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『良い支援?――知的障害/自閉の人たちの自立生活と支援』

寺本 晃久岡部 耕典・末永弘・岩橋 誠治 20081110 生活書院,298p.

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last update: 20200211

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『良い支援?──知的障害/自閉の人たちの自立生活と支援』

寺本 晃久岡部 耕典・末永 弘・岩橋 誠治 20081110 『良い支援?――知的障害/自閉の人たちの自立生活と支援』,生活書院,298p. ISBN-10: 4903690288 ISBN-13: 9784903690285 2300+ [amazon][kinokuniya] ※ i01

■内容

生活書院のHPより

知的障害/自閉の人の〈自立生活〉という暮らし方がある!
当事者主体って? 意志を尊重するって?「見守り」介護って?
常識に凝り固まった支援は通用しない!
「大変だ」とされがちな人の自立生活を現実のものとしてきた、歴史と実践のみが語りうる、
「支援」と「自立」の現在形。

■目次


■引用

まえがき

支援のマニュアル、障害の解説、自閉の子供に対する療育の本は最近とても多く刊行されています。たとえば療育の文脈では、まず「あるべき姿」や「守るべきルール」があり、そこに適合するようにどう教えたり支援したりするかということになると思います。社会の常識に乗れるようにどう教えたり支援したりするかということになると思います。社会の常識に乗れるようにすることが、「良い支援」なののでしょうか。けれども、そもそものあるべき姿やルールとはどのようなものなのか、問い返したくなってしまいます。もちろん生きていくために一定の教育やルールを守ったりすることや、コミュニケーションを容易にしていくことはあると思うし、そのことで楽に生きられるようになるという面はあります。ただ、ぼくはルールを守ることは生きていく手段にすぎないと思うし、ルールを守ることが先に来てしまうことが、現実的には必要なこととはわかりつつも、いつも気になってしまいます。さまざまな常識的な対応の狭間で逡巡することや、どうしても「正しさ」からはずれてしまうところに、せつなくなるとともに応援したくなってしまうことがあります。

支援の「しくみ」、あるいは「制度(システム)」の本もよく出されています。ただ、システムは必要ですが、第一ではないと思っています。はじめに制度がきてシステムがきて、という話は、それ以上でも以下でもなく、そう面白い話ではない。そもそもの制度がかかりりにくく複雑で、まずもって追いつけません。もっとシンプルにすればいいのに、どうしてわざわざ複雑にするのだろうと思います。大学などの社会福祉教育では、ただただ追いついて詰め込むだけに汲々としてしまっているという声を聞きます。制度の本となるとしばしば制度の解説に終始してしまいますが、制度のでき方やあり方について問い直すことが必要なのではないかと考えます。

(pp.6-7)

第2部 自立すること、支援の位置取り

第5章 意思を尊重する、とは?

私が介助を始めた頃、何か必要なこと、介助ほしいことがあれば本人から指示されるものだと思っていた。

ところが、思っていたよりもあまり指示はされない。もちろん必要なことがあれば頼まれる。たとえば「寝る」「ごはんつくって」などは言われるけれども、それでももうちょっと具体的に・細かく頼んでほしい、と思っていた。ていねいに指示してもらえないとどうしてよいかわからず、かといって指示を通り越していろいろやってしまうのは本人の生活や意思を無視し侵犯してしまうようで、どちらにも動けずに不満や不十分さを感じていた。指示がなければ私は何もできないので、ただいるだけになってしまうか、本人の思いとはちがうことをしてはいないか、いつも不安だった。「事細かく指示する人もいるのに、どうしてこの人は指示しないのか?」といつも疑問だった。

けれども、一から十まですべてのことを指示するのは、まずもってたいへんな労力がかかることだ。たとえば求められる結果(カレーライスが食べたい)については指示できるが、ひとつひとつの動作のプロセスを本人は「やったことがない」のだから、過程(カレーライスの作り方)について細かく指示することは難しい。また仮にある程度細やかな指示ができたとしても、当人と介助者は別の肉体と頭脳を持った人間であるわけで、「本人の指示」と「介助者の行為」にはどうしてもずれや遅れが生じてしまうだろう。それを常に本人の側からだけの努力によって埋めていくことはさらに労力がいる。本人の判断や意思と、それを本人が指示することとの間にもやはりずれや遅れが生まれる。主観的な事柄を言葉に置き換えて指示する時に、十分に言葉にならない。そうしたことを毎日毎日、絶えずやり続けることは、難しいことでもある。

(pp.162-3)

「できないことだけ助けてほしい」とか「指示したことだけやってほしい」言ってきている人でも、よくよくつきあってみると、何かを人に頼むことについて問題が出てきたりする。

