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『歴史の〈はじまり〉』

大澤 真幸・北田 暁大 20081117 左右社 400p.


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■大澤 真幸・北田 暁大 20081117 『歴史の〈はじまり〉』,左右社 400p. ISBN-10: 4903500098 ISBN-13: 978-4903500096 \1995  [amazon][kinokuniya]

■内容

世界の中心に行っても 世界から疎外されているという感覚は 解消できない…… 私と現在はどうつながっているのか。 ぼくらが知りつつあることは 最小国家こそ 最大国家ではないか という逆説です……大澤真幸 「データベース」的世界観のなかでは 国際関係史もガンダムの一年戦争史も すべて等価なものとして 立ち現れてくる……北田暁大 格差社会からアメリカ問題まで 二人の社会学者による 新しい歴史対談集。 (amazonbookレビューより)

■目次

まえがき 大澤真幸
ポスト〈日本戦後史〉にむけて
「その程度のもの」としてのナショナリズム
〈知らないこと〉の歴史学
「幼なじみ」という起源
あとがき 北田暁大
人名ガイド&索引

■引用

大澤:ぼくらは、自身の立ち位置を明示し、その世界のなかでの相対性、部分性をはっきりさせてから発言すると少し安心する。世界の局所に自分が根をおろしている、ということを示すことで、思想的な免罪符を得て、安心して発言できるわけです。が、こうした立ち位置へのこだわりは、じつは、もっと根源的な事実を隠蔽している。まさに「ポジショナリティへの極端なこだわり」ということそのものを可能にし、あるいは思想の流行として誘発している根源的な事実を隠蔽している。それは何か。ぼくらは現代社会にあっては、究極的にはどこの局所にも属していないということ、根無し草だということ。どこにも終局的なポジションはない、ということです。自身のポジションを相対化して、その部分性を示しているとき、まさに、その相対化している視線そのものは、どこにも属していない。そのどこにも属していないということのほうが、ポジションの部分性より、もっと基底的な事実なのですが、それが隠蔽されているわけです。(pp. 52-53)

