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『視覚障害あるがままにLet it be――夢は情報バリアフリー』

岩井 和彦 20091215 文理閣,243p.

last update:20110921

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■岩井 和彦  20091215 『視覚障害あるがままにLet it be――夢は情報バリアフリー』,文理閣,243p. ISBN-10:4892596086 ISBN-13:978-4892596087 \1785 [amazon] [kinokuniya] ※ n02. sjs.

■内容

8歳で「麻疹」で失明、盲学校を経て、同志社大学に入学。視覚障害者の情報バリアフリーを天職として歩み続け、失明後50年近くたってから、薬害「スティーブンス・ジョンソン症候群(SJS)」による失明と判明!そしてほぼ同時に、大腸がんを発病。手術や抗がん剤に果敢に立ち向かい、最終ステージIVの状態で、仕事を続けながら、前向きに明るく闘病する姿は、2人に1人が、がんとなる時代の、団塊の世代の生き方として、多くの共感を得られるのではないでしょうか。


■目次

第1章 スティーブンス・ジョンソン症候群(SJS)の発症
野球が大好き/白い闇の中で/母のお百度参り/ひとり野球

第2章 新しい世界へのたびだち
家族と離れて寄宿舎へ/点字とキックベースボール/ばあちゃんがついとる!/盲人野球のエースをめざして/初めての「辞書」との出会い/全国盲学校弁論大会で優勝

第3章 盲学校の閉塞感の中で
高等部の「学園紛争」/授業ボイコットを決行/「もう一つの甲子園」/カッコ悪いことはしたくない!/タンデム自転車冒険旅行/万博前夜

第4章 夢に見た大学生活なれど
手探りの受験勉強/点字受験できる大学がない!/英和辞典全七一巻(点字版)との格闘/満たされない学生生活/関西スチューデント・ライブラリー/たった一週間の「見えた日々」/学生結婚

第5章 仕事でこそ輝く人生
視覚障害者教師としての気負い/日本ライトハウスへのあこがれ/点字出版所での仕事/ふるさとで技術を伝えたい/「音のカレンダー」づくり/わかくさ大会での「状況放送」/点字が時空を超えた瞬間/夢の辞書『点字版大辞林』の実現/情報バリアフリーの最前線をめざして

第6章 人生を豊かにする情報バリアフリー
読むこと、生きること/点字絵本への思い/視覚障害者の読書革命ー「ないーぶネット」/耳からの読書ーDAISY/地デジへの期待と不安/「眼聴耳視」ー目で聴き、耳で視るー

第7章 視覚障害者とスポーツ
闇の中のアスリートたち/盲人卓球で全国優勝/美智子さまのおことば/ブラインドサッカーとの出会い/釜本美佐子さんと二人三脚で普及活動/世界の強豪をめざして

第8章 生と死の間で思うこと
私ががんにかかるはずはない!/薬害による失明と判明/迷った病院えらび/手術と抗がん剤をめぐる苦悩/再発ステージIVへ/大腸がんとの終りのないたたかい


■SJSに関連する部分の引用

(pp11-23)
 私は元気な子どもではあったのですが、いつも青ばなを垂らし、それを舌先でなめ上げるので、よく注意されていました。当時はそうした子どもが多くいましたので、親はあまり心配はしていなかったと思いますが、ときどきやってくる耳の痛みには悩んでいたようです。中耳炎ということで病院に通っていましたが、耳だれさえ出てしまえば、痛みは嘘のように解消されるので、特に不便を感じることはありませんでした。[p12>
 その原因が、アデノイドの肥大にあるということで、二年生になろうとする春休みに、手術をしました。
 私の子どもたちも、同じようにアデノイドが大きかったのですが、手術を勧められることはありませんでしたので、今は手術はしないのが普通かもしれません。当時は、アデノイドが少しでも大きいと、積極的に手術を勧める風潮がありました。
 手術は、父に付き添われて、大阪の国立病院の外来で行いましたが、予想以上の出血で、担当医もあわてたようでした。それでもしばらく休んでいると落ち着いたので、帰宅することになりましたが、その途中で寄り道をしてしまいました。
 「ようがんばったな。何か食べて帰ろか。和彦は、何が食べたい?」
と聞かれて、
 「きつねうどん!」
と即座に答えた私の声が、あまりに元気だったので、父は大丈夫だろうと素人判断をして、近くのうどん屋に入りました。
 大阪のきつねうどんは、おいしいのです。私は、父が電気製品の仕入れのために、大阪の日本橋に行くとき時々連れて行ってもらい、いつも、きつねうどんをねだっていました。
 父はいつものリクエストに、気軽に応じたのですが、手術後すぐの飲食は、控えるべき[p13>だったのです。
 うどんを食べ始めるとまもなく、いったん止血していたのどから、どろっとしたものがわき上がってきて、口に運んだうどんと一緒に吐き出しました。出血です。あわてた父に連れられて、また病院に引き返す羽目になりました。
 その後も、貧血のような症状が続くなど、体調がすぐれないことが多くなり、両親を心配させました。
 母は、しばしば父に、
 「手術の後、すぐに、うどんなんか食べさすから、こんな体になったんや」
と言いつのっていました。
 母はまた、ずっと、
 「手術後に、もっと栄養があるもんを食べさしてたら、目が見えんようには、なれへんかったやろに」
と悔やみ続けていました。手術のとき入院させられなかったのも、栄養価の高いものを食べさせられなかったのも、家に金銭的な余裕がなかったためで、しかたのないことだったのですが、子どもの失明原因のすべてを、親のふがいなさとして受け止めてしまったようでした。[p14>

