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『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』

大熊 一夫 20091006 岩波書店,249p.

last update:20110515

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大熊 一夫 20091006 『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』,岩波書店,249p. ISBN-10: 4000236857 ISBN-13: 978-4000236850 2520 [amazon][kinokuniya] ※ m m01b2000 i05

■内容

この国の精神保健の明日を描くために。精神保健最先進国イタリアからの渾身のルポと、日本への提言。第1回フランコ・バザーリア賞受賞(2008年)記念作品。

■著者

大熊 一夫
1937年生まれ。ジャーナリスト。元朝日新聞記者、元大阪大学大学院人間科学研究科教授(ソーシャルサービス論)。1970年、都内の精神病院にアルコール依存症患者を装って入院し「ルポ・精神病棟」を朝日新聞に連載

 

■目次

第1部 日本の悪夢――一九七〇年、鉄格子の内側に潜入
 恐怖と絶望と退屈の病棟
 私設強制収容所
 不肖の息子とその親
第2部 目からウロコ――一九八六年、精神保健先輩国を訪ねる
 精神病院を廃絶?
 世界の精神保健事情
 バザーリアの後継者を招く
第3部 精神病院の終焉――二〇〇六年夏、ローマの友からの便り
 取材意欲再び
 タンスの骸骨
 トリエステ燃ゆ
 歴史的妥協
 トリエステの現在
 バザーリアってこんな人
第4部 地域サービス時代の到来――一九九〇年代以降のイタリア
 一八〇号法生き残る
 首都ローマの改革
 司法精神病院の街
 政変で精神保健が変わった
 残酷物語はお伽話に昇華した
 改革のキーワードは脱・施設化
第5部 日本の地域精神保健――二〇〇九年、希望への胎動
 二人の先達その後
 青い鳥を求めて

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0236850/top.html

■引用

 「第3章 不肖の息子とその親

 収容ビジネスのルーツ
 読者の皆さんは、「なんで性懲りもなく事件は繰り返されるのか」「行政当局は、未然に防ぐ手立てをなぜ打たないのか」と思うことだろう。私も、この分野にかかわった一九七〇年以来、国や自治体のお目こぼし体質がずーっと気になっていた。そこで、本書の軌筆を機に、日本の精神保健行政の歴史をかじってみた。
 六九年の学会声明は、不祥事多発の背景として、精神疾患の人々の収容が一種の「ビジネス」になっていることを指摘した。では「収容ビジネス」を許す路線を開いた人物は誰かといえば、それは、精神病院経営者を牧畜業呼ばわりした当人、日本医師会長の武見太郎だった。
 一九〇四年生まれの武見太郎は、旧伯爵家から妻を娶り、元首相の吉田茂とは義理の叔父・甥の関係にあった。臨床医として銀座に自由診療(医療保険がきかない診療)の医院を構え、大勢の政財界要人が患者として出入りした。敗戦直後、中央区医師会から日本医師会の代議員となり、一九五〇年に副会長になるが、GHQとの折り合いが悪くて退任。一九五七年に日本医師会長に就任し、以後、会長を連続一三期期つ<0017<とめた。
 自由党や日本民主党(自由民主党の前身)の幹部とはツーカーの仲で、党のブレーンとして、医療政策に絶大な発言力を発揮した。厚生大臣をアイヒマン(ユダヤ人を絶滅収容所へ搬送する作業の要のポストにいたナチ高官)呼ばわりして、武見天皇だの喧嘩太郎だの猛医だのと言われた。
 根っからの自由主義経済論者・市場原理主義者で、社会主義・共産主義・社会保障・労働組合が大嫌いだった。昭和三六年四月から始まった医療の国民皆保険制度は武見の趣味ではなかったが、時代の要請として甘受したという。医師会長になりたての頃は、厚生省内に「医療国営論者がいるのではないか」「赤色官僚がいるのではないか」と本気で心配していた。そんなことが水野肇著『武見太郎の功罪』にも書かかれている。
 その自由主義経済論者・武見の大仕事の一つが、医療金融公庫の創設だった。同公庫発刊の『医療金融公庫二〇年史』によると、昭和二五年ごろの日本国は、極端な物資窮乏の対処に追われ、金融政策は産業に集中した。開業医がまとまった資金を市中の金融機関から借りるのはむつかしかった。昭和ニ八年になると、日本医師会、日本歯科医師会、日本赤十字社、済生会、全国厚生農業協同組合連合会の、いわゆる関係五団体は、医療金融公庫法案を議員立法で国会に提案するべく準備を始める。この先頭に立ったのが武見だった。
 構想は、政府全額出資金を元手にして、私立病院等の新設や改築に貸し付ける、というものだったが、中小企業金融公庫の設立に先を越されてしまう。だが構想は生き残り、昭和三五年にやっと設立の運びとなった。年利六分五厘・二五年償還という起債なみの甘い融資条件だった。一方、公庫設立にともなって<018<厚生省は、人口一万に一八床(昭和三九年)、一九床(四〇年)、ニ〇床(四一年)といった調子で、病床融資基準なる枠を設定した。公庫発足前年の昭和三四年末、精神科病床は約八万床だった。制度ができてからの厚生省は、毎年、精神病棟をほぼ一万五〇〇〇床ずつ増床するように枠を広げていった。先ごろ小泉政権がやった郵政民営化みたいなことが、一九六〇年代に精神保健分野で起きた。厚生省内に見識ある専門家つまり有能な精神科医がいないことが、警察の仕事を民間警備会社に任せるのにも似た不見識を招いたのだ、と私は思う。

