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『老いのかたち』

黒井 千次 20100425 中央公論新社(中公新書),235p.

last update:20131019
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■黒井 千次 20100425 『老いのかたち』,中央公論新社(中公新書),235p. \760+税 ISBN-10: 4121020537 ISBN-13: 978-4121020536  [amazon][kinokuniya]

■内容

昭和一桁生まれの作家が、自らの日常を通して“現代の老いの姿”を探る。同級生の葬儀を同窓会になぞらえ、男女の老い方の違いに思いを馳せ、 「オジイチャン」と呼ばれて動揺、平均余命の数字が気にかかり―。冷静な観察眼と深い内省から紡がれる、珠玉のエッセイ五六篇を収録。

■著者略歴

1932年(昭和7年)東京生まれ。55年東京大学経済学部卒業後、富士重工業に入社70年より文筆生活に入る。69年『時間』で芸術選奨新人賞、 84年『群棲』で第20回谷崎潤一郎賞、94年『カーテンコール』で第46回読売文学賞(小説部門)、2001年『羽根と翼』で第42回毎日芸術賞、 2006年『一日 夢の柵』で第59回野間文芸賞をそれぞれ受賞。本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです。

■目次

I 病気待ちの列
父という時計
自然に老いていくには?
健康番組、もういいよ
廃車宣告された気分
崩れゆく老いの形
病気待ちの列
甘味処で一服
〈不眠〉を飲む

II 友を送る――これも同窓会
時間ないのは僕なのに
追い抜き、追い抜かれ
一円玉の気持ち
初々しい初老男性の時代
友を送る――これも同窓会
扉にぶつかり、窘められて
衰えを受け入れる気品
犬という日常
他人に歳を教えられ
老いて異国を旅すれば
足し算の年齢、引き算の年齢
老いる自分を眺める自分

III 老い遅れに気をつけて
歳を取れなくなった時代
一つ拾い、一つこぼす
老い方、男女で何かが違う
老衰という自然
よろめきと戯れる
ファミリーレストランの年配客
齢重ねての誕生日
老い遅れに気をつけて
時の過ち、場所の間違い
老人に生きる子供の心
少年のように群れる中国の老人
濡れ落ち葉より、乾いた落ち葉

IV 「普通高齢者」がイチバン
平均余命で数字遊び
生命の灯が点るのも病院
病と老いは似ているけれど
鏡に映った姿から
白髪のタクシードライバー
老齢故の疲労とは
老い心地
呼び名懐かし〈昭和一桁〉
「普通高齢者」がイチバン
年齢の節目が消えた
〈オジイチャン〉に動揺
老いを受け入れる気力

V 〈冷や水〉とのつきあい方
二度こぼしても――失敗を恐れずに
ヒガミとアキラメ
理想の老年像とは
赤ん坊に吸い寄せられる女性たち
物忘れの心配、先走り
年寄りゆえの忙しさ
年齢という数字
〈らしさ〉の喪失
品位ある老人、どこにいる
オバアサンの主役化
〈冷や水〉とのつきあい方
年齢が頭に巣くう

