電気のあかりがついてたら、もう朝だなあと思って、目をさますこともありました。
 第二びわこに来たのは、十一歳くらいかな。
 若いころは、病気が多かった。しんどかった。嘔吐したり、耳が聞こえなくなったりしていました。ほで、一週間くらいごはんを食べれなかった時もありました。
 でも、今考えてみたら、昔から胃瘻チューブつけてたら、こどもの時もひどくならなかったんやないかなあと思う。だから、昔も今も、ぼくの病気はおんなじだったんじやないかなあと思う。昔はそれを調べる機械がなかったから。もしあったら、おんなじ病気だったんやないかなあと思う。
 養護学校では、楽しい面も、苦しい面も、いろんなことを乗りこえた。ときどきは先生にしかられたこともあったけど、今思えば、そのきびしさがみんなの力になってる。学校に行ったから、今があると思う。車いすを動かして教室まで行くのが毎日あったけど、やっぱりそこはしんどかった。ほで、よく宿題を忘れて怒られてた。でも、学校が終わった時は、もう来なくてもいいなあと思ったら(さみしい思いになった。
 やっぱり、ぼくの生きかたを大きく変えてくれたのは、びわこやと思う。
 電動車いすに乗れるようになったのは、学校を卒業してから。
 ぽで、ぼくは、今の学園の活動が楽しいから、そしてぃ家も野洲町にあるから―もう、野洲市になったけど―、これからもたぶんここにいるんじゃないかなあと思います。ここにいられなくなったら別やけど、それまではここにいようと思います。
 おとうさんは、二〇〇五年の十一月四日に 亡くなってしまいました。ぼくはいっぱいの思い出があって、さみしくなりました。にんげんは いつかはおわるものだから、しかたないと 思います。ぼくは おとうさんの 話し相手に あんまりなれなかったと 思います。ぽんとは いちばん 家をひっぱっていかなあかんのに、歩けないために 家族のひとにまかせきりやった いうきもちがつよいです。おとうさんは ぼくの やりたいことをやっていったらいいていうことを、いつでも言ってました。最近はあたまがぽけてきて、だれがだれなのかわからないみたいでした。ほで、学園のことを 公園 とか言ってました。ぼくは あんまり おとうさんがやかましく言うので、おねえさんと どうしたらいいのか。悩んでたところです。ぼくは 学園にいたら会わなくてすむけど、おね
えさんは 毎日会ってます。だから 呼ばれたらすぐ行かなあかんから たいへんでした。これから 家族で助けあっていきます。おとうさんも ぼくたちががんばったら よろこんでくれると思います。

第三章 今そしてこれから

 ぼくは、やさしい面もあるけど 怒るときはこわい。
 自分のいいとこは、人のことを考えられるところ。わるいとこは、竹内くんに、
 「ごはん自分で食べや」て言うときもあるけど、竹内くんがすぐ怒るから ぼくもむきになって怒ってしまう、人のことを考えずに ぼくの口から出てしまう、いうこと。
 すきな人は、思いやりのある人。ぼくをおちつかせてくれる人。
 すきなことばは、花。すきな花は、コスモス。かわいいから。ほで、さくら。きれいやから。
 夜、ゆめは見ることもあるけど、よく見るゆめはない。見たいゆめはあるけど。
 しょうがいのことは、べつになにも思ってない。しょうがいはあっても 生きていったら それでいいと思う。ほで、しょうがいがない人も、しょうがいのことを考えてくれてるから、それでいいと思う。
 興味は、野球を見たり、新聞の野球の記事を読んだりすることです。巨人のファンです。ほで、歌を聴くこと。森昌子と坂本冬美が好き。さをり織りをやってるけど たのしい。自分で色を決めてやれるのがいいです。
 ぼくは 奈良県の「たんぽぽの家」がやってる語りべ塾に行ってます。そこでいちばん大事にしてくれてた人が亡くなってから、ぼくは変わりました。ぼくはたんぽぽの家に行く前は ちょっと無口だった。それを変えてくれたのは ゆうこさんだった。ぼくは ゆうこさんに出会わなかったら 無口のままだったと思います。それが ぼくは 一番変わったとこやと思います。ほで、その人のためにも 「語り」をつづけています。
 その日の予定は、だれかから聞いたり、グループの予定のところを見たり。字も絵(マーク)もわかる、もっと大きく書いてあったほうがわかりやすいけど。
 今 心配なのは ぼくの今の病気が どんなふうになっていくか、心配です。
 それと、来年度(二〇〇七年度)からの学園は どんなふうに変わっていくか、心配です。
 学園のいやなところは、やっぱり、用があって呼んでも だれも来てくれなかったり、声かけてくれないから、そういうとこは いややなあ。ほで、もうすこし 職員がたくさんいればいいのになあと思う。
 いいとこは、ともだちがいるから。ほで、すこしだけ 自分の行きたいとこへ行けるから。
 不便だなあと思ってることは、道に段差があること。それと、学園の中が、廊下が狭いこと。へやの電気が暗いこと。
 今までで一番つらかったことは、首の手術した時。半年間も入院してた。入院中は首が動かせなかった。手術おわってから、ちょっと、肺炎になった。
 職員に言いたいことは、もうすこし トイレのこととか、考えてほしい。ぽくたちが呼んだら来てほしい。それ七、もうすこし 職員の数をふやしてほしい。それができなかったら、あんまり病気とかで休みをとってもらいたくないと思う。2住棟の園生は、あんまり病気をしなくて、元気で毎日を送ってるのに、なんで 職員が体こわしてんのかなあと思う。そのために 食事の介助とか、まわらなくなる。そういうことは どうかなあと思う。
 世の中の人に言いたいことは、もっとぼくたちのとこに 会いにきてほしい。やっぱり 国からのお金が減って、なんでぼくたちがお金を払わなあかんのか、もっと国の持ってるお金をだしてくれたら、ぼくたちも心配しなくてもすむんだけど、なんでそういうことをやっていかなあかんのかなあと思う。もっと、もう一回、総理大臣が考え直してほしい。ちゃんと しょうがいしゃの前で、はっきりした返事がほしい。

