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『社会学入門――〈多元化する時代〉をどう捉えるか』

稲葉 振一郎 200906 日本放送出版協会 285p.


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■稲葉 振一郎 200906 『社会学入門――〈多元化する時代〉をどう捉えるか』(NHKブックス),日本放送出版協会,285p. ISBN-10: 4140911360 ISBN-13: 978-4140911365 \1124 [amazon][kinokuniya]

■内容

出版社/著者からの内容紹介
世界の自明性を疑う。
デュルケム、ウェーバーからパーソンズまで。
近代再考から社会学の本質に迫る!

ベーシックな内容から応用まで。
格差や家族問題から国際紛争まで何でも扱う社会学。
では、その根本に流れる問題意識とはどのようなものか?
「無意識」の発見に象徴される、近代の理性的人間観の崩壊を踏まえ、
人々が無自覚にもつ価値観と、社会形成とを関連づけて捉える視点だ。
以上の見立ての下、デュルケムやウェーバーらを考察するとともに、
他の人文科学との比較を通して、社会学の輪郭を描き出す。
パーソンズ以降、社会学の中心理論の不在が続く現状を捉え直し、
ダイナミックに変容する現代社会を分析する上での、
社会学の新たな可能性をも探る、著者渾身の一書。

内容(「BOOK」データベースより)
格差や家族問題から国際紛争まで何でも扱う社会学。では、その根本に流れる問題意識とはどのようなものか? 「無意識」の発見に象徴される、近代の理性的人間観の崩壊を踏まえ、人々が無自覚にもつ価値観と、社会形成とを関連づけて捉える視点だ。以上の見立ての下、デュルケムやウェーバーらを考察するとともに、他の諸学問との比較を通して、社会学の輪郭を描き出す。パーソンズ以降、社会学の中心理論の不在が続く現状を捉え直し、ダイナミックに変容する現代社会を分析する上での、社会学の新たな可能性をも探る。

◆著者について

稲葉振一郎(いなば・しんいちろう)
1963年生まれ。一橋大学社会学部卒業後、東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専攻は社会倫理学。現在、明治学院大学社会学部教授。著書に『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス)ほか。

◆著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

稲葉 振一郎
1963年、東京生まれ。一橋大学社会学部卒業後、東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専攻は社会論理学。現在、明治学院大学社会学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
◆詳細

格差や家族問題から国際紛争まで何でも扱う社会学。
では、その根本に流れる問題意識とはどのようなものか?「無意識」の発見に象徴される、近代の理性的人間観の崩壊を踏まえ、人々が無自覚にもつ価値観と、社会形成とを関連づけて捉える視点だ。
以上の見立ての下、デュルケムやウェーバーらを考察するとともに、他の諸学問との比較を通して、社会学の輪郭を描き出す。
パーソンズ以降、社会学の中心理論の不在が続く現状を捉え直し、ダイナミックに変容する現代社会を分析する上での、社会学の新たな可能性をも探る。

■目次

■引用

学生ならばその学校のメンバーであり、会社に就職していればやはりその会社という組織の一員である。そしてそれらの社会システムのどれもが、それぞれに方法論的全体主義でいうところの「全体」でありえます。〜中略〜何をもって「全体」としての社会とみなすかは、その時その時の問題関心に応じて、研究者が適宜選択すればよい、と。(p.62)

ホッブズをゲーム理論的なモデルで解釈したことからもお分かりのように(そしてロックについても似たような議論が成り立つのですが)、彼らの議論はむしろ方法論的個人主義の方にこそなじみます。つまり彼らの議論において、社会的な秩序・関係は、社会契約、すなわち個人間の合意によって説明されるのです。つまり彼らの枠組みにおいては、「社会的なるもの」「社会的に共有される形式」は、基本的に個人に先立つものではない。(p.92)