あとがき

■引用


歳を取れなくなった時代
 近頃は人が歳を取らなくなってしまったな――話していた相手がふと呟くようにそう言った。よく聞く言葉ではあるけれど、 そしてとりあえずこちらもそうだなと頷き返しはしたけれど、あらためて考えてみるとその中には幾つもの問題が隠れているように思われた。
 歳を取る、とは年齢が増すことだが、それはただ数字が増加することを意味するのではない。三歳の子供が六歳に達したからといって、アイツも歳を取ったな、 とは誰も言わないだろう。
 歳を取る、とは老齢に近づくことであり、壮年期を越えた下り坂の一年、一年を辿り続けることに他ならない。>87>
 では人が歳を取らなくなるとはどういうことか。時間とともに年齢が増すのは否定しようもないのだから、ここでいわれる歳とは数字で捉えられたものではなく、 いわば年齢相応のイメージとでもいったものと思われる。六十歳にはそれなりの風采があり、七十歳には前には見られなかった風貌が備わり、八十歳には更に風格が加わって、 というように――。つまり、年齢の増加とイメージの変化は正比例する関係にあった。あの人は幾つくらいだろう、と考える時、そのイメージが手がかりとなった。
 いつの頃からか当の比例関係が曖昧となり、対応に狂いが生じた。年齢の輪郭が崩れ始めた。総じて日本人の寿命が延びたのだから当然だろう、との声をよく聞かされた。 確かに我々の平均寿命はここ二十年ほどの間に男は四年ほど延びて七八・五三年、女は五年以上も延びて八五・四九年に達した(厚生労働省「平成17年簡易生命表」による)。
 寿命がそれだけ延長されれば、生涯における通過点としての各年齢の相対的な位置関係も変らざるを得ず、 以前に見られた歳相応の貫録といったものが薄れてしまうのも無理はないのかもしれない。還暦を迎えるのは当り前の話であり、古稀に達するのも少しも珍しくはなかった。 今の六十歳にはかつての六十歳の重みはなく、現在の七十歳は昔の七十歳の威厳は見られないわけである。人が歳を取らなくなったとは、そのこと>88>を指しているに違いない。 良くいえば元気な高齢者が多くなったのであり、悪くいえば老熟した年寄りが見かけられなくなった。この現状認識には頷く他にない。
 しかし、問題はその先にある。寿命が延びてかつての年齢に備わっていたそれなりの風格というものが見られなくなったのは認めるとしても、 では先に進めば幾年か遅れてその風格に辿り着くことが出来るのであろうか、との疑問が残る。老熟は単に先延ばしにされているに過ぎず、 遅れるとしてもいつかは以前と同じものを人が手に入れることが出来るのであろうか。たとえば現在の七十歳はかつての六十歳に換算が可能であり、 もし昔の七十歳を目指すとすれば今は八十歳まで待たねばならない、などといった計算が成り立つのかどうか。
 そうではないだろう。これは年齢を数字として扱う計算上の問題ではなく、生きることの質に関る事柄であると思われる。以前の年齢が備えていた老熟の風格といったものには、 幾ら歳を重ねても我々はもう追いつけない。というより、そんなものはとうに失われてしまっている。ここ半世紀ほどの我々の生き方が、なし崩しに昔の老人像を蝕み、 崩壊に導いていたのもしれない。その過程には家族の在り方や相続の問題、女権の拡大や医療技術の発達など、様々の要因が絡まり合っている。>89>
 と考えれば、年齢の輪郭が曖昧になったり、老年にふさわしい威厳が薄れたりするのは必然であり、最近になって急にそのことが意識されるようになったのだ、 と受け取るのが正しいような気がする。人が歳を取らなくなったのではなく、人は以前のようには歳を取れなくなっていると認識すべきなのだろう。 年齢にまつわる古いイメージが失われ、より長くなった寿命に関る新しいイメージが生み出される前の端境期に我々は立たされているに違いない。 自分の年齢をいかなる老いの形に流し込めばよいのかがわからぬ戸惑いが、歳を取れぬ状態へと人を追い込んでいる。とりあえずの応急処置としてもいうかのように、 幾つになっても元気で若々しい老人の姿のもてはやされる傾向が見られるが、それだけで老いの確かなイメージが成立するとは思えない。 体力の維持や健康は老年に必要なものではあるだろうが、それに支えられた生の内容がどのような形で暮しの中に現れるかが問われぬ限り、 年齢にふさわしい老いの姿を思い描くことはかなわない。
 人が歳を取れなくなってしまったことは我々の必然ではあるのだが、それを喜んだりそれに困惑するのではなく、その事態を一つの可能性として捉え、 そこから新しい年齢イメージの構築へと歩み出せぬものか、と老いの中で夢みている。(pp.86-89)



