HOME > BOOK >

性・生殖・次世代育成力

小泉 義之 20091007 岩波書店,『岩波講座哲学12 性/愛の哲学』, pp.119-136.


このHP経由で購入すると寄付されます

小泉 義之  20091007 「性・生殖・次世代育成力」『岩波講座哲学12 性/愛の哲学』,岩波書店,305p. ISBN-10: 4000112724 ISBN-13: 978-4000112727  \3360価格 [amazon][kinokuniya] gsce ph

■内容 *は安部によるメモ
 
・その分離と結合
性・生殖・次世代育成は分離している。つまり性行為と生殖行為とケアとは明確に分離している。驚くべきは、にもかかわらずそれらが結びつけられてきたことのほうなのだ。これまで人間はそれらを結合させることで社会を維持してきた。だがそれは、女が三つの役割を順序よくになうことをあてこんできたことと同じ事態の別の側面にすぎない。したがってその結合の謎は、女の力の分析によって解明されねばならない。女をそのライフコースにおいて、そうさせてきた「力」とは何か。「強制的異性愛 compulsory heterosexuality」である、というのがよくある回答だ。

*「次世代育成」は「ケア(育児)」と読み替えよ

・異性愛の強制性
異性愛の強制性は概念的に2つに区別できる。
リベラルフェミニズムは、異性愛の強制性とは男女の政治的不平等を基礎に男が女にたいして性の場面で行使する支配・権力・暴力にほかならないと解してきた。かかる男女の政治的不平等が解消されれば、だから異性愛の強制性からも解放されると考えてきた。だから自ら異性愛者として性的関係をとりむすび、生殖と次世代生殖にあたることを肯定してもきた。これに異をとなえたのがレズビアニズム(レズビアンフェミニズム)だ。ここではアドリエンヌ・リッチとキャサリン・マッキノンをとりあげる。

リベラルフェミニズムは、男女平等が達成されれば(されても)ほとんどの女が異性愛/婚を選好すると想定しているが、かかる想定にこそ異性愛の強制性がはたらいているのだとリッチは喝破する。そのリッチは同時にバイセクシャルもユニセックスも多種多様なセックス(虹の世界)の理念も斥けたはずだ。それらは女が女として女を選好するレズビアニズムを無みするものだからだ。女はいい男がいたとしても女を選択する。同様に、女は悪い男であっても男を選択する。これこそが解明されるべき謎なのだ。リベラルフェミニズムがはきちがえているのはこの点なのだ。それは、女がわるい男を選択するのは騙されているからだ、女が女を選択するのはいい男がいないからだと考えるため、世界がいい男ばかりになったらますます女は男を選択するだろうと想像する。また虹の世界論者も、女が女を選択することと、女が男を選択することを無差別な選択肢として並置することで、女を選択することの意義をないがしろにする点で同罪である。さらにリッチにとって異性愛と生殖は女の肉体にとって本質的かつ内在的に強制的なものなのであり、この点を看過している点でリベラルフェミニズムは不十分なのだ。

マッキノンにおいて注目すべきは、男女の不平等が男女の差異に先行するとされることである。この本源的で一次的な男女の不平等は、それに付随するいくつかの要素を剥ぎとり還元するなら「誰が誰に何をするかが許されるか」を決定するコードのことだと解することができる。つまり男(女)が女(男)の肉体におこなっても(したがっておこなわれても)当然かつ許容可能とみなされる行為様態を定めるコードのことであり、要は男女間の性行為そのものが「不平等」の正体なのである。このことはマッキノンのレイプ論によっても確認できる。マッキノンによれば、プロチョイス派もプロライフ派もレイプによる妊娠については中絶を容認するが、その正当化事由となっているのは女の性行為にたいする選択の自由(の暴力的な剥奪)である。裏からいえば、ここには男の暴力・強制性を排することができるなら、男女の性行為は平等なものとなるとの想定がある。だがマッキノンによれば、それは誤りである。