  白い闇の中で
 二年生になった、六月のある日、突然、家のトイレで倒れて大騒ぎになりました。その一週間後、いつものように、夕方遅くまで野球をして、家に帰りました。
 「目が真っ赤になってるで。疲れてるんやろ、ご飯を食べて、早よ、寝なさい」
と叱られ、グローブのグロス塗りをやめて、枕元に置いて、布団に入ったのが、見えていた最後の日の記憶です。
 数日前から風邪のような症状で、近くのお医者さんから、薬をもらって飲んでいました。
 その夜から、四〇度を超える高熱が出て、「麻疹」と診断されたものの、町医者では手がつけられず、奈良県立医科大学附属病院小児科に救急搬送されました。
 以後、意識不明の状態が、二週間続きました。その間、湿疹が日に日に全身に広がり、どんどん裂けて、膿が流れ出て、下着や敷布にこびりつくのです。それをバリバリ剥がされるときの強烈な痛みで、私は意識を取り戻しました。
 全身状態が極端に悪化している中、二週間、閉じたままの目の中が、どんな状況になっているか、誰も気にする余裕はありませんでした。[p15>
 しかし、私の目の中は、全身の皮膚と同じように、結膜に広がった湿疹で腫れ上がり、つぶれて、膿が角膜を覆い尽くし、眼球と溶けた結膜が一体となった物体に、変質してしまっていたのでした。
 もはや目が開けられる状態ではありません。医師が無理矢理まぶたを開けようとすれば、たちまち出血します。目薬で血や膿が流されても、目の前は、白い闇が広がるばかりになっていました。
 目だけではありません。口の中や性器、肛門など、すべての粘膜が、熱いるつぼで溶かされたように、変質してしまっていました。両親が、吸い飲みから優しく流し込んでくれる水さえも、焼けつく火柱を飲み込んでいるようでした。
 差し出される尿瓶に小便を出す激痛は、とても言葉で言い表わすことができません。
 私は毎日何をするにも、激痛に泣き叫んでいました。
 そんな中で、ずっとずっと不安に思っていたことは、
 「もう、ぼくは野球ができんのかもしれん」
ということでした。
 これは、風邪薬などが原因で起こるスティーブンス・ジョンソン症候群(SJS)の典型的な症状ですが、当時は、そんな病気は全く知られていませんでした。私が失明の原因[p16>をSJSと知ったのは、五五歳のときに、たまたま読んでもらった新聞記事がきっかけです。このことは後に改めて記しますが、SJSについて、その後私も入会することとなる患者会ホームページ(http://www.sjs-group.org)では、次のように説明しています。

 SJSは高熱とともに口唇、口腔、眼結膜、外陰部に高度の発赤、びらん、出血などの粘膜病変が、さらに全身の皮膚に紅斑、水疱、びらんが認められる重篤な全身性疾患である。その多くは薬剤が原因で発症する最重症型薬疹の一つと考えられるが、一部はウイルスや肺炎マイコプラズマ感染に伴って発症する。
 (写真)SJSによる皮膚障害

 世界的に活躍されているバイオリニストの川畠成道さんも、私と同じ八歳のときに、SJSで視力障害となられました。
 川畠さんが、社会福祉法人視覚障害者支援総合センターが主宰する第三回チャレンジ賞を受賞されたとき、永山義高さんの紹介文に、川畠さんのSJS発症の様子が次のように[p17>生々しく描かれています

