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『風景の裂け目――沖縄、占領の今』

田仲 康博 20100407 せりか書房, 286p.

last update:20130430

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■田仲 康博 20100407 『風景の裂け目――沖縄、占領の今』 せりか書房, 286p. ISBN-10: 4796702954 ISBN-13: 978-4796702959 \2520 [amazon][kinokuniya]



■内容

フェンスに囲まれた沖縄の街に生まれ育ちアメリカで学んだ著者が、占領時代を経て祖国復帰から現在に至る戦後沖縄社会の風景を、自らの身体的経験と記憶をもとに“文化=政治”の視点から鮮烈に描き出す。(「BOOK」データベースより)


■目次

はじめに
第一章 占領の文化、文化の占領
第二章 琉球大学とアメリカニズム
第三章 他者のまなざし
第四章 風景の政治学
第五章 祝祭空間「オキナワ」――クリントン演説をめぐって
第六章 メディアに表象される沖縄
第七章 まなざしの政治学
第八章 沖縄を生きる
あとがき
初出一覧
沖縄関連年表


■引用


■はじめに
「本書ではまず沖縄の風景や身体に書き込まれ、しかも同時に隠蔽されてきた「戦後」の記憶を読み解いてみたい。それは、取りも直さず、今なお続く占領状態の意味を問い直す作業となる。」(7)

「沖縄の風景や身体に書き込まれた〈意味〉を読み解かない限り、思考は〈現実〉の枠内にとどまることになる。戦後沖縄の歴史を辿ることで、文化をめぐる抗争や交渉の不/可能性を浮き彫りにすること、そしてそこから次につなげるための知的枠組みを考えることが本書のもう一つの狙いである。
 それは、言葉を与えられ論理的に整理された(はずの)事柄をもう一度言葉が生成さっる現場に送り返す、ということなのだ。いまだ世界と私が不分明であった経験の場(世界と私が出会う地点)に立ち返って、もう一度風景と出会いなおす、と言い換えてもいい。風景に裂け目が開き、意味がほころぶ現場に立ち会うこと。その場にいた――いたはずの――自分に出会い直すこと。私的な経験を社会的文脈に投げ返すという迂回路を辿ることによって見えてくることもあるはずだ。」(8-9)

「それは、例えるならば、自分が見てきた過去のドキュメンタリーを作るという行為に近いのかも知れない。その場にいた自分の肩越しに事物を見つめることによって、当事者でありつつ、しかも同時に安直な当事者性を否定することができるのではないか。つまり、そこに生じる対象との微妙な〈距離〉故に見えてくることもあるのではないだろうか。当事者にしか歴史は語れないという立場と、歴史は結局のところ現在からの視点によって自在に書き換え可能だという立場。一見、相反するようでいて実際には相互補完してしまう、いずれの立場も否定すること。それには恐らく、問いが差し向けられる地点にではなく、問いが立ち上がる地点において考えを探してみる努力が必要となるだろう。探求の目は、まず自らに向けられなければならない。本書で多用した第一人称による記述は、その思いを形にしたものだ。」(9)
「私の興味はむしろ、沖縄の〈今・ここ〉の成り立ちを解明することにある。」(9)
「本書は、戦後沖縄の社会・文化史を空間、身体、日常意識の変容/編制という視点から読み解く試みであると言えるだろう。[…]本書の記述スタイルはしたがって、境界横断的な文法と文体、より具体的には社会科学と文学の狭間を行くものとなるだろう。〈過去〉を彼岸の位置につなぎ止めてしまうような従来の文法/文体では、当時の社会/文化状況が人々の記憶や身体や風景を媒介にして現在の状況に影響を与えるメカニズムをうまく表現できない。」(10)
●第一人称による出来事、歴史の記述というスタイル。別の「当事者性」をつくるプロセス。現在を歴史化しつつ、歴史(=「過去」なるもの)を書き換える。