一回ほんとに利用者の立場になって、何日か、一週間
やったら一週間、暮らしてほしいなあと思いますね。

 ◆寺田美智夫

 てらだ みちお
 1965年(昭和40年)7月、滋賀県彦根市に次男として生まれる。1972年より84年まで週2回の訪問教育を受ける。1994年(平成6年)より通園施設「ひこね通園」に通い始め、1996年(平成8年)からは第二びわこ学園での短期入所利用を開始する。長期の在宅生活の後、2004年(平成16年)3月、39歳で第二びわこ学園入所。脳性麻婢で電動車椅子をあごで操作する。近視性乱視のため眼鏡使用。生活面は全介助。

  第一章 おさないころ

 おとうちゃんは、ぼくがいるから、家で商売はじめたんです。それまでは、京都に仕事に行ってたんです。鉄工関係で、ぼくの八つくらいのときです。おかあちゃんとふたりで、注文をうけて。それまでの京都では、あの、竹中工務店の下請けの会社に勤めてたんです。きょうだいはおねえちゃんとおにいちゃんです。
 学校は、あの、ぽくは、訪問教育だったから、一週間に二回やったけど。一回二時間で。八幡養護学校の本校の先生が来てくれました。訪問教育をやったのは、ぼくは小学五年から入ったんです。それから五年間、訪問教育受けたんです。十七、八歳くらいまで。本校に行ったことはありませんでした。学校に行きたいと思うことはなかったですね。先生には、時計の読み方とか、教えてもらいました。それ以外はあまり興味なかったですね。
 けっこう体が弱かったですね。よく風邪ひいてましたね。ぜんそくがありましたね。食べるもんは、あんまりすぎきらい、なかったですね。家ではよくラジオ聞いてましたね。
 親が作ってくれた鉄の箱があったんですよ。緊張がつよいので、そん中で、とんび座りのかっこうで、座ってたんです。
 昼間は、おとうちゃんがやってる仕事場に行ったりしてたんですよ。家から一〇〇メートルくらいはなれたところに。(筋)緊張は、やっぱり今のほうが高いですね。外に行くときは、うばぐるまに乗って。むかしよくあった、籐(とう)のうばぐるま。
 おにいちゃんのともだちといっしょにあそんだことはあります。あんまり、ぼく、人ごみがきらいなんです。
 あの、名古屋に、おとうちゃんのおとうとがいるんですね。ちいさいときは、何度かあそびに行ったんですけどね。おじちゃんに、動物園につれてってもらったりしてたんですよ。車のなかでは、ふつうに座席に座ってました。
 おねえちゃんとおにいちゃんは、もう結婚してます。おねえちゃんが結婚したのは、ぼくが十五才くらいのときかなあ。年がはなれてますから。ぽくは結婚したいとは思わなかったですね。
 家では、けんかとかはしなかったですね。ぼくがあんまりほかのこととか、世間のことを知らカかったからかなあ。
 親は、今までよくめんどうみてくれたと思います。これから親もやっぱり年とっていきますよね。そのときにどうなんのかなあと思いますよね。
 ひこね通関に行くようになったのは、ぼくが二十八のときかなあ。訪問教育を卒業して十年くらいは、家にいたんです。たまに来る児相の家庭訪問はあっだけど。そのとき、びわこ学園の、岡田玲さん(*言語療法士)とか、佐藤八郎さん(*言語療法士)とか、もう亡くなっだけど、菅野さん(*ケースワーカー)とかに会ったんですね。
 それから、今から二十年くらい前に、今の学園の理事長の山崎先生が、家に来てくれたんです。まだそのとき、山崎先生は、彦根の中央病院にいはったんです。山崎先生は、中央病院から、信楽の療養所に行って、それから学園に来はったんです。
 通園は、はじめはちょっと抵抗があったけど、行きはじめたらたのしかったかな。通園はぼくにとって、ステップやったんかなと思いますけどね。
 通園に行きだしてから一年か二年くらい経ってから、はじめて第二びわこ学園に体験で来たんですけどね。はっきり言って、こわいもの見たさもあったんです。ぼく、こういう施設てどんなとこか、ぜんぜん知らなかったから。清湖園には見学に行ったことはあるんですけど。今から五、六年前かなあ。