 川畠さんの人生の選択肢を大きく変えた悲劇が起こったのは、二五年前の一九八〇年八月。そしてそれは、悲劇を悲劇でなくすためのチャレンジの開始にもなったのでした。
 スポーツ好きの快活な八歳の少年は、夏休みに母方の祖父母に連れられてアメリカ観光旅行に出ました。そしてお目当てのディズニーランドのためにロサンゼルス人りした日、寒気を訴えた少年は風邪薬を飲み、医者からも薬を投与されるのですが、そこから異変が始まったのです。
 国際電話で連絡を受けた母親の麗子さんは、太平洋を飛んでカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部付属病院に駆けつけ、変わり果てた我が子の姿に絶句します。
 成道さんは全身血だらけ、瞼がはれ上がって目は完全にふさがり、高熱で意識不明。全身の水ぶくれが次々にはじけて、絶えず血がシーツににじむ。皮膚にくっついたシーツを交換するとき、成道さんから悲鳴が上がる――。
 これが「スティーブンス・ジョンソン症候群」でした。皮膚粘膜眼症候群の一つで、[p18>失明などの後遺症があり、年間百万人に一〜六人の発症率。現在では薬害とされています。
 成道さんの場合、医師から伝えられた生存率は、五パーセント。その危篤状態を脱した後も、入院は二カ月半に及び、その間に角膜損傷も判明。それは失明の宣告も同然のことでした。(『視覚障害――その研究と情報』二〇九号、二〇〇五年一〇月号、視覚障害者支援総合センター発行より)。

 医薬品の副作用に対する救済制度は、サリドマイドやスモン薬害による重い健康被害の発生を教訓として、副作川被害の救済給付を迅速に行うシステムが、一九八〇(昭和五五)年にスタートしています。
 病院での投薬や、薬局で購入した医薬品を適正に使用したにもかかわらず、重い副作用の被害が生じた場合、医薬品の製造業者からの拠出金を基に、独立行政法人医薬品医療機器総合機構が、医療費や障害年金、遺族年金などの給付を行っています。
 しかし、同制度創設以前に、医薬品による重い副作用被害を受けた患者を救済するシステムはありません。[p19>
 私の場合は、
 「最初に風邪と診断されたときに投与された解熱剤が原因で、SJSを発症したのは間違いないでしょう」
と、後に京都府立医科大学附属病院眼科で診断されましたが、五〇年上も前のことですから、カルテが残っているはずもありません。
 証明が不可能ですから、救済の対象にはならないのです。
 しかしSJS患者会には、ドライアイの症状に加えて内臓にも重篤な疾患を背負うことになった人がたくさんおられますから、目が見えないこと以外、身体には自信があると言ってはばからない人生を送ることができた私は、まだ幸せな方だと言えるのかもしれません。