「私という身体に刻印されている〈沖縄〉〈アメリカ〉〈日本〉に目を凝らすことから見えてくる〈風景〉がある。単純な二元論的図式ではなく、三者が入り混じったブリコラージュとしての沖縄。アパデュライは自らを「ポスト植民地的な主体性」と呼んだ。三者三様の意味を刻み込まれた沖縄の〈身体〉は、ポスト植民地的主体性が宿る場所のようなものだ。まずは、それに揺さぶりをかけてみたい。」(10)

「なぜ、これほどまでに沖縄文化が語られてしまうのか。そのことを今一度、問い直す必要がありそうだ。」(11)


■第一章 占領の文化、文化の占領

「私たちの目はむしろ、占領下の生活が、過ぎ去った時代の風景の一部として展示されていることにこそ向けられなくてはならない。懐かしさを想起させる風景として表象される占領下の沖縄。私たちは、非歴史化された風景から抜け落ちるものに思いを馳せる必要がある。」(15)
「ほんの少し想像力を広げるだけで、第一室から第五室までの空間はすべて同じ地平にあり、それはさらに資料館の〈外部〉へ、私たちが生きるアクチュアルな場へと続いてもいることが理解されるだろう。」(16)
「米軍占領下とさほど変わらない状況に置かれている現在の沖縄について思いを馳せる機会が奪われているからだ。そう考えを進めてみると、平和祈念資料館は何かを伝えるためにではなく、むしろ何かを伝えないために、つまり何かを隠すために機能しているように思えてくる。」(17)
「「復帰前」と「復帰後」という言葉の使い分けは、その間に大きな変化があったことを前提としている。第五室の「復帰運動」の扱いはまさにその前提に立っての展示だが、「変化」の内実は具体例に即して検証される必要があるだろう。なにが変わり、なにが変わらなかったのか。」(17)
●占領の過去化。歴史を書く、展示することにはらまれる暴力。

「しかし残念なことに[照屋善彦・山里勝己編, 1995, 『戦後沖縄とアメリカ――異文化接触の50年』沖縄タイムス社、所収の]論考の多くは「異文化接触」という、それ自体は抽象的な概念を戦後沖縄の社会に無批判に適用したもので、占領にまつわる非対称的な関係についての配慮を欠くものになった。アメリカ文化の流入を「異文化接触」などという非政治的な響きをおびる言葉で説明することによって取り逃がしてしまう事柄が戦後沖縄の歴史にはあまりにも多い。「アメリカ」との遭遇は、米軍当局による暴力の行使やそれに対峙する住民の抵抗の歴史と切り離して語られるわけではない。そのことは、権力や資本が介入する〈場〉として文化をとらえることではじめて理解できる。」(20)

「私の父の例ほど端的ではなくても、敗戦後の収容所での生身のアメリカ兵との出合いは、まず身体を媒介にして始まり、言葉やイメージを介したイデオロギーの伝達は遅れてやってきた。」(29)

「占領イコール単純な「アメリカ化」ではなかった[…]その目的は、土着の文化を保護・育成することによって沖縄人という主体を立ち上げ、日本からの切り離しを図ることで、統治をやりやすくすることにあった。[…]50年代以降の復帰運動において登場した「民族統一」というスローガンがまがりなりにも機能しえたのは、それが分断統治政策へのわかり易いアンチテーゼとなったからだ。」(31)
「分断統治政策に抗する復帰運動もまた――その功罪についての議論はさておくとして――高度に政治化された一種の文化戦略、アイデンティティをめぐる抗争としてとらえることができるだろう。」(40)
「むしろ[復帰]運動の根底にあって人びとを突き動かした情動を正しく理解する必要がある。復帰運動に特徴的とも言える、ある種屈折した「祖国」への思いには、そこに至るまでの伏線があったのだ。」(43)
「その後の沖縄を規定することになる重層的な〈他者〉のまなざしを検証した。沖縄の〈今・ここ〉は、それら他者のまなざしの先に焦点化したものである[…]」(47)
●復帰運動のコンテクスト。高度に政治化された文化戦略、抗争としての復帰運動。ナショナリズム批判で済む話とせず、重層的なまなざしのもので生まれたものと捉え、運動に参加した人々を突き動かした情動や、身体や言葉が生成する場やコンテクストへと分析や批判を広げ、深めること。


