HOME > BOOK >

『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』

『精神医療』編集委員会 編 20100510 批評社,141p.

last update:20110110

このHP経由で購入すると寄付されます

■『精神医療』編集委員会 編 20100510 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon][kinokuniya] ※

著者名:『精神医療』編集委員会/編集 森山公夫/責任編集 広田伊蘇夫/責任編集 佐原美智子/責任編集 浅野弘毅/責任編集
『精神医療』編集委員会/編集森山公夫/責任編集広田伊蘇夫/責任編集佐原美智子/責任編集浅野弘毅/責任編集で検索

書籍紹介: 精神医療がこれほどまでに世の中に受け入れられない時代の地域医療の先駆者であった藤澤敏雄の医療と実践の血の滲むような苦闘の歴史を多くの精神医療従事者たちによって跡付けた総特集。

日本における病院精神医療の黎明期は明治時代の呉秀三に始まるが、藤澤敏雄は病院精神医療を超えて地域に根ざした地道な活動を始めた草分けの一人であり、一九七二年の返還前の沖縄に派遣医としてはじめて渡り、座敷牢に入れられた患者の治療をはじめ多くの地域医療を担った。

東京陽和病院の院長から新宿の柏木診療所へ、さらに立川市のにしの木クリニックへ、休む間もなく働きつづけ、2003年病床に伏す。2009年3月に永眠したが、日本の精神医療史に残る藤澤敏雄の半生から学ぶべき貴重な資料と証言を可能な限り収録し編集した総集編。
・内容紹介(版元ドットコムより)
精神医療がこれほどまでに世の中に受け入れられない時代の地域医療の先駆者であった藤澤敏雄の医療と実践の血の滲むような苦闘の歴史を多くの精神医療従事者たちによって跡付けた総特集。
日本における病院精神医療の黎明期は明治時代の呉秀三に始まるが、藤澤敏雄は病院精神医療を超えて地域に根ざした地道な活動を始めた草分けの一人であり、一九七二年の返還前の沖縄に派遣医としてはじめて渡り、座敷牢に入れられた患者の治療をはじめ多くの地域医療を担った。
東京陽和病院の院長から新宿の柏木診療所へ、さらに立川市のにしの木クリニックへ、休む間もなく働きつづけ、2003年病床に伏す。2009年3月に永眠したが、日本の精神医療史に残る藤澤敏雄の半生から学ぶべき貴重な資料と証言を可能な限り収録し編集した総集編。

■目次

〈巻頭言〉藤澤君、ご苦労様でした(森山公夫)

●藤澤敏雄遺稿

日本における精神医療改革運動の歴史
施設症候群と慢性分裂病
第三回職場保健講座 増える精神疾患 現代日本に生きること

●藤澤敏雄追悼論文

国立武蔵療養所における治療共同体をめざした実践(中川善資)
東京都地域精神医療業務研究会と藤澤敏雄先生(飯田文子)
陽和病院改革(佐原美智子)
診療所運動のその後 排除の論理に抗して(岩田柳一)
藤澤敏雄論 「生活療法」批判を中心に(浅野弘毅)

●想い出と追悼

何かとお世話になりました。藤澤先生! 徹底した批判・反論から具体的な改革の実践者として生きる!(朝日俊弘)
わが内なる藤澤敏雄(金松直也)
福祉事務所ケースワーカーとしての藤澤先生との出会い 国立武蔵療養所外来にて 1980(熊谷彰人)
内側からの目に映った藤澤先生(小林信子)
「村の医者 藤澤先生を偲ぶ(島田文直)
沢山ある藤澤先生の想い出(高橋 一)
地域で共に歩んだ日々(長岡喜代子)
藤澤先生との…遠い記憶が迷入したクロニクル(中里 進)
藤澤敏雄先生の思い出 人権センターの活動を通じて(永野貫太郎)
さようなら、東京の良寛さん(中山宏太郎)
藤澤敏雄の言葉の力(浜田 晋)
藤澤敏雄先生 追悼(松本雅彦)
藤澤敏雄先生を偲んで(森口秀樹)

〈藤澤敏雄 年譜〉/〈藤澤敏雄 著作目録〉

おわりに追悼記として(広田伊蘇夫)

編集後記(浅野弘毅)

■引用

森山 公夫 20100510 「藤澤君、ご苦労様でした」,『精神医療』編集委員会編[2010:2-7]