  母のお百度参り
 その後、何度かの結膜移植手術によって、左目の開閉は一定程度できるようになり、眠っているときも目が開いたままという状況はなくなりました。
 また、口の中や皮膚のびらんは、少しずつ治っていきました。現在は、目を除いて、臓器への影響はありません。[p20>
 私の目は、恐らく麻疹による失明であろうということで、三ヵ月後に、奈良県立医大病院を退院しました。
 失明したわが子を前にした両親はあきらめきれず、よい目医者があると聞けば、どこへでも連れて行こうとしました。奈良県立医大病院に通いながら、天理よろづ相談所病院へも行き、大和高田の医者、大和西大寺の医者、京大病院へも、阪大病院へも行きました。手当たり次第に、あちこちの病院回りをしたのです。
 仕事以外の両親の時間は、すべて、私の目の治療のために使われました。あこがれの鉄道による旅は、楽しい家族旅行ではなく、不安な気持ちの両親にはさまれて座る、長い時間の連続でした。このころ、三歳ちがいの妹の美千代は五歳、弟の利次はまだ二歳、両親が私をあちこちの病院に連れて行ってくれている間、小さな二人が祖母に預けられて、どんなにさびしい時間を過ごしたかと思うと、今でも胸が痛みます。
 母は、大変体の弱い人でした。私が失明するまでは、床についている日の方が多かったのに、失明後は、毎日、村外れの観音様におまいりに行くようになりました。
 氏神の広瀬神社にも、お百度まいりに出かけていたし、三輪山では滝に打たれて、わが身の罪を詫びるのでした。朝暗いうちに家を出て行く母の気配を感じると、申し訳なさで胸が苦しく、私はずっと布団の中で息を殺しているのでした。[p21>
 門を叩いたすべての病院で、「視力の回復はむずかしい」と言い渡されると、両親は、「目が治る」と言われれば、どこの神様でも仏様でも、必死で通いました。
 今では場所も定かでないのですが、大阪の拝み屋さんにも通っていました。そこでは、私の失明は、先祖を粗末にした罰だと言われたようです。この罰の特徴は、長男に現れるのだというのです。両親は、はいつくばるようにして、そのお告げを、「やっぱり」と、納得して聞いていました。
 そういえば、母の姉の長男は、吃音です。畑にいた蛇を殺したり、迷い込んだ野良猫を捨てに行ったりもした己の罪が、大事な長男に、罰として現れたのではないだろうかと、両親の不安はどんどん増大しました。
 拝み屋さんの先生は、私の手首に小さな傷をつけて、「傷がうんできて、膿がすっかり出てしまえば、目が見えるようになるから、週に三日は通うように」と言われました。さらに、高額な水を購人して、飲ませるようにとのお告げもありました。
 長い順番を待って、ようやく先生の前に出て、聞かれることはいつも同じです。
 「どうや、だいぶ見えてきたやろ」
 「はい、うっすら見えます」[p22>と、返事をするのが習慣でした。
 親たちが、先生のヒゲを話題にしていたことを思い出し、
 「うっすらと、先生のヒゲが見えます」
と、おまけで言うこともありました。
 そう言わないと、苦しい家計の中から、毎日連れて通ってくれる両親に、申し訳ないと感じていたのだと思います。
 奈良県河合町の自宅から大阪まで、身体の弱い母は通いきれず、父の方が多く連れて行ってくれました。たび重なると、電車代もかさんだのでしょう、「今日はもう、ここで寝ていこ」と、父に抱かれて、天王寺公園で眠ったこともあります。
 あたたかい季節だったので、私は寒くもなく、不安もなく眠っていましたが、のちに四人の子どもを持つ身となって、そのときの父の心情を思うと胸がつまります。
 戦後まもないそのころ、家系に障害者が出ることは、先祖の大きな罪の証しだと、言われることもしばしばでした。私は、自分が見えたいと思う以上に、両親のために見えさせてほしい、と思いました。
 障害を背負って生きることになるわが子は、その不自由さに加えて、先祖の悪業を背負っていかなければならないのだと、両親が悩み苦しんでいる姿を感じることは、失明に[p23>よる不自由よりも、ずっとつらいことでした。
 あの当時、
 「あなたたちの愛する息子の失明は、先祖の報いでもなく、貧乏による栄養不足からでもなく、『薬害』によるものなのです」
と伝えることができていたら、両親はどれだけ救われたことでしょう。

(p30)
 一九五九(昭和三四)年四月、私は大阪府立盲学校小学部三年に編入しました。
 町に壁太子(現在の天皇)のご成婚のニュースがあふれていたころ、私は、人の視覚障害者として、歩き始めたのです。
 当時の児童・生徒の失明の原因は、麻疹、トラコーマ、栄養失調が一般的で、親の淋病による失明もありました。今では考えられない原因で、子どもが視力を失う時代だったのです。私と同じように、麻疹を失明原因とする児童も、何人かいました。ですから私が、自分の失明原因を疑うことは、全くありませんでした。

(p49)
 中学二年生の五月から翌年三月にかけて、私は角膜移植のために一一カ月間、奈良県立医大病院眼科に入院しました。
 当時の角膜の輸送、保存の技術は、まだまだ遅れていて、提供者が現れた時に、すぐに対応できるように、待機するための入院です。結果としては、何度か結膜の部分移植手術は受けましたが、角膜の提供は受けることができず、ほとんどの時間は担当医に連れられてやってくる医学生の勉強のための診察と、質問を受けるだけの、本当に退屈な日々でした。
 部屋は、六人部屋でしたが、眼科病棟ですから、ほとんどの患者が年配で、中学生とは話も合わず、私はラジオを聴くことだけが楽しみという毎日を過ごしていました。
 東京オリンピックの年で、日本中が浮かれている中で、自分だけが世の中から取り残されているような気持ちでした。ラジオからは、毎日、「愛と死をみつめて」のせつない歌声が流れていました。

