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『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』

前田 拓也 20090930 生活書院,369p.

last update: 20131129

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前田 拓也 20090930 『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』,生活書院,369p. ISBN-10:4903690458 ISBN-13: 978-4903690452 \2940 [amazon][kinokuniya] ※  c04, a02, w/mt19

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◆生活書院HPよりhttp://www.seikatsushoin.com/bk/045%20kaijogenba.html1

介助という実践のなかから、他者との距離感を計測すること、そして、できることなら、この社会の透明性を獲得すること……。
驚くこと、おかしくて笑ってしまうこと、失敗すること、叱られてしまうこと、違和感をおぼえてしまうこと、不甲斐なさを思い知ること、イライラすること……介助する「当惑するわたし」に凝縮して経験され、表現される、この社会での立ち位置。
その当惑を自覚し、押さえ込み、相手と反発しあいつつ、「わたし」のありようを変えていくプロセスは、目の前にいるその人との関係性を変えていくプロセスであり、この社会で位置づけられ、再生産される両者の関係性を組み替える試みへと、静かにつながっていく――「まるごとの経験」としての介助の只中で考え続けてきた、若き社会学者による待望の単著!

■目次

序章 介助、その「まるごとの経験」
第1章 介助者のリアリティへ
第2章 パンツ一枚の攻防――介助現場における身体距離とセクシュアリティ
第3章 ルーティンを教える
第4章 アチラとコチラのグラデーション
第5章 「慣れ」への道
第6章 出入りする/<介助者>になる
おわりに――「社会の介助性」にむけて

■引用 表記は引用者(安部) が一部改変した箇所がある。また*は引用者のメモ

◆本書の目的

「「介助」をめぐって取り交わされる人びとの社会的相互作用に照準したうえで、障害をもつ当事者と、かれらの生――生存と生活――を日常的に支援する者たち、すなわち介助者との関係性がどのように変容し、また、介助の「現場」のおけるリアリティは、両者のいかなる実践によってつくりだされているのかを、社会学的に明らかにすること」(10)

◆分析視角

「健常者が「介助者になりゆくプロセス」(10)
→「「介助者になる」ということは、単に「専門性を獲得する」とか、「障害者のニーズを理解する」とかいったことのみを示すのではない」(同)。それは、「介助」めぐる障害者との相互作用をつうじて生じる「自己の立場性やアイデンティティの揺らぎをときに見つめ、ときに疑いながら、それでもなお「現場」にとどまりつづけることによって、障害者との関係性へのフィードバックを繰り返し試みるプロセス」(同)

*A)ひとが介助者になりゆくためには、現場にとどまりつづけることが必要。他方でしかし、B)介助が有償であることによって介助者の退出可能性が担保されることのよさ、介助関係から「出入り自在」であることのよさ、介助者の「一定の新陳代謝/流動性はあってよく、また、あるべきなのである」(334)ともいわれる。これはいかなるロジックに支えられているのか。

→「現場」に一定度とどまる必要があるのは、あるいはそれが「よい」のは、介助者の「健常者性」に反省をせまるものだからである。つまり介助関係において立ちあらわれる「健常者性」と出会い、ゆらぎ、対象化し、相対化するためである(しかしこの過程にはむろん個人差があるだろう)(A)。そうして介助者は「現場」と「日常」を往還し、媒介する(あるいはその境界じたいを曖昧化する)ものとなりゆく。そんな介助者はもはやかつての「健常者」とは「異なる主体」(335)――すなわち〈介助者〉――なのではないか。そして「出入り自由な場で〈介助者〉を作り出すことは、ひいては「介助現場」を「社会」に拡散していくことである」(335)から「よい」のである(B)。

*だとすれば、ここから導かれるさらなる論点は「介助労働の義務化」の是非である。(労働ではなく)金銭を介して介助を支えている(あるいは間接的に介助にかかわっている)かぎり、それら(多くの人びと)は「健常者」をそのまま安置することになり、つまり前田のいう「よさ」の外部にあるからである。すこし意地悪ないいかたになるが、このとき、同じ介助関係者でも、有償でも無償でもあまり介助にはいらない人たちや、介助ではなく補助的な役割を努めいる人たち、事業所で働く事務方のみなさんはの位置づけはどうなるのだろう。この点は、より包括的な「介助現場のリアリティ」を描出していくうえで存外重要なのではないか、と考える。

◆「ケアというおこないがはらむ「困難さ」」(36)

→「ケアが有償でなされるか無償でなされるかといった問題とはおそらく関係がない」(同)。「ケアという相互作用の場には、経済的側面に容易に還元できない、何重にも張り巡らされた「困難」が存在するからだ」(同)。「その「困難」とは、端的に「他者を支援すること」ないし、それにともなって「他者とともにあること」そのものがはらむ困難である」(同)