 「とりわけ1960年代以降の日本資本主義の高度成長とまさに足並みを揃えて、厚生省の政策的主導のもと、精神障害者う隔離・収容する場としての粗製濫造の精神病院がそれこそ雨後の筍のように建てられてゆきました。新病院はおおむね大学医局と癒着し、新築の乱造の病棟に、大学病院精神科の新人がパート医として派遣されたのです。こうして多くの理想に燃えた新人医師は、現実の腐敗に相まみえることになります。
 当事の精神病院は、まさに「3Kの場」でした。「汚い・臭い・危険」そのもので、多くは粗製濫造の建物に患者を文字通り詰め込み、スタッフは少なく、暴力が支配し、そして実際に臭かったのです。こうした人権侵害の状況は、東京のどんな精神病院でも、そしてまた全国のいたる所でもほぼ同じような様相を呈していました。藤澤君はこの陰惨さを、著書「精神医療と社会」(精神医療委員会、1982年)でこう述べています。」(森山[2010:4])

 「一方、精神医療をめぐる全国的運動は依然として激しく、72年秋開催予定の第6回「地域精神医学会」は、全関西精神医療研究会連合会の内ゲバ的介入を受け、流会となってしまいます。そして貴兄は事態収拾のための臨時運営委員に任命されるのです。その後の対応をめぐって貴兄は対外的にも徐々にその力量を発揮してゆきました。こうした運動の中から、他職種の人々と語り合い、翌73年秋に予定されていた厚生省の精神衛生実態調査への対応をめぐり「東京都地域精神医療業務研究会」(「地業研」)を73年春に立ち上げ、その責任者になります。これは徐々に大きくなり、遂には厚生省の企画した「精神障害者実態調査」の反対闘争の中心を担ってゆくことになりました。」(森山[2010:5])

◆藤澤 敏雄 20100510 「日本における精神医療改革運動の歴史」,『精神医療』編集委員会編[2010:12-24]

 「この反乱は、周到に準備されていた部分と、参加した普通の精神科医の多数の共鳴による拡がりとによって、熱気に満ち、改革への希望を参加者に感じさせる高揚をもたらした。
 この反乱の周到な準備者の一人、当時の関西精神科医師会議の小澤勲の論文に基づいて振り返っておく。」(藤澤[2010:18])

 一九六九年「当時、私は、大学病院、民間病院、都立松沢病院を経て、国立武蔵野療養所で働く臨床経験七年の精神科医であった。その七年間、精神病院の実態と、精神病者の置かれた状況に、驚きと怒りに身をこがし続けていた。この学会の体験は、当たり前の臨床医であった私には、鋭い問題提起と励ましを与えてくれるものであった。
 この金沢大会のインパクトは、当時計り知れないものがった。金沢学会で確立された会議の公開性の原則は精神医療改革運動の中に、初めて当事者の登場を促す第一歩となった。また、その秋開かれた病院精神医学会は、生活療法の批判を軸に揺れて、学会そのものが解体して、若い世代を中心として再建準備委員会が結成された。同じように[…]」(藤澤[2010:19])

 「激しい討論を展開しながらも、学会闘争は、ある集約点を目指して動いていた。しかし、すでに改革の内容と手段を巡って、改革運動内部に対立が起こっていた。1973年の台人体実験反対決議は、台を支持する日本共産党に連なるグループにとっては、苦々しいことであった。彼らにとっては、学会闘争という位置づけにも不満があったようである。日本共産党の理論機関紙「前衛」が「トロツキストの『反精神医学』と妄動」という論文を掲げて、学会改革運動を公然と批判したのは1974年である。日本の大学闘争から学会闘争の流れは、新左翼の影響を受けてはいても、ノンセクトラジカルと呼ばれる人々と、戦後民主主義派によって担われたのであり、日本共産党部分との対立は、今日も穏やかになったとはいえ、完全に解消されてはいない。
 対立は、もっと深刻な形で起こった。関西精神科医師会議の中に内部対立が起こったのである。学生対策部長であった若い医師は、古い組織論と、暴力の有効性を信じるファナティックな指導者であった。若い学生を組織した彼は、学会闘争だけでなく、さまざまな運動の展開に厳しい影響を与えた。その余波を受けて、1976年、学会総会は開催不能に陥った。1977年学会は、11月に延期されて開催された。しかし、一方では、時代は動き、精神神経学会とは別に、さまざまな分野で新しい流れが作られていった。1974年には、第一回全国患者集会が開かれ、<<0021後に全国「精神病」者集団が発足した。また、医療供給の側での変化も起きつつあった。都市部を中心として、精神科診療所がすこしずつ開設されていたが、日本精神科診療所医師会が結成された。また、京都で精神病院の組合の連合体である精神医療労働者協議会が発足した。」(藤澤[2010:21-22])

cf.http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%AD%A6%E4%BC%9A
「1969年(昭和44年)5月19日?22日 - 金沢学会(台弘理事長)で、理事会不信任。評議員会解散勧告が提出される。関西精神科医師会議がパンフレット『学会を告発する』を作成。」

