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『連続講義「いのち」から現代世界を考える』
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高草木 光一
編 20090612 『連続講義「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店,307p. ISBN-10: 400022171X ISBN-13: 978-4000221719
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■岩波書店のHP
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/X/0221710.html
生命を操作することすら可能になった今日,人類の未来図はどう描けるか.現代史においてベトナム戦争が象徴的に突きつけた,「いのち」の値段に格差があるという矛盾に満ちた状況をどう乗り越えるか.東アジアの伝統医学からも手がかりを得て,あたりまえの「くらし」を起点に等身大の生命観を提示すべく立場の異なる18人が論じた記録.
■著者紹介
〈高草木光一〉1956年生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。同大学経済学部教授。
■目次 *これから掲載します
はじめに 高草木光一
第1部 「いのち」をめぐる現在
第1章 生体移植,脳死・臓器移植
日本の医療と臓器移植法改正 河野太郎
生体移植,脳死・臓器移植がもたらす未来 山口研一郎
《対論》
第2章 遺伝子操作,生殖医療
生命操作と生命観 福岡伸一
先端医療の現場と生命観 迫田朋子
《対論》
第3章 優生思想と自己決定権
ウーマン・リブの現場から 長沖暁子
「いのちの倫理」を考える 田中智彦
《対論》
第2部 人類史のなかの「いのち」
第1章 ウイグルの視点,チベットの視点
癒す力――ウイグルの文化と医学 マリア・サキム
チベット医学が現代に貢献できること 小川 康
《対論》
第2章 『医心方』の倫理観,神道の自然観
『医心方』の倫理観 槇 佐知子
神道の自然観 鎌田東二
《対論》
第3章 宗教と医学の間
「いのち」の社会・文化史に向けて 島薗 進
第3部 「いのち」の同時代史のために
第1章 「いのち」の闇
報道写真家としての岡村昭彦
米沢 慧
167-177
エイズと日本社会 吉岡 忍
《対論》
第2章 揺らぎのなかの「いのち」
「いのち」の軽さ
最首 悟
199-215
「いのち」をめぐる断章
立岩 真也
216-224
《対論》
最首 悟
・
立岩 真也
225-231
《対論》
第3章 「いのち」の構築
親子はいま内戦状態にある 芹沢俊介
紛争の実態と反戦の論理 伊勢崎賢治
《対論》
第4部 われわれはいまどんな時代に生きているのか(座談会) 最首 悟・島薗 進・山口研一郎・高草木光一
あとがき 高草木光一
人名索引
フォト・ストーリー「いのち」 大村次郷
■言及
◆立岩 真也 2011/01/01
「人間の特別?・2――唯の生の辺りに・10」
,『月刊福祉』2011-1
◆立岩 真也 2013
『私的所有論 第2版』
,生活書院・文庫版
★16
『論註と喩』
をあげたのは『私的所有論』でだった(→註08、245頁)。その後、短い文章を一つ書いている(→註29、261頁)。その後、本章に出てくる人たちにまとめて言及したのは最首悟の対談でのことになる。
高草木光一の企画した慶応義塾大学経済学部での連続講義が、
『連続講義「いのち」から現代世界を考える』
(高草木編[2009])、
『思想としての「医学概論」』
(高草木編[2013])の2冊になっている(後者に最首[2013]が収録されている)。その前者に、最首が話し(最首[2009])、私が話し、その後対談△248 する(対論となっている、最首・立岩[2009])という形の講義の記録が収録されている。
最首は1936年生。東大闘争の時、助手共闘に参加。高草木は、大学闘争、その時期の社会運動に関心を持ち続けている人で、それで、最首など呼んだりする講義を行ない、そして本にしたりしている人だ。その2008年の講義の時、最首は人が殺す存在であることから考えを始めるべきであることを語った。私もそんなことを思ったことがないわけではないが、考えは進んでいなかったし、今も進んでいない。次のように述べた。
「最首さんが提起された「マイナスからゼロヘ」の過程をどう考えるかということと、思想の立て方としては違うはずなのですが、西洋思想のなかにも「罪」という観念があります。その「罪」は、まず基本的には、法あるいは掟に対する違背、違反です。法は神がつくったもので、具体的な律法に違反したら罪人であるという。それは律法主義です。ただキリスト教はそれに一捻り利かせていて、行為そのものでなく、行為を発動する内面を問題にすることによって、律法主義を変容させていく。
