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『NHK、鉄の沈黙はだれのために――番組改変事件10年目の告白』

永田 浩三 20100725 柏書房,286p.


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■永田 浩三 20100725 『NHK、鉄の沈黙はだれのために――番組改変事件10年目の告白』,柏書房,286p. ISBN-10: 4760138412 ISBN-13: 978-4760138418 2000+ [amazon][kinokuniya] ※

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内容(「BOOK」データベースより) 事件から一〇年がたとうとしているいま、あらためて、NHKはだれのためにあるのかを問いたい。沈黙はなにも解決してくれない。毎日毎日人の道を説き、社会のありようを提言しつづける放送局が、ふだんの多弁とはうって変わって沈黙を守りつづけるのは、どう考えても不自然だ。いま、すべてが語られねばならない。番組はなぜあれほど無惨に書き変えられたのか。事件後になにがおこなわれ、なにがおこなわれなかったのか―。

■著者

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
永田/浩三
1954年大阪生まれ。東北大学教育学部教育心理学科卒。1977年NHK入局。1981年、ラジオ・ドキュメンタリー『おじいちゃんハーモニカを吹いて…』で芸術祭賞・放送文化基金賞。ディレクターとして、『ぐるっと海道3万キロ』(アジア放送連合賞)、『日本その心とかたち』、NHK特集「どんなご縁で」(テレビ技術大賞)、『NHKスペシャル』の「又七の海」「社会主義の20世紀」などを担当。1991年からはプロデューサーとして『クローズアップ現代』『NHKスペシャル』を担当し、多くの番組を制作する(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報

■目次

事件の現場にいた人々
わたしたちはいまも過ちを続けている
伊東律子さんの死、永遠の沈黙のはじまり
楽観主義と議論不足が火種を生んだ
番組はこうして改ざんされた
やがて虚しき裁判の日々
だれが真実を語り、だれが嘘をついているか
慰安婦問題と天皇の戦争責任について
番組制作の現場を離れるとき
これからの放送、これからの言論のために

■引用

 「シリーズ「戦争をどう裁くか」をいっしょにつくった桜井均さんというプロデューサーについて、もう少しくわしく紹介しておきたい。というのも、桜井さんはシリーズ第一回と第四回の責任者であるだけでなく、番組改変事件の前後にかけてわたしに何度も貴重なアドバイスをくれた人だからだ。
 桜井さんは、その作品の質の高さはもちろんのこと、テレビドキュメンタリーの枠を超えて社会に言葉を発信できる、NHKにとってかけがえのないデイレクターだった。今日にいたる<0068<まで、日本のテレビに言葉を与えた最大の賢人だと信じている。シリーズ「戦争をどう裁くか」を立ち上げたときも、その後発生したさまざまな問題にどう向き合うか悩んだときも、わ八しは桜井さんに助言をもらった。
 桜井さんとはじめて会ったのは、入局まもないわたしが京都放送局にいたころだった。科学番組や美術番組をやらせてもらえるといいな、などと漠然と思っていたわたしの前に、話題作『ルポルタージュにっぽん』を世に送り出した桜井さんと、のちに教養番組部長になる吉岡民夫さんがあらわれた。
 桜井さんが京都放送局に乗りこんできたときのことは、いまもはっきりと覚えている。局の電話を使って、取材先に容赦なくせまるバリトンの声は迫力があった。電話の相手は、京都市右京区の精神科病院、十全会病院。そこで認知症のお年寄りたちに対しておこなわれていた、まるで工場の製造ラインを思わせるような非人間的な看護、介護の内実を、桜井さんたちは明らかにした。入院しているお年寄りの多くは亡くなるまで病院から出られない。現代版の”姥捨山”のような実態を、京都府は黙認してきたのだった。お年寄りの集団が一糸乱れず入浴するようすを、病院は胸を張って紹介した。あからさまに異様な光景だった。
 当時、僣越ながらわたしも同じような企画を出していた。しかし、どうすれば番組をつくれるのか、わたしが成算もなくぐずぐずしているうちに、桜井さんはあっという間に番組に仕上げ、大きな社会的な反響を呼び起こした。その手腕に、わたしはただ呆然とした。ある番組を<0069<やりたいというイメージを漠然と抱くことと、じっさいに番組をっくることのあいだには、天と地ほどの隔たりがあることを知った。わたしはその後、一九八五年から『ドキュメント日本列島』の制作班で桜井さんといっしょになり、その厳しい指導を受けながらドキュメンタリーの<0069<ーの面白さに目覚めていったのだった。」(永田浩三[2010:68-70])