自分でできると思われることを頼まれる。逆にじぶんでいろいろとかかえてしまってまわらなくなる。何かあるといちいち頼まれるが、介助者としてはそんなになんでもたくさん頼まれもできない。だから他の人や介助者にももっと頼んでほしいとは思うが、本人にはなかなか頼めない。私が断れば、他の人にも頼まずできないままになる。本人がやろうとしないことを介助者に丸投げされれば介助者もできないしやりたくなくなる。

「できない」ことと「しない」ことも区別がつきにくい。実は何らかの問題があって「できない」のかもしれないけれどもどっちなのかわからない。「できないこと」って本人にもまわりにも、よくわからない。

そんなことが何度も繰り返され、私は「彼は頼むのが下手」なんだと思っていた。

けれども見方を変えると、単に頼むのがうまいかとか下手だというのではなく、そもそも頼む頼まれるという行い自体が難しいことだと気づく。

(p.165)

まずは、当人がしたいことがあり、しかしそれは当人だけではうまくできない場合、それを介助者に頼んでできるようになれば、それでよい。だが、そこには原理的な困難が伴うのではないか。当人にとって「できること」と「できないこと」は、そう簡単に区別し認識できることではない。「できないこと」は、過去の過去の経験を参照して今後起こりうる「できないこと」を予測するか、もしくは「できないこと」がまさに目の当たりに現われなければ、「できないこと」を認識できないはずだ。ただ、多くの場合、障害があるということで、周囲の者が先回りして「できないこと」を当てはめてしまってきた。周囲のパターナリズムが常にすでに優先されることを批判し、そうした場から離れることが自立生活だ。失敗することも含めてその人の人生であり、障害のない人々だって失敗しながら何とかやってきている。

指示に基づく介助・支援という理念型、基本形そのものが無効だというのではない。ただそれは「本人が決定した内容を、介助が補う」ということと同じではない。

[……]

「止めないといけない」でもなく、「ただ好きなように」でもなく、「ていねいに説明」することは大切だが説明だけではなかなか理解してもらえない。まず、その人がどう考えているのかを介助者が理解していく。

そのとき、言葉で話をすることもあるけれども、言葉だけに頼らず、「空気」でわかるってことがあると思う。わからないことを直ちに分るものにするのではなくやりすごしたり、こだわりや不安をなくすのではなくつきあったり、その人なりのタイミングや手順に身をまかせたりすることで、介助者は、当事者のもつ流れを介助者自身に「身体化していく」ことがありうるのだと思う。介助者は時に何かするのでもなく空気のようにそこにいて、時に距離を置いたり縮めたりしながら、常に感じている。

「その人の固有の流れ」を常に感じていることが、まず前提にあるのだと思う。単に「できないこと」や「指示」だけに対応していてはいざ必要なときに介助にならない。「できないこと」はそう容易く解決できなかったりする。そうではなく、「何かをする」というよりも、ひたすら感じていることが、まず必要な仕事なのではないか。

だから、「ヘルパーでござい」と利用者のお宅へただうかがうでけでは、できることはほとんどない。公的な介助で想定されるイメージは、介助者は取り換え可能であるということだ。しかし、ここで述べる介助のイメージは個人的な関係や共有した時間の積み重ねによるものだ。

でもやっぱり、わからない。他者である介助者がそこにいる、いてしまうからだ。

当事者が何かを考え何かをしようとすときには、たとえば・・・のではなく、そのとき・それまでに介助者がどのような位置で何をしてきたのか、相手にどう見られているのか、ということも関係してくる。

介助の相手が気を使ってくれることがある。オフィシャルな場所での顔とプライベートの顔はちがう。介助者の間でも、介助者Aと介助者Bに対するのとでは表情や対応や会話が変わってきたりする。介助者が相手に合わせる以上に当事者が合わせてくれていることがある。「私が相手を見ている」と同時に、私を見ている。

(pp.178-182)

あとがき

専門性について――人材不足は人為的に作られている

[……]

社会的な地位向上だったり、報酬を得る(を上げる)ための根拠として「専門性」が持ってこられる。支援費以降、報酬と引き換えに資格化が条件とされた。さらに報酬単価を上げる際には、それに伴って新たな研修を受けて資格を得ることとなった。

専門性があるかないか、必要か必要でないかと問われれば、「ある」し「必要」だと答える。しかしその専門性は「資格」と同じではない。

いろんな人がいて、いろんな経験や目の当たりにしている状況や就労形態がある。それぞれの介護者にどの程度の専門性があるかないかということの前に、そもそも安定して介助にあたれるだけの生活を支える報酬が保障されなければ、専門性は育たない。

どれだけ専門性があるかないかの前に障害をもつ人の生活が継続的に成り立つだけの支援―ひとまず、その中身は問わない―が構築できるかどうかということが前提にある必要があるし、それじたいがすでに専門性を有しているとも言えるのではないか。

(pp.290-291)

■書評・紹介

他サイトより

*人物ページは当サイト内ファイル



*更新:三野 宏治
UP: 20081119 REV: 20081231, 20100312, 20110806, 20200211
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