第2章☆09 人類と家畜とか、家畜(化)の歴史といったものを人は好むようで、そこそこの数の本があるようだ。また、人が人のために動物を家畜化していったというのだが、そんなことをしている人間自身が家畜のようになってきていることが、いくらか嘆かれながら、言われる。以下のような書籍があった。 『ペット化する現代人――自己家畜化論から』(小原秀雄・羽仁進[1995])、『人類の自己家畜化と現代』(尾本恵市編[2002])、『家畜の文化』(秋篠宮文仁・林良博編[2009])、『家畜化という進化――人間はいかに動物を変えたか』(Francis, Richard C.[2015=2019])、『善と悪のパラドックス――ヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』(Wrangham, Richard[2019=2020]),『ヒトは〈家畜化〉して進化した――私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』(Hare, Brian & Woods, Vanessa[2020=2022])。また本の題にはその語はないが『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』(Scott, James C.[2017=]2019)でも「自己家畜化」について記される。ペットについてはさらに夥しい数の書籍ほかがあるだろうが、略す。
家畜には食べられるための家畜がいる。それらは必ず殺されるのだが、殺されるまで――殺されるだけの大きさにされるまでの無理やりなことがなされ、命を短くされていることが批判されるのだが――は生きており、餌が――それがひどいものであると批判されるのだが――与えられる。野生でいるのと比べてどうかといった問いが、その問いが成立するのかという問いとともに、ある。それを人が考える時に、例えば飼いならされた生よリも野生を、といった選好が介在することはあるだろう。