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Arguing about Disability : Philosophical Perspectives

Kristiansen, Kris,Vehmas, Simo,Shakespeare, Tom  20081210 Routledge,232p.

last update:20110420

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■Kristiansen, Kris,Vehmas, Simo,Shakespeare, Tom  200812 Arguing about Disability : Philosophical Perspectives,Routledge,232p. ISBN-10: 0415455952 ISBN-13: 978-0415455954  [amazon][kinokuniya]

■内容

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◇Review
'Arguing About Disability is one of the first books to attempt to bring together philosophy and disability and in so doing examine the complexity of disability. This important and comprehensive collection explores disability from a range of theoretical perspectives including the ontology of disability - how liberty, justice, equality and disability are linked, as well as ethics and disability - and gives new insights into current debates on disability. This collection is a welcome contribution to the maturing of disability studies and clearly shows the invaluable contribution that philosophy can make to debates on disability and disability research...'--Nick Watson, University of Glasgow, UK

'One of the best qualities of this collection is its accessibility to both philosophers and disability studies scholars who may have little or no experience with the other field. The book's introduction by its editors makes a strong case for the productivity of the endeavor before giving a clear and concise overview of disability studies history, progressing through moral, medical, and social models, and providing a brief breakdown of those parts of philosophy that are relevant to the work...Arguing About Disability would be a beneficial introduction to the intersection of philosophy and disability studies.'--Disability Studies Quarterly

'A rich collection of new insights from scholars in philosophy, bioethics, social science, law, disability studies and special education.'--Journal of Medical Ethics

‘The papers in Arguing about Disability bring the analytical rigour of philosophy and the careful attention to empirical realities of disability studies together in insightful and helpful ways...Many of the papers in this collection are by leading experts in disability studies, social policy, and health law. The quality and interest of the papers confirms the renown of many of these thinkers. This work incorporates a rich range of theoretical backgrounds, while preserving its coherence as an anthology....It brings philosophical issues to bear in fruitful and readable ways, adding a depth to reflection on disability issues that other books and anthologies either lack, or presume the reader already possesses.’ -- Critical Social Policy

'Anyone with any philosophical background who is interested in the field of disability studies, whether or not they count themselves as philosophers, ought to read [this book], and to engage with its arguments.'--Peter Herissone-Kelly, Metapsychology Online Reviews (2009)

◇Product Description
Disability is a thorny and muddled concept - especially in the field of disability studies - and social accounts contest with more traditional biologically based approaches in highly politicized debates. Sustained theoretical scrutiny has sometimes been lost amongst the controversy and philosophical issues have often been overlooked in favour of the sociological. Arguing about Disability fills that gap by offering analysis and debate concerning the moral nature of institutions, policy and practice, and their significance for disabled people and society.

This pioneering collection is divided into three sections covering definitions and theories of disability; disabled people in society and applied ethics. Each contributor ? drawn from a wide range of academic backgrounds including disability studies, sociology, psychology, education, philosophy, law and health science ? uses a philosophical framework to explore a central issue in disability studies. The issues discussed include personhood, disability as a phenomenon, social justice, discrimination and inclusion.

Providing an overview of the intersection of disability studies and philosophical ethics, Arguing about Disability is a truly interdisciplinary undertaking. It will be invaluable for all academics and students with an interest in disability studies or applied ethics, as well as disability activists.

■目次

Baker&Taylor Table of Contents:
Notes on contributors              vii
Introduction: the unavoidable alliance of disability studies and philosophy
  Simo Vehmas,Kristjana Kristiansen,Tom Shakespeare        1 (12)
 PART I Metaphysics                         13 (62)
  Social justice and disability: competing interpretations of the medical and social models
    Steven R. Smith                     15 (15)
  Definitions of disability: ethical and other values
    Steven D. Edwards                    30 (12)
  The ontology of disability and impairment: a discussion of the natural and social features
    Simo Vehmas,Pekka Makela                 42 (15)
  Disability and the thinking body
    Jackie Leach Scully                     57 (18)
 PART II Political philosophy                 75 (60)
  Personhood and the social inclusion of people with disabilities: a recognition-theoretical approach
    Heikki Ikaheimo                      77 (16)
  Disability and freedom
    Richard Hull                        93 (12)
  Disability, non-talent and distributive justice
    Jerome E. Bickenbach                    105(19)
  Gender, disability and personal identity: moral and political problems in community thinking
    Tuija Takala                       124(11)
 PART III Ethics                        135(84)
  Cochlear implants, linguistic rights and ‘open future' arguments
    Patrick Kermit                      137(17)
  The moral contestedness of selecting ‘deaf embryos'
    Matti Hayry                        154(15)
  The role of medical experts in shaping disability law
    Lindsey Brown                       169(16)
  Prenatal screening for Down syndrome: why we shouldn't?
    Berge Solberg                    185(18)
  Biopolitics and bare life: does the impaired body provide contemporary examples of homo sacer?
    Donna Reeve                        203(16)
Index                               219


