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『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす――記憶をいかに継承するか』

屋嘉比 収 20091030 世織書房,422p.

last update:20120407

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■屋嘉比 収 20091030 『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす――記憶をいかに継承するか』,世織書房,422p.

ISBN-10: 490216345 ISBN-13: 978-4902163452 \3990 [amazon][kinokuniya]

■内容
耳を傾けること、耳を傾け続けること、耳を傾き継ぎ続けること、当事者性の身体化へ。(「BOOK」データベースより)

■目次

はじめに
1 戦後世代が沖縄戦の当事者となる試み
2 ガマが想起する沖縄戦の記憶
3 沖縄戦における兵士と住民
4 仲間内の語りが排除するもの
5 質疑応答の喚起力
6 戦没者の追悼と“平和の礎”
7 追悼する地域の意思
8 殺されたくないし、殺したくない
9 歴史を眼差す位置
10 重層する戦場と占領と復興
11 「国境」の顕現
12 米軍統治下における沖縄の高度経済成長
13 越境する沖縄

あとがき


■引用


■越境する沖縄
第一に、琉米親善と相互理解の方向性がことさら強調されている点である。それは、その創刊の辞で雑誌の方針として明快に述べられている。また、同雑誌に掲載された米軍兵士と駐留地住民との友好関係を強調する多くの記事の論調からも、米民政府の対沖縄住民政策が島ぐるみ闘争を経た後で、強行姿勢から宥和政策へ変更したことがうかがえる。その琉米親善は、沖縄住民への宥和政策としてペルリ提督来琉の記念日として設定され、その後は徐々に拡大されて週間の行事としてさまざまな催しが行なわれ、多くの諸団体が参加するようになった。
 とくに興味深いのは女性たちの交流である。たとえば同雑誌には、米国と琉球の婦人たちが沖縄国際婦人クラブを設立し、その琉米親善の活動として語学講座やお互いの料理・文化講座の開催、社交や文化事業などを行なっている記事が数多く掲載されている。だが61年6月の同誌の「誌説」には、その婦人間の琉米親善で米婦人が琉球婦人を基地内の自宅に招いたり、レストランや劇場に招待しているが、琉球婦人にはそのようなことはなく「一方的な友情」だと指摘されている。[…]しかしその人間の交流は対等なものではなく、この婦人間の交流にうかがえるように、琉米親善という相互交流の実態は統治者と被統治者との関係が歴然として存在しており、一方的な関係を抜け出ることは困難であった。」(335)
●『守礼の光』(高等弁務官主宰、第七心理作戦部隊発行。1959〜1973年)の論調の分析。

「『守礼の光』は、前述のように約七万五000部(1965〜66年は九万一〇〇〇部)が印刷され無料配布されたが、米民政府の宣撫工作の一環だと認識されていたこともあって、大量の発刊部数のわりには読まれた割合は少ない。当時の大学生たちからは、米民政府のプロパガンダの雑誌だと批判されており、一部ではその抵抗の意志を込めて配布のために琉米文化会館をはじめ主要な公共施設に置いてあった雑誌を密かに廃棄し、焼却したとの話は広く伝わっている。」(337)
「ただ、その二つの広報誌で繰り返し強調されている政治主義から経済繁栄への論調の方向性は、その後の沖縄社会にも次第に影響を与えていった。日米両政府の援助政策による沖縄の経済成長とその影響は、沖縄社会における米軍基地の存在とは異なった、もう一つの「アメリカ」の浸透を促すものであった。」(337)
●政治主義から経済繁栄のプロパガンダへの移行。新たな「アメリカ」の浸透。

「1950年代から60年代前半の沖縄では、一方で新たな基地建設がなされアメリカが暴力としての米軍基地の存在を堅固にするなかで、他方でそのような生活改善普及事業に重なる形でアメリカ食文化と生活様式の考え方が一般家庭のなかに静かに浸透して受容されていったのである。アメリカ文化は、広報誌などの印刷物による教化宣伝よりも、生活の実態に即した改善運動や料理講習会などを通して、沖縄のなかに徐々に浸透したと言えよう。」(345)
●生活改善や料理などの「文化」・「くらし」を通じた「アメリカ文化」の浸透。