 第二章 施設に入って

 ぴわこ学園に入ったのは、二〇〇四年で三十八(歳)のとき。そりゃあやっぱり、親も年とってきて、介護がなかなかむずかしくなってきて、やっぱりぼくが施設に入って、(家に)いないほうが、親の負担が少なくてすむと思うから。なんとなく自然にそうなったっていうか。学園に入る五年くらい前に、児相に言ってあって、そのときは、順番待ちやって。通園の職員とか、きょうだいとか、いろいろ反対もあったけど。学園には短期(入所)でよく来てたから、まあその延長上かな。
 学園に入ってはじめに感じたことは、やっぱり家からだと、たくましいなと思ったんですね。自分の意見をどんどん言ったり。ぼくは短期(入所)で前から来てたから、来てる時から思ってたんやけど、実際にみんなと暮らすようになって、それは強く思いましたね。
 学園でいやなところは、あの。待ち時間かなあ。食事を待つことはいいんだけど、トイレ待つことはいやですねえ。ほかはあんまりないですねえ。
 いいとこは、やっぱり家やったら狭いから、そんなに車いすで自由に動けないけど、学園やったら一応バリアフリーになってるから、自由に車いすで動けるから、そこらへんがいちばんぼくにとって、いいところかなあ。

第三章 今そしてこれから

 自分のいいところって、考えたことないですよ。いやなとこだらけです。意志が弱いとこ、あるんやないかなと思ったりして。性格も自分では、わるいと思いますねえ。まあちょっと、腹黒いとこあるかなあ。言ってることとちがうこと思ってることもあるから。でもみんなそういうとこあるんとちがうかなあと思うけど。
 理想の人は、やっぱり とくちゃん(*田中徳吉さん)みたいな人かなあ。きちっとまわりを見て 状況判断してますよねえ。それがぼくにはないから、自分も見習いたいなあと思うんです。
 趣味はないですねえ。外で三上山を見ながらボケっと考えごとをするくらいかなあ。
 すきな職員は、元気で明るい職員かなあ。それから、よく気がつく職員ですねえ。
 すきなことば、・・・あんまりないです。
 すきな花はたんぽぽかな。たんぽぽって、枯れたら種が風に乗って飛んでいきますよね。そういうとこがすきかなあ。
 寝てるとき、夢はあんまり見ないですねえ。
 不安に思ってることは、やっぱり、あの、(障害者自立)支援法になって、負担金が増えますよねえ'。やっぱりお金のこと、一番不安ですねえ。それと、これ以上(筋)緊張が強くなったら、車いすに乗れなくなるから、それが心配ですねえ。
 この先の自分については、今考え中、ですね。そんなに具体的には考えてないですねえ。
 自分のしょうがいは、まあ、とにかく、重いと思う面もあるし、そうでないときもあると思います。重いと思うときは、車いすの乗り降りとか、トイレのときかなあ。
 しょうがいがあったからわかったこと? あんまりそういうこと、思ったことないですねえ。
 生活で不便なことは、この学園で言ったら、エレベーターが自分で乗れないから、それが不便です。
 体のことで不便なことは、(筋)緊張があるから、やっぱり、なかなか車いすに乗りにくいしねえ。そういうことですかねえ。
 予定なんかは、(グループの)朝の会とか、食堂の白板とかで、だいたい見たらわかりますよねえ。耳からはあんまりないです。それで不便に感じることはあんまりないけど、急に変わったりする場合があるから、職員が落ちたり(*休むこと)すると、勤務配置が変わったりするとこ、ありますよね。でも白板変わってないから、白板も変えてほしいなと思いますけどね。
 職員に言いたいことは、一回ほんとに利用者の立場になって、何日か、一週間やったら一週間、暮らしてほしいなあと思いますね。たとえばぼくやったら、車いすに乗ってますよね。それを職員にも経験してほしいなと思いますね。世の中の人に言いたいことは、もっと施設というものを、どうなんかということを、みてもらいたいですね。いろんな意味で。もっと知ってもらって、ぼくらがどういう生活してるのか 知ってもらいたいですね。