■ 6  "Disability and freedom" Richard Hull のまとめ

障害は消極的自由論では不自由とはみなされない。消極的自由論では、自由は自然かつ所与のものとされ、他者の干渉が不在であれば、自然の障壁や社会的に積極的に是正できる障壁があっても、それらは自由を侵害するとは言われない。インペアメントは能力を低下させるが自由を減少させない、とされる。(94)
 ロールズの議論は消極的な自由論として解釈できる。だが、

「正義の概念は、自由に対する自然の偶然性と社会的な偶然性の影響にセンシティブであるべきだ。このことは、自由の制約は内的なものでありえる(例えば衝動的な欲求や無知)し、また消極的なものでもありうる(たとえば貧困や力の欠如)という、ファインバーグの指摘と一貫している。彼は、もしわれわれがこれを認識したならば、我々は自由の「積極的-消極的」という区別なしで済ますことができると論じている。」(99)

「自由の制約は、ある人を何かをすることから妨げるモノである。したがって、もし、xすることから私を妨げるモノがないならば、私はxすることへの自由がある。逆に、もし私がxすることへの自由があるとすれば、私がxすることから妨げるモノはない。「〜への自由」と「〜からの自由」はこのように論理的に結びついており、「〜からの自由」ではないような、特別な「積極的自由」などというモノは存在しえない」(Feinberg 1973: 13(99に引用))


■ 7 "Disability, non-talent and distributive justice" Jerome E. Bickenbach 
 のまとめ ※「」は引用

 「不平等を批判することと平等を望むことは、しばしば示唆されているように、人々はその性格や知性において平等だなどというロマンティックな幻想を抱くことではない。それは、人々の自然の賦与(natural endowments)が大きく異なっている場合に、人々のもつ資源における不平等を、個人間の差異ではなく社会的・政治的組織のなかで除去することを目指すことこそが文明社会の標である、と考えることなのである。」(Tawney 1931)

導入

 正義には大きく三つある。

 罰と称賛の比率ないし釣り合いに関わる矯正的正義(corrective justice)。
 資源、厚生あるいは機会の公正なあるいは平等な割り当てに関わる分配的正義。
 フェアプレイ、尊厳そして尊重に関わる手続き的(ないし関係的)正義。 (105)

 Tawneyの議論は、三つの種類の正義をひとまとめにする説明である――矯正的・手続き的正義を、平等主義的な分配的正義という一つの目標のための手段とするような説明であると言ってよい。 彼の洞察を拡張すればいわゆる社会モデルに至りうる。(105)
なぜTawneyを取り上げるのか。第一に、彼の「自然の賦与」への言及が障害学の社会モデルの議論を指示しているように見えるからである。障害者の権利擁護派のなかには、分配的正義の理論がインペアメントの影響を是正ないし改善するための資源に対する権限を含むべきだということに疑問を呈してきた。その理由は、それらの資源が要求されないからではなく、このような正義の主張が、障害をインペアメントないし機能的不能性とみなすような医学モデルに基づいているからである。
 アニタ・シルバースは、インペアメントの焦点化は、インペアメントをもつ人々が被る不利益がスティグマ化と差別の帰結であって「自然の賦与」の差異によるものではないという社会的事実を覆い隠すと同時に看過する、と論ずる。他方、トム・シェイクスピアはインペアメントそのものが人々に不利益を与えるということを否定する社会モデルに反対する。こうした論争文脈でTawneyの洞察は未だに活きている。
 第二の理由は、彼の「内的」と「外的」な資源の不平等についての言明は、正義の理論一般にとって、そしてとくに障害の理論にとって、厄介な問題を提起するからである。(106)

Tawneyの洞察の背景(省略)