「すなわち、沖縄にとって、アメリカニズムにおける日本の担った役割には二つの意味があった。その一つは、先にふれたように、日本政府が、暴力としての米軍基地に象徴される沖縄のアメリカ問題を解決する政治的存在として立ち表れる姿勢に乏しかったために、それとは対照的に、アメリカの大衆消費文化の生活様式を身に付けた豊かな日本と言うイメージが拡大された点である。もう一つは、アメリカの消費文化や生活様式が日本を経由してイメージされたことにより、50年代の沖縄ではまさしく「別世界」であったアメリカの生活様式や消費文化が、60年代には日本国民への一体化の志向性もあいまって、沖縄住民でも手を伸ばせば届く対象として感じられるようになったことである。その消費文化や生活様式としてのもう一つのアメリカが、日本を経由してイメージされたことにより、沖縄の中流家庭のなかに米軍基地としてのアメリカの存在とは分離された、別のアメリカが受容されるようになったのである。
 その意味で、アメリカの生活様式や文化を体現した日本のイメージは、60年代に日本国民への一体化を志向した沖縄にとって、ある面で基地としてのアメリカの存在を後景化させる役割を担うことにもなったと言えよう。例えば、それは、「復帰運動」を主導し基地反対運動を中心的に担った公務員や教職員などの沖縄の中所得者層において、米軍基地としてのアメリカとは別に、アメリカ的生活様式や消費文化を、生活の近代化や合理化のスタイルとして欲望し受容する土壌を形成させた。そのため、沖縄の中流階層を形成する公務員や教員層の家庭のなかでは、米軍基地反対の復帰運動と、家庭電化製品に象徴されるアメリカの消費文化や生活様式とが次第に分離して、矛盾することなく共存するものとして受けとめられていったのである。」(352−353)
●重い指摘:
・日本=豊かな大衆消費文化と生活様式=アメリカというイメージ
・60年代 復帰運動(あるいはそれを支えた中所得者層)は文化/生活様式としてのアメリカと共存しえるもの
・逆にいえば、「日本のアメリカ化」=アメリカによる植民地化/占領の〈継続〉という事態を考察しなければ、沖縄において〈復帰〉がどのようなものであったのかを問えない