■わたしが生まれてきてよかったのかなて、ときどき思う。生まれてこなかったら、おとうさん、苦労しなくてよかったのにって。

 橋村裕子

 はしむら ゆうこ
 1960年(昭和35年)10月、広島県に父の長女として生まれる。1965年(昭和40年)、同県内の児童福祉施設に入所、父の転勤に伴い1970年(昭和45年)、山口県の施設に入所した後、1981年(昭和56年)7月より第二びわこ学園に入所。脳性麻婿のため車椅子使用。1999年、横紋筋融解症を患う。学籍はないが、音声補助装置「レッツ チャット」をスイッチ操作し文章作成が可能となる。生活面は全介助。

  第一章 おさないころ

 何歳かわからないんだけど、たぶん二歳くらいかな、わかんないんだけど、おとうさんが家にいて、家の近くのおまつりかな、つれてってくれはったんかな。花火、でっかかった。大きな打ち上げ花火。きれいやったなあって、思ったことがあった。
 家は広島県のおとうさんの実家。おとうさんと、おばちゃんと、いもうと。そのときはお母さんは離婚して、いなかった。
 おとうさんは、レンガの工事の監督さんみたいなんをしてた。いろんなのをやってるから、ようわからん。今は水道工事の職人。おとうとがいるねんけど、(*再婚したおかあさんとの間に生まれた義弟)いっしょにやってるみたい。
 おじいちゃんが近くにいて、「ゆうちゃん、あそびにきたよ。どっか行こか」とか言って、うちをかわいがってくれはって。おじいちゃんは亡くなったんだけど、うちは小さかったから、亡くなったことがわからへんかってん。
 学校には行きたいなあって思ってた。行ったことはぜんぜんないよ。山口(県)のときも、あかんかってん。年齢が上になってたから。「みよこだけ(妹)、なんで学校行くの、うちも行きたいよ」。ほんなら、おばちゃんが、「ゆうちゃんはあかんねや」て言った。なんでかな、こどものとき、わからんかった。なんでわたしは行けないんかな、て思ってた。ちっちゃかったからかなあ。からだが未熟児で生まれてきたから。ちっちゃい、ちっちゃい、ちっちゃかったから。ものすごく軽かったから、おじいちゃんがだっこしてくれはった、五歳ごろの写真あるよ。
 上向きで寝かされてた。ざぶとんの上とか、乗せられてたみたい。ごはんは、おはしでつきさして、上向きで喰ってた。
 五歳のときに、おとうとが生まれて、かわいくて、おとうとがあちこちついてきてくれてん。再婚してからのきょうだいもいてる。いもうととおとうと。ふたり。いもうとのみよこは養女に行った、おとうさんのきょうだいのとこへ。うちとおとうとは、おとうさんがひきとった。
 だけど、うちにしょうがいがあるということがわかったから、おとうさん、苦しんだと思うよ。いろんなとこに行っても、わからへんかって、結局わかったのは、広島の病院で、「しょうがいがあります」って言われた。おとうさん、どうしようって思ったらしいよ。悩んだらしいで。あとでおばさんに聞いたら。
 「ゆうちゃんは、あかちゃんのとき、死にかけたんだよ」って。いろんなとこへ、うちをかかえて、あちこち行ったらしい。その当時、おとうさん、若かったからよかったけどね。まだ二十五歳のとき。わたしが生まれてきて、よかったのかな、てときどき思う。生まれてこなかったら、おとうさん、苦労しなくてよかったのにって。

