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「メタバイオエシックスの構築へ向けて」

小松美彦 20100304
小松美彦・香川智晶編 『メタバイオエシックスの構築へ――生命倫理を問いなおす』NTT出版、pp.3-38.

last update:20100509

■目的

 @既存の「生命倫理≒バイオエシックス」にかわる「メタバイオエシックス」の構築に向け、「生命倫理≒バイオエシックス」に稀薄あるいは欠落していると思われる重要な視点を抉り出し、批判的に検討する。
 A先行研究にたいする見解と本稿(本書)におけるメタバイオエシックスの見解を提示する。

■@について

「生命倫理≒バイオエシックス」に稀薄あるいは欠落していると思われる重要な視点は以下の5点(あるいは6点)である。

@「文明論的な視点」
 有史以来、我々は科学と技術にまつわる「革命」をいくつも経験してきた。これらの革命はたしかに人間をさまざまな意味で「豊か」にしてきたが、同時に不幸をも生んできたのではないか。同様に、現代における「人体革命」も我々の生老病死に多大な恩恵をもたらすかもしれないが、それと裏腹な負の色彩を決定的なまでに強める可能性がある。
 米国では近年、エンハンスメント(能力増強)がバイオエシックスの重要課題となってきている。エンハンスメント(能力増強)にともなう人間のはてしない欲望をバイオテクノロジーによって実現させる現況と未来像が文明論的観点から問われている。2003年には「米国大統領生命倫理評議会」によって『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求』と題する報告書も出された。しかしようやく登場したその文明論的な批判も「治療を超えない」領域にたいしては矛先を向けず、むしろバイオテクノロジーじたいは礼賛している。

A「歴史的な視点」
 現代の先端医療やバイオテクノロジーについて論じるさい、ともすれば無自覚にある何かを大前提とする陥穽にはまっている場合がすくなくない。その大前提は、同種の歴史的事態や議論との比較対照をつうじて明るみにでることがある。あるいは現在までの経緯の精査をつうじて大前提をみえなくしている構造をつかむことができる。つまり来し方から行く末の展望が可能となること――これが「歴史的な視点」に要諦である。
 たとえば脳死について。60年代後半に脳死概念が登場して以降、心臓死との対比において世界的な議論が巻き起こっていく。新奇な脳死概念にたいして心臓死はいかにも古色蒼然と映る。ところが「心臓死」という言葉じたいは脳死論争の開始後に案出されたものにほかならない。すなわち脳死概念の対立項が生み出されることで論争構造が確立され、しかも死は本来膨大な領野を有しているにもかかわらず心臓死と脳死のいずれかであるような大前提がそれと気づかないままにできあがったという経緯がある。
 「姨捨伝説」も同様である。歴史を遡れば、むしろその大半に共通する基本は老人の知恵を尊び、老人を敬うという話である。

B「メタ科学の視点」
 バイオエシックスは医学や科学の言説を無批判に受けいれたところから議論をはじめている。諸学による体系的研究を標榜してきたバイオエシックスだが、縦割構造は維持されており、人文・社会科学系の論者による検討は社会的な影響など外在的なものにとどまりがちで、科学理論内在的な検討はまずない。
 ところが医学や科学技術の言説が必ずしも正しいとはかぎらない。ここでは「脳死を人の死とする科学的論理」にたいするバイオエシックスの姿勢をとりあげよう。脳死(全脳死)を人の死(の基準)とする論理は、(1)死を「有機的統合性の消失」と定義し、(2)有機的統合性の唯一の中枢を脳と限定し、(3)有機的統合性の中核である脳が機能停止した脳死状態にあっては有機的統合性が消失しているため、それは死(の基準)である、とする(『米国大統領委員会報告――死を定義する』、1981年)。世界で唯一の公式論理として流通してきたこの論理はしかし、98年以降、米国の小児神経学者シューモンの執拗なメタ科学的批判によって破綻した。その批判は幾重にもわたるが、たとえば有機的統合性を維持して成長する長期脳死者の存在を示すことで(2)の論理が破砕された。このように脳死は有機的統合性の唯一の中核ではない以上、脳死を死の基準とするかかる論理はそもそも成立しえない。かくしてバイオエシックスには、科学的とされることの妥当性を検証する「メタ科学の視点」が不可欠である。

C「経済批判の視点」
 ここでの「経済批判の視点」とは、Foxとは異なり、バイオエシックスがたんに医療経済分野に参入することでも政府の医療財政政策に研究協力することでもない。医療やバイオテクノロジーが経済問題と不可分であること、まさに人間の生老病死が経済政策によって統御されている現実を批判的に解剖することを指す。そもそも米国のバイオエシックスはそのはじめから「経済批判の視点」を奪われているといえる。
 1970年前後の米国は、医療財政の逼迫が問題化し、ニクソン政権によってその再建がはかられた時代であった。「新国民医療戦略」に続いて出された「医療テクノロジーアセスメント」は、科学技術を費用対効果や安全性の面から総合評価するテクノロジーアセスメントを医療分野に導入したものだった。この国策に当初全米医師協会は利権確保のため猛反対した。しかしのちに医療テクノロジーアセスメントの作成者も検証者も医師で固めることにより受容していくようになる。またそこには倫理的評価という観点も基本的に排除されていた。このように「経済批判の視点」は医療テクノロジーアセスメントに牛耳られることによりバイオエシックスは経済以外のことがらを対象とすることになる。Foxが述べる80年代以降のバイオエシックスの「経済化」も批判精神を去勢されたものにすぎず、日本に輸入されたのはそうしたバイオエシックスにほかならない。

