HOME > BOOK >

『脳梗塞からの再生=\―免疫学者・多田富雄の闘い』

上田 真理子 20100730 文藝春秋,246p.

Tweet
last update:20170701

このHP経由で購入すると寄付されます


■上田 真理子 20100730 『脳梗塞からの再生=\―免疫学者・多田富雄の闘い』,文藝春秋,246p. ISBN-10: 4163727604 ISBN-13: 978-4163727608 1476+ [amazon][kinokuniya] ※ w/tt04.

■広告

内容(「BOOK」データベースより)
今も地獄は続いている。しかし、今のほうが良く生きているとも思う。NHKスペシャルのディレクターが描く、「鈍重な巨人」多田富雄氏の壮絶な闘病と寛容で豊かな生き方。四月に世を去った多田氏の遺言となるドキュメント。

■著者

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
上田/真理子 1968年生まれ。1990年NHKにディレクターとして入社。福岡放送局、報道局などでニュースや報道番組にたずさわる。現在は衛星放送の番組を制作している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

1 鈍重な巨人
2 撮影開始
3 前立腺がん
4 リハビリ
5 多田さんの日常
6 夫婦のかたち
7 原爆忌

■引用

2005/12/04 NHKスペシャル「脳梗塞からの”再生”――免疫学者・多田富雄の闘い」
 http://www.nhk.or.jp/special/onair/051204.html
 cf.多田[20070731:185,234-236],

5 多田さんの日常

トロミつきのバランタイン
 六月二十二日、この日は、夕食風景を撮影させてもらうことになっていた。
 かつて式江さんも医師として勤務していたので多田家は共働きの家庭ということになるが、家事はすべて式江さんがこなしていたという。料理のほとんどは多田さんから習ったのだと、夕食の準備をしながら式江さんが告白してくれた。
 「わたしはぜんぜん料理ができないひとだったの。今でも思い出しますけれど、結婚して最初につくってくれって言われたのがスクランブルエッグとカリカリべーコン。さーて、スクランプルエッグなんて食べたことないし、どうしようって」
 多田さんはゲルメである。エッセイや対談を読んでも、味にうるさい美食家だとわかる。しかし式江さんは意外なことを言う。
 「好き嫌いは多いんですよ。魚はいやで野菜も嫌い。なのに豚の脂とかが大好きなの。血管詰まりそうなものばかり、好きなのよね。だからほうれん草とかをグラタンの下に入れてみるんだけど。でもね、わかっちゃうの。それで、愛清の味付けがない、とか文句を言われるんです。愛情の味付けなんて、どうすんのよって。えへへ」
 式江さんの告白はあくまでも明るい。
 嚥下障害がある多田さんにとって、「食べる」動作は、それだけで重労働だ。食事を楽しむ△142 前に疲れ果ててしまうのが、見ていてよくわかった。
 それでも式江さんは、毎回知恵をしぼってメニューを考案する。季節のものやちよっと変わった食材が手に入ると必ず食卓に登場させるようにしているし、すり潰しても味や香りが変わらず、喉の通りもよい料理方法も研究した。キッチンの棚にはそんな料理の切り抜きがびっしり詰まったファイルがある。