主役が神であれ人であれ、「秩序とは意図的な構築物である」という想定が暗黙の前提、常識となっていれば、「デザイナーも管理人も見当たらない秩序」は、説明を要する不可思議な現象として立ち現れずにはいられないわけです。それがダーウィンの進化論の出現以降、発想の逆転が徐々に進行していきます。〜中略〜ヒュームの「コンヴェンション」論やスミスの「見えざる手」論は、こうした発想の源流に位置付けることができるのです。ダーウィン自身は直接には、『人口論』で有名なトマス・マルサスに言及していますが、マルサスは経済学史上のビッグネームでもあり、当然、ヒュームやスミスの影響を受けています。人間社会における秩序の典型とは、意識的に構築された方や国家制度ではなく、いつ、どこの誰が始めたとも分からないが、気がつくと何となく皆がそれを踏襲している慣行・習慣、つまりは「コンヴェンション」の方ではないか、ということです。(pp.101-102)

スミスの『国富論』においても「比較」という方法はきわめて積極的に用いられます。しかしその「比較」の手つきはモンテスキューとは非常に異なる。まずスミスは、自然環境という要因をそれほど重視していません。中国とヨーロッパとを比べるときにも、着目するポイントが、生産力水準、市場の発展の度合等々の経済であり、それも自然の生産力というより、技術、労働の生産性、法制度の「社会的」な要因に注目します。更にその比較の「尺度」が問題です。非常に簡単にいえば、生産力、物質的富の豊かさという分かりやすい一次元的な尺度で社会と社会を比較するのです。スミスの議論においては、中国はその生産力がかなり発展しており、豊かな富を享受しているにもかかわらず、これ以上発展の余地がある、というわけです。単純にヨーロッパと中国を比べて、どちらが進んでいてどちらが遅れているというわけではないですが、発展段階でさまざまな社会を並べていくという、まさに後に進歩史観の原型がスミスにはあります。(pp.110-111)

社会学はある意味でモンテスキュー、というよりも一八世紀の古き良き啓蒙主義、己惚れたヨーロッパ中心主義から距離を置いた視点に回復しようとしていると言えます。しかしモンテスキューのような自然環境重視の姿勢はとりません。(p.111-112)

分業による専門化によって、ものづくりの効率、つまり生産性が上がり、人々の生活水準が上がっていく。けれどもその反面、分業の副作用というものもある。スミスは分業の結果、人々の仕事が単純になり、そうした単純作業を毎日繰り返しているうちに、人々はどんどん愚かになっていくのではないかと危惧しています。のちにヘーゲルやマルクスは、それはただ単に知性の衰退・愚鈍化というほどにとどまらず「疎外」(人間性の喪失)、そして社会的な連帯の解体というべき事態なのではないか、と考えるわけです。(pp.149-150)

デュルケムは「機械的連帯」と「有機的連帯」の違いについて、法律を例にとって説明します。デュルケムによれば、より基本的かつ原始的な法律は刑法中心で、しかもその中心は、個人の生命や財産を守るのではなく、共同体全体の秩序や信仰を守るものであり、殺人や窃盗などにより、宗教上のタブーを破り厳しく罰するようなものです。これに対して、分業が発達した組織的社会においては、民法が発達します。民法は社会全体の秩序ではなく、その一員である個人や家族や団体の権利を守ることをこそ主眼としています。ルール違反(刑法なら「犯罪」ですが民法なら「不法行為」ですね)についても、違反者を罰することよりも、違反者の行為によって損害を受けた被害者の救済を目標とします(不法行為に対する損害賠償)。もちろん刑法においても守られるべき対象としての個人の存在感が格段に増します。(pp.153-154)

ホッブズやロックなどの社会契約論は、「自由主義」などという言葉が生まれるはるか以前のものですが、典型的に自由主義的な政治理論とされるわけです、科学における方法論的個人主義と、社会思想のレベルでの個人主義―つまりは自由主義―とは、前にも触れたように、それこそ区別はしなければなりませんが、やはり親和性は高いのです。(p.156)

