実家の母の左の乳房にがんが発見されたとき、私はロンドンの郊外、テムズ川の西南に広がるリッチモンドパーク南端の街ニューモルデンに住んでいた。
日本の金融機関に勤めていた夫がロンドン支社勤務になり、一九九三年の春から私たちは家族そろって二度目の海外生活を送っていた。けれども、翌九四年の春に母は乳房ごとがんの摘出手術を受けることになり、私は一歳と五歳の二人の子どもを両腕に抱えて、一時帰国することになったのだ。
それは、不穏な予感に苛まれる日々のはじまりだった。母によれば、初めて乳房の辺りにごりんとした感触を見つけたのは、友人と訪れた信州の温泉に入ったときだった。湯煙の向こうに三人の尼僧の剃髪した頭が霞んでみえた。ただそう聞けば夢のような優しい光景だが、母には不吉な予感がしたという。
(第1章「静まりゆく人」より)
「背中にもときどき痛みが走っていたから、たぶんこれはもう、初期ではないと思う……」
日本でもようやく患者主体の医療とかインフォームド・コンセントなどという言葉が聞かれるようになり、がんも告知される時代になっていた。母も大学病院の外科医から、それはていねいな説明を受けていて、闘病の心構えもできていた。
このときは、病気の本人が家中でもっともしっかり病気を受け止めていたし、万事において自分で采配を振るっていた。手術の段取りも母は医師と相談をして決めていたから、家族には事後報告で済んでいた。手術当日は持病の狭心症に慎重すぎるほどの対応がなされたため、術後もなかなか目覚めないほどに麻酔が効いてしまったのだが、そうとは知らない父と妹はただおろおろと廊下で気を揉んでいたという。
母は術後二週間ほどで退院してきた。だから一時帰国のお見舞いといっても名目ばかりで、私にとってはのんびりできる里帰りに変わりなかった。母も久しぶりに会う孫の成長に目を細めて、リハビリと称しては台所に立ち、得意の煮物をつくってくれた。しかし実際には母の予想したとおり早期発見とはいえない進行がんだったから、温存療法どころではなく念には念を入れた処置がなされていた。 「どれどれ」と胸を開いて手術痕を見せてもらうと、脇の下のリンパ腺も大きくえぐりとられ、筋肉を剥がされたような左の胸は、肋骨が皮膚の下に透けて見えた。その胸の傷は、母の陽気な振る舞いとは裏腹に、手術の侵襲性と深刻な現実を物語っていたのである。私の動揺を見て、母はため息まじりに寂しそうに笑った。
「これじゃあ、もう温泉には入れないわよね」
そしてぽつりとこう続けた。
「パパがわたしのことを、かたわになったなんて言うのよ」
そういう言い方でしか自分のショックを誤魔化せない父なのだ。
乳房を失った妻。女性としての自信も失った母を慰めることもできない。そんな反応も父らしいといえば父らしかった。しかし後になって振り返れば、このときは母はまだ、片方の乳房を失った「だけ」だったのだ。