 「1978年、年明けと同時に、産経新聞が東大精神科医師連合を攻撃するキャンペーンを開始した。[…]
 一方、この年の秋、石川信義の「開かれている病棟」が出版された。石川は1968年に群馬県太田市に全開放の三枚橋病院を創設し、10年の実践記録を公にしたのである。「開かれている病棟」は、学会闘争という表舞台での空中戦ではなく、日常の臨床の場から改革を問うという意味で説得力を持っていた。全国から三枚橋への見学が集中した。」(中澤[2010:22])

◆中川 善資 20100510 「国立武蔵療養所における治療共同体をめざした実践」,『精神医療』編集委員会編[2010:52-57]

 「藤澤敏雄氏が都立松沢病院(以下松沢病院)から国立武蔵療養所(以下武蔵療養所)に迎えられたのは1967年4月のことだった。当時の武蔵療養所は、1966年3月に東大教授を退官された秋元波留夫氏が二代目所長として就任されていた。秋元所長は武蔵療養所を国立精神神経センターに発展させる構想を抱いていた。国立精神神経センター化を療養所所長就任の条件にしていたと言うのが真実であろう。当時の厚生省は沖縄への政府医療援助への協力を求められていた。私は、前者即ち国立精神神経センター設立への協力方を秋元所長から求められて、1966年10月に武蔵療養所にきたのだが、藤澤氏は沖縄への医療援助の中核としての働きを求められての就任だった。」(中川[2010:52])

 「藤澤氏の実践は、そのほとんどが従来の武蔵療養所の規範や規則と対立することばかりであった。そのため、藤澤氏とその仲間であった私達は危険人物視され、疎外されることになっていった。[…]
 当時の武蔵療養所は規範と化した生活療法が支配しており硬直した組織となっていた。
 藤澤氏の実践はそれらとの闘いであった。
 例えば、「一寸、疲れたので入院させてください」と申し出た患者さんも、組織・運営上、急性期閉鎖病棟しか選択の余地がなかったのだが、藤澤氏は社会復帰病棟に「休息入院」として受け入れていった。仕事を求めている患者には職業安定所に相談に行くよう助言した。家族の反対が強いため家へ帰れず退院出来ない人にはアパートではと助言し支援した。等々、現在では当然視されることがらも、当時は過激すぎると批判・攻撃された。ところが、藤澤氏の実践活動に対し非難し続けた秋元氏は、武蔵療養所開設40周年誌では、藤澤氏の社会復帰活動を全て是とし、武蔵療養所の公認の活動として記しているのである。ある経験豊かな看護師長さんが、夜回診の時、「造るのは大変ですよね。でも壊れるのはあっという間ですね」としみじみと言ったのは、私が武蔵療養所を去る直前のことだった。」(中川[2010:52])

◆佐原 美智子 20100510 「陽和病院改革」,『精神医療』編集委員会編[2010:64-71]

◆小林 信子 20100510 「内側からの目に映った藤澤先生」,『精神医療』編集委員会編[2010:64-71]

 「では精神科医としてはどうなのだろう。確かに多くの患者さんからは慕われていた。だが臨床手段は革新的とはいえず、多量の薬剤処方には疑問を持った。今は大状況と小状況が一致している人物などめったにいないことを知って諦念しているが、当時の私が持った初々しい失望感の体験をずっと払拭できなかったので、私の先生へのしてんは多分厳しいのだろう。それだからこそ日本の精神医療と精神科医の反面教師として、いろいろと学ばされ、「センター」の活動には役立っているということで感謝しなければいけないかもしれない。」(小林[2010:102])

浅野 弘毅 20100510 「藤澤敏雄論――「生活療法」批判を中心に」,『精神医療』編集委員会編[2010:81-88]

 「病院と呼ぶにしてはあまにもすべてが殺伐として貧しかった。陰惨であったとさえいうべきである。狭い廊下と、広い畳敷きの大部屋で、病者たちは首をうなだれ、ごろ寝し、徘徊していた。」(藤澤[1982]、浅野[2010:82]に引用)
 「一九六九年の金沢学会は、平凡な日常の中で、しかし精神医療の現状に疑問を抱いていた一人の精神臨床医であった私に衝撃をあたえ、目ざめさせたのである。目ざめさせたとはいったも大それたことではない。自分が日々接する病者のおかれた状況があまりに過酷すぎるのではないかという素朴な疑問に「そのとおりなのだ」という気づきを与えてくれたということである。」(藤澤[1982]、浅野[2010:83]に引用)