こうしてリッチやマッキノンにとって異性愛の強制性とは、フェミニズム一般が理念として想定する異性愛そのものに内在する強制性のことにほかならない。この点においてフェミズムとレズビアニズムは決定的に乖離しているのであり、よってレズビアニズムはフェミニズムの単なる一バージョンなどではさらさらない。そして性・生殖・次世代育成力の結合関係を分析するうえではレズビアニズムのほうに学ぶべきところが多いのだが、そのまえにかかる結合関係についての「伝統的」見解をみておくのが有益である。

*ここでいわれる「強制性」とは(男女の)肉体構造(の不平等=差異)などのフィジカルなものに還元されない「何か」なのだろう。挿入する/される(攻め/受け)などはそのメタファーにすぎない。だとすれば、しかし男であることはアプリオリに「罪」であるということになる。個人的にはそれでもいいが。

・異性愛の罪責性
G・E・M・アンスコムの「避妊と貞節」(1972年)は、当時の「プレイボーイ哲学」に対抗して「時代精神を憎悪する教会の真理」を宣揚する講演記録である。そこでアンスコムは、避妊を承認してしまうなら教会の秘蹟たる婚姻の意義は地に落ち、のみならず教会の伝統的性道徳全般が崩壊してしまうと警鐘を鳴らす。「生殖擬態行為」(避妊しての性行為)を認めるなら、別段それを婚姻関係に限定する根拠はなくなり、誰と何をやったってよいということにもなりかねない、というのである。つまりたしかに論理的にも生殖に先行しているという意味で第一次的な生殖擬態行為は、しかしそれがあからさまに現実化してしまうなら、欲望と快楽をともなう性行為でもそれはあるのだから、婚姻男女の性行為は婚姻制度の外で男女がとりむすぶ多種多様な性行為、とりわけ倒錯的な性行為とも区別がつかなくなる、と。こうしてアンスコムは生殖擬態行為には「内在的に誤ったところ」があると断じ、「人間的に言うなら、性的行為の善さと要諦は、婚姻に存する」とするのだが、じつはこれは「プレイボーイ哲学」にたいする批判の矢たりえていない。というのも「プレイボーイ哲学」が顕揚する以前から、生殖も生殖擬態行為も婚姻男女にかぎられたことなど歴史的に一度としてなかったからである。そしてアンスコムにしても、もちろんそんなことはわかっていたはずだから、アンスコムが伝統的道徳をあらためて保持せんとするその動機は別のところにあるとみるべきである。すなわちアンスコムが何としてでも婚姻男女の性行為を正しくて善きものと主張したいのは、むしろ婚姻男女の性行為の方が異常で倒錯的ではないのかという恐れを抱いているからにほかならない。講演記録では明示されていないものの、アンスコムを駆動する動機は次のような論理であったはずである。まず異性愛の性行為そのものに罪責性(原罪性)がある。しかし神が「産め、殖やせ、地に満ちよ」と命じたからには、異性愛の性行為(の罪)はそれが生殖行為であるかぎりで許される。つまり生殖に結びつく可能性を宿した生殖擬態行為であるならば許されるかもしれない。ところが避妊を容認する思想(「「プレイボーイ哲学」)が蔓延するや、生殖擬態行為はたんなる性行為の一レパートリーに還元され、原初の原罪性を再びあらわにすることになる。アンスコムはかかる事態を何としてでも食いとめんとしたわけだ。

こうして異性愛の罪責性を照射するアンスコムの議論と、異性愛の強制性を照射するレズビアニズムが、交錯し共鳴していることがわかる。リッチは対等平等な男女間にはたらく強制性を、マッキノンは合意した男女間にはたらく強制性を、アンスコムは生殖をはなれた男女間にはたらく罪責性をそれぞれ感知していたわけだ。ここでポイントは、この強制性と罪責性は、フェミニズムが指摘する政治的強制性とはまったく異なるものであるということだ。つまりレズビアニズムは原罪論の現代版なのである。それはしかしどういうことか。