 多田さんは若いころから、それこそ日本酒の一升瓶を一晩で空ける大酒飲みだったという。ワイン、焼酎、ビール、ウィスキーと、そのときの雰囲気や食事に合わせ酒をたしなむことは多田さんにとって欠かすことのできない楽しみだった。わたしは、倒れたあとも酒にとろみをつけるなどして晩酌を楽しんでいることをエッセイで知り、その場面も撮影したいと、あらかじめ伝えていた。
 カメラは少し距離をおいたところから、ダイ二ングテーブルについた多田さんを狙った。わたしはカメラの後ろで見守る。すると、多田さんは車椅子をUターンさせ、テープルの後ろにある食器棚のほうを向いた。ゆっくり屈みながら食器棚の下にある抽斗を開けて何かを探し始める。どうやら酒瓶の抽斗らしい。ところが目的のものが見つからないのか、「あー、あー」と言ってキッチンの式江さんを呼んだ。出てきた式江さんは、△143
 「何? ウィスキー?」
 と言いながら、抽斗から国産のウイスキーを取り出し、テーブルの上に置いて再びキッチンに戻ってしまう。残された多田さんは首を横に振り、ふたたび左手をごそごそと動かす。数分後、ようやく一本のボトルを握りしめ、顔をあげた。手にしているのは三十年熟成の「バランタイン」。来客用にとってあるスコッチウイスキーで、ダルメの多田家でも、めったにロにしない高級品だ。
 式江さんは慌てた。「これはもったいない、もったいない」と多田さんの手から取り上げると再び抽斗にしまってしまう。
 多田さんは、わたしたちが「とろみつきの酒」を撮りたがっていることをよく知っていた。だから、この晴れの日に「高級酒で」と考えたのだろう。元来、人を楽しませることが大好きな多田さんならではのサービスだったのかもしれない。しかしその目論見は、式江さんによってあっけなく崩れ去ろうとしていた。
 無情にも高級ウイスキー「バランタイン」は没収され、先ほどの国産ウイスキーが多田さんり前に置かれた。「バランタイン」を取り上げられて情けない表情をうかべている多田さんは、大好きなおもちゃを取り上げられた子どものようで、どこか可笑しい。
 カメラマンも照明マンも音声マンも笑いをこらえて肩を震わせている。△144
 スタッフのあいだに流れたそんな空気を多田さんは見逃さなかった。粘り強い反撃に出たのである。
 目の前の国産ウイスキーは完全に無視し、皿を並べる式江さんに懇願するように左手で棚を指差す。
 「ダメ。国産ウィスキーでも味に変わりはないでしょう」
 ノーを繰り返す式江さん相手に、親指と人差し指を近づけて「ちょっとだけ」というサインを送り続ける。まるで夫婦漫才を見ているようで、わたしたち撮影クルーは全員、笑いをこらえられなくなった。ついに根負けした式江さんが抽斗から「バランタイン」を取り出す。
 「シングルだけよ」とキヤップを開け、コップに少量注いだのだ。多田さんは目を細め、琥珀色の液体がグラスを満たしていくのを満足げに見つめていた。獲得した三十年熟成の「バランタイン」は「トロミドリンク」を混ぜてドロドロにされ、ゆっくりと多田さんのロに運ばれた。本当においしそうだった。それは「バランタイン」の味が良かったからだけではあるまい。おそらく、ちよっとした遊びやユーモア、そこで交わされる他者との気持ちのゃりとりこそが、食事の最高の味付けであることを多田さんは知っているのだ。
 わたしも後日「トロミドリンク割り」を飲ませてもらったが、ロあたりや喉ごしに違和感があり、高級ウィスキーの味はほとんどわからなかった。楽しめたのは香りぐらいだ。式江さん△145 との交渉に勝ち、わたしたちに笑いを提供してくれた戦利品だからこそ、ドロドロの「バランタイン」は極上の味がしたのではないか。
 ちなみに多田さんが「バランタイン」を割った「トロミドリンク」は、食品会社が販売している紙パックに入ったゼリー状の水分補給剤だ。本来は飲み込むことが困難な障害者や高齢者向けの介護用食品のひとつだが、多田さんはこれを日本酒や焼酎にも入れていた。
 ピールのときは「泡が消えないので」粉末のとろみ剤を使う。ビールの中に入れてかき混ぜると泡がどっと出てグラスからあふれてしまうような強力なとろみ剤だ。多田さんは、その泡をかじってビールの風味を味わう。泡だけではビールの「喉ごしのうまさ」を味わうことはでさないが、酒の楽しみがそれだけではないことを多田さんは身をもって教えくくれた。」(上田真理子[2010:142-147])

■言及

◆立岩 真也 2017/07/** 「解説」
 多田富雄『多田富雄コレクション3 人間の復権――リハビリと医療』,藤原書店


UP: 20170701
病者障害者運動史研究  ◇身体×世界:関連書籍BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)