 「ニ〇〇一年一月一九日。吉岡民夫教養番組部長の同席のもと、シリーズ「戦争をどう裁くか」の第二回「問われる戦時性暴力」のはじめての試写がおこなわれた。東京・赤坂の制作プロダクション「ドキュメンタリー・ジヤパン」のオフィスの地下にある会議室だった。部屋にはスタッフがひしめき、NHKエンタープライズの島崎素彦部長も参加した。島崎さんは「クローズアップ現代」の元統括プロデユーサー。わたしの前任者だった。
 試写の結果はさんざんだった。吉岡部長の矛先はもっばらわたしに向けられた。
「お前ら何回見たんだ」
「三回です」
「チーフプロデユーサーが三回も見てオーケーなら、ノーとは言えないだろう。だいたい、これじゃあ、法廷との距離が近すぎる。このままではアウトだ。おまえらにはめられた」
 吉岡部長からは、考えられるかぎりの罵詈雑言が飛び出した。
 編集室で吉岡さんにののしられること自体は、慣れっこだった。しかし、これまでは「地球が反対にまわっても、こんな編集は絶対にない」といった類いの、どこか笑いを誘うような台詞が合まれた、救いのある罵倒がほとんどだった。本当に弱って助けを求めている人間に対しては優しかったし、かならずどこかに救いがあったものだ。しかし、このときだけは、文字通り目が三角になり、言葉は凶器のように突き刺さり、まるで容赦がなかった。これまで見たことがないほどの怒りだった。<0100<
 吉岡さんはわたしにとって、NHKに入社間もない時期からお世話になってきた、先生のような、兄のような存在だった。はじめて顔を合わせたとき、吉岡さんは大阪放送局に、わたしは京都放送局にいた。吉岡さんの持ち番組は『ルポルタージュにっぽん』だった。大阪市西成区のあいりん地区(釜ケ崎)で、故郷に帰れない労働者を追いかけた「帰りたいけど帰れない釜ケ崎の孤老たち」(一九八ニ年)や、京都市西陣地区で地域医療に生涯をささげる医師、早川一光さんの毎日を追った「西陣の路地は病院の廊下やある地域医療の試み」(一九八〇年)などの作品がわたしは好きで、大阪放送局に出かけていったり、吉岡さんが京都に取材にやって来たときに番組制作の話を聞くのが、右も左もわからなかった当時のわたしにとってなによりの勉強だった。
 もともと、子どものための理科番組がつくりたいと思ってNHKに入ったわたしだが、吉岡さんの話のあまりの面白さに、ドキュメンタリーの世界もいいかもしれない、と思うようになっていった。このころから、ドキュメンタリー製作の勉強のために、過去の番組を取り寄せて見るようになった。」(永田浩三[2010:100-101])

■言及

◆立岩 真也 2014/05/01 「精神医療現代史へ・追記2――連載 99」,『現代思想』41-(2014-4):-

 「永田浩三(一九五四〜)はNHKに一九七七年入局、二〇〇一年の『ETV二〇〇一』の「戦争をどう裁くか」も担当、その番組改変について東京高裁で証言、以後番組製作から遠くなり(この事件について永田[2010]、arsvi.com→「NHK番組改変問題」)、二〇〇九年に早期辞職、現在は武蔵大学の教員をしているという人だが、その人のブログより。引用文中の「先日のクローズアップ現代は、クロ現史上、最大と言ってもいいほどの注目番組だった」と始まる番組は二〇一二年十一月二二日の「“帰れない”認知症高齢者 急増する「精神科入院」」。番組を文字化したものはNHKのサイトにあり、番組の全体も幾つかみられる。「ルポルタージュにっぽんで取り上げた、十全会・双ヶ岡病院」は後で紹介する一九八〇年のNHK総合の番組で、この時永田は既にNHKにいる。この番組に協力した「前進友の会」【119】の関係者の文章等とともに、後で紹介する。

 […]」
 *引用したのはhttp://nagata-kozo.com/?p=10067


UP: 20140418 REV:
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