「センター通りで育ったレストラン経営者の息子は、ベトナム景気は両面あって、その景気で生活水準が上がった良い面もあるが、反面精神的には米兵たちから物凄い屈辱を受けており、お陰さまという部分と同時に憎む部分もあって複雑だと述べている」(357)
「その時期、沖縄住民の大多数は、一方で「ベトナム特需景気」の「恩恵」を受けながら、公務員や教員たちを中心にして「基地全面撤去と即時返還」をスローガンに掲げて、ベトナム戦争に反対し、「日本復帰運動」を強力に推し進めていた。そのような状況のなかで、ベトナム戦争に従軍した米兵たちの落とすドルで生計を立てていたセンター通りやゲート通りで商売をする人びとは、1967年に「コザ市民の生活を守る会」を発足させ、「基地撤去」と「即時復帰」に反対を表明した。
 彼/彼女らのその主張は、「復帰運動」が高揚していた当時の沖縄の状況のなかで少数の限られた主張であった。しかも、60年代の沖縄社会の一般的な家庭において、二つの「アメリカ」が分離し共存していくなかで、彼/彼女らの矛盾を抱えた日常生活もだんだんと周縁部に押しやられるようになった。しかし、彼/彼女らは、その生活のなかで米軍基地の暴力とアメリカ的生活様式を担う二つの「アメリカ」の矛盾を、日常的に体験しながら保守的に生きていた人びとである。そして、その人びとの生活は、60年代の沖縄の一般家庭のなかで、二つの「アメリカ」が分離して共存していくあり形を逆に鋭く照らし出す鏡でもあった。60年代中頃の経済成長やベトナム景気の恩恵のなかで、公務員や教員たちの中所得者層は、一方でベトナム戦争の反対と米軍基地の撤去を主張しながらも、他方では自らの生活のなかにアメリカの生活様式や消費文化を欲望し受容しており、いわば米軍基地の暴力とアメリカ的生活様式の二つの「アメリカ」が、彼らの日々の生活のなかで矛盾することなく共存していた。そのことへの批判を、基地周辺で米兵に接し日常生活を営んでいた人びとの視線は含んでいた。
 つまり、米軍基地に隣接して日常的に米兵と折衝して生きていた人びとの生活にとって、その二つの「アメリカ」は決して分離され共存するものではなく、きしみや矛盾をはらむものであった。前述したセンター街の特飲街で働かざるをえない人びとやミュージシャンたちの、アメリカに対する「恩恵」と「屈辱」という二重の矛盾した意識は、そのことを如実に表している。そこにあるのは、二つの「アメリカ」を分離し並存していた多数の沖縄住民の生活とは異なり、その矛盾やきしみを沖縄とアメリカとのいわば文化的混血によって生き抜こうとするあり方であった。その生活のために矛盾を生きるあり方において、センター通りの人びとやミュージシャンたちは、米軍基地への対処や姿勢の面で敵対し、双方の政治的主張に大きな隔たりがあったとは言え、基地で働く全沖縄軍労働者組合(以下、「全軍労」と記す)の組合員たちと決して遠くない地点に位置していたように思われる。
 60年代前半、働く場がなくて米軍基地に就職した人びとが、軍職場で米軍から非民主的で人権無視や人種差別を受けたのに反発を感じ、人権と労働権の尊重を求めて全軍労という組合を形成した。その過程でさまざまな抑圧や嫌がらせを受けながらも、全軍労を組織し軍雇用員の人権や生活保障の一部を実現してきた。その定期大会では、対米軍関係が悪くなり諸要求の実現が遅れることを危惧し、第一回から掲げられた「祖国復帰の推進」は別として、組織運営では政治的スローガンの主張は慎重に取り扱われた。しかし、ベトナム戦争の激化や復帰運動の高揚にともない、時代状況の変化のなかで、全軍労は生活保障などの経済的要求から基地反対の政治的主張にまで踏み込むことになる。その過程において組合員のなかで多くの苦悩と逡巡が生じるようになった。軍雇用員は、米軍基地で働くことで生活が成り立っている。基地の暴力や理不尽さを強く感じながらも、首切りされた後の生活をどうするのか。またベトナム戦争が激化するなかで、米軍基地で働くことがベトナムの人びとに対し、どのような意味をもっているのか。そのような矛盾のなかで不安を抱え込みながら、軍雇用員は、基地で働いて基地反対の復帰運動を行なっていたのである(上原康助『基地沖縄の苦闘――全軍労闘争史』創広、1982年)。
 その米軍基地と生活との矛盾のなかで不安や悩みを抱えながら生きるあり方において、軍雇用員とセンター通りの人びととは、ほとんど近い地点に位置していたと言えよう。しかし、両者の共通性を認めつつも、やはり決定的に異なっている点がある。それは、全軍労の組合員たちが、その矛盾のなかで苦悩しながらそれを引き受けて生きつつも、その矛盾を乗り越えて「基地反対」にまで踏み出していったことである。全軍労の「基地反対」という主張は、単なる観念絵的なイデオロギーを主張しているのではなく、基地で働く自らの生活基盤まで掘り崩すことを承知のうえで、その矛盾を社会に開き他者と共闘することにより新たな展望に踏み出していったことが重要である。その全軍労の運動の展開には、自らの生活領域における矛盾を生きながら、それを社会に開き他者と共闘することによって越えていった、60年代後半の「越境する沖縄」の姿がある。」(359)
●米軍とベトナム戦争による「恩恵」と「屈辱」を共存させることなく、矛盾やきしみそのものと生きていたコザ・センター通りの人びとと全軍労の組合員。アメリカの「恩恵」と「屈辱」を分離させ、共存しえている中所得者層、その人びとを中心とする「復帰運動」への批判的まなざしがあった。
●「越境する沖縄」としての全軍労という問題設定。自らの矛盾ときしみを解消することなく、自らの生活基盤を掘り崩すことを承知のうえで、その矛盾ときしみに向き合うことで他者(ベトナム、黒人?)へと開き、共闘する。