D「生権力の視点」
 フーコーが提起した「生権力≒生政治」の観点から、現代の医療制度や保険制度はもとより先端医療やバイオテクノロジーとそれらをめぐる政策や法の性格をとらえかえしてみることは可能である以上に意義あることだろう。そのうえで注目すべきは、生きるに値する生と値しない生の弁別の根拠にたいする執心がフーコーにはあまりみられないことである。たしかに1976年3月17日のコレージュ・ド・フランスの講義では「本質的に生かすことを目標とする権力が、どうして死ぬに任せることができるのか」と問い、これに「人種主義」の介入という答えを自ら与えているが、ここでの議論の対象はあくまで「集団としての人間(生)」であり、「個としての人間(生)」は埒外に置かれたままである。つまりは人間個々人が弁別される根拠については語られていない。
 フーコーが置き去りにしたこの問題に焦点を当てたのがアガンベンである。アガンベンによれば、権力の実体は「ホモ・サケル=例外者」の産出にある。「ホモ・サケル=例外者」は古代社会の奴隷、宗教上の異端者、近世における魔女、ナチスにおけるユダヤ人や障害者、現代にあっては脳死者と、連綿と産出されつづけている。そしてその分析に立ってアガンベンは、「近代の生政治の本質的な性格の一つは、それが、生において何が内にあり何が外にあるかを明確に判別し分離する境界線をたえず定義しなおされなければならない」とする洞察を導き出している。
 かかるフーコーやアガンベンの生権力論に照らせば、出征前診断・研究/産業利用可能な受精卵(の時期)・堕胎が容認される胎児(の時期)・脳死ドナー・安楽死と尊厳死の対象者・それをめぐる自己決定権といったもろもろの技術・存在・概念の位置価が再考可能となるはずだ。しかるにバイオエシックス本体の論著ではフーコーやアガンベンを援用することすら管見では皆無である。たしかに周辺の議論では生政治/生権力の観点から、エンハンスメント・ニューロエシックス・ヒトゲノム計画などを論じたものはすくなくない。しかしそれらのなかにも「弁別」に焦点をあてたものは見出しえない。

E「一般市民の感性・感情を尊重する視点」
 「生命倫理≒バイオエシックス」において、感性と感情は理性や論理に比して蔑ろにされてきた。とくに先端医療やバイオテクノロジーにたいして否定的なものである場合、科学に無知な者の非科学的な物言いとして一蹴される傾向が強かった。

■Aについて

 メタバイオエシックスは以上の5点(あるいは6点)を兼ね備えている。それは従来のものを外在的かつ内在的に精察する視点をくみこんだ新しいバイオエシックスである。メタバイオエシックス構築のためには、批判対象であるバイオエシックスをまずマクロかつミクロに把握することが必要だ。たとえば日本では自明視されている「自律」「善行」「無危害」「正義」の「原則主義」がはたして米国でも盤石のものでありつづけているのか、その真偽を歴史的に検証してみる必要がある。
 1990年代以降の米国では、バイオエシックスにかんする歴史研究が登場するようになってきている。ロスマンの『医療倫理の夜明け』(邦訳2000年)、ジョセンセンの『生命倫理の誕生』(邦訳2009年)が代表的なものとしてあげられる。バイオエシックスの歴史的検討のためにはもちろんこうした文献を精読すべきであることは言を俟たないが、同時に文献自体の検証をも心しておこなう必要があるだろう。たとえばジョンセンの著作はバイオエシックスの現状をおおむね是とする立場から過去を照射しているため、その描き出される歴史は基本的に進歩の歴史になっている。また60年代後半以来バイオエシックスの要職を歴任してきたジョンセンの自伝的性格を帯びているため、バイオエシックスの政策史の色合いが濃く、ひるがえって彼にイレリヴァントであった重要な要素は記述からこぼれおちている向きがある。他方ロスマンの著作は、旧来の医療倫理とバイオエシックスの異同を歴史的に明らかにすることを目的とし、「本人同意の軽重」と「医療空間の支配者の変容」の歴史としてバイオエシックスの展開を描いている。この点ではたしかに評価できるものであるのだが、基本的に医療倫理からバイオエシックスへの転成を肯定的に評価しているため、取り逃がしている重要な諸論点があることも否めない。
 近年の日本でも、バイオエシックスの歴史研究が登場しつつある。主たるものに、土屋貴志「「bioethics」から「生命倫理学」へ」(1998)、香川千晶『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』(2000)、小松美彦「バイオエシックスの成立とは何であったのか――人体の資源化・商品化・市場化の討究のために」(2002)などがある。これらの研究も個々人が独自にバイオエシックスを相対化したものであるという限界をもっており、その妥当性の吟味を含めたより広範で精緻な歴史的検討が必要だろう。


*作成:安部 彰 
UP:20100428 REV:
小松美彦  ◇安楽死・尊厳死生命倫理  
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