 お目こぼし体質の背景
 このころは、まだ日本社会に「私宅監置」(平たく言えば座敷牢)が残っていたので、精神病院増設は「座敷牢からの解放」の意味もあった。昭和二五年にはカリフォルニア州にならった精神衛生法ができて、郡道府県に精神病院の設置義務が生じた。だが、なにせ窮乏時代だから、都道府県は設置義務の履行にきわめて不熱心だった。そこで国は、医療金融公庫をフル活用しての民間精神病院”濫造作戦”に打ってでた。
 厚生省は、厚生省は、金融公庫発兄足二年前の一九五八(昭和三三)年に、次のような内容のおふれ(次官通知)を出している。「精神病院においては、精神科医は内科や外科など他の診療科の三分の一、つまり入院患者四八人に医師一人でいい。看護職も他科の三分の一三つまり入院者六人に一人でかまわない」。しかも四日後には、この恐ろしく低い基準さえ守らなくてもよろしい、という医務局長通知まで出した。これでは「精神病は収容あるのみ、治療は考えるな」と厚生省が公言したようなものである。<0019<
 今日の医療法は一九四八(昭和二三)年に制定された。その施行令第四条の七に「主として精神病、結核その他厚生大臣が定める疾病の患者を収容する病室を有する病院は、厚生省令で定める従業員の標準によらないことができる」とある。これが敗戦後の混乱期の暫定措置であることは明らかなのだが、厚生省はこの施行令に悪乗りして、「精神病院は薄い人手で経営できますよ。薄い人手基準を下回っても罰しませんよ」と、粗悪病院開設に呼び水までした。これで人手や食費をけちるほどに利潤があがる(つまり”良心をマヒさせるほどに儲かる”)仕組みができあがった。これが「精神科特例」である。
 この精神病に対する差別臭ふんぷんの特例は、ニ〇〇一年になって、医療法施行規則の一部を改正する省令で、一般病院精神科では解消した。しかし精神病院においては、”当分の間の経過措置”が許されて実質的に今日も続いている。
 厚生省の”大甘振る舞い”はまだある。精神科医ではない医師、たとえば産婦人科医が精神病院を開設することにも、いや、医療とは全く無縁の投資家が精神病院のオーナーになるのでさえ、なんらの歯止めもかけようとしなかった。だから、ひと儲けを企む志の低い事業家がいっぱい、この業界に参入してきた。しかも精神病院に限っては、都道府県内のどこだろうが好き勝手に建設させた。他科の病床数には二次医療圏(都道府県をいくつかに区分した制度上の地域)ごとに病床配置に上限を設けたのに、精神病院に限ってはこれをしなかった。だから地価の格別安い寂しい所に競うように建設された。東京都の八王子市や青梅市は世界に例のない精神病院密集地帯だが、それは愚かな政策が招いた結果である。
 さらに厚生省は一九六一(昭和三六)年、「措置入院」を奨励する通知を出す。
 措置入院とは、全額公費負担の公的強制入院のことで、本来は警察沙氷を起こしたような病人に適応さ<0020<れる。厚生省は、この公的強制入院制度を「同意入院」(家族の同意による強制入院。保険医療だから自己負担がある)のケースに使ってもよい、という「超法規的運用」(前、北海道精神保健福祉センター所長・伊藤哲寛の言葉)を奨励した。入院費用は全額税金だ。患者や家族の出費はない。このお墨付きは業界で「経済措置」と呼ばれてきた。患者や家族を経済的に救済するための措置人院、という意味だろう。