ラディカルフェミニズムの議論のひとつに、女が男に同意する過程にたいする外部の作用因の指摘をもってして、その同意過程と対象に強制性が宿るとする論法がある。これじたいは凡庸な指摘だが、そのうえでゲイ・ルービンは、性規制の法も道徳も異性愛以外の性行為にかんしてはそれが合意にもとづくか否かにかかわらず、それが対等平等な人格間の行為であっても当該行為そのものに反価値性が宿っていると判定している。これにたいしてリッチ・マッキノン・アンスコムも、異性愛の生殖擬態行為そのものに反価値性が宿っていると判定しているのである。そしてこの観点からすれば、異性愛は「参与者の欲望がどうであろうと、犯罪性が行為そのものに内在している」「自然に反する嫌悪すべき忌まわしい犯罪」ということになる(マッキノンは性倒錯を規制する法の論理を、異性愛に転用したとみることもできよう)。こうしてまた、フェミニズムのレイプ批判のひとつの論法をとらえなおすことも可能となる。その論法によるなら、女の被害者化可能性、女の肉体がレイプの対象となる可能性が、異性愛の強制性の実質をなしている。これを男の側からいいなおせば、男の加害者化可能性、男が異性愛レイプの行為主体となりうる肉体を受肉しているというそのことが、罪責性の実質をなすことになる。そしてこの事態は、政治的強制性や暴力的犯罪性とは区別されねばならない。レイプなどが現実に起こらない理念的な状態においても、異性愛には〈被害者なき犯罪性〉が宿っているということだからだ(そして同じ論理は「殺害」にもそのまま適用可能だ)。ところでもちろんそうした肉体を受肉していることは、悪しきことだけでなく、さまざまな善きことの可能性の条件でもある。だからこそ肉体の罪責性と強制性は、道徳的な善悪を超えた価値評定であると解さねばならないし、自由・平等・友愛・非暴力性・親密性によって贖われることも祓われることもないと解さねばならない。しかしでは、その罪責性と強制性はいったいどこからやってくるのか? それは死と死別に関連している。

・死別と次世代育成
異性愛は生殖と結合しても強制性をゆうするなら、また生殖から分離すると罪責性をしめすなら、異性愛と生殖をともに離れることが唯一の道となるはずだ。レズビアニズムのモニク・ウィティッグが、たとえばこの道をとる。ウィティッグがはかる「逃亡」は、異性愛からの逃亡であると同時に生殖と次世代育成からの逃亡でもある。だが、にもかかわらずレズビアンのなかには、生殖と次世代育成にあたるものがいる。異性愛時代に産んだ子どもを引きつづき育てるレズビアン・マザーしかり。さまざまな精度と技術を利用して次世代育成をこととするレズビアン・マザーしかり。そしてこれは三つのことを意味している。第一に、レズビアンじしんが、(異)性愛・生殖・次世代育成の結合を断ち切ったということ。第二に、レズビアンじしんがあたらしい生殖方法を活用したということ。第三に、レズビアンじしんが、あらたなかたちで(同)性愛と次世代育成を直結させたということ。つまり生殖擬態行為をスキップして(同)性愛と次世代育成を直結させたということ。以上はところが、異性愛の強制性からの逃亡ではあっても、生殖(擬態)と次世代育成の強制性からの逃亡ではない。とするなら、レズビアン・マザーの現存が示唆するものとは何か? すなわち異性愛・同性愛であれ、性的なもの全般を、生殖や次世代育成へ結合する強制性がはたらいていること、これにほかならない。

そのことを見越したかのように、じっさい近年の次世代育成をめぐる言説は、奇妙に中性的になっている。たとえば原ひろ子が「次世代育成力」という言葉にみいだす、「共に」考え尊重しあい生きていくことへの願いは、共同生活だけではなく性的共同性もふくまれているだろう。しかしそのようにいえてしまうのは何故か。そここそを初期のレズビアニズムは問うていたはずだ。だから逃亡する単独者たらんとするその意志を引き継いで、ローラ・パーディはいう。「初期の第二派フェミニズムの存在価値の一つは、婚姻と家族の批判であった。……〔けれどもその〕批判はほとんど忘れ去られたようだ。今ではフェミニストも、社会の大勢と変わらず、レズビアンを含む女すべてが、ペアをなして子どもを持つこともあると想定しているようだ。昔の批判は今でも生きているとする者は……古びた陳腐な課題にいささか固執し過ぎているように見えるだろう。」「人間の幸福が、あるいは、女の幸福が、生殖と育児を必要とするかどうかは、興味深い問いであり、フェミニズムが十分に立ててはこなかった問いである。私の信ずるところでは、子どもを持つことは幸福な人生に必須ではないし、現状で子どもを育てることは、満足よりは苦悩を呼び込んで当然であると考えるべき十分な理由がある」(中略と補足は安部)。