全てが自由の問題である

 Tawneyの洞察は、自然の賦与や個人の能力における差異の全てを是正したり改善しようとしているのではない。(108)
→ 我々は、社会的・政治的制度がインペアメントを修正ないし改善するための資源を提供しそこなっている部分をいかにして特定すべきか、インペアメントが個人の生活活動やQOLに与える〔否定的な〕インパクトを減らすのに失敗している部分をどのようにして特定すべきか?(109)
個人の差異そのものではなく社会的政治的組織のなかに、その源泉をもつような不平等とは何か。
「個人的差異は平等化される必要はないが、それらが苦痛をもたらし、機能を制限しあるいは邪魔になる場合にはあるニーズを生みだす。ニーズを資源の再分配によって満たすことが可能でありかつ現実的である限りにおいて、満たされていないニーズは社会的に生み出された不平等であって個人の差異ではない、ということになる。もちろん問題は単なる満たされていないニーズにあるのではなく、不平等に満たされていないニーズにある」(109)

不当な不平等はその源泉を、社会的政治的諸制度からの積極的な反応――スディグマ化、偏見、社会的排除――と消極的な無反応の両方にもっている。

ほとんどの先進国社会はこの両方の形態の不平等を認めかつそれに対応している。医学的、リハビリ的、教育的そして支援技術や他の住宅や移動、コミュニケーションサービスの調整が、提供される。また金銭的な社会的支援、年金等々もある。これらは分配的正義によって動機づけられた方法の例である。
他方、反差別法が扱うのは障害に結び付けられたスティグマやステレオタイプの帰結である。反差別法や反差別政策は過去の不平等な実践に対する応答であり、それは矯正的正義の適用事例である。(109)
 ワッサーマンが指摘してきたように、インペアメントは社会正義に二つの異なった仕方で関係している。つまり機能的欠損(deficit)と社会的指標である。機能的欠損としてのインペアメントは、サービスや資源、調整(accommodation)に対するニーズを生みだし、それは分配的正義と呼ばれる。社会的スティグマやネグレクト、誤解といった形態は、矯正的ないし補償的(compensatory)正義を必要とする。ワッサーマン畑ファしくも、インペアメントが「社会的意味に満ちている」がゆえに、それらは正義の三つの形態全てをしかるべく必要とする。つまり分配的正義、矯正的正義、そして手続き的正義である。(110)

とはいえ、多くの障害をもつ論者は、これら二つのインペアメントの側面を一つにしてしまおうとする平等に基づく社会正義の理論には満足していない。社会政策はしばしば個人の機能の欠損に対応するために、物理的社会的環境を変えることよりも、より安く、効果的で一般に受け容れられやすいような資源を提供する。

「障害をもつ批判者たちが述べるように、それは、社会的不正義の真の源泉、とくに障害は不正な社会編成から帰結する不利益ではなく、「特別な」サービスを必要とする個人的欠損であるという信念を固定化する。」(110)

この批判は正しいだろう。正義の理論家たちが障害に目を向ける際には、個人的な欠損として理解されたインペアメントにシフトするからである。
ダニエルズ、ドゥオーキン、セン、ステインらがそうである。

一つの問題

インペアメントや他の健康問題が諸個人の生活活動における参加能力に影響を与え、また個人を取り巻く環境、インペアメントに対する社会的対応の欠如が参加に影響を与えている。とはいえ、インペアメントが主要な源泉なのかどうか、あるいは環境が主な源泉なのかどうかは明確ではない。

ところで、このことは障害だけについて言えるのだろうか。たとえば、フランス語を話す能力の欠如や、車を修理するトレーニングを受けてこなかったことなど、つまり「ノンタレント(non-talent:才能の欠如)」は問題にならないのか。障害に対する多元的な応答と手段が必要だとして、それはなぜノンタレントに結びついた不利益についても言えないのだろうか。(111)
 障害もノンタレントもいずれも「外的資源を福祉に変換する個人の能力における欠損であり、外的資源を本人が選択した目的に役立つようにする能力の欠損」(Wasserman)と言えるし、両方とも、不利益を生みだすような個人を取り巻く広義の物理的社会的環境と相互に関係している。
 インペアメントとノンタレントは理論的な問題を提起している。(111) だが、これまで両者が道徳的に重要な側面において似ているということに同意した理論家はいない。不利益をもたらす個人的差異のすべてについて、その不平等を除去するような社会政策は、破壊的帰結をもたらすだろう。資源が足りなくなるだろう。この種の政策的なブラックホールを避けるためには、インペアメントをノンタレントから明確に区別しなければならない。だがいかにしてそれを行うのか。