「その戦果や密貿易に表れた行動様式は、沖縄戦と言う未曾有の悲惨な体験に続く、米軍の強圧的な直接統治下において剥奪された沖縄の人びとの主体を、強大な権力を有する米軍と折衝することで形成された沖縄の新たな「主体性」を示している。その時代の「越境する沖縄」は、圧倒的権力を誇った米軍との支配‐被支配関係のなかで、さまざまな交渉を通して、ある状況や場面ではその支配関係さえも逆手に取り、自らの生活空間を押し広げていったあり方だったと言えよう。」(361)
「60年代の沖縄におけるアメリカニズムの浸透は、50年代前半までの「アメリカ軍文化」とは異なった、「大衆消費文化としてのアメリカ的生活様式」への欲望と受容である。しかも興味深いには、その家電製品に代表されるアメリカ的生活様式が、米軍基地から直接に流入したのではなく、「アメリカ」の消費文化として日本を経由し、日本製品として浸透したことである。つまり、一般の沖縄の人びとにとって、そのアメリカの大衆消費文化を受け容れる前に、その仲介として日本社会と日本製品の姿が前景として現れたのである。その家電製品の浸透は、日米合作によって米軍基地の安定使用を支える政治経済的文脈においてではなく、アメリカの大衆消費文化を受け入れていち早く「近代化」を成し遂げた豊かな日本社会への一体化という文脈で表れたのである。沖縄から見て、それまでアメリカの後ろに隠れていた日本が、米軍基地という政治問題を解決する主体としてではなく、大衆消費文化を受容する文脈においてその仲介の位置で立ち表れた事実は注目されてよい。」(362)
●文化的文脈において、日本を経由して、「アメリカ的生活様式」や「アメリカ的生活様式」が受容されていく。一方での「アメリカ軍文化」や政治経済的文脈の後景化?

「とりわけ全軍労の運動は、自らの生活が抱える矛盾を引き受けて、自らの生活空間を社会に開き他者と共闘することでその矛盾を越えていった。それは、国家の枠組みや法制度が揺らいでいる時期に、自らの生活空間を拠点にして、自由自在に国境や制度的枠組みを越えた、1940年代後半から50年代前半の「越境」のあり方とも異なっている。その全軍労の運動は、占領が進行して統治機構や制度的枠組みが確立したなかで、自らの生活空間を社会に開き他者と共闘していくことで越えていった、60年代の「越境する沖縄」の姿だと言える。越境することとは、何も国家や民族を越えることだけを意味するものではない。自らの生活する領域を、いかに他者や社会に開いて越えていくかという点も同じく重要な意義をもっており、全軍労の運動はそのことを示しているように思われる。」(363)
●「越境」の意味・広がりの変化。国家、国境、民族を越えること。自らの生活領域・空間を他者とつなげて考え、行動すること。自らが変わること。
「米軍占領下の沖縄におけるサバイバル生活から消費文化生活への移行の各時期に中心的な役割を担っていた女性たちが、レイプ犯罪に巻き込まれている事実が確認できる点である。それは言い換えると、米軍占領下の沖縄では、女性たちは常にレイプの危険性に脅かされていた事実を如実に示している。そのことは、間接占領下の日本本土における日米合作の「抱擁」とは異なって、直接占領下の沖縄では米軍による「レイプ」の構造が常態であったことを示しており、米軍占領下の沖縄を論じる際に、その視点を欠落させて考えることができない事実を私たちに突きつけている。」(365)
●「恩恵」と「屈辱」という男性的な語り、と、女性の位置。

■書評・紹介

「海鳴りの島から」http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/d5f3550b60af4d9742b866303cfe9a64
「『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』 証言の時代から継承の時代へ」http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-155428-storytopic-6.html
「沖縄本レビュー」http://okinawa-am.net/BookReview/beigunsenryoushi.html

■言及

池上善彦「世界史に参入する」http://www.kinokuniya.co.jp/jinbuntaisho2011_2.pdf

*作成:大野 光明
UP: 20120407 
沖縄 社会運動/社会運動史  「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) BOOK
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