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「「尊厳死」思想の淵源――J・フレッチャーのanti-dysthanasia概念とバイオエシックスの交錯」

大谷いづみ 20100304
小松美彦・香川智晶編『メタバイオエシックスの構築へ――生命倫理を問いなおす』NTT出版、pp.207-233.



■目的

メタバイオエシックスの視点から@「尊厳死」思想の淵源をその先駆者であるジョセフ・フレッチャー(Joseph Fletcer 1905-1991)が創出したanti-dysthanasia概念に遡り、Aその企てをキリスト教神学者にして社会運動家でもあったフレッチャーの思想的背景に照らして考察する。それをつうじて先駆的バイオエシックスが宗教的言辞をたずさえつつその論理構成において内包してきた問題を指摘し、現在のバイオエシックス/生命倫理学があらためて顧みるべき課題を提示する。


■内容

1 はじめに

「安楽死・尊厳死の歴史において、カレン・アン・クインラン事件が一つのメルクマールとなったことは間違いない。日本では、この事件を契機に「安楽死」と弁別された「尊厳死」という語と概念が登場し、しだいに受容されていったものの、その用法や含意は当初も現在も一定ではない。心身の苦痛苦悶の除去を目的とした致死行為の倫理的法的是非が論じられる現在の「安楽死」問題は、19世紀末から論じられるようになった。そしてそれは「殺すなかれ」と命ずるキリスト教、とりわけローマ・カトリックの伝統と真っ向から対立するものと考えられた。」(208)

2 フレッチャーのanti-dysthanasia概念

フレッチャーは当初、euthanasia(安楽死:安らかなよき死を直接引き起こすこと)との対比においてdysthanasiaという概念を創出し、「耐えがたく悪しき死の間接的な終結」を意味するものとした。しかしのちにdysthanasia=悪しき死という一語をもってその終結までを意味するには無理があると考えたのか、かかる死にたいする否定の意をこめてantiをその接頭に付し、かくしてanti-dysthanasiaなる概念が(あらためて)創出された。

「フレッチャーは、anti-dysthanasiaに三つの形式を見る。第一が致死の可能性のある鎮痛剤を与えること、第二が患者の死を長引かせる処置を中断すること、第三が患者の生命を維持するいかなる処置をも差し控えること、である。第一型は麻酔薬を致死量に達するまで与えるという決断にも見えるが、その真の「目的」は殺すことではなく、単に痛みから救い出すことであるという。第二型は、たとえば、静脈点滴や酸素を中断すること。第三型として、誕生時無呼吸の欠損新生児や、生命機能を回復させようにも手遅れの交通事故被災者などが想定されている。これらは、一見すると、第一がいわゆる間接的安楽死、第二・第三が、「延命」治療の差し控え・中止と、今日よどみなく連続して括られる消極的安楽死の定義にあたる。しかし、第一型については、致死の可能性のある鎮痛剤を与えることについて、致死量に達するまで与えることを否定してはいないから、二重結果の原則をいわゆる積極的安楽死にも援用しているように見える。」(212)

「従来の安楽死とanti-dysthanasiaとの相違を明確に区別しているのは、その許容にあたって、患者の同意を必要としていない点にある。フレッチャーは、安楽死同様、anti-dysthanasiaにも患者の側に自発的な場合(voluntary)と自発的でない場合(invoruntary)の双方がありうることを挙げる。しかし安楽死が「自発的」であるべきだとの主張は、医学が、薬物や外科療法による驚くべき鎮痛方法(現代であれば緩和ケアというところであろう)や、終末期の生命機能装置をまだ発見していなかった時代のものだという。つまり、「自発的」であるのは患者がそれを要請するか、あらかじめ理解し同意している場合の話であって、選択しそこねたり同意するに足る能力がない場合については、患者への憐れみは否定されない。患者がどれほど無意味な存在であろうと、それは古い慣例にしたがってのことだと。/患者の同意を要しないのはなぜか。フレッチャーは、「ほとんどの末期患者が至る、応答不可能で意思をもたなくなったのちの状態こそが、道徳的にいえば、問題がたちあがるとき」だと指摘する。そのときに向けた事前指示のしくみを前提にしてなお、「患者がその望みを一度も言明していない場合、いままさに選択しそこねたり同意するに足る能力がない場合」をフレッチャーは想定し、それこそが問題であるという。そして、その場合には、同意なく憐れみ(mercy)によって死がもたらされるべきであると考えるのである。こうして、本人の同意なき憐れみの死――それが直接の致死行為であれば、ためらいなく慈悲殺(mercy killing)と呼ばれる行為――が肯定される。」(212-213)

「……フレッチャーは「安楽死」を、たとえば末期癌患者に象徴されるような「死に勝る肉体の苦痛からの解放」のみを想定していないどころか、その対象に「老衰やそれに類する病気のために長期にわたって役に立たなくなった者」という定義をいったん挙げておきながらその限定を外し、「不治の苦悩」から憐れみをもって解放することだと捉えるのである。」(214)

3 フレッチャーの安楽死肯定論

「人格性の倫理 ethics of personality」 フレッチャーは「人間性を自然的生理的生物的生命に認めず、自己意識をもって決定し理性的な一貫性のある行動をなす能力のある人格的存在(a person)であることを最重視する。人格性の倫理の示すところは、自己意識をもたず理性的な能力のない者は新生児であれ病み老い衰えた病者であれ、人間ではない「怪物」であり、また「植物」えあるにすぎず、それゆえ、産児調節による誕生の制御とともに、安楽死による死の統御で「人間の質」を担保せよというものである。」(219-220)