インペアメントをノンタレントから区別する

 アプローチA インペアメントは健康問題である。

「健康に関係した不平等」に特化する。ダニエルズはとくに「平等は社会に対して、我々の機会と福祉に影響するようなすべての自然の差異を除去することを要求せず、正常な人間の機能における健康な減衰を除去することしか要求しない」とする。障害学の学者はこのアプローチを、「正常な機能」への偏見に満ちた衝迫をともなった障害の医学モデルだとして批判するだろう。障害をもつ学者でも慎重な人はインペアメントが健康問題であり健康に関連した介入を必要とするだろうということを否定はしないが、ダニエルズのようなやり方で「健康カード」を使うことは拒否するだろう。さらに仮にダニエルズらが正しいとして、しかし、健康基準はインペアメントをノン-タレントから区別するためには、せいぜい曖昧なあまり役に立たない道具に過ぎない。(112)
 より一般的に言って、インペアメントと才能の欠如の間に健康に基礎を求めることができるようないかなる構造的な違いも存在しない。(113)
 生まれながらのものと獲得されたもの、という区別がありうる。スキルやタレントはそれを培いあるいは獲得するためにある種の努力を必要とするし、またそれはある程度自発的なものである。(113)

 アプローチB インペアメントは責任に値しない。

 とはいえ、この責任基準と呼べるものも、我々が必要としている線を提供しえない。インペアメントをもたらすような怪我の恐れのある危険な行動について非難されうるし、他方、ある種のスキルは自発的であれ何であれそれを培うことを必要としないものもある。たしかに「君は読むための習熟をしなかったならば自己責任だと言えるが、読むための習熟が機能的にできなかったならばそうではない」と言える。とはいえ、これは本質的な区別ではない。ワッサーマンは次のように指摘する。(113)「数学のタレントをあまり持たない学生は低い点しか取れない。他方、「計算不能症(dyscalcura)」をもつ学生は試験時間を延長し、追加授業を受けることができる」。
 だが、健康/非健康という区別も、この責任基準も道徳的に恣意的である。

 アプローチC タレントは地位に関わる財である。

 教育をめぐる事例は別の方向を示唆している。
教育の価値は他の人々がどれくらい教育を受けていて、同じ仕事や社会的地位のために誰と競争するかに依存する。
タレントやスキルは、とくに市場化可能なものは地位に関わる財である。教育のような資源は地位に関わる財である。
 それに対して、健康は地位に関わらない財の一例だと言う人もいる。というのも、私にとっての健康の価値は、他の人々の健康のレベルに相対的には決まらないからである。たしかに健康は道具的価値をもつが、それには(114)、絶対的な価値もある。
 障害は社会正義のまさに対象だが、それは障害のもたらす不利益が、社会的政治的組織の作動にさかのぼることができる程度においてのみである。
 とはいえこれもまた明快ではない。健康が相対的で競争的な価値をもつということを否定するのは馬鹿げているからである。

 アプローチD 差異を看過するのは危険である。

この区別に依拠する論者はあまり区別自体について注意を払ってこなかった。あまりにも明らかだと考えているのかもしれない。あるいは、区別がないならば、社会的カオスが生ずると考えているのかもしれない。平等に対する社会的コミットメントは膨大なものになり、抑圧的で政治的に受容不可能な資源分配を導くだろう、と。そしてその結果、レベルダウンが生ずる、と。
 厚生平等主義および資源平等主義に対する強力な反論は、再分配の敷居になる限界がないと、平等主義者の衝動は、平等を達成するために、暮らし向きのよい人々の厚生や資源を、暮らし向きの悪い人々のそれと同等にまで低下させることになる、というものである(Parfit 2000; Stein 2006; Temkin 2000)。さらに、レベルダウンは、社会的平等についてのいかなる説明にも不可避的に伴う帰結だと論ずる論者もいる(Frankfurt 1987)。(115)
 近年、この反論を受容して、不平等の完全な削減というもくろみを捨てて社会の「最悪(worst off)」の人を優先する再分配説、つまり「優先主義」的な説明に向かうかもしれない。あるいは、マーク・ステインのような限界効用を基準とした功利主義に魅力を感じるかもしれない。
 とはいえ、いずれにしてもこの問題にとっては何の進展でもない。優先主義も功利主義も、インペアメントとノン-タレントの区別には概念的な厳密さをもって取り組むことはないからである。優先主義は誰が「最悪」なのかに関心があり、功利主義は厚生ないし効用だけが基準だからである。