  第二章 施設に入って

 施設に入ったのは、はじめは広島県にある、若草園。五歳のとき。こどもばっかりで、保育園みたいな感じ、保育室があって。大きくなったら出ていかなあかん。
 なんで、わたしがここにいなくちやいけないの、おうちに帰りたいよって、うちは思ってたげど、だんだんともだちがふえてあそぶようになって、わたしは男の子のなかであそんでた。
 仮面ライダーごっことかして、あそんでた。変身のベルト、あったやろ。それがほしくて、おとうさんに買ってて言ったら、おとうさんがびっくりして、「ゆうこは女の子なのに、そんなのがほしいんか」て言って。買ってもらったときは、うれしかった。
 上向きで足でけって、動いてた。一番なかよしの女の子といっしょに、廊下のところで競争してた。
 九歳のとき、おとうさんが仕事の関係で、山口(県)に引っ越したみたいで (わたしも)山陽荘に移った。九歳から十九歳まで、そこにいた。そのあと、おとうさんは滋賀県に来たみたいで、山口のときには、面会に来なかった。おとうさん来ないし、なんでわたしだけおとうさん来ないのって、ものすごく広島のおうちに、おとうさんのおうちに帰りたかった。
 「山陽荘」でも男の子のなかで、いろんなあそびしてた。女の子のなかでは、あんまりあそんでなかったなあ。ままごととかやってたけど、おもしろくなかったなあ。いつもあかちゃん役ばっかりやし。仮面ライダーごっこでは、怪物の役とか、仮面ライダーとか、ウルトラマンの役とか、隊員の役とか。今日、何の役しようかって。「ゆうちゃんは怪物の役やってくれるか」って言って、「うん、いいよ」って言って、いつもやられてばかりやった。けど、ほんま、よかったわ、男の子がけっこういて。
 (筋)緊張があって、ごはんのときとか、しんどかったわ。なかなか口開かへんし。いすにすわって、それがなかなかすわりにくくて、やっとこさ乗って。
 第二びわこ学園に来たのは、おとうさんが滋賀県にいたから。ほんまは移りたくなかった。それが十九の、六月のおわりごろやった。(山陽荘の)婦長さんていう、看護婦さんのえらい人に言われて。
 はじめ、学園に来たとき、こわかった。男の職員さんがたくさんいて、ちょっとこわかった。山口のときは、ひとりしかいなかった。はじめのころ、行事係やってた。とくちゃんが「やってみいひんか」って言って入ってん。その当時わたしが泣いてると、「泣いたらあかんやんか」とか、やさしく言ってくれはって、「ゆうこさん、行事係やってみいひんか」って 声かけてくれた。「いろんな行事 まとめていくんよ」と言われて、おもしろそうやなと思ったから、係になって、おもしろかった。
 学園に入ったころ、ソワくんとか、ヤスイくんとかと 夜おそくまでテレビ見てたり話したり、談話室があったやろ、あそこに行って。おもしろかったわ。
 おとうさんは なんでおかあさんと離婚したのかなと 今でも思う。わたしが生まれてきたからかな、だから離婚したのかなと思うんだけども。おかあさんに会ってみたい。今、東京にいる。東京のどこかにいてる。
 前の学園に、おかあさんのきょうだいの、おばさんていう人が会いに来てくれたの。わたしが学園に入って二年経ったころ。おこづかいくれたの。「ゆうこ、これあげるしな」って言われて、「それなに?」つて聞いたら、お金やった。そんなこと、ふつうはないやろ、おこづかいくれたりなんて。あれはぜったいうちを産んでくれたおかあさんやと思う。だって、お金とか、服とか、くれるわけないやろ。あれはぜったい、おかあさんやと思ってる。二回来てくれた、同じおばさん。二回めはこどもといっしょに来てくれた。大学生の男の子。あれ、もしかしたらおとうとかな。おかあさんが再婚した人のことは知らんけど。