 「一人残らず入院させてしまえ」
 一九六四(昭和三九)年三月二四日、ライシャワー米国大使が統合失調症の少年に刺されて重傷を負い、”精神病者を「野放し」にするな”の嵐がまきおこった。
 恥ずかしながら私の所属していた朝日新聞も、入社翌年の一九六四年、社説や天声人語や社会面記事が”野放しにするなキヤンぺーン”に加担した。朝日新聞で一つ救いがあるとすれば、わが先輩である若き日の故・筑紫哲也が、この”キャンペーン”に精神科医たちが学会を挙げて危惧の念を表明したのを一面トップで報道したことぐらいだろう。
 時の首相池田勇人は閣議で「野放しの患者を見つけて、すべて病院に入れるようにせよ」と厚生大臣に命令した、と当時、厚生省精神衛生課技官だった大谷藤郎(ハンセン病の差別解消に大活躍したあの大谷さん)は、著書『医の倫理と人権』で書いている。
 厚生省はいくらなんでも、そんな乱暴な話には乗れなかった。そこで精神保健体制の改善を図るための精神衛生法改正を視野に入れて、一年の冷却期間をとった。<0021<
 翌一九六五年の精神衛生法改正では、外来通院自己負担分の公費半額補助制度、保健所の精神衛生相談制度など前進と評価できる新政策もあった。だが大蔵省は、大谷(「私は医療の社会化にかぶれていましたから」と本人はいう)が提案した同意入院を公費で賄う案をはねつけ、措置入院なら大きな予算をつけるからと言った。大谷は泣く泣くこれを呑んだ。
 家族が金の心配をせずに精神病院を利用できるという利点は確かにあった。しかし、措置入院は同意入完より拘束性が高い。経済措置のパイの拡張は、日本の精神病院の収容体質を更に強めることになった。武見太郎の「牧畜業者」発言(本書八頁)は、こんな事態を憂えてのグチだった。」