二〇世紀後半にも経済学者たちも、「合理的に思考・行動しないことの事実上の合理性」に気がつきます。つまり「伝統に埋没し、あえて余計なことを見ない、考えない態度にもそれなりの合理性がある」、あるいは「情報を集めてきちんと考えた上で最適な意思決定を下すことにもそれなりのコストがかかるから、「合理的な決定」の利益が「伝統への盲目的な追随」のそれをつねに上回るとは限らない」というわけです。(p.173)

ウェーバーによればヨーロッパの特異性とは、キリスト教―それも東ローマ=ビザンチン帝国の正教会ではなく、西ローマ帝国没落以降のローマ・カトリック教会、ならびにそこから分裂したプロテスタント諸宗教派―がこのような限界を突破してしまったことにあります。どういうことかといえば、宗教内部での教義・組織の合理化が徹底したのみならず、そうした合理化の力が世俗間の圧力によって押しとどめられるよりも、逆に世俗間の方を改造して、俗世間そのものを「合理的組織化」に巻き込んでしまったというのです。(p.178)

独立した自律的な個人として、自分の仕事のオリジナリティを主張する「芸術家」などというものが登場してくるのが「近代」の出来事であって、それ以前は詩人や音楽家、絵描き、彫刻家は、王侯貴族などお偉方お抱えの一種の召使か、あるいは街頭や祭礼の場で道行く人々の投げ銭に頼っていた芸人でした。彼らの「作品」は多くの場合、今日の日用品、工業製品のように、その作者・演じ手などほとんど誰にも記憶されることなく消費され、忘れ去られていくものでしたし、そもそもその内容自体(たとえば詩や歌、芝居のテーマとなる物語、あるいは絵や彫刻に描かれている主題)は、聖書やその他の神話伝説、つまりは「伝統」の中からとられるパターンどおりのものでありました。「個性ある自由な個人としての芸術家による、自由な創作活動の産物としての、世界に唯一無二の芸術作品」が芸術の理想かつ標準となるのは、まさに近代のことなのです。(p.196-197)

社会学の場合には、「このあたりまではもう分かっている」と割り切るべきポイントを見つけることが難しいのです。なぜなら社会学の目指すところは「社会的に共有される形式と、その変容可能性についての学問」なのであり、その「変容可能性」のもとにある「形式」の中には、道徳とか価値観とか世界観とか、人間のものの見方や考え方・行動様式全般が入ってしまうからです。社会学の立場からすれば、経済学がとりあえず「まあ、こんなものだろう」と想定する人間の行動原理もまた、歴史とともに、社会的文脈によって変容しうる相対的かつ多元的なものです。しかしながら逆説的にも、このような「社会の変化の可能性に対する敏感さ」ゆえに、社会学は政策的実践、ひいては社会運動まで含めて「社会の変化に実践的にコミットしていくこと」が苦手になっていかざるをえないのです。(p.218)

フーコーの関心は、そうした歴史的な可能性を成り立たせていた地平そのもの、具体的にいえば、一つひとつの可能性を見出して比較する認識枠組みそれ自体の方にあります。すなわち、現代人とは異なる仕方で、過去の人間が世界を体験し、認識していた仕方そのものの復元です。もしも過去の人々が、現代のわれわれとは異なる仕方で世界を経験しており、しかしわれわれがそのような経験の仕方を忘れているならば、ほとんど記録が残っていない些末事はもちろんのこと、われわれがよく知っている歴史的な事実もまた、未知のものとして新たな相貌を現すでしょう。フーコーが科学や思想の歴史を通じて探り当てようとしたことは、そうした過去の科学の背後にある、人々の思考の形式、経験の形式です。(p.222)

パーソンズ以後の二つの大きな流れのうち、限定的な「中範囲の理論」に徹する方向性は、どうしても経済学や政治学に似通ってきてしまいます。ことに昨今では経済学や政治学、あるいはまた心理学が、伝統的な研究対象への自己限定をやめて「何でもあり」になってきており、かつて社会学の特徴であった節操のない守備範囲の広さだけでは、その独自性が打ち出すには足りなくなっています。(p.232)

■書評・紹介


■言及

*作成:中田 喜一 更新:三野 宏治
UP:20090818 REV: 20090925
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