フーコーは、そういう系列の「罪」の与えられ方に対して一生抵抗した思想家だと私は思っています。ニーチェ、フーコーというラインは、そこでつながっています。自分ではどうにもならないものも含めて人に「悪意」を見出す、そしてそれを超越神による救済につなげる。つなげられてしまう。これが「ずるい」、と罪の思想に反抗した人たちは言うわけです。私はそれにはもっともなところがあると思います。そして同時に、その罪の思想においては、人以外であれば殺して食べることについては最初から「悪」の中には勘定されていない。そうした思想は、どこかなにか「外している」のかもしれません。
「悪人正機」という思想は、それと違うことを言っているように思います。では何を言っているのか。親鷲の思想にはまったく不案内ですが、いくらか気にはなっています。吉本の『論註と喩』という本(一九七八年、言叢社)は、マルコ伝についての論文が一つと親鸞についての論文が一つでできています。前者の下敷きになっているのはニーチェです。吉本とフーコーがそう違わない時期に独立に同じ方△249 向の話をしている。そちらの論文に書いてあることは覚えていますが、親鸞の方はどうだったか。ずいぶん前に読んだはずですが、何が書いてあったのだろうと。二つが合わさったその本はどんな本だったのだろうなと。
そして去年(二〇〇七年)、横塚晃一さんの
『母よ!殺すな』
という本の再刊(生活書院刊)を手伝うことができましたが、彼の属していた「青い芝の会」の人たちは、しばらく茨城の山に籠っていた時期もありました。そこの大仏空(おさらぎあきら)という坊さんの影響もあるとも言えましょうが、悪人正機説がかなり濃厚に入っている。それをどう読むか、それも気にはなってきていることです。
「殺すこと」をどう考えるかは厄介です。否応なく殺して生きているということは、殺すことそれ自体がだめだということではないはずです。そして、ならば殺すのを少なくすればそれでよい、すくなくともそれだけでよいということでもないのでしょう。殺生を自覚し、反省し、控えるというのは、選良の思想のように思えますし、人間中心的な思想でもあります。最首さん御自身の「マイナスから始めよう」という案も含め、落とし穴がいくつもあるように思います。功利主義的な議論のなかでは、「殺すことがいけないのは苦痛を与えるからだ」という方向に議論がずれてしまう。だから、遺伝子組み換えで苦痛を感じない家畜をつくり出してそれを殺すのならば、少なくとも悪いことではないということになっていく。これはさすがに、多くの人が直観的におかしいと思うでしょう。
こうした問題は、それはどんな問題であるかは、これまであまり考えられてこなかったように思います。西洋思想の系列にはその種の議論がないか薄いように思います。それでも、ジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930〜2004)とエリザベート・ルディネスコ(E1isabeth Roudinesco,1944〜)の対談集
『来たるべき世界のために』
のなかで、動物と人間の関係や、動物を殺すことについて少しだけ触れた箇所があります。ピーター・シンガーたちの動物の権利の主張について質間を差し向けられて、デリダはいちおう答えてはいますが、その答えの歯切れはよくないし、たいしたこと言ってないんじゃないかと。ア△250 ガンベン(Giorgio Agamben,1942〜)には、西洋思想や宗教が動物と人間の境界をどう処理してきたのかという本(
『開かれ――人間と動物』
)もありますが、ざっと読んでみても、ああそうかとわかった気はしない。ただ、いま思想が乗っている台座を間うていけば、そんなあたりをどう考えるのかが大切なことのようにも思えます。どう考えたらよいのか、しょうじきよくわかりませんが。」(最首・立岩[2009]における立岩の発言)
それに対して最首は次のように応じている。
「いま、吉本隆明の「マチウ書試論」(『芸術的抵抗と挫折』未來杜,一九五九年、所収)にまたもどってきているというか、「絶対」と「憎悪」と〈いのち〉というと、問題意識を少し言えそうな気がします。」
横塚『母よ!殺すな』は1975年初版、増補版が81年。新板(第3版)が2007年、新板の増補版(第4版)が2009年(横塚[1975][1981]
[2007]
[2009])。私は新版の解説を書かせてもらっている(
立岩[2007a]
)。
UP:20090615 REV:20100316, 1106, 20130207, 20230101
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