(pp75-77)
 また、高校二年生の夏休みを利用して、奈良県立医大病院眼科に入院、結膜移植の手術を受け、結果としてより視力が落ちたことも、落ち込みの大きな原因となりました。
 入院の目的は、涙が全く出ないことによる目の乾燥状態を解決するために、涙腺の代わりに、唾液腺を目に移植する手術を勧められてのことでした。
 私の前にも、何例か手術の実績はあったようです。しかし手術の結果、角膜の乾燥が解消され、角膜移植の環境が整い、さらに、移植が成功して一定の視力を回復した事例は、まだありませんでした。[p76>
 私の部屋の隣に入院されていたおじいさんが、この手術をされており、何度もお話を聞きに伺いました。
 この方は、林業の盛んな吉野で、現役で材木の伐採を業とされている方で、おじいさんと言っても、筋骨たくましく、その上、大変心優しい人でした。
 「この手術は、あんたのように、まだ若い子がやるべきものやない。唾液腺やから、食事のときに唾液が出る。それが目から流れてくるから、ハンカチなしに食事もできん。顔にも傷が残る。かわいいあんたに勧める手術やない」
と、本人でないとわからない悩みを、正直に話してくださいました。
 私は、主治医にその不安を伝えて、唾液腺の手術はやりたくないと言いました。
 しかし主治医は、角膜の乾燥を放置すると、少しはある視力がすぐに落ちてくるのは間違いないことで、少しくらいの生活の不便は我慢すべきだと、説得します両親も、一生懸命なだめようとしますが、高校生の私は、周りの視線を気にしました。完全に見えなくなるのは怖いと思いながら、「カッコ悪いことはしたくない」のが、やりたくない理由のすべてでした。
 主治医に、唾液腺による代替手術ではない方法を考えてほしいとお願いして、結膜の移[p77>植と角膜の部分移植手術だけをして、退院することになりました。
 退院のとき主治医からは、大きな水筒のような、ポンプ式の涙液タンクを手渡されました。タンクからメガネのつるまで細い管がつながり、これを通して定期的に、目の中に、涙に近い成分の目薬を流し込むもので、私のために考案してくださったということでした。
 しかし、高校生の私には野球もあり、また見た目を気にする年頃で、このような不細工なものをぶら下げて毎日学校へ行くことは、我慢できなくて、ほとんど身に着けることなく、主治医の好意を無にしてしまいました。しかしこのポンプ式薬剤注入法を、後に、一度経験することになります。一度は同じ目的で、もう一度は「抗がん剤」注入という、当時は想像もつかなかった、とんでもない目的での使用です。
 二カ月の入院生活は、失明からの解放につながるものではありませんでした。それでも病院では、盲学校という小さな社会に比べると、多くの人たちとの出会いがありました。