*では具体的/端的にいって、それはいかなる困難なのか?わかるようで、わからない。

◆「介助を学ぶ」あるいは「介助者になりゆく」とは

ひとつに「技術」を体得すること(332)。だが同時にそれは「介助者が自身の「健常者性」を知る過程」(同)。「身体ごと現場に参与し、技術を身につけてゆくことは、この社会における障害者という他なる存在のありかたを、その身体を使って「まるごと」知ることなのだ」(同)

「介助を支障なく行なえている時点で、障害者という他者との距離感の理解は、おそらく、すでに終えているはずである」(333)

*ここでいわれる「理解」とは、他者との距離感が解消されたということではなく、むしろその(適切な)距離を知ることであり、すなわち他者をちゃんと「他者」として理解することである。→see.◆介助の両義性

◆介助の両義性

介助はよいことであると同時に負担でもあるという、その両義性をおそらく誰もが知っている。だが多くの人にとってその両義性は「対岸の火事/アチラ側のできごと」(272)である。「そうした距離感の保たれた関係性のなかで立ち現れる「介助の両義性」は常識の範疇でしかなく、かれらの健常者性を揺り動かしはしない」(同)。だから介助――とりわけ排泄介助などのダーティワーク――に「慣れる」ということを個人的な問題――順応の問題――へと切りつめるべきではない。慣れることのが目指しているのは、不感症になることではない。たしかに何も感じなくなることで介助はスムーズにいくかもしれないが、そのことは利用者の、介助関係の「特殊性」を減じさせる。だから「「障害者という他者に慣れること」は、……むしろ「慣れる」ことによってかえって差異が自覚されることがあるかもしれないということだ」(276)。つまり利用者は「介助の必要と介助者への負担が常に「込み」になった存在」(同)として介助者のまえにあらわれるのであり、介助関係にはいる――<介助者>になる――とは、その人と「そういう人」として出会い、関係をむすぶことなのである。

◆「偏在する介助」(332)

*「偏在」でいいのか?「遍在」ではないのか?

◆有償/無償

「障害者は、特定の介助関係からの退出可能性を保証するために介助の有償化を求めた。しかしそれは、(辞めたくなっても)「食っていくために」介助を続けざるをえない介助者の退出可能性を否定することにもなりえた。要は、介助者の「退路を断つ」ことによって複数の介助者を確保し、「退出可能性」を巡る非対称性を均衡されることにもなってしまう(堀田義太郎 2008 「ケアと市場」)。介助の有償化は、「介助される生活から一生逃れることができない」という障害者にとっての退出不可能性に対して、(それとはまた別の対称軸である)「辞めたら食えなくなる」という介助者にとっての退出不可能性をもって、非対称性を相殺/均衡する試みであるとまとめることができよう。介助者が、食うにやまれず介助関係から去ることができないという事態は、介助者にとってよいことではないのみならず、何より障害者にとってよいことではなかろう。だから求められるのは、退出可能性を担保したまま、それでもなお退出せずにいられる回路なのであり、それゆえ「退出可能性」は肯定される。」(312)


◆ありうべき論点

*おそらく多くの人びとが意表をつかれたと思うのだが、本書は「あかるい」本である。読みすすめるなかで、思わず笑ってしまった箇所もある。では、そうした「あかるさ」を裏側から支えているのは何か。つまり、この本に書かれなかった「リアリティ」とは何か。それは、抜きさしならないコンフリクト。それらが書かれなかったのは、たんに著者が、そういう経験に出くわすことがなかったからなのか?そうだとして、そのことじたいが「組織」「利用者」の性格=特殊性に起因するもの(幸福な「リアリティ」)なのか?あるいは(あえて)書かれなかった「リアリティ」があるのか?だとすれば、そうした著者のねらいは奈辺にあるのか?

→ひとつに、人間関係のなかでも、抜き差しならない関係として表象されることが多く、その抜き差しならない側面ばかりが焦点化される「介助関係」(観/論)にたいするアンチテーゼとして、この書はあるのかもしれない。

*著者は今後どのような方法へと研究の歩みを進めていくのだろうか。本書を書くことでみえてきた/書き終えての課題は何だったのか?本書のいう「現場」は「身体障害者」の「自立生活」の介助であったが、もちろん「現場」はほかにも知的障害者/高齢者/乳幼児など、あるいは在宅/施設など、複数ある。

■GCOE「生存学」関連公開研究企画「介助(者)の現在」

http://www.arsvi.com/a/20091121.htm

■書評・紹介

http://blogs.dion.ne.jp/karintoupossible/archives/8944903.html

http://d.hatena.ne.jp/takutchi/20091110/1257879446



*作成:安部 彰
UP: 20091009 REV: 20131129
前田 拓也  ◇「ケア care」  ◇「介助・介護」病者障害者運動史研究  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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