  第三章 今そしてこれから

 わたしの性格は、いいとこなんてなくて、わるいとこばっかりやとおもう。わたしは 一回思ったこと、やりたいことができたら、あとには引けなくって、とことんまで行かないとだめなの。すきな人ができたとして、もうあきらめなあかんのに、うじうじしてわすれられなくなったり、ほんとはすきなのに、いやなこと言ってしまって相手を怒らせてしまう。とことんまでいかないといやなの。おとうさんにもそういうとこ、ありそう。自分のどういうところがすきっていわれても。みんなきらいなの。理想の人は、ピアカウンセリングのカケイさんみたいな人。
 すきな職員は、やさしい人で、利用者のことを考えている人。
 すきなことばは、愛、心、大地。
 すきな花は、さくらかなあ。花のひとつひとつはちっちゃいけど、大きな木になるから。
 寝てる時によく見る夢は、あるよ。職員が出てくんの。夢の中で、朝起きたらいてんの。夢の中で結婚したの。わたしのおとうさんがクボタさん(*職員)で、おかあさんがヒロッチャン(*職員)なの。だんなさんは仕事に行くやん。そしたらうちだけになるやん。でも、うちも仕事に行こうかなっていったら、
 「ああいいよ」って言ってくれて。うちは、学園内の養護学校の先生やってるんです。すきになるとこから夢が続いてんの。いろんな人が出てくるよ、夢の中に。ほんで、うちのおなかの中に赤ちゃんができて、女の子が生まれて、だんなさんがわたしの代わりに育児してくれてる。おむつ替えたり、ミルクやったり。その子の名前はタカコちゃん。だんなの名前からひと文字取ったの。おとうさんとおかあさんといっしょに暮らしてんの。
 これから先の自分は、ひとりぐらし、してみたい。時間がかかるかもしれないけど、遠い将来かもしれないけど。おとうさんとかには、まだ言ってないけど。
 その日の予定なんかは、ホワイトボードの予定表とかで。シンボル(マーク)はわかるし、ひらがなはだいたいわかる。漢字もかんたんなのはわかる。むずかしいのはだめだけど。カタカナはちょっとわかりにくいのもある。ひらがなは、「ね」と「れ」と「ぬ」があかんねん。「パソコン。(の活動)」のときに、ヤマモトヤマ(*理学療法士)が教えてくれるから、だいじょうぶやけど。
 今までで一番つらかったのは、病気した時。筋肉が溶ける病気した時(*横紋筋融解症)。あの時はほんとに力が抜けなくて、どうにもこうにもできなくて。ごはんは食えなくなるし、体重は減るし。口あけようとしたら、舌を噛んでしまうし。一年くらいかなあ、もっとかかったような気もする。四ヵ月くらい個室にこもってた。やせてるわたしなんて、だれにも見られたくなかった。会いたくなかった。ほんで、だんだんよくなってきたのは、薬の関係もあるけど、自分のきもちがおちついてきたからかなあ。迷惑かけっぱなしでごめんなさいって、みんなに言いたかった。
 職員に言いたいことは、前にも言ったけど(*自治会係会で)、このごろ職員が雑です。おトイレのときとか、服の着がえのときとか、忙しいのはわかるけど、そんなにあせってしなくてもいいんじゃないかと思う。夜はふたりしかいない(*勤務者)のはわかるけど、雑にやることではないと思う。それと、職員のことばづかいが悪い。まねする利用者もいる。やめてほしい。へんなことばづかいとかやめてほしい。わたしもときどきまねしてんのかなあと、ふと思う。だからわたしも気をつけてるんだけど。そういうときは、怒ってくれたらいいよ、「今のことば、あかんよ」つて。でもなるべく言わんようにしてる。
 世の中の人に言いたいことは、なんで、人を殺したり、死んだり(*自殺)するのかなあ。せっかく生まれてきたのに。悩みとかあるかもしれないけど、でもそれは、だれかに言ったら解決できるから、人に言えばいいことやん。なんでいのちを粗末にするの。せっかくおかあさんから生まれてきて。いのちを大事にしてほしい。
 ほんで、政治の人に言いたいことだけど、なんで「自立支援法」を作ったの。あんなの、自立支援法じゃないよ。お金かかることばっかり。いいかげんにしてほしい。そんなのいやです。お金ないときだってあるやん。払えないやん。なにが自立支援なのよ。いいかげんにしてほしい。お金ない人だっているのに。たぶんこれから、おじいちゃんやおばあちゃんとか、ふえてくるのに、はたらいてないのにどうすんのよ。そんなのは、なくしてほしい。
 おとうさんにも言いたいことあるんだけど、おとうさん、わたしを育ててくれて、ありがとう。わたしがうまれたとき、どんなこと思ったのかなあ。しょうがいがあるとわかって、愕然としたんじゃないかなあ。でもおとうさんは負けなかった。わたしを施設に入れて、おとうさんは毎日毎日仕事がんばってくれた。ほんで、服ほしい、あれほしいとか言ったら、面会のときに持ってきてくれた。うれしかった。だんだん大きくなってきて、おとうさんの考えてることもわかってきて、このごろは、仕事あんまりできないようになっちゃったけど、体だけは大事にしてほしいと思う。長生きしてほしい。


■こういうことを ゆっくり聞いてくれる人がいると、ぼくの話がよくわかるし、ぼくもおちついて聞けるなあと思う。 明光志郎

 みょうこう しろう
 1955年(昭和30年)11月、滋賀県大津市に四男として生まれる。1963年(昭和38年)8月、第一びわこ学園入所、1966年(昭和41年)2月、第二びわこ学園入所。脳性麻婢で電動車椅子をあごで操作する。1966年より11歳でてんかん発作を発症。1985年、県立八幡養護学校高等部を29歳で卒業。生活面は全介助。

第一章 おさないころ

 あにきが めんどうみてくれた。ぼく、ちっちゃいとき、あにきがめんどうみてくれた。卜イレもずーっと。かぜひいたときも。上のにいちゃんが学校から帰ってきて すぐ さんぽにつれていってくれることもあったし。おとうちゃんが いいひんかったとき、ふろも こうたいこうたいで 入れてくれた。だっこして。家の外に ふろもトイレもあって、そこに行って 寒いときも おふろ入った。木のおふろで、丸いおふろ。寒いときもあったよ。トイレは ちいちゃい子みたいに、うしろからかかえて。トイレ(*感党)は自分で わかってた。
 家には おばあちゃん、おとうちゃん、おかあちゃんと、三人あにき いてた。あにき、けんかしてた。三番目のあにき、ぽくだけかわいがってくれた。今はバラバラでいる。長男だけ あとつぎで 家にいる。次男坊は響察官。にいちゃんの子どもは かわいいと思うけど、半分にくたらしい。
 ごはんは あおむきで たべさせてもらってた。すききらいは あんまりなかった。今は エビが あかんけど、家では、……ごはんに出なかった。第二びわこ学園に来たとき、先生に見てもらって、自分でたべてみ、言われて、(筋)緊張の不随意でたべてた。うつぶせで。あちこち いたかった。
 おとうちゃんは やかましかった。ぼくのことで。いつまで 家にいるのかて。ちょっと おかしかった。はやく(施設に)入ってもらいたい、いうことかて、ぼくは感じた。おとうちゃんは 会社ばっかり。近江神宮にある 京阪の車庫の整備員。次の朝の電車の点検。仕事は朝から次の日の朝まで。
 おかあちゃんは ぼくがいてたから 家にいてたけど、ぼくが いなくなってからは、競輪とか競艇のきっぷ売りではたらいてた。
 ことばは しゃべれてた。しゃべってるけど ちょっと しんどいと思ってたんだけど、今は楽。職員が聞いてくれるから楽。
 学校は行きたかったけど、あんまり 行けるのかなあとか 思わなかった。最近になったら くやしくてたまらなくなった。あにきの子どもみて、ちょっと なまいきになったりとか、えらそうにしてる。くやしい。友だちつくって、友だちで話したり、友だちと出て行く。何日にでかけるか、友だちと電話してると、ぽくも 学校に行けてたらよかったなあ、いいないいな、と思ってた。