(pp102-107)
 大学二年生の夏、大阪大学附属病院眼科を受診しました。今となっては記憶も定かではありませんが、私の目は角膜乾燥がひどく、常に点眼薬が離せない状況のため、眼科医とは縁が切れないことから、地元の開業医の紹介であったのだろうと思います。
 高校生の時の手術の結果がよくなかったことから、私はもう見えることには拘泥しないことにしていました。視覚障害者として立派に生きることで、親を安心させるしかないと覚悟していたのです。
 ところが、視覚障害者に厳しく閉ざされた門戸を叩き、やっと入学した大学は、アジテーションとシュプレヒコールの渦中にあり、身の置きどころのない中で、一度はあきらめた「開眼」への思いが、鎌首を持ち上げたのかもしれません。
 角膜乾燥を防ぐ手段としての手術は、唾液腺の活用ではなく、ハードコンタクトレンズの応用という、簡便な手法で行われるとのことでした。
 私の角膜は、発症当時の激しい皮膚粘膜の損傷で、角膜や結膜、また涙腺をも完全に侵されており、ものを見るための角膜ではありませんでした。角膜には、質の悪い皮膚のよ[p103>うに、通常では存在しないはずの血管が、縦横に走っていました。しかし、正確な測定はできないものの、眼底はきれいかもしれないという期待が、医師にはあったようです。
 涙のない目では、角膜提供を受けて、わが目とする、いわゆる角膜移植は困難であることは、これまでの体験からも明らかです。代替手段として、皮膚化した角膜を、透明な膜に入れ替えることができれば、視力は回復するのではないかという仮説のもと、ドイツ製のハード・コンタクトレンズを接着剤で貼り付けるという手術でした。
 主治医は、
 「眼底がきれいで、開発された接着剤が力を発揮すれば、視力の同復が期待できるよ」
と励ましてくださるのですが、長年、病院や神頼みで使い果たした労力と金額を思うと、信じられない気持ちでした。
 入院は二週間程度の簡単な手術ですが、術後は涙液を送り込むポンプを常時携帯しなけれならず、手術がうまくいっても、定期的にレンズの入れ替え手術が必要でした。
 そのときの私は、少しでも視力が回復することに賭けたい、そのために高校生のとき、あれだけ拒否したポンプを持ち歩いてもよいとさえ思っていました。
 眼球への局部麻酔をして、手術が始まりました。
 手と足をベッドにくくりつけられ、顔全体に、目の部分だけ空いた布とゴムカバーをか[p104>ぶせられ、
 「どうですか、苦しいですか」
という医師の声に
 「大丈夫です」
と、口を覆ったカバーごしに、無理に声を出しました。
 頭の上で、ガチャガチャと響く、メスや鋏・ピンセットなど、刃物の音に耳をそばだてていると、明るい照明が私の顔を照らしました。
 角膜の表面が、ゼロコンマ何ミリかで、剥離されていっているのでしょう。全身が極度の緊張状態で、意識がもうろうとしながら、やっぱり痛い、麻酔は効いているのかと不安になってきたころ、突然、
 「え? ぼうっと浮かんでいるのは、何?」
と、予想だにしなかった事態が起こりました。
 照明のまぶしさの中で、無影燈の一つ一つは判別できず、ただまぶしい光線の塊であったのが一つ一つが別の光源として、認識できるではありませんか。
 「えっ? これって、自分の目で見えてるのか?」
 痛みを忘れて、全神経が目にいきました。[p105>
 明かりの中に大きくあるのは、執刀医の顔ではありませんか。目があり、鼻があり、噂で聞いている髭が、大きなマスクに覆われているようなのもわかります。
 小学校二年生までは、普通に見えていた人の顔。顔の輪郭を確認して、目や鼻を認識するのは、何年ぶりでしょうか。
 見える、見えている!
 われながら、驚きでした。
 流れ出る血液を流すための生理用水が流されるたびに、見えることを確認して心が高鳴りました。
 私の目は、角膜が濁っているので、その混濁部分を少しずつはがすことで、にごった部分が薄くなることに比例して、光が目に吸い込まれ、不確かではあるものの、映像が網膜に写され、大脳は久しぶりの映像にあわてながら、その像が何たるかを解析するのに、忙しく働くのでした。
 「見える、見えます!」
 思わず、ふさがれた顔の下から叫びました。
 角膜表面を剥離した後に、コンタクトレンズが装着され、それらが最新の接着剤で固められて、二時間余りのドラマは終わりました。[p106>
 病室に戻ると両親が、心配そうに顔を近づけてきました。
 思うようにしゃべれず、
 「見えたよ」
と一言だけ伝えましたが、両親にはその意味が理解できなかったらしく、麻酔によるうわ言だと思っていたようです。
 〇・一くらいの視力が戻った私は、両親の顔を、しっかり目に焼き付けました。縮れた髪の毛に、太い眉としっかりした鼻の父の顔が、特に印象に残っています。三六年後、亡くなった父の冷たくなったその顔にふれたとき、頬骨がとがって、やせこけていました。けれども私の中の父は、このとき病室でしっかり見た、きれいな顔のままです。
 下宿に戻り、京都の町を闊歩しました。街中を走る市電をものすごくきれいだと思いましたし、ミニスカートの女手学生を、まぶしく感じました。甘い声が魅力の「瀬戸の花嫁」を歌う小柳ルミ子の顔も、テレビで見ました。
 とにかく、活字を読んでみたいと思いました。
 大学に行って、友人に頼んで手にした本は、フランスのルイ・アラゴンの詩集でした。小学校二年生で失明した私は、ほとんど漢字が読めません。ひらがなを拾い読みしながら、ついに、大好きだったことばを見つけました。[p107>

 学ぶとは、誠実を胸に刻むこと
 教えるとは、ともに希望を語ること
         「ストラスブール大学の歌」
          (ルイ・アラゴン詩集「フランスの起床ラッパ』所収)

 この一節は、卒業後、教師となった私の大切なよりどころとなりました。
 しかし、夢見心地の生活は、一週間で終わりを告げてしまいました、
 空気が入って、コンタクトがはがれてきて、日一日と、見えにくくなっていくのです。ドイツからいい接着剤が入ったということだったのですが、一週間でレンズを外さなければならなくなりました。外してしまうと、見えていた右目は炎症を起していて、以前よりも見えなくなってしまいました。
 たった一週間だけの、見えた日々は終わりました。