■第二章 琉球大学とアメリカニズム

「ハワイ沖縄救済厚生会が琉球大学設立を引き受けるむね米軍政府に意思表示をしたことなどもあって大学設立は「全琉住民の熱烈な要望となり、世論となって展開され」、その結果、米軍側を動かしたという記述がみられる。」(66-67)

「[金門クラブの]彼女/彼らは、言語や食習慣のみならず、立ち居振る舞いといった身体技法に至るまで、アメリカ文化の伝道者としての役割も果たしていくことになる。[…]帰国した留学経験者たちの多くが「米琉親善」の先頭に立っていたことを述べるにとどめておく。」(75)
●米国留学によって生み出された「鬼っ子」、別の主体や身体はないのか。

「普及事業の一翼を担ったのは、農家政学部だった。家政学部が新設されたのは1952年のことで、1945年には農学部、林学部、家政学部が統合されて農家政学部と改称され、その下に家政学科がおかれた。1955年には、農家政学部が主体となって、農業振興と農村の家庭生活の改善を目的とする農業改良普及事業が開始された。[…]活動を記録する文章の中に、「生活改善」や「生活改良」の表現があるのはそのことを物語っている。さらに、農村部だけではなく都市の主婦層がその対象となっていたことは、講習会がアメリカの生活様式を沖縄全域に普及させることに一役かっていたことを示している。先に引用した大学便覧の文中に見られる「文化的発電機」という言葉は、大学のこうした活動を指している。」(76-77)
●現在のODA事業をみるような歴史。

「それではなぜ、学生たちは大学の国立移管に反対したのだろうか。分断政策を推し進めた占領軍の意図とは裏腹に、復帰運動を支える基盤ともなっていた琉球大学で起きた国立移管反対闘争であっただけに、それは時代の変化の陰で起きていた何ごとかをもの語っているはずだ。ひとことで言えばそれは、「アメリカ」から「日本」へと代替わりした占領者に抵抗する運動だった。軍政府の圧政から逃れるために、幻視された「祖国」を追い求め、復帰運動に夢を託した人々が基地を残したままの返還という現実に直面したとき、「復帰」の意味もまた問い直されなければならなかった。[…]学生たちは、大学の自治を脅かす機動隊の暴力の向こうに、それ以降の沖縄社会を規制することになる、より大きな暴力を予感していた。」(80)

「「日本のものでもなく、アメリカのもの」でもなかった米軍占領下の琉球大学は、それが国家の枠を越えた宙吊りの位置にあったがために、桎梏であると同時に希望をも指し示すものだった。[…]琉球大学という時空間こそが『琉大文学』を育み、後の反復帰論の論客たちがそこから巣立っていったこともまた銘記されなくてはならない。「復帰」が今なお続く国家統合のプロセスであるとするならば、反復帰論が呈示した視点も決してその輝きを失ってはいない。占領が生み出した時空間に未だ囚われの身となっている沖縄において、今もっとも必要なことは、「復帰」の意味を問い直すことなのだ。」(81)


■第八章 沖縄を生きる

「本書でくり返し私的してきた通り、「復帰」とは、ただ単に1972年のあの地点を指すわけではない。それは、今なお続く国家への同化プロセスとして捉えるべきものだ。「復帰」は、沖縄にとって占領の終焉ではなく、むしろ表面的な装いを新たにした占領の継続を意味していた。政府もその存在を認めた日米両国による「密約」がそのことを証明している。2004年のヘリ墜落の後、多くの人々の共同執筆によって出版された本のタイトルが『沖国[大]が米軍に占領された日』であったことを思い起こしてみてもいいだろう。事件後、人々の口をついて出てきた言葉が「占領」や「植民地」であったことの意味を、私たちはくり返し問う必要がある。」(279)

「個別の異議申し立てが、歴史的な背景とつながり、それぞれの場所で抗う声たちとつながるとき、それは国家の論理そのものを揺るがす叫びになり得ることを、一方の当事者である国家の側が一番よく知っている。」(280)



■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20130430 
沖縄 竹中労  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) BOOK
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