 アプローチE 差異を看過してもよい。

不利益の源泉についての曖昧な説明を提示することで、この問題を回避する論者もいる。たとえば、ドゥオーキンの仮設的保険市場のアプローチは、こうした問題を避ける方法とも言える。そこで「自然の不運」とされるのはインペアメント、能力の制限や欠如、内的資源の制約を含むからである。
また、センの「ケイパビリティ」も内的な資源と外的資源を含んでいる。(116)したがって、ノンタレントとインペアメントは同じくセンにとっては内的な機能の縮減として特定されるだろう。  センの議論はステインが批判するように抽象的なところにとどまっており、実践的には厚生の功利主義の一バージョンになるだろう。他方、ドゥオーキンは、Tawneyの洞察、つまり正義の要求は、不適切な内的資源に対する補償だけでなく、社会的政治的組織によって生み出された不平等の除去である、という洞察を看過している。また障害をもつ人々は、外的バリアとスティグマそして差別の除去に対して強い主張をしており、この主張は保険アプローチでは完全に看過されるのである。

 アプローチF 分配的な敷居という観点で二つを扱う。

インペアメントとノンタレントは、平等についての理論においても、再分配の目的が不平等の除去ではなく不平等の一つのレベルの除去であるならば、扱われうるかもしれない。それは手続き的正義論、民主主義的平等論である。エイミー・ガットマンは正義が要求するのはただ、「民主主義的平等」が確保されるという手続き的な目的だけであると論ずる。
 エリザベス・アンダーソンはさらに民主主義的平等を詳細に論じている。正義はせいぜい誰もが民主主義社会で平等な市民として生きるのに必要なセン的なケイパビリティを持っているということを要求する。
 とはいえそのケイパビリティの敷居はどこにあるのか。(117)
 アンダーソンは三つの次元について論じている。

 1 人間としての機能へのケイパビリティ。
 2 協働的産物のシステムへの参加としての機能へのケイパビリティ。
 3 民主主義的国家の市民としての機能へのケイパビリティ。

だが、残念ながらワッサーマンが指摘するように、アンダーソンは逆説的にも過少かつ過剰である(平等の敷居をあまりに低く設定しているのと同時に、あまりに高く設定している)。分配的正義よりも手続き的正義の説明として、アンダーソンは民主主義的なメンバーシップに一貫した形での平等な権利と自由、平等なアクセスと公正な手続きを確保しようとしている。だが、厚生と資源の不平等の両方を看過することによって、こうした手続きの価値は、つねに能力や富を利益にできる人によって脅かされる。結果として手続きて権利は、資源の分配的な不平等の文脈の中では、競争に開かれた地位に結びついた財になってしまう。(以上118)

統計学的問題としての障害――差異の固定化

 民主主義的平等論にはさらなる問題がある。民主主義的平等の基底的な目的は、市場と能力に基づくメリトクラシーの自由を維持することである。インペアメントに基づく抑圧的で差別的なヒエラルキーは、権利と自由へのアクセスという方法で除去される。だが、能力に基づくヒエラルキーは残るだろう。全ての人がそのタレントとスキルを発展させる自由をもち、そこから得られる利益を得る自由をもつということが民主主義的平等の核にある。能力主義と経済的不平等はこの自由の社会的帰結である。
 確かに民主主義的平等は差別等をなくすとして、それが新たなスキルの発展を容易にするだろうとは言える。だが、インペアメントをもつ人々に対する社会正義がそれぞれの諸個人にとって、新たなタレントやスキルを生みだすだろうと考えることは非常にナイーブである。アンダーソンの民主主義的平等は、インペアメントをもつ人々を競争的な能力主義へと包摂することになるだろう。(119)
 たしかにその社会的達成は小さなものではない。とはいえ、それは明らかに制限されている。
 「手続き的に正当な民主的国家では、インペアメントは完全に能力主義に統合される。あるいは別の言い方をすれば、多くの障害者の活動家にとっての明示的な目的だが、障害は普遍化されかつメインストリーム化される」(119)

結論

「実践的にはインペアメントとノンタレントの間の区別は暗黙に、あるいはひそかに政治的経済的基礎に基づいて行われる。そこにはいかなる科学的ないし概念的な基礎も存在しない。」(121)

■書評・紹介



*作成:堀田 義太郎
UP: 20110420 REV:
障害学(Disability Studies)  ◇障害(者)・障害学・関連書籍  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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