(pp206-213)
 私は子どものときから、SJSの発症で目が見えなくなったこと以外は、きわめて健康にすごしてきました。
 盲学校の寄宿舎時代から、「「五目腹」と言われるくらい、食事は何でもおいしくいただけることが自慢でした。徹夜に近い働き方をしていたこともありましたが、一晩眠れば回復し、身体の芯が丈夫なのだと、強い身体に生んでくれた母と、さりげなく私の日常を管理してくれる麦に、いつも感謝してきました。
 お酒もタバコも、普通にたしなんでいました。ただ便通だけは、長年、便秘と下痢を繰り返すような、スッキリしないものがありました。

 二〇〇五(平成一七)年の三月の初め、ヨーロッパの放送バリアフリー状況の視察の計画がありました。二〇一一年七月二四日からの、日本国内の地上波デジタル放送完全実施に向けてのものでした。
 旅行手続きも順調に進み、渡航準備が最終段階に入った頃、偶然、京都府立医科大学附[p207>属病院の消化器外科を受診したことから、思わぬ人生航路の変更となりました。
 なぜ京都府立医大で、「進行した大腸がんの可能性が大きい」と診断され、即入院、手術を命じられることになったのかは、話を半年前にさかのぼらなければなりません。
 私は二〇〇四(平成一六)年一〇月、生活習慣病検診で数回目の便潜血反応を指摘されました。これまでは、痔のせいだとすましてきたのですが、思い切って二次検査を受け、結果説明を聞きに、法人指定の健康管理センターに出向いたのです。
 診察室に入るとすぐ、医師に「お一人ですか」と尋ねられました。私が視覚障害者であり、一人で説明を聞きに来たことが納得できないといった口調です。
 「レントゲン写真は見えませんが、口頭で説明いただけませんか」
と、お願いしたところ、その医師は、
 「一目瞭然、写真は見える人にしか説明できません。言葉で説明するのは、誤解が生じますから」
と、きっぱり言われるのです。
 これまで私は、目でしか確認できないことを、言葉で補足いただいて、おおよそを理解することで、自分なりの判断をして生きてきています。ある程度説明をお聞きして、必要があれば写真を預かって帰り、家族と相談することもできると思っていました。[p208>
 「しかしね、見たらすぐ判るんだけど」
と、なおも言葉での説明をしていただけそうにありません。私はこれ以上は、話してもだめだと判断して、「写真を預かって帰ります」と語気強く言って、部屋を出ました。立ち会っていた看護師が後を追いかけてきて、
 「説明不足ですみません。そんなに心配される状況ではありませんのでね」
と、言い訳がましく、とりなしました。
 久しぶりに「見えないことでの悲哀」を味わった興奮はおさまりませんでしたが、特に私の体の中で、大きな異変が起きているとは考えていませんでした。最後に看護師が「そんなに心配しないでくださいね」と言ってくれた言葉にすがろうとしたのかもしれません。
 しかし、その頃すでに、トイレをすませて立ち上がろうとしたとき、グラッと足元が揺れるような感じがしていました。
 当時、私が館長職にある日本ライトハウス情報文化センターは、建物の構造欠陥のために、大規模修理か改築かの判断を迫られていました。社会福祉事業経営は厳しさが増し、建物の改築や修理には、行政の補助も見込めません。しかし、多くの利用者やボランティアなど、館に出入りする人の命は守らねばなりません。
 ときどきグラッとくるのは、小さな揺れをも感じる建物のせいかもしれない、急ぎ対応[p209>が必要なのは、私の体ではなく、建物だと考えていました。
 がんには特徴的な症状はないといいますが、今思うと、初めに違和感を持ったのは「便秘」でした。私は昔から便秘と下痢を繰り返す症状がありましたから、便秘自体は特別なこととは考えていませんでした。しかし、いつもよりトイレに行く回数が増えたり、排便の後に必ず残便感があり、「ちょっといつもと違うな」という感じがありました。それに加えての、「グラッ」です。病気とは縁遠かった私は、これを立ちくらみと言うのかどうかさえ、わかりませんでした。
 がんによる血便では、肛門痛がなく、暗赤色の血液が便に混じったり、ときに黒い血塊が出るようですが、私は見えませんので、便器内の血便を意識することはありませんでした。すでに貧血がある程度進んでいたのでしょう、疲れを感じやすくなっていましたし、夕刻になると、頭が縛られるような違和感に悩まされていました。
 これらが、大腸がんにおきやすい症状だと気づいたのが、「がん告知」の直前であったというのは、情けない話です。しかし、これは視覚障害者は情報不足であるというようなレベルの話ではなく、私の無知から来る「健康への過信」によるものであったと思います。
 そんなとき、音声化された「文藝春秋」に、大腸がんの特集を見つけました。何気なく読み進むうちに、「自分は大腸がんではないか」と気になり始めました。では、すぐに病院[p210>に行ったかというと、そうではありません。「がんと診断されるのが怖い」という気持ちが強かったのかもしれません。