◆中里 進 20100510 「藤澤先生との…遠い記憶が迷入したクロニクル」,『精神医療』編集委員会編[2010:115-117]

中山 宏太郎 20100510 「さようなら、東京の良寛さん」,『精神医療』編集委員会編[2010:120-121]

 「初めてお会いしたのはおそらくは金沢学会であったと思う。
 1969年というのは大変な時で、私がいた大学でも全体が流動化していたが、この学会で諸大学の精神科医が合流すると、私はスタンピード(カウボーイ西部劇に出てくる牛の群れの大奔走)のさなかに入ってしまった感じで誰が誰やらさっぱりわからなかった。
 40年後の藤澤さんの追悼会の時に、西山詮さんが、「何百人もの人が議論していくところを、一言で静寂に戻すことができるのが藤澤さんだ」と教えてくれた。私の頭の中にはこの学会のこととして収まった。」(中山[2010:120])
 →第66回日本精神神経学会大会(金沢大会)

浜田 晋 20100510 「藤澤敏雄の言葉の力」,『精神医療』編集委員会編[2010:122-125]

 「もう20年か30年か忘れたが、私は久しぶりに精神神経学会なるものに出た。東京都庁あとに出来た国際フォーラムでひらかれていた。
 出てみてびっくり! 金沢学会というものが一体何であったのか。学園闘争とは何だったのか。それは昔の学会と何も変わっていない。いやもっと巨大になり、分派化し、バラバラになった部会には、精神医療の臭いは全く消えていた。広田、鈴木(良)、黒川(故人)、その他数名と藤澤と私はいっしょに昼食に出た。たまたま藤澤が私の前に坐った。私は茫然としていた。しばらくしてこんなことを藤澤にいった。
 「藤澤よ! 俺はもう歳をとった。精神科医や学会には絶望した。なにも出来ない。これから一体俺は何をして生きたらいいのだろうか」と。藤澤はじっと私の顔をみて、しばらくだまっていた。長い沈黙があった。やがて、「先生、今のお気持ちを率直に私たちのやっている『精神医療』という雑誌にお書きいただけませんか。原稿用紙8枚の倍数で年4回、お願いします」と言った。そして深々と頭を下げた。また彼にやられた。
 「老いのたわごとか…」と私。彼「そうです。それ」と。
 なんとそれが今日まで一四年間延々とつづくとは思ってもいなかった。」(浜田[2010:124])

松本 雅彦  20100510 「藤澤敏雄先生 追悼」,『精神医療』編集委員会編[2010:126-128]

 「そう、たぶん昭和44(1969)年春のことだった、はじめて藤澤先生にお会いしたのは……。
 5月に開催を予定されている日本精神神経学会第66回大会(通称 金沢学会)を前にして新井清(故人)に誘われるまま、中山宏太郎とともに、三人で東京に赴いた。精神病院の荒廃、その劣悪な医療を支える医局講座制、そのなかで精神神経学会はなお学会認定医を制定化しようとしている。精神科医療を取り巻くこの状況に、私たちはどう対処していったらよいのだろうか。そのような課題を抱いての状況だった。
 慶応大学精神科で、河合洋先生、馬場謙一先生、北穣之介先生を訪ねたあと、私たちは小平の国立武蔵野病院に向かった。[…]
 待つことしてしばらくして現れた藤澤先生は、大きな籐椅子にゆったりと坐り、私たちの学生運動じみた性急な話ぶりに穏やかに耳を傾けられていた。私たちの話しを聞き終わって、先生<0126<は、自治体病院の現状、生活療法の背後に隠されてある問題点、精神障害者のおかれている社会的状況などを淡々と語りはじめる。学会闘争だけを焦点にした私たちの視点をはるかに凌ぐ広い視野を展望させる語り口だった。私のこころには、静かな感動が浸透していった。この最初の出会いがどのような形で終わったか、遠い記憶の陰にかすんでしまっているが、それを語る柔和な先生の顔だけは今も目に浮かぶ。」(松本[2010:126-127])

■言及

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.
◆立岩 真也 2011/05/01 「社会派の行き先・7――連載 66」,『現代思想』39-5(2011-5):- 資料
◆立岩 真也 2011/03/01 「社会派の行き先・5――連載 64」,『現代思想』39-3(2011-3): 資料
◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2): 資料


UP:20101230 REV:20110109, 30, 0212, 0414
藤沢 敏雄  ◇精神障害・精神医療  ◇精神障害/精神医療…・文献  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)