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『ナラティヴの権利――戸惑いの生へ向けて』

Bhabha, Homi K. 200908 Collection of Essays by Homi K. Bhabha
=磯前 順一/ダニエル・ガリモア 訳,『ナラティヴの権利――戸惑いの生へ向けて』,みすず書房 ,352p.


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■Bhabha, Homi K. 200908 Collection of Essays by Homi K. Bhabha=磯前 順一/ダニエル・ガリモア 訳,『ナラティヴの権利――戸惑いの生へ向けて』,みすず書房 ,352p. ISBN-10: 4894340593 ISBN-13: 978-4894340596 \4410 [amazon][kinokuniya]

■内容

(「BOOK」データベースより)

サイード、スピヴァクと並び立つポストコロニアル思想の雄バーバ。ネイション論、芸術論を経て、現在のコスモポリタニズム論までを網羅。西洋の現代思想を、インドのマイノリティの立場から読み直し、戸惑いの生とナラティヴの可能性を語る。生い立ちを語るインタビューを含め、思想の全体像がここに明らかになる。日本語版独自編集の待望の新著。
ポストコロニアル思想の雄バーバ。ネイション論から芸術論、コスモポリタニズム論、さらにマイノリティとしての生い立ちまで。思想の全体像が明かされる。

■引用

歴史の網の目をつくり出したり、歴史の流れを変えるような物語をかたる権威、それがナラティヴの権利である。その文化が、ドン・ジョバンニのようなエリート的なものであれ、スターフォーズのような大衆的なものであれ、「文化」交流の精神としてナラティヴを語る立場をとる以上は、文化の創造性を発揮させるため、歴史的表象の重みや審美的・倫理的解釈の責任をみずからの両肩に背負う覚悟が必要である(pp. 6-7)。
他人に向かって話しかけたり耳を傾ける解釈共同体が形成可能になるのは、その構成員たちがみずからの判断にもとづく行動や理解にのっとって、自分の存在やナラティヴの権利を確保できたときだけだからである(p. 7)。
このナラティヴの権利は実際に行使されるだけでなく、その行使される状況についても注意がはらわれるべきである。市民としての生活のしるし、それがナラティヴなのである(p. 7)。
ナラティヴの転倒や循環―それは私が言うように人間の主体が分裂する状況のもとで起こる―を認めるとすれば、文化的な支配が容易なものであるとするような自文化中心主義者やナショナリストの立場はとうてい受け入れられないものとなる。それは、ナラティヴが統御される場所はけっして単一化したり一元化したりすることのできない場だからである。主体とは語る主体と語られる対象のあいだで、あるいは「ここ」と「どこか別の場所」のあいだで、その往還をくり返すなかで把握されるようになるものであり、かくのごとく主体が分裂化した状況では主体を疎外することなしには、文化的な認識をおこなうことなどできないと言える(p. 74)。

[訳者解題]ポストコロニアルという言説―ホミ・バーバ その戦略と臨界点

ナラティヴを基軸にすえて、サバルタンを全体と部分の弁証法のもとに把握しようと試みるところが、スピヴァクとは異なるバーバの特徴をなすともいえる。バーバにとってはサバルタンが純粋な声をもつべきであるという発想が不自然であり、サバルタンだけでなく、あらゆる声は枠づけられた条件がともなってこそ聞き届けられるものだとされる。つぎのようにバーバは述べている(p.309)。
あたらしい利害の共同体を形成する人びとの多く、たとえば難民や最下層民やディアスポラのような人たちは、かれら自身の性質からいって、そのおおくは自分自身を表象する機会にめぐまれるということがありません。私が思うに、かれらの表現やその声は、かれら自身の言葉をおとしめて聴き取られる必要のあるものです。わたしたちが日ごろ、ネイションやネイションへの帰属あるいは国民的文化といったものをとおして理解しているものを再考させるためにです。…しかし、かれらの声がそのまま声として聴きとどけられなければならないというのは、まったく適切な考え方ではありません。なぜなら、かれらの声にしてもまったく無垢のものなど存在しないし、その声は質問者との対話を媒介として、みずからを表現する手段にたいする自身の感覚をとおして、かれらの拠って立つイデオロギーをとおして分節化されてくるものだからです。その意味で、かれらの声もまた枠づけされた声であり、そのような表現が嫌いでないならば、作られた声であるということになるのです。しかし、まさにその意味においてこそ、その声はたえまなく変っていくアイデンティティや政体や国境を越えたコミュニティを構築するさいの証言となるのです。(pp. 309-310)。
たしかにスピヴァクが指摘するように、サバルタンは「語ること」のできない状況を余儀なくされる。しかしいま一度確認するならば、バーバがいうナラティヴとは言語行為にとどまるものではない。それは「生きる姿勢the form of living」であり、「自由にたいする人間の根源的関心のメタファー」なのである(p. 311)。
革命のように社会の構造的矛盾を根本的に解決するものではなく、マジョリティかマイノリティであるのかを問わず、あらゆる人びとが非自明性のなかで戸惑いの生を生き抜いていくことへの誘いとなるのだ(p. 311)。
外なる他者ではなく、内なる他者と出会うことで、〈異質な外部/同質な内部〉といった二文法そのものが消失する。自明性を失って不気味なものに曝されているという意味では、マイノリティかマジョリティであるかといったことにかかわりなく、あらゆる人間は対等になる(p. 312)。
語ることのできないサバルタンにとっては最大の関心事は、理不尽な日常を「生き延びていく」こととなる。その生き延びるための戦術のひとつが、選択不能な状況にたいする抵抗としてのジョークなのである(pp. 312-313)。
マイノリティの日常生活というものは、しばしば自己認識のナラティヴをとおして構築されていくものだが、そのような自己認識は特定の目的を有する対話や差別的な会話にしたがうほうが選択肢がないものであり、こうしてマイノリティたちの日常的なありかたは決定づけられていってしまう。マイノリティが規律・規範化された表象の空間の外部に出るのはきわめて困難なことであり、自分たちについてステレオタイプ化されて統計化された、静態的な報告書や法令や資料にたいして、嫌悪感を表明する機会は皆無にちかい。特定の意図を有する自己批判的なジョーク―「権威にたいする抵抗であり、権威の圧力からの解放である」―が文化的抵抗の戦略であったり、共同体が生き延びるためのエージェンシーとなりうることは、きちんと議論されてしかるべきである(p. 313)。
生き延びる術としてのジョーク。それもまた、バーバーにとっては「生きる姿勢」としてのナラティヴである。それは母語や共同体との同一性から引き剥がされた者だけが、自分をとりまく不気味さに身体を浸した者だけが、習得することのできる知恵なのかもしれない(p.313)。

■紹介・言及



*作成:中田 喜一
UP: 200901208 REV:
身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
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