「優性主義と人格性の倫理を基礎にもつフレッチャーは、なにゆえeuthanasiaと切り分けてanti-dysthanasia概念を創出しようとしたのだろうか。……/要約すればこういうことである。euthanasiaとanti-dysthanasiaは自分にとって同じだが、「安楽死」という言葉が連想させるものに心理的な困難を感じる人々をその心理的な困難から解放するために、である。ただし繰り返せば、いずれにしても、目的も動機も予想される結果も異なるものではなく、まったく同じ行為にほかならない。フレッチャーは一貫して安楽死を推進し啓蒙する運動家であったのだから、これほど正直な言はない。とすると、anti-dysthanasiaなる語の創出は、人為的な死の惹起の正当性を主張するための言語的戦略ということになる。」(220-221)

4 フレッチャーとバイオエシックス

「「安楽死」の適応範囲の弁別と拡大を見るフレッチャーの安楽死論の推移から、いったい何が看取できるか。戦後最初期の論考では、「社会のお荷物」への「優生学的安楽死」を安楽死から切り離すことによって自発的積極的安楽死の倫理的正当性が主張される。社会の「お荷物」とみなされた人々への「強制された安楽死」のイメージを払拭するために自発性が強調されねばならなかったこの時期の論考では、自殺の正当性の紙幅が割かれている。その後1960年代に入ると、いったんは安楽死に積極的と消極的の別をつけて、消極的な死の惹起が肯定される。ここでは1950年代の論考で強調された自発性が後退し、患者の同意は必要とされない。anti-dysthanasiaの企てが示すごとく、殺人ではなく、延長された悪しき死からの解放にすぎないという論理が組み立てられているからである。70年代には、間接的で非自発的な死の惹起は患者を死ぬに任せる戦術としてすでに病院では日常的であることが、その非倫理性とともに述べられる。そして、間接的な死の惹起では、困難な悪しき死の過程が引き延ばされることをもって、むしろ直接的、積極的な死の惹起のほうがより倫理的であることが明確に強調されるのである。消極的、間接的な死の惹起の肯定は、フレッチャーの論理構成において、積極的な死の惹起を肯定するための橋頭堡にすぎない。しかも、1973年のこの論考で、フレッチャーは、直接的であって、かつ非自発的な死の惹起の承認が、犯罪ではあるものの刑罰を差し控える法律によって世界中に広がる将来を予言するのである。こうして、1950年代に議論の枠外に置かれた優生学的安楽死が形を変えて再登場する。」(222-223)

「フレッチャーが実践神学者、社会倫理学者として、やがては医療倫理学者として活躍した1950-70年代は、キリスト教ん世俗化、現代化をも含む激動の1960年代をはさんだ時期であった。……キリスト者であるフレッチャーは、まさにその渦中にありつつその最前線に位置して変化し、やがてキリスト者であることを捨てるに至った。フレッチャーが一貫して変わらなかったのは、優性主義に基づく合理的な社会運動の論客としての側面である。anti-dysthanasia概念の創出と提案はその象徴ともいえる企てであった。」(224-225)

5 おわりに――日本への紹介導入と現在

「anti-dysthanasia概念を日本に紹介したのは、1970年代に第二次世界大戦後の米英の安楽死運動を積極的に紹介した刑法学者、宮野彬である。医事法学者、唄孝一の発案で行われた第二回医事法学会総会シンポジウム、「望みなき(?)患者の治療」(1972年1月30日、京都府立勤労会館)で、宮野は「患者の生命を引き延ばす問題――治療義務の限界の一側面」と題した報告を行っている。このタイトルが、フレッチャーの1962年の二論考に共通する副題であることはいうまでもない。宮野はここでフレッチャーを引いた「反・苦難死」の主張と、生活不可能な重症奇形児の生命短縮の法理を提起している。患者を死ぬに任せ、治療行為をやめた後は、生命が自然に尽きるのに任せる「反・苦難死」はその後何人かの法学者によって言及されないがらも定着することなく、代わって定着したのは「尊厳死」の語であった。本稿が「尊厳死」思想の淵源をanti-dysthanasia概念に求めたゆえんである。/だがむしろ、ここで注目しておきたいのは、優性主義と人格性の倫理を基本とするフレッチャーの誕生と死の論理構成と、日本で産児調節運動を牽引した社会活動家、太田典礼の論理構成との酷似である。両者の経歴にも共通するところが少なくない。太田典礼は、日本安楽死協会(現・日本尊厳死協会)の顧問でもあった宮野の業績を通じてフレッチャーにも早くから触れていたであろうから、バイオエシックスの先駆者たるジョセフ・フレッチャーを通してバイオエシックスの原型に触れていたことになる。それは日本に生命倫理学を導入したバイオエシストたちよりも早い。この点も、日本の生命倫理学の生成史を考える上で興味深い。」(227)

「……現在の尊厳死法制化の急速な動きは、1970年代の再来ともいえる。議論の枠組みと論点そのものは1970年代とさほど変わっていないにもかかわらず、その表現や論理展開に格段の洗練が見られることに、この30年のバイオエシックス/生命倫理学の導入と推移は無縁ではないだろう。むろん、考えられるべきは、洗練された表現や論理展開を廃してその核心に変わらず存在する、生命の、あるいは人間の、質による統制の倫理性そのものである。」(227)

*作成:安部 彰 
UP:20100714 REV:
Fletcher, Joseph[ジョゼフ・フレッチャー]  ◇安楽死・尊厳死安楽死・尊厳死 文献  
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