老衰という自然
 老いることは、病むことと密接に結びついているらしい。長年生きて来たのだから、身体の各部位に疲労がたまり、故障が生ずるのは自然なのだろう。 機械にも金属疲労という現象があるのだから、人体に似たようなことが起っても仕方がない。
 しかし逆に、病むことは必ずしも老いることに結びつくとは限らない。幼くして病気に冒されることもあるし、若い身で患うケースも間々見られる。かつて、 肺結核は青春期に発病することが多く、生命の開花に逆行する症状の進行や危機は悲劇を生み、それは日本近代の小説にもしばしば扱われて来た歴史がある。
 そう考えれば、老いた人々にとって病むことは自然なのであり、若き人達にとっては不自然な出来事だといえよう。>99>
 以前、ある病院の外科病棟に入院している人を見舞いに通ったことがある。そこでナースステーション近くに並ぶ長椅子に若者が集り、陽気に語り合う光景によく出会った。 脚にギプスをはめたり、腕を肩から吊ったりしている同じ年頃の患者を中心に、見舞客たちはバイクの事故やスキーの怪我を巡って賑やかに言葉を交わしてしるのだった。
 時には病院の関係者に注意を受けたりもしたけれど、また時には女性看護師まで巻きこんで退院の予定やその後の処置が話題となる折もあった。病院ではありながら、 風通しのよい明るい雰囲気がそこには醸し出されていた。若い入院患者の障害が、時の経過とともに快癒する確かな見通しの立つものであったためだろう。 それは日常生活からの一時的避難にも似た状態であり、いわば一種不自然な時間であったに違いない。不自然はやがて自然へと戻っていくのが道理であろう。
 若い人々の病が、すべてそのような単純な形のものに限らぬのはいうまでもない。医療の進歩は著しいとはいえ、現段階では不治の病とされるものに若くして冒されることもある。 しかしそれはやはり治癒すべきものであり、治療の発達によって救わねばならない。
 それに対して、老いてからの病気はいささか性格を異にするようである。たとえ同一>100>の病気であったとしても、若い時期に病めば異常な事態であり不自然であるのに対し、 老人の場合は高齢故に止むを得ぬことであり、年齢の自然の内に含まれそうな気がするからだ。老いが進むにしたがって生ずる身体の故障は、 やがて快癒する筈の一時的異常とは呼べない面があるだろう。
 かつて八十代も後半にかかった老人が、脚の痛みに耐えかねて医者を訪れた。細かな話はわからないが、これは老化のためなので治しようがない、と診断されたという。 あなたはもう老いたのだから仕方がない、と見放されたことに対して、老人が苦笑しつつも強い不満の言葉を洩らすのを聞いた。
 医者の対応に問題はあったのかもしれないが、まだ六十代にはいったばかりであったこちらは、 客観的にみれば年老いた人の身体がそのような事態にぶつかるのは仕方のないことなのだろう、と考えた覚えがある。老いが進んでいく上の自然の一部として認めざるを得ない、 と思ったのだろう。
 とはいえ、苦しむ本人は痛みから脱け出したいのであり、その症状が一時的な異常として起っているのか、高齢故の自然であるのかなどは問題にならない。 痛みそのものには自然も不自然もない。最近は痛み自体に対処する医療も進み、ペインクリニックと呼>101>ばれる専門分野もあるようだが、 当の老人はその恩恵に浴する機会をもてなかった。
 いずれにしても、老いの進むにしたがって引き起される様々な病とどう向き合うかは、老い続ける本人にとって誠に深刻な課題といわざるを得ない。ある意味では、 それが自然であればあるほど一層深刻なのだともいえよう。
 いつの頃からか、「老化」のかわりに「加齢」という言葉がつかわれるようになった。「老化」には老い衰えていくイメージが伴うのに対し、 「加齢」には年齢の増加のみを数として扱おうとする姿勢が見られる。
 見かけることはあるけれど以前より少なくなりつつある語として「老衰」があげられる。生命の終焉は人体にとって決定的な変化なのだから、 そのきっかけとなった事態に何かの病名をつけることは可能であるに違いない。「老衰」が医学用語であるのか否かは知らないが、しかしこの言葉には病名とは異質の響きがある。 「老衰」のために命の終末を迎えたと聞かされると、なにか自然な気持ちを覚える。充分に生きた末のことなのだ、と納得させられる。
 直前まで元気でコロリと他界するのが理想だとよく聞くけれど、これは「老衰」の否定に他なるまい。老いと病は切り離せぬ関係にある以上、 この終り方はやはり不自然だ。(pp.98-101)