 「校了寸前、長年の疑問が解けました。
 国際的に奇異の目で見られる日本の精神保健政策の源流をたどると、私立精神病院「大濫造」にゆきつきます。世界に例のないこの道を開いたのは、故・武見太郎日本医師会長でした(本書一七頁)。一九六〇(昭和三五)年七月に始まった医療金融公庫の融資です。大蔵省は一業種への公的特別融資に反対でしたが、盟友だった佐藤栄作、保利茂、大野伴睦ら政界有力議員の後押しで、この制度は誕生しました。
 その武見会長自身が私立精神病院を「牧畜業者」と指弾し、この言葉は、日本の精神保健の貧しさ、異様さを語る文章には必ずといっていいくらい引用される歴史的名言となりました。
 ところが、何時、何処で、誰に、語られたものなのか、謎でした。
 日本精神神経学会理事会声明(本書六頁)に引用されて有名になったのですが、声明を起草した竹村堅次さんは記憶の彼方というご様子。手がかりはただひとつ、当時、学会関係者(誰だったか失念)から聞いた<0247<「あれはたしか、大分での記者会見発言」という言葉でした。大分での会見なら有力地元紙の大分合同新聞に載ったはずです。同社に問い合わせてみました。けれど、掲載日が特定されなければ探すのは無理というつれない返事です。あきらめかけたとき、私の携帯電話が鳴りました。同社特別顧問の高浦照明さん(七八歳、さる六月引退)からでした。
 「新聞に出たとすると、私が書いたとしか考えられません」
 高浦さんは昔のスクラップブックをめくってくれましたが見つかりません。それから時間をかけて、日時と場所を思い出してくれました。一九六〇(昭和三五)年一一月ニニ日、大分市で第六〇回九州医師会医学会が開かれたその前日の午後。大分県医師会幹部たちと大分合同新聞の二人の記者が大分県医師会館で武見さんを待っていました。正式記者会見の前の放談で先の仰天発言が飛び出し、その場にいた精神病院協会幹部が色をなしたというのです。武見さんはその四年後に大分に来た時にも高浦記者に「一向に変りませんな。要するに牧畜業であるという事は現実問題ですよ」と語ったそうです。
 半世紀近く前のことなのに、高浦さんの記憶は極めて具体的でした。@県医師会館はその日に完成したばかりの奇抜な建物(若き日の磯崎新の設計)だった。A武見さんは記者会見で「保険医総辞退」という特ダネを話してくれた……私は当時の新聞を読みました。@もAも真芙でした。
 では、件の歴史的発言はどこに載ったのか。高浦さんは懸命に記憶を振り絞ってくれました。一九六四(昭和三九)年一一月二五日からの三日間、別府市で開かれた第三回全国自治体病院学会の初日、シンポジウム「公立精神病院は如何にあるべきか」で、高浦さんは武見放談発言を紹介したというのです。
 そしてついに、高浦さんの発言が詳しく記録されている『全国自治体病院協議会会報』(一九六五年六・<0248<七月合併号)が見っかりました。ここまでに約一年かかりました。
 話は振り出しに戻ります。武見さんは医療金融公庫融資開始からわずか四か月後の一九六〇年一一月に「牧畜業」発言をします。まだ「牧畜業」が輩出する前に、です。おそらくは厚生省の指導で私立精神病院大増設作戦が流布され、融資の応募者が殺到して「牧畜業」の大出現が予見できた。それで黙ってはいられなくなった、というのが私の推理です。
 大蔵省の反対を押し切って融資制度を実現させた経緯を紹介した三輪和雄著『猛医 武見太郎』には、武見さんは公的融資制度を使って医師会立病院を日本のあちこちに建てて、医師会傘下の医院と医師会立病院で地域医療ネットワークを構築しようと夢見たのでした。
 しかし、この構想は全国的には成功したとは言えません。そして後の日本に大きな禍根を残すことになる私立精神病院の大増殖だけが、厚生省の計画通りに進んでしまいました。
 一九六〇年といえば、英・仏・米で地域精神保健が動きだした時期です。翌六一年にはイタリアのフランコ・バザーリアが、ゴリツィアで精神病院解体作業を始めました。しかるに日本は……いや、半世紀遅れを嘆いても始まりません。今日からの、賢い精神保健福祉行政を切望します。

   ニ〇〇九年九月一四日
                    大熊一夫」(247-249)
 →武見太郎「精神病院は牧畜業者」発言

■言及

◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※


*作成:三野 宏治 更新:山口 真紀
UP: 20100105 REV: 20110515, 20131008
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