 第二章 施設に入って

 施設に入ったのは、はじめは第一びわこ(学園)で、北病棟で、立ってる人のとこだったから、こわかった。
 入ってちょうだいとか言われて、朝礼みたいな、おゆうぎみたいなかたちであそんだりとかしてた。その時はもういっぱいいてて、職員がたったひとりでみるから、立ってる人とか ようけ いてたから、知ってる人の顔(*利用者)、おぼえとかないと、どの人にしゃべったらいいのか わからなくなって。泣き虫だったので、立ってる人が目の前にくるので、こわかったし。畑とかもやったけど、うたばっかりうたったり(おゆうぎばっかりやってた。
 小学校(*八幡養護学校の小学部)はこわくなかっだけど、中学校は、まあまあよかったけど、高校は、先生がきびしくて、ぼくだけ、算数のときはぼくだけ、別行動で、徹底的に、お金とか、時計とか、おしえてもらった。ワープロの作業も、ぼくだけ別行動でやってたから、あんまりみんなで共同でするとか、しなかった。修学旅行とか体育祭とかだけは、「みんなで行動しましょう」、やった。いちばんの思い出は、みんなといっぱいのなかで、たのしかったわ。怒られたりとかもあったけど。

 第三章 今そしてこれから

 ぼくのいいところは、やさしいとこがある。だれか病気したりとか、泣いてるときとか、やさしくする。わるいとこは、怒ること。ものすごく怒って(へやを)出て行ったりとか。いじめてないのにいじめてると思われたりとか、職員が少ない時とか、ころころ変わる時とか(に怒る)。
 性格は明るい。暗いときもあるし、怒ってるから暗い時もある。今は明るい。
 電動車いすに乗れ(るようになっ)てよかった。
 今はもう大人だし、あんまりくよくよ悩んでもしかたないけども、もうちょっとかしこくならないかなあ。そのために 前の「一組」(グループ名)みたいなとこに入れたらええなあと思うことあるよ。くまとりくんとか、おおいしくんとかとおしゃべりしてて、作業もできてて、いいなあと思ってた。今はワープロは、リハさんから、首のこともあるし、やめといたらと言われてる。
 学園のいやなとこは、事務所が大人のあつかいになってない。ぼくが入っていったら、すぐ出て行ってもらいたいから荷物(住棟への搬送物)わたす。ぼくが入ってきても、・手を休めてくれない。こんにちはとか、おはよう、とか言ってくれない。
 それから、看護婦さんがグループに入れない(*グループの看護師は所属グループに入ってほしい)。他のグループ職員が入る時に、「いるか座」はどういうことをやってるか、開かはる。いちいちいちいちこうこうでと説明する。あれいやや。ひつこく聞かはるから。
 家の人が(面会で)(カップ)うどんとか買ってきても、(次に来た時も食べずに)置いたままになってるとか、ブツブツ言う。
 職員から、飲酒のことで 車いすでだいじょうぶかなあと、「やめとき、へやへ帰り」と言われる。ぼくはだいじょうぶなのに。
 学園のいいところは、病気してるときに、看護婦さんがやさしくしてくれるところ。ごはんがたべられないときに、介助とかしてくれるとこ。ほんで、おしっこをたれたときに、ちゃんと服を着がえさせてくれるとこ。夜中にたれたときは、寝間着を着がえさせてくれる。園活(*外出)のときは前もって服を出してくれる。
 これから先のことで心配なのは、ぼく、やっていけるかなあ。ほかの所でほんとにやっていけるかなあ。(*具体的には身体障害者療護施設「清湖國」) お金のことも、ごほんのことも、やっていけるかなあ。
 活動も心配。お金で服を買ったりとか。ごはんもおしっこも 自分で言わなあかん。おとなの施設に入ると ちがう人間になってしまうから、すこしこわい。自分がえらそうな気になってしまうから。職員の人とけんかしてしまうから。おおげんかになってしもて。
 この先は、アパートでいいからリフターがあって、用事がある時だけ呼ぶようなところにも住んでみたい。
 しょうがいのことは、自分はしょうがいをもってるけど、歩いてる人とおなじ人間になりたい。ぼくのしょうがいが重たいと見てほしくない。不自由だけれども電動車いすが足のかわりになってくれてるからいい。ごはんも(ひとりでは)たべられないけど、食堂には(ひとりで)行ける。
 その日の予定なんかは、いるか座のホワイトボードの絵とか写真とか、詰所にいる人を見たり、聞いたり。字はわからないけども、職員の名前は漢字でもわかる。あたらしい人はわからない。