北田:難しいのは、素朴実在論(ベタ)と構築主義(メタ)と、構築主義の以降のカント的「実在論」(メタのベタ)の関係なんです。構築主義というのは、基本的にベタな実在論に対する解毒剤です。この解毒剤はなかなか強力で、ありとあらゆる対象を、社会的・歴史的な産物として相対化してくれる。しかし問題なのは、この解毒剤を使用するのが必ずしもポリティカルにコレクトな人たちじゃない、ということです。典型的なのが、歴史認識の問題ですね。「自由主義史観」の連中は、ただひたすら「公文書に出ていない」といって「従軍慰安婦」問題を歴史から葬り去ろうとしているわけではない。かれらはむしろ構築主義を逆手にとって、つまり「歴史は物語である」ということを認めつつ、「よりよい物語を作ろう」などと言ってくる。フェミニストが「歴史はすべて構築されている」「だからhis-toryの構築性を暴き、her-storyを再構築しよう」と言ってしまうと、認識論的には修正主義派と共犯関係を築いてしまうわけです。構築主義はそれ自体としてプロ・フェミニズム的な方法論とはいえない。だから構築主義以降、ぼくたちはらためて構築主義の及ばない「リアル」「物自体」を論理のなかに組み込んでいく必要がある。上野千鶴子さん編の『構築主義とは何か』(勁草書房、二〇〇一年)という入門書に書かせていただいた論文のなかで、ぼくが強調しているのはその点です、ぼくはカント的な「物自体」論はよくわからないのですが、構築主義の入門書のなかで、戦略的にカント主義者として振る舞ってみた。ベタとメタを超えた地点、構築主義の論理空間に収まりきらない残余に考えをめぐらせなくてはならない言説状況のなかにぼくたちは立たされているんだ、というメッセージを何としても伝えたかったんです。素朴実在論に回帰することのない「リアル」論を紡いでいかなくてはならない、と。(pp. 73-74)
大澤:デリダとハーバーマスはライバルだけれども、もともと、同じ方向性を共有してもいた。つまり、どちらの思想も「他者性の尊重」ということに主眼がある。ただ、単純に考えると、ハーバーマスのほうが不徹底です。というのは、かれは、他者とかかわるコミュニケーションを可能にするメタルールみたいなものを定式化する。しかし、そんなメタルールを設定してしまえば、始めから、それを受け入れる適当な範囲内の他者としか関係できなくなる。これがデリダ派のハーバーマスへの批判だったと思うのです。他者というのはもっと法外なものだ、というわけです。しかし、デリダがハーバーマスへと歩み寄るということは、結局は、対話についてのまっとうな暗黙のルールを受け入れる他者としか、われわれ関係する術をもっていない、ということです。デリダの言っていたことも、実践的な文脈に移せば、結局は、せいぜいハーバーマスが言っていた水準にまで戦線を撤退させなくてはならない。ところが、9・11テロは、対話についてのメタルールを受け入れるつもりのない他者が、この世界にいることを、われわれに知らしめた。これとの関係で、かつて柄谷行人さんが言ったことが、それなりにインパクトがあると思うんです。かれは、他者との関係の原型を、対話ではなくて、「教える・学ぶ」関係におくべきだと言った。学生時代に、この論を読んだとき、うまいこと言うなと感心しました。「対話」というと、双方がすでにルールを共有している感じがする。ぼくらは、ルールを共有していない他者と関係しなくてはならない。「教える」ということは、合意がないことが前提です。(pp. 85-87)
北田:その通りだと思います。問題はアメリカの偏狭さではなく、アメリカの「開放性」ですね。ローティのアメリカ論などは開放性の行き詰まりを典型的に示したものだと思います。反本質主義的・反基礎づけ主義的で多元主義的、漸進主義的な改良主義…そうした「薄い」価値を媒介として共存する「我々」を拡大していくこと、それが建国以来の伝統的価値である。いろいろ問題はあったけれども、「我々」はそれでうまくやってきたし、実際少しずつ「我々」の範囲を広げてきた。ヨーロッパみたいに訳のわからない哲学で基礎づけたりしない。他者への共感能力をもつ人、他者の痛みの軽減を願うような人間なら誰でも共有可能な感覚を基礎に「我々」の範囲を拡大してきた。そんな感じで、非常に否定的な形で「我々」のアイデンティティを規定していくわけです。その意味でアメリカとは、根拠がないということ、内部と外部の境界線の恣意性(開放性)を認めるということが建国神話になっている、きわめて特異な言説の磁場であると言えるでしょう。この点は大澤さんが『帝国的ナショナリズム』で詳細に書かれていることですね。アメリカ的帝国というのは、「aではない、bではない、cではない…」というように肯定的な規定を拒むことによって成り立っている。否定的規定の集合=Xにアメリカという具体的で局所的な名称が与えられているわけです。かくしてアメリカにおいては、最大限の多元主義、グローバリズムがイコール、ローカリズムとなる。アメリカのローカリズムはそのままグローバリズムに直結するわけで、その意味でアメリカには外部が存在しない。外部なきアメリカにおいては、対外的な武力行使と国内の治安維持活動とを分つ基準が曖昧にならざるをえないわけです。『〈帝国〉』という本はそうした事柄をたしかに問題化している。しかし、わざわざ「これは現実のアメリカではない」という否定的定義を追加して、否定の集合体であるxに〈帝国〉という名前を与えているのはどうかとは思います。否定神学をさらに推し進めてしまった、とも言えるかもしれない。バカみたいに素直にx=アメリカと言い切ってしまうローティのほうが、すがすがしいとすら感じる。(pp. 171-173)
大澤:今日人がナショナリズムにコミットしなければいけない理由は、ソシオロジカルな観点からすると、ほとんどなにもない。例えば、ノルベルト・エリアスに「サバイバルユニット」という言葉がありますね。自分の生にとって死活的な意味を持つ共同体の単位のことをこう呼びます。例えば、日本人にとって「日本」という共同体がそうしたものになっているかといえば、必ずしもそうはいえない。少なくとも、日本の国籍をもっている者にとっての「日本」という共同体が有するサバイバルユニットとしての意味はどんどん低下している。例えば、日本が少しぐらい不況になっても、自分の勤めている企業の経営状態がよければ困らない。日本という共同体の繁栄と、企業の繁栄、個人の幸福との相関関係は、低くなっている。そういうことを考えると、ネーションへの帰属意識にこだわったり、それに命をうけたりする理由は、あまりなくなっているはず。これは確かなんですよ。(pp. 297-298)

■書評・紹介

■言及



*作成:中田 喜一 
UP:200900705 REV:
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