この「古びた課題」は解消したのだろうか。それは、性愛・婚姻・家族について「純粋な平等世界」や〈虹の世界〉を宣揚することで、あるいは次世代育成の別なる社会的制度の存在を宣揚することで、解決できるものなのだろうか。何よりそもそも、「共に」の願いに寄生するような次世代育成の願いにこそ、何らかの強制性と罪責性が内在していると疑ってみるべきではないのか。

「共に」をことさらに宣揚することのない単独者にしても、もちろん共に生きているし共に生かされている者ではある。だがその人生は孤絶の様相を帯びざるをえないのもたしかで、ひるがえって、だからこそ単独者の人生は自足しうるし、幸福であるともいえる。おそらく孤独死さえもそうした自足のありかたのひとつである単独者たち、友愛・情愛・親愛と同等とされた性愛から除外・排除されているようにみえる孤立者たち。そのような者たちに果たして「ものごと」を引き継ぐべく生殖と次世代育成にあたる個人的理由があるだろうか。またそのような者たちに向かって、次世代育成の社会的分担をもとめることは何を意味するのか。看過してはならないのは、親密な「ペア」はそれとして自足しがたい、ということだ。「ペア」には生き別れと死に別れがあるからだ。「ペア」は単独者以上に、過剰に死と死別をおそれている。原にしても「共に」生きるとは書いても「共に」死ぬとは書かない。「共に」死なないからこそ、「共に」生きる願いが次世代を育成する願いに結合するかのように書いてしまうのだ。つまり「共に」生きることが不可避的に招き寄せる死別、それを埋めあわせるのは次世代しかないという思い、これこそが性・生殖・次世代育成を結合する強制性――いかなる共生の形態であっても「ペア」をなして次世代育成への進むライフコースを必修とするような強制性――の正体なのではないか。それはまるで死と死別という罰がまちうけている不毛な性行為や生殖擬態行為の罪を、生殖擬態と次世代育成によって贖っているかのようにみえないか。そして何より強調しておくべきは、そんな強制性と罪責性に拠ってはじめて、異性愛・婚姻・家族の政治的強制性が機能してきたし、なお機能しているのではないか、ということである。

こうした観点/懐疑からすれば、〈人間は必ず死ぬから人間は人間を生む、あるいは、人間は人間を生むようになっているからこそ人間は必ず死ぬようになっている〉と中性的に語られる真理は、現実には、女のライフコースに負荷された力を介して人間社会を存続させてきた力を中性的にいってみせているだけのものだ、という洞見がえられる。この点に無自覚・無批判な言説はだから「古びた陳腐な課題」を隠蔽しているわけだが、しかし性・生殖・次世代育成を結合する力の強制性は、男女の性的肉体性に宿るだけではなく、死を宿命とする人間であるかぎりの男女の肉体性にも根ざしている。だからこそ不可思議なほどに強力なのであり、その強制性は「純粋な平等世界」においても〈虹の世界〉においても祓われることがない。そしてそれが罪責性であるとするなら、それは男女に性化するかぎりでの人間の運命であるともいえる。

性・生殖・次世代育成の分離と結合にかんして、すくなくとも思想的には、フェミニズムもレズビアニズムもその歴史的使命を終えたといってよい。それらは異性愛の特権性を否定し、新生殖方式を活用することで、性一般と次世代育成をダイレクトに結合する道をひらいた。そこにもなお強制性と罪責性は宿っているのだが、それを感知・経験・思想化して、あらたな次世代育成のありかたを思考し実践する能力と資格を備えているのは「単独者」だけである。つまり性・生殖・次世代育成の分離と結合のしかたの探求、自足した人生と次世代育成の結合、そうした課題はそんな「単独者」にこそ引き継がれるのだ。


■目次

■引用

■書評・紹介

■言及



*作成:安部 彰 
UP:20091010 REV:
◇◇「立命館大学大学院・先端総合学術研究科」  ◇「哲学」  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)