 すきな職員は、美人でやさしくて、力持ちで、病気しないからだでいてほしい。そんな職員。
 不便だなあと思ってることは、自動販売機でコーヒーを買おうと思うとき、ついてくれる人がいたらいいのに。ごはんも(待たされずに)たべさせてくれる人がいたらいいなあと思う。おしっこ取ってくれる人もすぐ来てほしいのに、夜中も待っとかんとあかん。家では おとうちゃんが横のベッドの上にいて すぐやってくれる。あとは 洋服(*更衣のこと)、(ほかの人より遅くまで起きているので)寝るとき 待っとかなあかんこと多い。
 好きなことは、車のこととか。どっか行きたいねん。いつも駐車場で車見てる。
 びわこ学園で、替えズボンとかワイシャツみたいな服着せてくれたらいいなあ。仕事着みたいな、トレーナーみたいなズボンじゃなくて。ぼくも職員も。たまにはおしゃれできたらいいなあと思ってる。ほかには、ビデオ見ること。家とか建物とか風景の。
 学園のなかに、ガラス張りの水糟があって海遊館みたいなのがあったらいいのになあ。花もいっぱい植えたいなあと思う。
 お酒もすき。焼酎。いいきもちになって、緊張もなくなるから。
 すきなことばは、ない。うかんでこない。すきな花はひまわりの花。大きくてげんきになるから。
 よく見る夢は、あるよ。しょうがいがなくなって、歩けて字が書けてる夢ばっかり見てる。
 今まででつらかったことは、(てんかん)発作が出た時。養護学校を卒業してから。あれは、しんどかった。ほんで、おばあちゃんが死んだ時。ちいさい時、いっしょに寝てた。大事にしてくれてた。ぼくはおばあちゃん子。死んだ顔見た時、こわくて泣いてしもた。
 世の中の人に言いたいことは、ぼくたちがこんなふうに生きてることを知ってほしい。
 職員に言いたいことは、もっとちゃんと、勤務でしんどくないように、ぼくたちの生活をみてほしい。しんどそうにはたらいてるから。もっとあかるく、しましょう。
 親に言いたいことは、おとうちゃん、この本を読んでみて。もうちょっと考えて。まだまだ未熟だけども、もうおとなだし。びわこ学園の生活と家の生活と、ちがうやろ。家ではきびしいことばっかり、学園ではええかっこ。きびしいことばっかりじゃなくて、もうちょっと考えて。怒っても 体、使えないんやから、だんだんしょうがいが重くなってきてるし、体のこと、どうかなあて ほんまに考えてや。ちょっとしんどいねん。
 こういうことを ゆっくりきいてくれる人がいると、ぼくの話がよくわかるし、ぼくもおちついて聞けるなあと思う。

あとがき
 この小冊子は、「びわこ学園医療福祉センター野洲」に入所されている四名の方たちの「自分史のようなもの」の聞きとり文集です。
 びわこ学園にはことばで自分のことを伝えられる方はわずかしかおられないのですが、そのわずかな方たちから、語り手と聞き手が互いに都合のよい(体調も含めて)時間に―これが思いのほか見出しにくいのです―、折りにふれ聞ごとり記録しておきました。
 聞きとりの方法は、あらかじめ共通の質問事項を用意しておき、それに笞えてもらう形をとりました。本人のことばだけをつなげ合わせることを基本におき、最終的にひとり語りのように並べかえ、ご本人に修正も加えてもらい了解を得た上で、二OO六年十一月に小冊子にまとめました。背景の説明やことばの解説、補足も必要なのかもしれませんが、素のままで提示してみました。
 聞きとりには多大な時間を要します。語られた内容については、さらに深く聞いてみたい思いが増していくのですが、そうするとより多くの時間が必要となるため、一旦区切りをつけることにしました。それぞれこの方の語リのタイトル代わりに、聞きとりの中で聞き手の心に強く突き刺さったことばを挙げてみました。
 私は職員という立場から、これまで、ご本人の胸の内や心の世界を知りたいと願い、職員の役割について自問し、ご本人たちと自分との関係のあり方を探り続けて来ました。この小冊子は未完成ではありますが、その一つの結果です。
 多くの方に彼らの思いが伝わり届くことを廟います。

   二〇一〇年九月一日
                          磯 春樹


UP:20170417 REV:
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