  薬害による失明と判明
 話はさらに複雑になります。
 同じ年の秋、朝日新聞紙上で、「星が見えた」という記事に出会いました。たまたま新聞を読んでもらう機会があり、「若い女性が、風邪との診断で薬を飲んで、まもなく全身に発疹と高熱の激しい症状へと急変し、幸い命は取り留めたものの、角膜は混濁し、涙が全く出ないドライアイ状態に至った」という症状を伝えるとともに、昨今進んでいる再生医療の技術で、「星も見えるほどに、視力が回復した」というのです。
 私は彼女の発症当時の様子が、両親から何度も聞かされていた、私のそれと全く同じであることに驚きました。私の失明もひょっとして、薬の副作用ではないか、と、慄然としました。私は、まさか、という気持ちを強く持ちながら、彼女が治療を受けたという京都府立医大眼科を受診することにしました。
 診察では、発症当時のことを詳しく聞かれ、私は親から聞いている話をなるべく正確に[p211>思い出そうと努力しながら、「風邪のような症状で近所の医院を受診し、いただいた薬を飲み、ほどなく発疹と高熱で入院、以後二週間の意識不明の状態が続いて、気がついたときには、目が見えなくなっていた」とお伝えしました。
 「そのときの薬が、何であったかわかりませんか」
と、医師は、静かに問われました。
 その医院はずっと以前に閉鎖されていましたから、五〇年近くもたったいま、薬を確かめるすべはありません。医師は、
 「目の状態と、発症当時の様子から、薬害での失明であったことは、ほぼ間違いありませんね」
と、告げられました。
 五〇年近くの間、失明原因は麻疹であると思ってきたのに、エイズや薬害肝炎の患者さんと同じように、私も薬害患者であったのです。
 ならば、私の失明人生は、そして、長きにわたって自らを責め続けてきた、両親の苦しみは何だったのか。また、私と家族となったために、多大な苦労と戸惑いを体験することとなった、妻と四人の子どもたちの人生は……。いまさらながらの、やりきれなさでいっぱいでした。[p212>
 その上に私を混乱させたのは、医師が「目の状態から判断して、再生医療で視力の回復の可能性があるから、しばらく通院するように」と告げられたことでした。とても現実のこととは思えませんでした。
 すでに父は病床に伏し、耳も遠く、会話もままなりませんので、母にこの事実を伝えました。「もう親の責任と苦しむことはないんやで」と。そして、歓喜の声を期待して、「ひょっとしたら、手術ができるかもしれんで」と、報告したのです。
 しかし、母は静かに、「そうか」と言ったきりでした。そして、「もう手術はしたらあかん、これまで何度、医学のモルモットにされてきたことか、もうこれ以上、痛い目せんでええやろ」とつぶやき、最後に「いまさらなあ」と大きなため息をついたのでした。
 半世紀を視覚障害者として生きてきた私が、しかも視覚に障害のある皆さんに、「目は見えなくても、社会の理解と技術の支援があれば、豊かな生活をすることは可能です」と訴えることを仕事としている私が、「ひょっとして目が見える」なんてことを、考えてもいいものだろうかと、複雑な気持ちでした。
 しかし、私は、「この現実を、幻にはしたくない」という気持ちに引きずられて、その後、京都府立医大に通うことになったのです。
 少し長くなりましたが、以上のような経過を経て、私は京都府立医大に月一回程度通っ[p213>ていましたので、そのついでに、ヨーロッパ出張が間近に近づいた二月のある日、放置していた生活習慣病の二次検査結果を持参して、消化器外科の診察を受けたのでした。

■書評・紹介


■言及



*作成:植村 要 更新:三野 宏治 
UP:20100303 REV:20100712, 20110921
視覚障害  ◇スティーブンス・ジョンソン症候群 (SJS)  ◇病者障害者運動史研究  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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