病と老いは似ているけれど
 老人と病人とは、どこか似たところがありそうに思われる。そんなことを呟くと、どちらの側からもたちまち異議を唱えられそうではあるけれど――。
 老人の側からは、昨今は元気のよい老人が増えているのであり、その活力を無視して、ただ歳を重ねたというだけで病人に近い存在と見られるのは迷惑千万である、と。
 また病人の側からも、今はたまたま健康を損なっているが、回復すれば本来の二十代、三十代に戻るのだから、 年齢と関係なく病者を見た目で老人に近いなどと考えるのは短絡的に過ぎ暴論である、と。
 その通りで反論のしようもない。にもかかわらず、老いと病を重ねてそこから何か見えてくるものがないか、などとしきりに考えるようになったのは、 自分自身が二つの状>145>態の文句なしに重なり合う老病人として、ひと月半近くの入院生活を送ったために他ならない。幸いにして退院がかない、 今は体力を取り戻すべく静養中といったところだが、それにしてもベッドが中心となった居住空間、つまり病室で過す日々は長かった。
 もう寝ている必要はない、起きて身体を動かしたほうがいい、と医師に言われても、パジャマにスリッパ履きで、物を書くような机も椅子もない部屋での暮しでは、 たとえ身体は起きたとしても気持ちが起きてくれない。何をするのも面倒なのでついベッドに横になってしまい、 うとうとしているとそれが原因となって今度は夜が来ても眠れない状態に老い込まれる。
 仕方がないので最小限の運動を試みようと、病室の間の廊下を歩いてみることにした。散歩といえば屋内散歩だが、視界は限られており、距離も短く、気分は一向に晴れない。
 気がつくと、似たような表情で廊下を歩いている入院患者達が幾人かいた。散歩というよりリハビリと呼ぶべき営みであるのかもしれないが、その誰もが俯きかちで、 ひたすら自分の内部へ、自分の奥へと歩み続けているように感じられた。
 ある夕暮れ、屋内散歩の途中で車椅子に乗った小柄な老人と出会った。八十代には達>146>しているに違いない容貌で、若い女性が車椅子を押している。 そしてその肩のあたりに、小さな枕ほどある大きさの点滴の袋がさがっていた。廊下の正面に当る窓から差し込む西日がその袋に当って点滴袋を黄金色に輝かせていた。 脇を通れぬわけではなかったが、思わず足を止めて車椅子を待つ姿勢となった。老人と目があった。
 ――おお、元気に歩けて、いいですな。
 小さな声だったがはっきり聞えた。久しぶりに他人から褒められたようで嬉しかった。こちらの足取りが元気なものでないのは明らかだが、 歩行も難しい老人からそう声をかけられたことによって、なんとなく自分が若返ったような気分さえ生れていた。今度また廊下で出会ったらこちらからも声をかけよう、 と思っていたのに、当の老人をその後見かけることはなかった。
 ベッドに転がって白い天井を眺めているとろくな考えは湧かず、老病人とは二冠の王者だが、では三つめの冠はどこにあるのだろう、 などと景気の悪い想念ばかりを追いがちである。しかし車椅子に乗ったあの老人から贈られた言葉を思い出すと、たとえ老いと病は似ているところがあったとしても、 安易に両者を重ね合わせたりせず、夫々の状>147>態を夫々のものとして見極める姿勢を保つことが肝要であると思われた。
 両者が似ているとはいってもそれは現象面での話であり、老い自体を病として扱えるとは考えないし、また病を身体の老いと結びつけて眺めようとするわけでもない。
 ただ全体に活力が乏しく、スピード感に欠け、持続力も弱く、単独では一般的、平均的な生活を遂行する上に困難が伴う、というあたりに注目すると、 老者と病者は似ているともいえそうな気がする。
 しかし、それより遥かに大きな違いが一つある。病は治癒することによってそこからの脱出が可能であるのに対し、老いを年齢として捉える限り、 それは逃れようもなく本人につきまとい、生きて来た時間を本人の鼻先につきつける。病が相対的な状況であるとしたら、老いは絶対的な状況であると言わねばならぬ。 病には、病気の過去を否定する意味での快気祝いがあるが、老いにはむしろ重なり続ける年齢を肯定する長寿の祝いしかない。
 だから、老病人はせめて病気を乗り越えて元気に歩ける老人に戻らねばなるまい。そうでなければ、折角与えられた機会なのに、 老いとはいかなるものかを味わう僥倖を失ってしまうからである。(pp.144-147)

■書評・紹介

■言及

北村 健太郎 2013/02/20 「老いの憂い、捻じれる力線」
 小林 宗之・谷村 ひとみ 編 『戦後日本の老いを問い返す』,生存学研究センター報告19,153p.  ISSN 1882-6539 ※


*作成:北村 健太郎
UP: 20100612 REV: 20131019
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